2010年08月19日(木)
練習前、先日行われたJ1第14節磐田戦でJ1通算200試合出場を果たした野沢選手に、井畑社長から記念の楯が贈られました。
J1、200試合出場を表彰された野沢である。
1997年、高校1年生の時点でトップ登録されベンチ入りを果たし、1999年4月10日にはビスマルクに替わって17歳の高校生としてピッチに立った。
しかしながら、若くしてデビューを飾った野沢であるがレギュラーの厚い壁に阻まれ、レギュラー定着は時を待たねばならなかった。
耐えきれず移籍を口にしたこともあった。
とはいえ、鹿島でのポジション奪取に目標を置いたことは重畳である。
まず、安定して出場したのは2005年前半である。
FWとしてアレックス・ミネイロと2TOPを組み、中盤の本山、満男とは黄金の4人と賞賛されたものであった。
しかしながら、負傷でレギュラーの座を追われ、チームも失速することとなり優勝を逃したことは苦い想い出である。
そして、2006年、小笠原満男がイタリアに移籍し空いたポジションに野沢が収まった。
斯くして、苦節を重ねた野沢がレギュラーを確保したのである。
この年、野沢も好調を維持し、オシム氏に日本代表として招集されておる。
2007年に満男が帰参するもポジションを明け渡すことなく現在に至っておる。
今現在、この中心選手に異論を唱える者など無かろう。
鹿島は野沢を中心に回っておるのだ。
この200試合は通過点として、250試合、300試合と積み重ねていって欲しい。
期待しておる。
練習前、先日行われたJ1第14節磐田戦でJ1通算200試合出場を果たした野沢選手に、井畑社長から記念の楯が贈られました。
J1、200試合出場を表彰された野沢である。
1997年、高校1年生の時点でトップ登録されベンチ入りを果たし、1999年4月10日にはビスマルクに替わって17歳の高校生としてピッチに立った。
しかしながら、若くしてデビューを飾った野沢であるがレギュラーの厚い壁に阻まれ、レギュラー定着は時を待たねばならなかった。
耐えきれず移籍を口にしたこともあった。
とはいえ、鹿島でのポジション奪取に目標を置いたことは重畳である。
まず、安定して出場したのは2005年前半である。
FWとしてアレックス・ミネイロと2TOPを組み、中盤の本山、満男とは黄金の4人と賞賛されたものであった。
しかしながら、負傷でレギュラーの座を追われ、チームも失速することとなり優勝を逃したことは苦い想い出である。
そして、2006年、小笠原満男がイタリアに移籍し空いたポジションに野沢が収まった。
斯くして、苦節を重ねた野沢がレギュラーを確保したのである。
この年、野沢も好調を維持し、オシム氏に日本代表として招集されておる。
2007年に満男が帰参するもポジションを明け渡すことなく現在に至っておる。
今現在、この中心選手に異論を唱える者など無かろう。
鹿島は野沢を中心に回っておるのだ。
この200試合は通過点として、250試合、300試合と積み重ねていって欲しい。
期待しておる。