鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

大東新社長就任

2006年06月30日 | Weblog
ニッカン
大東新社長「勝てる鹿島目指す
 鹿島の新社長に、29日付で大東和美専務取締役(57)が昇格した。牛島洋前社長(63)は、非常勤のシニア・アドバイザー(新設)に就任した。大東社長は「鹿島の勝つDNAを絶やさず、勝てるチームを目指す」と目標を語った。またこの日帰国したジーコ前日本代表監督について、牛島前社長は鹿島への復帰を否定した。
[2006年6月30日8時58分 紙面から]

元ラガーマン社長。
フットボールである分マシと言えるであろう。
ただ、「勝てる」ではなく「勝つ」チームにして欲しい。
確かに昨季後半は勝てない・勝ちきれないチームではあったが…

ユースの星 藪裕史朗

2006年06月27日 | Weblog
http://www.jfa.or.jp/daihyo/u_17/news/060626_02.html
http://www.jsgoal.jp/news/00034000/00034636.html
U-16日本代表候補  トレーニングキャンプ(6/28~7/2)メンバー(06.06.26)
U-16日本代表候補 トレーニングキャンプ(6/28~7/2)メンバーが決定しました。

DF 藪 裕史朗 YABU Yushiro 1990.08.01 177? 67? 鹿島アントラーズユース


この年代で選ばれるのは非常に珍しい。
プリンスリーグでアシストを記録している。
熊本・腹栄中学校出身。
FWからのコンバート。
将来が期待される、大物である。

トップをねらう

2006年06月27日 | Weblog
ニッカン
鹿島寮長高野さん、ジーコ部屋空けて待つ
 日本代表ジーコ監督(53)が、W杯ドイツ大会の決勝トーナメント進出をかけて、母国ブラジルとの一戦に臨んだ。鹿島の独身寮「雄飛寮」の寮長を務めている高野圭史さん(63)は、ジーコ監督の現役時代から約15年の付き合いになる。W杯後に退任するジーコ監督に「ありがとう。ごくろうさんと声を掛けたい」。いつか鹿島に戻ってくるかもしれないジーコ監督のために「雄飛寮」の一室を空き部屋にして待っているという。

 ジーコ監督率いる日本代表の集大成ともいえるブラジル戦。高野さんは鹿嶋市内にある「雄飛寮」の自室でテレビに向かった。「どうせ散るなら、決勝トーナメントで散ってほしいんだけどね。鹿島だけじゃなく、日本のサッカーに15年ぐらい協力してきた人が、1次リーグ敗退で終わるのはちょっと寂しいから」。祈りを込めるようにして話した。

 会社員から転身し、92年から妻千枝子さん(63)と「雄飛寮」の運営を始めた。91年に住友金属の選手として来日したジーコ監督は92年の寮完成と同時に入寮した。当初、ジーコ監督は鹿嶋市内のブラジル料理店に通っていて、寮の食事にはほとんど手を出さなかった。高野さん夫妻は本を読むなどして研究した。2カ月ほどしたある日、豆と豚肉を煮込んだブラジルの家庭料理「フェイジョアーダ」を出すとジーコ監督は笑みを浮かべて喜んだ。以来、「味はこの方がいい」と楽しそうに注文を付けながら、食事はもっぱら寮で取るようになったという。今も試合前夜、鹿島の選手の食卓にはジーコ監督が好んだ「フェイジョアーダ」が出ている。

 「ジーコとの思い出はあり過ぎる」と苦笑いする高野さん。鹿島の草創期、ジーコ監督は決まって食堂の窓際の定位置に座って、外を眺めていた。選手の外出をチェックするためだったという。コンビニの袋をぶら下げて戻った選手に「お菓子は食べなくていい」と説教していたという。ある日には、ユニホーム姿にげたを履いたジーコ監督が、缶ビールを手にして「オレはサムライだ、サムライだ」と陽気に笑いながら、食堂のドアを開けたことがあった。高野さんは「サッカーを離れれば気さくで、朗らかな普通のオヤジなんですよ」と笑った。

 現在14人の選手が暮らしている「雄飛寮」には、ジーコ監督が現役時代や総監督、監督時代に使っていた通称「ジーコ部屋」がある。2階の南向きの角部屋で広さは約8畳。ドアには「ZICO」の名札が掛かっている。ホームの試合前夜に鹿島の外国人選手らが寝泊まりすることはあるが、普段は使われることはない。高野さんは「戻ってきたとき、いつでも使えるように」と、ジーコ監督のためだけに空き室にしている。

 ジーコ監督は日本代表監督を退任後、欧州のクラブを率いる意欲を持っているとされる。高野さんは「ありがとう。ごくろうさんと声を掛けたい」と話し、こう続けた。「どうなるかは分からないけど、どうなったとしても、鹿島との縁は切れるものではないと思う。また戻ってくるのを待っています」。いつか“神様”が戻るまで「ジーコ部屋」はもちろんそのままだ。【桐越聡】

[2006年6月23日7時35分 紙面から]

帰還したタカヤ ノリコへのメッセージのように「オカエリナサイ」(イは反対向き)と声を掛けたい。
あの作品同様、長き年月がかかろうとも。

柳沢敦、完全復帰

2006年06月23日 | Weblog
柳沢敦選手 鹿島アントラーズへの完全移籍について
柳沢敦選手はメッシーナ(イタリア セリエA)より期限付き移籍(2006年3月1日~6月30日)しておりましたが、
この度メッシーナと合意に達し、7月1日より弊クラブへ完全移籍することとなりましたのでお知らせいたします。

■プロフィール
 ・生年月日  : 1977年5月27日(29歳)
 ・身長/体重 : 177cm / 75kg  
 ・経  歴  : 富山第一高校 - 鹿島アントラーズ - サンプドリア(イタリア)-メッシーナ(イタリア)
 ・2006J1リーグ出場数/得点数 : 5試合出場/3得点
 ・2006FIFAワールドカップドイツ 日本代表

セリエAプレイヤー柳沢敦の完全移籍が決定した。
まあ、出戻りである。
共同保有していたメッシーナがセリエBに降格したため、外国人である柳沢を保有する意義が無くなったのであろう。
正直に言ってメッシーナは放映権料の為に柳沢を保有していただけで、戦力としてカウントしていたかどうか疑問である。
たまの出場時もサイドMFの起用であり、柳沢本来の特性を生かした出場ではなかった。
サンプドリア、メッシーナで得点0は褒められた数字ではない。
しかし、レンタルで復帰した2006年開幕戦ではハットトリックを記録しており、FWとしての能力はさび付いていないことを証明して見せた。
その後、JEF戦で骨折し、戦列を離れていたが、W杯ドイツ06で代表に選ばれていた。
クロアチア戦では素晴らしいポジショニングを見せ、得点感覚をアピールしたところである。
彼のような芸術肌のストライカーは守る選手が周りを固めて初めて才能を発揮する。
我が家に戻り、本来の姿を見せてくれればそれで良い。
福島Jヴィレッジ合宿も始まったばかり、代表も解散して帰国もすぐであろうから、早期に合流し練習に参加すべきである。
現在、ポジションがないことを理解して合宿に望まぬことには痛い目に遭うこと必至である。
外国人枠は埋まり、若手は台頭している。
7/19のスターティング11に名を連ねられるかどうかは本人の努力によるものが大きい。
奥さんに頼んで馬を買って貰うくらいのことはすべきである。

シャムスカ監督、小笠原を語る。

2006年06月22日 | Weblog
本日のエルゴラッソより。

日本が勝つ可能性はゼロではない シャムスカ監督(大分)に聞く
  ~
期待しているのは小笠原
  ~
 個人的に期待しているのはオーストラリア戦でも良かった小笠原だ。彼のプレー参画が増えれば、日本のチャンスは増えると思う。
  ~


昨季、大分トリニータを奇跡的な勝率で残留させ、今季も我が鹿島アントラーズに二度も土を付けた名将が、満男を褒め称える。
素晴らしきことである。
しかし、満男は「オーストラリア戦」には出場していない…

ファビオ・サントス加入

2006年06月21日 | Weblog
ファビオ サントス 選手 新加入の件
この度、ファビオ サントス選手との契約が成立し、新加入が決定しましたのでお知らせします。経歴は下記のとおりです。
□経 歴
(1) 氏  名: ファビオ サントス ロメウ
Fabio  Santos  Romeu
(2) 通  称:

ファビオ サントス(Fabio Santos)
(3) 生年月日: 1985年9月16日(20才)
(4) 身長/体重: 179cm/75kg
(5) 国  籍: ブラジル
(6) ポジション: 左サイドバック・MF
(7) 契約期間: 2006年 6月 20日~2007 年1月 1日
(8) サッカー歴: 2003年からサンパウロFCに所属し、現在に至る。
(2003年7月30日にプロデビューし、通算92試合出場/2得点)
(9) 主なタイトル: 2003 タッサ サンパウロU-20 準優勝
2005 パウリスタ選手権 優勝
2005 リベルタドーレス杯 優勝
(10) 代表歴 : 2003 U-18ブラジル代表 仙台カップ(日本)
2005 U-20 ブラジル代表 タッサクリスタル(チリ)
2005 U-20 ブラジル代表 FIFAワールドユース(オランダ)3位
(11) 特 徴 : スピードあるドリブルと左足のキック、FKを得意とする


□ファビオ サントス選手のコメント:
「鹿島アントラーズの一員となれて光栄に思います。鹿島は偉大なブラジル人選手がプレーしたチームであり常に優勝争いをしているチームなので、その一員としてチームの優勝の為に貢献できるように頑張りたいと思います。」
□その他
ファビオ サントス選手は本日6月21日(水)に来日し、6月22日(木)から始まるキャンプ(J-ヴィレッジ)に参加します。


放出ばかりが目立っていた選手層であったが、今季初の外国人獲得のニュースである。
ポジションは左サイドバックとミッドフィルダー。
今季の新井場の活躍を見る限りMF起用が予想される。
深井と共にウィング的な役割になるのであろうか。
左足のFKにも期待が持てる。
今季はフェルナンドの故障もあって満男の右足だけであり破壊力が物足りなかった。
守備の崩壊が目立っている今季ではあるが、攻撃の手を休めなければ守備も立て直せる。
SBということで守備も期待させて貰おう。
明日からの合宿で勇姿が拝めるはずである。
7/19のリーグ再開が楽しみである。

後藤圭太

2006年06月19日 | Weblog
讀賣
鹿島・後藤圭太選手後援会が発足
坂東の星輝いて!
 坂東市出身で鹿島アントラーズDF後藤圭太選手(19)の後援会発足式が18日、母校の市立長須小で行われ、将来の日本代表にエールを送った。
 式では、倉持幸夫会長(42)は「4年後のW杯では是非ピッチに立ってもらいたい」と激励。後藤選手も「仲間や家族のおかげでここまで来られた。常に上を意識し、毎日の練習に励んでいきたい」とあいさつした。
 後藤選手は県立鹿島高卒業後、昨年4月、鹿島に入団した。後援会にはこれまで長須地区を中心に既に200人以上が会員登録しているという。
 今後、観戦ツアーや後藤選手を交えた懇親会などを計画している。

(2006年6月19日 読売新聞)

鹿島ユースで日本一になったメンバーの一人。
今季はDF陣の大幅な放出もあり出場機会が巡って来るであろう。
まずは出場機会を得ること、そして結果を出すこと。
本来はCBだがSBの起用があり得る。
最初はサイドで経験を積みセンターへ、というのが一般的な育成方法である。
かの秋田豊もルーキーイヤーは右SBでの出場であった。
記事では4年後の南アフリカとのことであるが、まずは北京五輪のメンバーを目指すことになるであろう。
世界に通用するDFへの道を歩んで欲しい。
読みと経験で上へ行けるポジションなのだから。

バロン

2006年06月17日 | Weblog
西日本
アビスパがバロン獲得 J1残留へFW強化
 アビスパ福岡がJ2のヴィッセル神戸のFWバロン(32)=ブラジル出身=を獲得したことが16日、明らかになった。近日中にも発表される見込み。バロンはJリーグ通算90ゴールの実績を持つ大型ストライカーで、名古屋と並んでリーグ最少の総得点「10」と、攻撃力が課題のチームの起爆剤として期待がかかる。

 バロンは1996年、JFLだったヴァンフォーレ甲府に入団。98年には29試合で31得点を挙げた。その後も市原、清水、鹿島、仙台など計6クラブを渡り歩き、今季途中に神戸に入団。右利きで、186センチの高さを生かした空中戦に強く、90得点のうち30得点はヘディングによるもの。18日に福岡入りするという。

 福岡は得点力不足が最大の弱みで1勝5分け6敗で16位に低迷中。バロンの獲得でFWグラウシオの戦力外が確定的となった。

 成績不振を理由に解任された松田浩前監督に代わって今月5日に川勝良一新監督が就任。J1残留を目指し、19日から練習を再開。大型FWの加入で、J1残留へ巻き返しを図る。
=2006/06/17付 西日本新聞朝刊=

2006年06月17日00時17分

バロンがJ1復帰。
敵としてはやられた印象の多い選手である。
しかし、在籍した2004年に期待に応えてくれたとは思えない。
ファビオ・ジュニオールのあまりも酷い成績の陰に隠れていたが、助っ人としてどうだったか疑問の残る選手であった。
FC東京戦のアシストくらいであろうか、思い出は。
対戦時にコテンパンにして思い知らせたい。
その役目には野沢を指名しよう。
バロンと金古をケチョンケチョンに締め上げるのだ。

大谷昌司

2006年06月16日 | Weblog
大谷 昌司 選手 JAPANサッカーカレッジへ移籍のお知らせ
2006.6.16
 いつもアルビレックス新潟に温かいご声援をいただきまして、誠にありがとうございます。
 このたび、当クラブ所属の大谷昌司選手(23)がJAPANサッカーカレッジ(北信越リーグ)へ移籍することが決定いたしましたので、お知らせいたします。

大谷 昌司 選手 Masashi OTANI
■ 背番号 23
■ ポジション MF
■ 生年月日 1983年4月17日(23歳)
■ 身長/体重 172cm/66kg
■ 出身地 群馬県
■ 経歴 前橋育英高→鹿島アントラーズ
■ 出場記録 年 所属 リーグ(得点) カップ(得点) 天皇杯(得点)
2002 J1 鹿島 0(0) 0(0) 0(0)
2003 J1 鹿島 0(0) 0(0) 0(0)
2004 J1 鹿島 2(0) 0(0) 0(0)
2005 J1 新潟 0(0) 0(0) 0(0)
2006 J1 新潟 0(0) 0(0) ―

J1リーグ戦通算:2試合出場0得点
※6/16 現在
■ コメント
新しい環境で挑戦することを決断しました。1年半という短い間でしたが、温かいご声援をいただき、本当にありがとうございました。

昨季、アルビレックス新潟に完全移籍した大谷昌司だが、JAPANサッカーカレッジに移籍とのこと、旅立った選手ではあるが成長後に対戦することを楽しみにしていただけに感慨深いものがある。
JAPANサッカーカレッジは北信越社会人リーグのチームである、基本的にアマチュアということであろう。
去って行っても第一線で相まみえたかったが、叶わぬ夢となりそうである。

大谷と言えば、2004年Jリーグ1stステージ第9節 大分トリニータ戦の先発であろう。
フェルナンドの出場停止により機会を得た大谷は初先発した。
当時のスポーツ新聞には、中田英寿に顔が似ている選手として紹介されていたので記憶している人も多いであろう。
実際はナカタよりも元イングランド代表・ニューカッスルのKieron DYERの方が似ている。
ちなみにその試合で相棒となったもう一人のボランチは新井場である。
如何に苦しい選手状況であったかよくわかる。
その試合は3-0と快勝し、大谷選手は途中交代ながら無難にプレイをこなした。
そう、無難だったのである。
特に秀でるところもなく、明らかにダメなところもない。
没個性。
スタジアムで見た大谷は何も感じさせてくれなかった選手であった。
去年の夏の練習試合で見た吉澤より上手であったし、堂々としていたと思う。
しかし、吉澤はボール奪取とプレッシングに将来性を感じたのは事実であった。
昨季のナビスコ杯予選リーグ清水戦で先発した中後は守備が穴で狙われていた、しかし2アシストを記録。
そういうところが、プロとして続けて行くには重要な部分なのでは無かろうか?
前橋育英高校では10番を背負い高校選手権に出場した大物である。
才能は十分に備えていたと言える。
だが、才能だけでは、入り口に立つまでしか出来ない。
そこから先が重要なのである。

なお、この試合で出場停止の金古に変わって岩政が初先発している。
そこで完封勝利をしていることも特筆すべきであろう。

そして報いへ

2006年06月15日 | Weblog
FIFAが誤審認める 日本にPK与えるべき2006年6月15日(木) 1時16分 共同通信

 【ベルリン14日共同】国際サッカー連盟(FIFA)のジーグラー広報部長は14日、1次リーグF組初戦で日本がオーストラリアに1-3で敗れた試合の後半に誤審があり、日本がPKを得るはずの場面があったと話した。13日までの1次リーグの14試合でPKがない理由を問われて、この試合だけがPKとなるべきだったと記者会見で答えた。
 ジーグラー部長は1-1の終盤にケーヒルが駒野を倒した場面に言及し「あれは主審の明らかなミスだった」と話した。
 この試合でオーストラリアGKは12日に、中村が挙げた日本の先制点について、エジプト人主審が日本の反則を取らずに「誤審を犯したと語った」と話していた。

[ 6月15日 1時16分 更新 ]

エジプト人主審は第4審判 FIFA発表
 国際サッカー連盟(FIFA)は16日の1次リーグC、D組3試合の担当審判員を14日発表し、日本―オーストラリア(12日)を担当したエジプト人のアブドルファタハ主審はアルゼンチン―セルビア・モンテネグロの第4審判となった。主審の交代要員となる。
 FIFAのジーグラー広報部長は14日、日本がPKを得るべき反則を見逃す誤審を同主審が犯したと認めている。(共同)


当然といえば当然。
明らかなPKであった。
2-0となり試合が決まるところが、逆転負けとなる大いなる誤審である。
この誤審で日本はサッカー強国への道を閉ざされることになりうる。
選手が発想をもってクリエイティブなサッカーを繰り広げる。
そこから育った選手は、表舞台で最新の戦術を持つ大舞台で活躍する。
その美しき歴史への布石が取り払われようとしている。
次に日本の取る道が型に当てはめた戦術であったならば、日本サッカーの歴史は20年は遅れることとなろう。
欧州へ出る選手も激減する。
それはそれで国内Jリーグのレベルが下がらないというドメスティックなメリットを産むこととなるが、将来的にプラスとなるかどうか考えずともわかりうることである。

ただ、この誤審に対して制裁を科したことは喜ばしいことである。
過去に遡って、岡田と梅本には重罪を貸すべきである。

朝令暮改

2006年06月14日 | Weblog
主審が謝罪報道否定「俊輔ゴールは正当」
 【エジプト】1次リーグF組の日本-オーストラリア戦で笛を吹いたアブドルファタハ主審(エジプト)が、日本の先制点を認めたことについてオーストラリアに謝罪したとの報道に対し、「試合中も試合後も、この件について全く話をしていない」と真っ向から否定した。13日付けのエジプト紙のインタビューに応えたもので、「もし私が何か間違いを犯したとするならば、謝るのは国際サッカー連盟(FIFA)に対してのみだ。しかし謝っていない。なぜなら判断は間違ってないから」と潔白を主張した。ゴール直後にオーストラリア選手に抗議を受けたが、「これは正しいゴールだ」と明言。主将のビドゥカに「GKは押された。ゴールは誤りだ。だが、サッカーにはよくあることだ。誰でも間違える。自分のようなストライカーでも簡単なゴールを逃すこともあるように」と言い寄られたが、「間違えていない、ゴールは正しい」と厳しい口調で一蹴したと言う。

 一方、日本選手に対しては「マナーの良さをほめたい。相手チームにも、審判にも、応援団にも尊敬の念を抱いているように思った。最後の9分間に3ゴールを決められたのに、最後までパニックにならずに一生懸命やっていた」とコメントした。

 日本は前半26分に中村のクロスが直接ゴールに入って先制したが、その際にゴール前で柳沢がGKシュワルツァーと接触。オーストラリアはファウルだとして抗議したが、受け入れられなかった。

 シュワルツァーは「試合後に主審は主将のビドゥカに対し謝罪した。彼は最終的に我々が勝ったのでツキがあったと語った。誤審が最終的に影響を及ぼさなかったという意味でね」と話した。ビドゥカも同じ内容を明らかにしていた。(エジプト=工藤多美子通信員)

[2006年6月14日12時8分]

何を言ってるのやら。
だったら駒野へのファール・PKを今から認めろ。

キーパーへのファウル

2006年06月13日 | Weblog
俊輔ゴールで主審が誤審認めた?
 1次リーグF組の日本-オーストラリアで笛を吹いたアブドルファタハ主審(エジプト)が日本の先制点を認めたことについて謝罪した、とオーストラリアのGKシュワルツァーらが12日の試合後に語った。

 日本は前半26分に中村のクロスが直接ゴールに入って先制したが、その際にゴール前で柳沢がGKシュワルツァーと接触。オーストラリアはファウルだとして抗議したが、受け入れられなかった。

 シュワルツァーは「試合後に主審は主将のビドゥカに対し謝罪した。彼は最終的に我々が勝ったのでツキがあったと語った。誤審が最終的に影響を及ぼさなかったという意味でね」と話した。ビドゥカも同じ内容を明らかにした。

[2006年6月13日12時55分]

どう見たってファウルであった。
何故に得点を認めたのか疑問に思う。
ワールドカップという大舞台に緊張したのであろうか。
逆に駒野へのファウルを見逃しPKを取らなかったのは帳消しを狙ったのであろうか。
これまた疑問である。
審判という、権威を持つ「人間」が、過ちだけでなく意図あって誤審を行うと言うことは罪である。
重罪。
コロンビアならどういった結末が待っていたか想像するだけで恐ろしい。

同様のファウル見逃しに2001年Jリーグ2ndステージ ジュビロ磐田戦のゴールがある。
曽ケ端への悪質な突っ込みでボールを奪いゴール。
我等は当然ん、ファウルであると確信した。
しかし、ゴールが認められ敗戦。
悔しい想いをしらものである。
このような誤審からは何も産まれない。
謝罪からは誤審を行った審判の心の傷が癒えるだけで、我等の心は失われる。
結果的にジュビロ磐田は勝ち続けたにも関わらずリーグ制覇はならなかった。
邪悪なものには鉄槌が下されるのである。
勝者はもちろん正義を貫いた我等である。
このことを教訓とすべきであろう。

さらば潤!

2006年06月09日 | Weblog
内田潤選手のアルビレックス新潟への完全移籍について
内田潤選手はアルビレックス新潟へ完全移籍することが決定致しましたのでお知らせ致します。
■ 契約日 : 2006年6月10日(土)
■ プロフィール : ・氏名 : 内田 潤(うちだ じゅん)
・生年月日 : 1977年10月14日
・身長/体重 : 175cm/68kg
・ポジション : DF
・出生地 : 兵庫県
・経歴 : 桐蔭学園高校 ― 駒澤大学 ― 鹿島アントラーズ

■ 出場記録 : チーム リーグ戦 カップ戦 天皇杯
2000 鹿島 8 (0) 2 (0) 1 (0)
2001 鹿島 9 (0) 0 (0) 1 (0)
2002 鹿島 20 (1) 9 (0) 2 (0)
2003 鹿島 6 (0) 3 (0) 4 (0)
2004 鹿島 17 (0) 4 (0) 0 (0)
2005 鹿島 17 (0) 5 (0) 1 (0)
2006 鹿島 0 (0) 0 (0) ―

( )内は得点数

■ 内田潤選手コメント:

「新潟への移籍が決定しました。今後は鹿島で得た経験を新天地新潟で発揮したいと思います。アントラーズサポーターの皆さんには、今までの応援本当にありがとうございました。」

右サイドバックの控えとして影からチームを支え続けた内田潤の移籍が決定した。
今季は怪我でもなくベンチ入りすらしていなかったので、誰もが予感していたことであろう。
彼の想い出と言えば、2003年の最終節、雨のさいたまスタジアムで怪我を押しての出場。
黒いプロテクターを着けた腕はアウェイの白いユニに映え、フラムのユニフォームのようであった。
また、同じ2003年のナビスコ杯アウェイのジュビロ磐田戦では、3バックの一角を担い、トータルでの勝利・決勝進出への原動力となった。
敵ながら名波は「誰が出ても鹿島は鹿島」と言い放ち、
トニーニョ・セレーゾ監督には「3人のブルドッグ」と言わせしめた。
守備固めのイメージが取り憑いた内田潤ではあるが、彼の得意技はスルスルと上がっていく鰻ドリブル。
結局、真価を見せずに去ることになったが…
結果的には名良橋を追い越すことが出来なかった、ということになってしまうであろう。
入団が2000年というのも不幸だったかも知れない。
しかし、実力主義の世界に身を置く者、本人が最もよくわかっているであろう。
幸聖、大谷と共に新たなチームで出場機会を見いだして欲しい。
そして、聖地で大いなるブーイングを浴びるのだ。

ナビスコ杯決勝トーナメント2ndleg. ガンバ大阪戦

2006年06月08日 | Weblog
鬼神のセーブ、小澤英明。
32歳。
1992年入団。
これほどまで危機を救った守護神は高桑大二郎以来であろうか。
いや今日の小澤はその比ではないと言える。
コーナーキックからのヘディング2発連続セーブは伝説に数えられると思う。
ミドルもセーブ。
飛び出してプレッシャー。
まさにゴール前の鬼神。
彼一人の活躍ではないが2試合連続の完封。
それ以上にピンチも連続を凌ぐ姿はオーラを発する鳥山キャラもしくは大友キャラのようであった。
正ゴールキーパー曽ケ端準のベンチ入りもかすんでしまった。
この試合でガンバ大阪に対し2003年4月29日以来の勝ち星を挙げた。
苦手意識はなかったものの、勝っていないという事実は気分の良くないものであった。
好ゲームを制す。
良い状態で中断を迎えることが出来たことは幸いである。