鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

2009年を振り返って

2009年12月31日 | Weblog
2009年を振り返ってみたい。

大迫フィーバー。
今年は大迫の高校選手権で年が明けた。
連日報道される活躍に胸が躍ったものである。
そして鹿島入団。
報道陣は常に大迫を追っておった。
PSM水戸戦では素晴らしいミドルを放ち、そのスター性を証明したのである。
リーグ戦での一時はレギュラーを確保し、その実力を証明したと言えよう。
しかしながら、リーグ終盤は出番が少なくなっていった。
日本代表と元日本代表の実績と実力の陰に隠れる格好となってしまった。
とはいえ、来年の新年早々の日本代表に招集されており、日本を背負って立つ逸材には違いない。

中後移籍。
2008年リーグ制覇の立役者である中後がJEFへ移籍した。
周囲の慰留もむなしく、王者から降格レースのチームへレンタルしていったのは1月のことであった。
小笠原満男の負傷もあり、ボランチのポジションが与えられていたにもかかわらず、ポジション争いから逃げるように去ったことは、我等の気持ちに暗い影を落とした。
ホームで対戦した際は、汚いチャージで止めるプレイを連発するばかりで、J2降格にふさわしい選手に成り果てておった。
今季末に完全移籍を果たし、晴れて我等と離別していったことで、真のJ2プレイヤーと成れたであろう。

パク・チュホの加入と退団。
鹿島初のブラジル人以外の外国人プレイヤーとして急遽チームに加わったパク・チュホ。キャンプからその才能を発揮し、サッカー新聞のエルゴラでは「素晴らしい宝を手に入れた」とまで評された。
その実力はすぐに発揮され、新井場を押しやりポジションを奪い、17戦無敗の原動力となったことは記憶に新しい。
しかしながら、リーグ終盤はベンチを温めることとなり、ポジションを与えられるジュビロへの移籍となってしまった。

ゼロックス、開幕戦快勝。
強豪のガンバと浦和の二連戦を完封で快勝し、2009年シーズンが順調であることを証明した。
攻撃力もさることながら、守備の安定が目についた。

スタメン変更。
順風満帆に見えた序盤であるが、ACL初戦、リーグ戦第2節に躓き暗雲が立ちこめた。
そこで打った手が、不動と見られた新井場と興梠のポジションに新加入のパク・チュホと大迫の起用であった。
若い二人を大胆に抜擢し、チームは活気づいたと言えよう。
とはいえ、小笠原主将の復帰が大きかったことも隠しようのない事実である。

破竹の17戦無敗。
Jリーグ記録となる17戦無敗を樹立し、首位を盤石とした。
夏には優勝は堅いと思った者も多かったようである。

ACL敗退。
トーナメント初戦でまさかの敗退。
運も左右するPK戦だったとはいえ、二度の勝ち越しを追いつかれての敗戦は心に重くのしかかった。

ナビスコ杯敗退。
2nd leg後半アディショナルタイムに失点し追いつかれ力尽きた。
辛い敗退であったが、選手には大きな経験となったと言えよう。

悪夢の五連敗。
好調であった夏までとは打って変わって、全く勝てぬ日々が続いた。
9月は全敗であった。
しかし、この不調の予兆は6月から見えておったと思える。
しかしながら、これもサッカーなのである。
良いサッカーをしておっても負けるときもあり、不調であっても勝てる日もある。
結果的にどうなったかは歴史が物語っておる。

終盤の好調。
終盤の五連勝は、ユダのおかげと言う者も多い。
当然、彼は優秀で経験豊かな選手である。
しかしながら、全員で掴み取った勝利であったと言えよう。
一つ一つの試合に集中し、勝利へどん欲であったからこそ勝ち得たのである。

前人未踏の三連覇
雨のさいスタに新たな伝説を作った。
篤人→興梠の代表ホットラインは語り継がれるであろう。

来季へ向けて。
今季のキーワードは「熟成されたチーム」であったように思える。
無駄な補強をせず、いつも通りのメンバーでいつも通りのサッカーをして勝っていった。
まさに熟成。
ここまで育て他たチームでリーグ制覇という果実を収穫したのである。
来季は更なる熟成を狙い最小限の補強で挑むこととなろう。
韓国代表CBのイ・ジョンスが加入し守備が更に強化され、船山の復帰で攻撃力が増した。
悲願のアジアを、前人未踏の四連覇を、全タイトル制覇を狙って走り出したい。

良いお年を。

オリヴェイラ監督の人間力

2009年12月30日 | Weblog
鹿島V3を呼び込んだオリヴェイラの人間力。
寺野典子=文
text by Noriko Terano
photograph by Toshiya Kondo
2009年12月29日



鹿島の選手たちは口々に指揮官の手腕を称賛する
 史上初のJリーグ3連覇を達成した鹿島アントラーズ監督のオズワルド・オリヴェイラは1950年リオデジャネイロの貧しい家庭に生まれた。プロ選手のキャリアはない。アルバイトで生計を立てながら、大学を卒業しフィジカルコーチとなった。

 '80年カタールの代表スタッフとなり、'81年ワールドユース選手権(現U-20W杯)で準優勝。その後カタールやUAEのクラブで約15年間を過ごした。この経験が、オリヴェイラ独自の人間観を生んだ。

「まったくの異文化の中で仕事をし、他者を尊重する父の教えの重要性を再認識した」と振り返る。

「私は哲学を持たない。持った瞬間にそれに縛られてしまうから」

 '99年コリンチャンスで監督デビューし、3冠を獲得。ブラジルの名門クラブを渡り歩き、'07年鹿島の監督に就任。「私は哲学を持たない。持った瞬間にそれに縛られてしまうから」と語り、記者を驚かせた。

「僕たちの意見にも耳をかたむけてくれ、多くを任せてくれるから非常に仕事のしやすい上司です」と鹿島の日本人スタッフは口をそろえる。

「いつも自分が正しいとは限らないという気持ちで、多くの人の声を聞き、判断をくだすのが私の仕事。スタッフが力を発揮できなければ、選手も能力を発揮できない」

 スタッフが情報を上げやすいよう、空気作りにも気を配ったという。

オリヴェイラ監督の武器は、分析力、説得力、空気を読む力。

『(首位の)川崎フロンターレはきっとつまずくから、我々が連勝すれば優勝できる』という監督の言葉通りの結果となった」とDFの岩政大樹。

 '07年に逆転優勝したときも同様の宣言をオリヴェイラはしている。

「ただ闇雲に、頑張れば勝てると言っても選手は信じない」とライバルチームの状況、鹿島の状況を分析し、優勝の可能性を語ってみせたのだ。

「大切なのは選手を説得し、納得させること」という監督は、毎節の試合前にミーティングを行ない、攻略の策を伝える。その話術とトレーニングメニューには、「試合へ向けてのアプローチが、戦術、メンタルともにとても巧みだ」と、JOMOカップでともに戦った遠藤保仁や中村憲剛なども評価していた。

 チーム作りの面でも「早い攻守の切り替え」など、戦術の徹底を促し、成功している。

「計画を立て、それを実行する力」が自身の武器だと分析するオリヴェイラは、監督にとって重要なのは空気を読む力だと話す。

「僕たち自身もまだ気がついていないような気の緩みを忠告されることがある。それがまさに絶妙のタイミングなんです」とMFの青木剛。

「サッカーも選手も生鮮食品のようなものです」

 活を入れるだけでなく、選手たちの家族からのメッセージビデオや手紙をプレゼントしたりと、硬軟自在のやり方で、選手たちのモチベーションを維持してきた。

「サッカーも選手も生鮮食品のようなものです。旬があれば、ダメなときもある。調理法次第で様々な味が出せる。慎重に扱う必要があります」

 状況に応じ臨機応変に対応する懐の深さを持ちながらも、連敗が続いたときも急激にメンバーを替えることはなかった。体調不良の続く内田篤人の苦労を思い、本人の前で涙を流したという。ブレのない姿勢、嘘のない言動に、選手やスタッフが自然とオリヴェイラに厚い信頼を寄せ、彼の言葉を素直に受け止める。

「3連覇という偉業を成し遂げられたのもフロンターレをはじめとする多くのチームの存在があったから」

 他チームへの感謝の言葉を述べる心配りもまたオリヴェイラらしい。監督力、リーダーシップの土台とは高い人間力であることを痛感する。


ナンバーのコラムである。
オリヴェイラ監督の手腕を紹介しておる。
彼の就任から3年。
素晴らしい歴史を作ってくれた人物であったと思う。
また来季もオリヴェイラ監督の指揮の下に戦える幸せを感じずにはいられぬ。
ダニーロや田代が去り、チーム編成に不安が無いとは言い切れぬ。
しかしながら、オリヴェイラ監督ならば、現有戦力で十二分に戦う術を持っておろう。
我等と共に幸せを共有し続けて欲しいと願うのである。

岩政、年俸19%アップ

2009年12月29日 | Weblog
鹿島岩政5000万円で合意「高い評価」
 鹿島の日本代表DF岩政大樹(27)が29日、茨城県鹿嶋市内のクラブハウスで2度目の契約交渉に臨み、年俸5000万円(推定)で合意した。今季は史上初のリーグ3連覇に貢献し、3年連続でベストイレブンを受賞、日本代表にも復帰した。その功績を鹿島側も評価。来季はW杯代表入りも期待されるだけに「高い評価をしてもらいました。W杯もあるし、来年の始動に向けてしっかり体をつくっていきたい」と話していた。
 [2009年12月29日17時34分]

岩政はおよそ19%アップの年俸5000万円で合意したとのこと。
最少失点とベストイレブン選出が評価されておるとは思われる。
今季は1000得点もあった。
また日本代表は大いなる考課対象である。
鹿島がメディアに取り上げられるには日本代表が手っ取り早い。
出来る限り多くの選手を送り出そうという方針は頷けなくはない。
当然、選手としてのクオリティが伴わねば代表に選ばれるはずはないのである。
それだけの能力を岩政はクリアしておるであろう。
今季に於いては代表レギュラーのCBに劣る部分は全く無いと言い切れよう。
来季は更なる飛躍を岩政に課したい。

岩政、白鵬に弟子入り

2009年12月29日 | Weblog
岩政が白鵬に弟子入り…鹿島
 鹿島のDF岩政が来年1月7日、横綱白鵬の動きを研究するため、宮城野部屋を訪れる。今季から体の軸で動き出す手法を取り入れ、対応などが飛躍的に向上。精度を高めるため「横綱は体の軸で動いている。間近で見たい」と関係者を通じて依頼し、初場所前にもかかわらず快諾を受けた。昨オフの狂言に続く異種トレでレベルアップを図る。
(2009年12月29日06時01分 スポーツ報知)

12月9日に報じられた通り、岩政が白鵬に弟子入りすべく宮城野部屋へ体験入門とのこと。
新しいことに挑戦し続ける岩政の発想には頭が下がる。
来季は韓国代表CBのイ・ジョンスが加入し、DFラインのレギュラー争いも加熱する。
岩政もポジションが安泰というわけではないのだ。
ウカウカしてられぬ。
Jリーグ最少失点を連続で続ける為にも更なるレベルアップが必要となろう。
バージョンアップした岩政を来季は拝めると思う。
強固な守備で来年こそはアジアを制したい。

鹿島を支える力

2009年12月29日 | Weblog
【支える力 鹿島アントラーズ3連覇】(上)「雄飛寮」管理人・高野圭史さん
2009.12.22 02:13
 復帰組を除けば他クラブから加入した日本人選手は歴代4人だけ。選手を育て、「生え抜き主義」を掲げる鹿島アントラーズにとって、カシマスタジアムと練習場の中間に位置する独身寮「雄飛寮」は特別な意味を持つ。
 Jリーグ開幕を翌年に控えた平成4年、寮が完成したときから管理人を務めているのが、高野圭史さん(66)だ。
 「本当は来たくはなかったんだよ。妻は喜んでいたけど」。当時東京で会社員をしていた高野さんに、住友金属の関連会社に勤めていた義理の兄から白羽の矢が立った。妻の実家が神栖市で、いずれは東京から転居するつもりだったこともあり、寮の管理人を引き受けたが、サッカーは素人。「手探りだったな。選手のプロとしての自覚に学んだことも多い」と振り返る。
 現在寮に在籍するのは、欧州から復帰した中田浩二のような大黒柱から今春高校を卒業したルーキーの大迫勇也まで17人。レギュラーにも、ゲームに出られない選手にも同じように対応していくが、選手とサッカーの話はほとんどしない。
 「彼女ができたんだけど、どこに連れて行ったらいいかとか、そんな相談くらいかな」
 そんな高野さんがサッカーについて唯一話す“儀式”のようなものがある。入寮する選手とその親に、お茶を飲みながら話すときだ。「ここに入るのは始まりに過ぎないんだよ」。鹿島に入団しただけで満足して錯覚することがないようにくぎを刺すためだ。
 管理人として最も力を注いでいるのは食事。選手の生活は練習場と寮の往復で、周りには遊ぶ場所は少ない。選手にとって食事は最大の楽しみ。何よりアスリートの肉体を作るために栄養バランスとカロリーに気を使う。
 「最初、昼は弁当を取っていたんだが、選手から何でもいいから作ってくれといわれた」。栄養士の助言を受けながら、妻、千枝子さん(66)とメニューの数を増やしていったが、そのうちの一つが豚肉と豆を煮込んだ「フェジョアーダ」。
 チーム創成期、ジーコやサントスらに振る舞われたブラジルの家庭料理は、今でもホームゲーム前日に寮に集合する選手たちの食卓に欠かさず登場する。
 「選手たちと対等に話ができるのが宝かな」
 寮の食堂の壁に張り付けられたチームの旗。Jリーグ初年に優勝し、選手たちがサインして贈った宝物を見つめながら、高野さんは至福の表情を見せた。
 ◇
 今季、Jリーグ史上初となる3連覇を達成し、国内獲得タイトル数を13に伸ばした鹿島アントラーズ。Jリーグ発足前は「99・9999%、加入は無理」とさえいわれたクラブが毎年優勝争いをする日本サッカー界の盟主となった。その背景にはピッチの外でクラブを支えた陰の功労者たちの姿があった。
(五十嵐一)

【支える力 鹿島アントラーズ3連覇】(中)通訳・高井蘭童さん
2009.12.24 02:14
 「サトウキビをかじりながら口笛を吹くことはできない」。鹿島アントラーズのオリベイラ監督は3連覇を決めた5日の記者会見で、ブラジルの格言を持ち出した。優勝を争っていたライバルチームの試合の経過を選手に伝えない理由を表現した一幕だ。
 オリベイラ監督が伝えたかったことは、ほかのチームの結果を気にせず、自分たちの試合だけに集中するということだった。
 日本のことわざに意訳すれば、「二兎追う者は一兎をも得ず」だと知っていたが、「ついつい直訳してしまった。まだまだ力不足ですね」。チームのポルトガル語通訳を務めて7年目になる高井蘭童(らんどう)さん(36)は苦笑いする。
 日本人の両親の元、ブラジル・サンパウロ市に生まれた。祖母の看病のため15歳で来日。短期滞在のはずだったが、気付けば日本での生活の方が長くなった。
 「ブラジルではサッカーは、空気のようなもの。当然、職業にしたかったけどなかなか機会がなかった」と振り返る。サッカー界に身を置くきっかけになったのは、郷里のサンパウロFCが世界一になったトヨタカップ観戦だった。ブラジルのクラブが遠征で来日した際にアルバイトとして雇われ、3クラブの通訳を経験。鹿島の通訳になったのは平成15年だ。
 高井さんには忘れられないシーンがある。ある試合で鹿島が攻めている最中なのに監督が突然立ち上がり、守備の選手の名前を叫んでいる。カウンターへの注意を呼びかけるものだったが、気付くことができずチームは失点した。「自分自身がゲームを観察できていたらあんなことにはならなかった」と悔やむ。
 監督と接している時間を増やして、意図をつかみ、ニュアンスを伝える。「監督がやろうとしていることができないのは自分の責任」と観察眼に磨きをかけてきた。監督が叫んでいないのに叫ぶのも「チームのためなら嫌われ役だってやる」という姿勢の表れだ。
 それが分かっているからこそ選手たちは「監督がしゃべっていないのに、しゃべっている」と、ちゃかしながらも信頼を置き、高井さんの言葉に耳を傾ける。
 「取りこぼしたタイトルがあるから」。Jリーグのタイトルだけでは満足しない気持ちは選手と同じだ。高井さんは来季に向け、闘志を込めた。
(五十嵐一)

【支える力 鹿島アントラーズ3連覇】(下)強化部担当部長・長石博之さん
2009.12.24 02:21
 「まあ、バランサー(バランスを取る役)かな」。チーム内での役割を聞かれると、笑みの下に自信をうかがわせてそう答えるのは鹿島アントラーズで強化部担当部長を務める長石博之さん(42)だ。
 ディープレッドの常勝軍団に身を置いて、19年になる。平成元年、鹿島の前身である住友金属蹴球団に入り、2年後にマネジャーに就任。「当時は専用グラウンドもなかった。でも我々にはジーコがいた」。平成8年に初の年間王者に輝くまでの期間は「測量し土台を作ってコンクリートを流し込む期間だった」と振り返る。チームの土台作りということだ。
 その後、タイトル獲得を続け、常勝軍団として安定すると、チーム内には、今まで通りでいいという空気が漂っていたという。
 「10年前とは違う。このままではダメだ」と警鐘を鳴らしたのは18年に就任したアウトゥオリ監督だった。「ハッとしたね。ひび割れを察知して補修するのが自分の役割だと再認識した」
 監督や選手は成績によって契約できるかが決まる。アウトゥオリ監督も成績不振を理由に1年で退任した。「契約状態が違うだけで、自分も社員としてのプロ。成功してチームに残る」という意識で、現場とフロントの架け橋という重責を担う。
 仕事はスケジュール管理、遠征時の移動手段やホテルの手配、予算管理、さらには合宿時の食事のメニュー作りと多岐に渡る。手が空いていれば練習場でボール拾いも買って出る。帰宅しても電話一本で仕事場に戻らねばならないこともある多忙さの中で、長石さんを支えるのは「決定権を与えられ、その判断でチームが動いている」という自負だ。
 就任以来のメモは膨大な量になった。バス移動の際には、メモを元に長石さんの脳がフル回転する。「土曜日はこの道は渋滞する」「定刻通り出発しない場合の空き時間、選手たちをどこで休ませるか」。敵地からの帰り、新幹線に出発わずか1分前に乗り込んだこともある。
 息抜きは遠征先での朝のランニング。夜は不測の事態に備えて外出できない。だが、選手が寝ている間だけが自由の時間。「軽く汗を流して、朝の冷たい外気を吸い込む。そうすると、今日も頑張ろうという意欲がわいてくる」。誕生からチームを知る男は歩みを止めることはない。
(五十嵐一)

「縁の下の力持ち」の紹介である。
「雄飛寮」管理人・高野圭史氏、通訳・高井蘭童氏、強化部担当部長・長石博之氏の三人についてそれぞれ記事に起こされておる。
彼らの力なくして三連覇はあり得なかった。
高井蘭童氏はホーム最終戦でのオリヴェイラ監督の絶叫を通訳しておるので、サポーターにはお馴染みである。
長石博之氏は鈴木満強化部長の片腕として、日夜激務に励んでいる様子。
そして、高野圭史氏とその奥方である。
絶品のフェジョアーダは選手達のエネルギーの源である。
鹿島の勝利の陰に多くの人々の努力が隠れておる。
我等のも努力し、勝利へ貢献したい。
聖地巡礼がその努力の一つである。
多くの声援を送り、選手達を、監督を、そして裏方の人々を励まそうではないか。

GK二件

2009年12月28日 | Weblog
首藤慎一選手 水戸ホーリーホックより完全移籍加入のお知らせ
2009年12月28日
この度、2010シーズンの新戦力として、水戸ホーリーホックより首藤慎一選手が完全移籍加入することとなりましたのでお知らせします。

◇ 首藤慎一(しゅとう・しんいち)選手 

【背番号】 未定

【ポジション】 GK

【生年月日】 1983年6月8日(26歳)

【身長/体重】 190cm / 85kg

【出身地】 大分県

【経歴】
カティオーラFC → 鹿島アントラーズユース → 鹿島アントラーズ → JAPANサッカーカレッジ → 鹿島アントラーズ → 水戸ホーリーホック

【首藤慎一選手コメント】

私の夢であった地元九州のチームでサッカーが出来ることを大変嬉しく思います。
J1昇格に向けて、チームの勝利のために頑張りますので、温かいご声援よろしくお願いします。


加藤慎也選手 柏レイソルより完全移籍加入のお知らせ
2009/12/28 公開
 この度、柏レイソルより加藤慎也選手が完全移籍加入することとなりましたので、お知らせいたします。加藤選手のプロフィールは下記の通りです。



加藤 慎也(かとう しんや)

■生年月日
1980年9月19日生まれ(29歳)

■出身地
茨城県

■身長/体重
187cm/77kg

■血液型
A型

■ポジション
GK

■サッカー歴
1993年~1996年 鹿島アントラーズジュニアユース
1996年~1999年 鹿島アントラーズユース
1999年~2002年7月 鹿島アントラーズ
2002年7月~2002年9月 ジェフユナイテッド市原
2002年10月~2002年12月 横浜F・マリノス
2003年 鹿島アントラーズ
2005年~2009年5月 柏レイソル
2009年6月~ 愛媛FC ※期限付き移籍

■出場記録
1999年[鹿島]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2000年[鹿島]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2001年[鹿島]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2002年[鹿島]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点
2002年[市原]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点
2002年[横浜FM]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2003年[鹿島]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2005年[柏]J1リーグ:1試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:1試合0得点
2006年[柏]J2リーグ:2試合0得点 天皇杯:1試合0得点
2007年[柏]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2008年[柏]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点 天皇杯:0試合0得点
2009年[柏]J1リーグ:0試合0得点 ナビスコ:0試合0得点
2009年[愛媛]J2リーグ:7試合0得点 天皇杯:0試合0得点

■コメント

「自分の持てるもの全てを出してチームに貢献したいと思います。選手・スタッフ・サポーター一丸となってJ1に上がりましょう。ヴァンフォーレ甲府と山梨を盛り上げましょう。これから応援よろしくお願いします。」

ユースから昇格し、トップチームにも在籍しておった二人のGKが新天地に移籍した。
二人ともGKとしてはまだまだ若く、これから自責を積んで大いなる選手になって欲しい。
しかし、考えるに曽ケ端の壁の高さと言えよう。
この男ほど安定したセービングを魅せる日本人GKは他におらぬ。
後に続く者は曽ケ端を超えねばならぬのだ。
偉大なる先人は、名を残し後人を育てる。
杉山も川俣もいまいちくんも曽ケ端の背中を見て育っていくのである。

野沢、MIPインタビュー

2009年12月28日 | Weblog
【ひかりTV連動企画】J1 11月度MIP受賞インタビュー 野沢拓也選手(鹿島)「タイトルのため、何も恐れずに戦おうと思っていた」(09.12.24)
選手同士でさえ、野沢拓也選手が見せる「うまさ」には舌を巻くと言う。
あふれる才能を持っていてもベンチを温めることが多かったのは昨季まで。今季のリーグ戦では出場停止の1試合を除く33試合に先発出場、苦しい時もそしてその後に勝ち得た優勝もチームとともに心から味わった。
「ミスタークライマックス」と呼ばれるほど、苦しい終盤で頼りになる男・野沢選手に、ラストスパートを見せた1月の活躍について振り返っていただきました。

■3連覇を達成、でも満足のいかない1年だった
Q:まずリーグ戦3連覇おめでとうございます。振り返ってみて、どう感じていますか?
「正直に言いますと、実感はないです。僕個人としては3連覇というより、毎年1年に対する思いを大切にしてやっています。その中で、数多くあるタイトルの1つだけですけれども、タイトルを取れたことはうれしいです。でも、やっぱり今年に関しては非常に満足のいかない1年で、充実したとは言えない1年でした」
Q:満足がいかないというのはアジアのタイトルを逃したからでしょうか?
「それもそうです。ほかにも1年間でタイトルを取るチャンスはたくさんあるのに、その中で1つしか取れなかった。ましてや、Jリーグのチャンピオンがアジアのタイトルを何年も取りこぼしてきている。そういう同じ後悔を繰り返してきているという悔しさがあって、今年に関してはAFCチャンピオンズリーグ(ACL)・ラウンド16のホームで負けた試合の日にちも覚えているくらい。ずっとその悔しさを考えて戦ってきました」
Q:1年間でいろいろなことがあったと思いますが、今回は11月MIPに選ばれてのインタビューです。
ミスタークライマックスという呼び名が定着するくらい、今年もすばらしい活躍を見せましたが、11月の3試合を振り返ってみていかがですか? 11月は山形戦(第31節)から3連勝で、野沢選手は京都戦(第32節)とG大阪戦(第33節)で1ゴールずつあげています。
「シーズンも最後の方になると上位が接戦になってきて、1試合に対する重みというのが増してきます。でも、アントラーズというのは幾度となくそういう経験をしてきたので、優勝争いの中でもアントラーズらしさを出せたと思います。夏場から5連敗(第24~28節)を経験しましたが、それに関しては自分が今まで出来ていたことを出来なかったことで負けていると強く感じていました。さらにACLでも負けてしまっていて、タイトルはまだリーグ戦と天皇杯のチャンスがありましたけど、それを取るために本当に壊れてもいいから何も恐れずに戦おうという気持ちはありましたね」
Q:5連敗の時期は、外から見ていた側にも「どうしたのかな?」という思いが強くありました。実際に戦っている選手自身は、どのような気持ちだったのですか?
「アントラーズのサッカーを見てきている人たちはわかっていると思いますし、自分たちが言わなくても見ている人が一番わかっているんじゃないかと思います。あの時も自分たちは練習からやり方を変えずにやってきました。そういう中から勝てるようになってよかったと思います。
僕はなんとかなるだろうという性格なので、5連敗していた時もみんなと一緒で優勝できると信じていました。ただ、今までにも何度か『サッカーを辞めたい』と言ったことはありましたが、あの頃は本気でそう思っていた気もします。精神的に、やられていましたね。何をやってもうまくいかないというのはどんな職業でも競技でもあると思うんですけど、5連敗中は外出もできない状態でした」
Q:それを乗り越えられたのがアントラーズの強さだと思うんですが、何かきっかけはあったのですか?
「まずはやり方を変えなかったこと。僕たちは監督の言葉を信じてやってきましたし、そういう経験はたくさんしてきているので選手自身が何をするべきかをわかっていたと思います。監督を信じてきてよかったという思いがありますね」
Q:そして、タイトルの賭かった終盤の11月に見事なプレーを連発したわけですが、京都戦とG大阪戦のゴールを振り返ってみていただけますか?
「終盤戦に入ると1つ1つのプレーが大事になります。本当は連敗中とかにもっとチームを助けられたらよかったんですけれども…。でも、終盤に来たら1つのプレーが大事と本当に感じていたので、100%よりも120%の力を出したいと常に思っていました。1本を大事にというのを、いつも心がけていました」
Q:左右両足できれいなループシュートを決めました。あの場面では、ボールを持った瞬間イメージができていたのですか?
「そうですね。あんまり自分が考えていることは言いたくないんです。シュートに対するイメージとかは(笑)」
Q:シュートだけではなく、優勝を争っているときにG大阪を相手にあれだけの試合が出来たことはすごいことだと思います。
「その理由の1つが、オリヴェイラ監督が来てから金沢でやった試合(07年第23節のG大阪戦 1-5で敗戦)がすごく悔しくて、その借りを返したいと。それからもちろん、絶対に勝って優勝するという思いもありました。そういういろいろな思いを持って臨みました」

Q:オズワルド オリヴェイラ監督も「あの試合の借りを返すぞ!」みたいなことは言っていたんですか?
「うーん、試合前はあまり話を聞いてなかったから(笑)。でも、試合が終わってから言っていましたね、『借りを返した』みたいなことを。監督も悔しがる人なんですよ。負けると悔しくて人に当たる(笑)」
Q:後ほど、サポーターの方からいただいた質問に答えていただきたいのですが、いただいた質問の中で「なんで、そんなにサッカーがうまいのですか?」というのがたくさんありました。そもそもサッカーを始めたきっかけは?
「始めたのは小学2年生かな? 親に聞くと兄の影響で始めたと言うんですけど、僕は野球が好きだったと思うんです。ただ、スポーツならなんでも好きだったので、サッカーもやり始めたら止まらなくてずっとやっていましたね。おかげで頭がよくならなかった。勉強は大嫌いでした。だから、今でも日本語がうまく話せないんです(笑)」
Q:チームメイトもびっくりするようなトラップとかを見せてくれますが、他の選手との違いを感じることもありますか?
「わかんないですよ。周りはみんなそう言いますけど、自分はああいうトラップの仕方で、それが好きだからやっているだけです。僕はみんなもうまいと思って見ているんですけど…。自分では本当に自分のうまさってわからないです」


■小笠原選手のコメントに感動の涙

Q:最近の野沢選手からは、小笠原満男選手と同じようなコメントを聞くことが多くなったように思うんですが?
「だんだん、しゃべり方も似てきましたか(笑)。雲の上の存在でもあり、見習うべき存在でもあり、いろいろなことを教えてもらった人。8番という背番号をもらった時は恥ずかしい部分もありました。やっぱり鹿島に入った時から一緒に試合に出たいというのがずっとあったので、ここ何年かですけど一緒にできてうれしいです」
Q:Jリーグアウォーズのベスト11の表彰の際に、小笠原選手が「選ばれた鹿島の選手が少ない」とおっしゃっていました。あれを聞いて、いかがでしたか?
「泣いていました。『満男くんだけだよ、ああいうふうに言えるのは』って。正直すごいと思います。言葉では表せないくらい、すごい人だなと感じました。今まで子どもの面倒をみるような感じで相手をしていたんですけど(笑)、あの時はいきなり満男くんが大人になった感じでした」
Q:それでは、サポーターの皆様からいただいた質問にお答えいただきたいと思います。
まずはnanacoさんからの質問です。「優勝セレモニーのシャンパンファイトでは、なぜミッキーマウスの物真似だったんですか? また、身に着けていたミッキーマウスグッズはどこで買ったんですか?」

「サポーターに言われたんです、まだ優勝も決まってないのに『今年は何をやるんですか?』って。そんなに期待してるのかと思っていたんですけど、ディズニーランドに行った時にたまたま被り物を売っていて『お、これいいじゃん!』と…。ディズニーランドでそれを被って歩いていたらみんなに見られて、これなら注目を浴びられるかなと思ってミッキーマウスにしてみました」
Q:ミッキーマウスの物真似もうまかったですよね。
「ちょっと練習してました。『みんな、どう?』って(笑)」
Q:では次の質問です。
クライマックスさんから「海外移籍を考えたことはありますか?」

「ないですね。僕、海外は苦手なので。怖くて歩けないので、サッカー以前の問題ですね。だから有名な選手しか知らないし、大きな大会は見ますけど自分から進んで海外のリーグ戦とかを見たりはしないです」
Q:最後の質問です。
マリアクレウザさんから「野沢選手といえば解説者に左利きと間違えられたこともあるほど両足の正確なキックを持っています。昔は左足でもプレースキックを蹴っていましたよね。どうして最近は蹴らなくなったんですか?」

「蹴ってもいいなら蹴りますけど…。最近は練習するようになりましたけど、まだ試合で蹴っていいオーラーが出ていないので」
Q:FKも左足の方がタッチがいいとおっしゃっていましたよね?
「そうなんです、実は。でも左で蹴ると『あいつ、ふざけてんのか』と思われたりするから(笑)」
Q:本日は長い時間ありがとうございました。来季は全タイトル制覇に向けて頑張ってください。
「ありがとうございました。頑張ります」

以上

取材日:12月15日
取材・構成:田中滋


[ ひかりTV連動企画 J1 11月度MIP受賞インタビュー ]

11月の月間MIPに輝いた野沢拓也選手(鹿島)。「100%よりも120%、1本を大事にプレーしてきた」ことが11月の2戦連続となる美しいループシュートにつながったようです。

野沢のMIPインタビューである。
野沢の人柄が垣間見られる。
そして来季は是非とも左足のFKを魅せて欲しい。
ところで、去年は岩政一昨年は曽ケ端2006年は野沢と4年連続で11月に鹿島からMIPが選出されておる。
これは偶然では無かろう。
鹿島の優勝へ向けるメンタリティが、選手の活躍に、そして11月の勝率につながっておるのである。
これからも印象に残るプレイを続け、優勝を勝ち取り続けて欲しい。

大岩、契約延長

2009年12月28日 | Weblog
鹿島38歳大岩がJ1日本人最年長に
 鹿島DF大岩剛(37)がJ1日本人最年長選手として10年シーズンを戦う。27日、茨城県鹿嶋市内で契約交渉に臨み、来季の契約に合意。42歳のFW中山雅史がJ2札幌に移籍するため、来年6月23日に38歳となるベテランDFがJ1最年長に躍り出ることになった。J1在籍16年目という記録も大卒選手では中山と並びJ1最長。リーグ戦に2試合出場すれば、J1出場試合数ランクで史上7位にも浮上する。来季、鹿島のセンターバックは岩政、伊野波に加え韓国代表の李が加入。選手層は厚いが、鈴木満強化部長は「大岩のような存在は必要不可欠」と言い切る。「中山さんは偉大な人。目標にしたいし、僕自身も頑張りたい」と話す大岩が王者の堅守の土台を支える。
 [2009年12月28日8時21分 紙面から]

大岩の存在を高く評価する鈴木満強化部長である。
やはり、2003年末に秋田を切ったことは失敗であったと認識しておるのであろう。
とはいえ、あのときとはクラブの状況はかなり異なる。
三連覇を成し遂げ、スタジアムに観客が戻ってきた。
チームは強くなり、人気も戻り、収支も改善されたのである。
結局のところ鍵を握るのはどれだけ我等が聖地へ足を運ぶかにかかっておろう。
我等一人一人の行動が選手の運命を左右するのである。
一つ一つ勝利を積み重ねるために、一人一人がスタジアムへ来る努力をするのだ。
聖地巡礼は我等に課せられた使命である。

田代、ロッカー整理

2009年12月28日 | Weblog
鹿島田代が山形移籍へロッカーの整理
 山形移籍を決断した鹿島FW田代有三(27)が27日、ロッカーの整理などのため茨城県鹿嶋市内のクラブハウスを訪れた。クラブ間の細部の交渉がまとまり次第、期限付きでの移籍が発表される予定で「年内はクラブハウスには来ないと思います。(来季は)とにかくしっかり頑張りたい」と吹っ切れたような表情を浮かべていた。
 [2009年12月27日19時4分]

山形への移籍を決断した田代がロッカーを整理とのこと。
これは寂しい。
とはいえ、レンタルでの移籍となるので、将来的には再び臙脂のユニに袖を通す日も来るであろう。
来季は山形を残留させるべく活躍して欲しいと願う。
我等も敵に回る田代を封じ込めるべく、守備に力を注ぐであろう。
来季の戦いが楽しみである。

篤人、海外移籍容認へ

2009年12月27日 | Weblog
鹿島・内田、W杯後に海外挑戦へ
2009.12.27 05:01
 鹿島の日本代表DF内田が26日、契約交渉で1000万円増の年俸4000万円を提示され、保留した。もっとも、本人に代わり交渉に臨んだ秋山代理人は「評価はしてもらった」と笑顔。また海外移籍の希望も持つ内田について、鈴木強化部長は「3年連続で優勝もし、次のステップアップは海外しかないだろう」と容認する意向を示唆した。来夏のW杯後にオファーが届いた場合、海外挑戦が具体化しそうだ。(鹿嶋市)

“海外なら仕方ない”鹿島が内田の移籍容認
 鹿島の幹部が日本代表DF内田のW杯後の海外移籍を容認する方針を示した。昨オフに13年7月までの4年半契約を結んだが、内田は将来的な海外移籍も視野に入れている。クラブ側も本人の意向は把握しており「(内田は)3回も優勝してレギュラーでほぼフル出場してる。次のステップアップとして海外となるのはしようがない」と海外クラブからオファーがあった場合は交渉に応じる考えだ。

 早ければ来夏に移籍する可能性もあり、チーム編成を見直す必要性も出てくるが「そういうことも考えていかないと」と話した。

[ 2009年12月27日 ]

内田残留へ 欧州挑戦はW杯後…鹿島
 鹿島のDF内田篤人(21)が26日、クラブ側と代理人交渉に臨み、基本的に残留する意向を伝えた。ドイツ・ブンデスリーガのシャルケ04が獲得を検討中。17日からは2泊4日の日程でシャルケ04サイドの招待を受け渡独したが、交渉に臨んだ代理人の秋山祐輔氏は「バルサ(バルセロナ)からオファーとか、よほどのことがない限り鹿島でやる」と明かした。

 3つの理由から判断した。まずは右ひざ半月板損傷が癒えていないこと。半年後に迫った南アW杯出場へ、環境を変えるとリスクを背負うこと。そして、欧州挑戦するならば、W杯後が「ベターな選択とみている」と同氏。また、2013年夏までの複数年契約を交わしている鹿島からは、今季から1000万円アップの推定年俸4000万円の提示を受けた。

(2009年12月27日06時01分 スポーツ報知)

篤人の代理人が年俸交渉のテーブルに着いたとのこと。
年俸は33%アップの4000万円、優勝への貢献も代表での活躍も評価のポイントとなっておろう。
そして、フロントを代表して鈴木満強化部長が移籍について口を開いた。
海外移籍に関しては容認せざるを得ないとのことである。
これは仕方のないところ。
昨日も記事にしたが、篤人はいつまでも共に有ると思っておられぬ。
しかしながら、今現在は鹿島の内田篤人である。
右サイドを切り裂き疾走し続けて欲しい。
その活躍でバルセロナ移籍を目指すのだ。
翼くんとチームメイトになるのだ。

チェアマン「秋春制」移行全面否定

2009年12月26日 | Weblog
鬼武チェアマン「秋春制」移行否定
 Jリーグの鬼武健二チェアマン(70)は25日、日本協会の犬飼基昭会長(67)の秋春制移行に関する発言に対し「Jとしては(現行制度続行で)変わらない」と話した。犬飼会長は来年1月12日の常務理事会で、同制度の移行を議題に挙げることを明言したが、同チェアマンは「その時はまた検討することになるけど、基本的に考えは変わらない」と強調した。
 [2009年12月26日7時29分 紙面から]

現実が見えておるチェアマンである。
我等としては鬼武チェアマンを全面的に支持したい。

篤人、鹿島残留

2009年12月26日 | Weblog
鹿島内田が海外封印「4連覇したい」
 鹿島の日本代表DF内田篤人(21)が当面の海外移籍を封印し、王者の一員としてW杯に臨む。25日、都内で行われた日本プロスポーツ大賞に出席。「来季も鹿島にいます。アジア・チャンピオンズリーグも取りたいし、4連覇もしたいから」と言い切った。

 2泊4日でドイツに渡り、18日のシャルケ―マインツ戦を観戦。率先して本場の雰囲気を体感するなど、将来的な海外挑戦への興味は持っている。だが鹿島関係者にも「今は時期ではない」と伝えており、W杯に向けて慣れ親しんだ環境を優先する意向だ。この日は「エンタメポスト杯特別賞」を受賞した鹿島の代表として登壇。「3連覇した時より、こういう賞をもらった時の方が実感が出る」と笑みを浮かべていた。

 [2009年12月26日7時26分 紙面から]

鹿島が特別賞受賞、篤人「実感わいてくる」
2009.12.26 05:00
 「第42回内閣総理大臣杯日本プロスポーツ大賞」の授賞式が25日、都内のホテルで行われた。
 Jリーグ史上初の3連覇を成し遂げた鹿島は、特別賞を受賞。クラブを代表して大東社長とともに授賞式に出席した日本代表DF内田篤人は、「優勝したときよりも実感がわいてくる」と笑顔を見せた。将来的な移籍を視野に、ドイツ視察から20日に帰国したばかりだが、「来年? いますよ鹿島に」と明言。「ACL(アジア・チャンピオンズリーグ)を獲りたいね」とアジア制覇を誓った。


内田、今オフ移籍は否定「鹿島にいます」

日本プロスポーツ大賞の受賞式に出席した鹿島・内田篤人
Photo By スポニチ

 Jリーグ史上初の3連覇を達成した鹿島が、日本プロスポーツ大賞の特別賞に輝いた。チームを代表して大東社長とともに授賞式に出席した日本代表DF内田は「優勝した時よりも、こういうふうに表彰されると実感がわいてくる」と喜びを口にした。

 来季に向けてすでに軽めの練習を始めており「ACLも獲りにいきたい」とリーグ4連覇との2冠を宣言。将来的な海外移籍を視野に入れ17日からドイツに滞在していたが「鹿島にいますよ」と今オフの移籍は否定した。

[ 2009年12月26日 ]

篤人が今オフの移籍を否定した。
まずは一安心である。
とはいえ、目標のACLを穫ってしまったら、次なる目標が欧州チャレンジとなるのは目に見えておる。
いつまでも共に有ると思っておれぬであろう。
我等は鹿島の篤人を目に焼き付けておきたい。
一つ一つの試合を大事に戦おうではないか。

エンタメポスト杯特別賞受賞

2009年12月26日 | Weblog
3連覇鹿島に特別賞ウッチー「光栄です」
 リーグ史上初の3連覇を達成した鹿島が25日、都内で行われた日本プロスポーツ大賞表彰式で「エンタメポスト杯特別賞」を受賞した。大東和美社長と選手を代表して日本代表DF内田篤人が登壇。表彰式後に新品の自身のチームロゴ入り名刺を報道陣に配った内田は「このように偉大な方々が来た表彰式でこのような賞をいただけて光栄に思います」と笑顔を浮かべた。
 [2009年12月25日22時38分]

我等が鹿島アントラーズがエンタメポスト杯特別賞を受賞した。
コツコツと勝利を積み重ねた結果である。
素直に喜んで良かろう。
これからも奢ることなく、勝利へ向けて努力を続けたい。

船山、鹿島を選択

2009年12月25日 | Weblog
船山祐二選手の復帰について
セレッソ大阪に期限付き移籍していた船山祐二選手が、移籍期間(2009年7月月~2010年1月)満了につき、復帰することになりましたのでお知らせします。

<選手プロフィール>
■選手名:
船山祐二(ふなやま・ゆうじ)
■生まれ:
1985年1月19日、千葉県成田市出身
■サイズ:
176センチ、72キロ
■ポジション:
MF
■経 歴:
柏レイソルジュニア(1991)
柏レイソルジュニアユース(1997)
習志野高校(2000)
流通経済大学付属柏高校(2001)
流通経済大学(2003)
鹿島アントラーズ(2007)
セレッソ大阪(2009.7~)
■成 績:
J1リーグ10試合1得点(すべて鹿島アントラーズ)
ナビスコカップ2試合0得点(すべて鹿島アントラーズ)
天皇杯2試合0得点(流経大、C大阪で1試合ずつ)
J2リーグ15試合5得点(すべてセレッソ大阪)

<コメント>

アントラーズに戻ることを決めました。セレッソでの半年間の貴重な経験を、来シーズンはアントラーズで生かしていきたいと思っています。また、アントラーズのユニフォームに袖を通すことに対して、誇りと責任を持って頑張っていくつもりです。

今年の夏からセレッソにレンタル移籍しておった船山が帰参。
これは朗報である。
セレッソからオファーも、仙台・山形からのオファーも断り、王者・鹿島のレギュラーを目指すと言うことに相成ったわけである。
これで誓志・ダニーロの穴は埋まった。
金崎香川が来ずとも問題はない。
最終節のセレッソは船山のゴールを守りきっておれば優勝していたのである。
それだけ重要なゴールを船山はセレッソで決めておった。
ボランチとしても1.5列目としても輝いておったのである。
その働きが実り、10月にはJ2のMIPにも選出されておる。
その輝きを来季は臙脂のユニフォームで魅せてくれるであろう。
ボランチ、攻撃的MFの補強が出来、来季の陣容はほぼ見えたと言えよう。
FW以外はレギュラー争いが活気づき、これまで安泰であった選手もウカウカしておれぬ。
来季は既に始まっておる。
我等も気持ちを高ぶらせて、開幕を待とうではないか。

誓志の代役は

2009年12月25日 | Weblog
鹿島・増田が山形入り!同僚田代とW加入!

鹿島から移籍する増田は卓越したパスセンスがある
 モンテディオ山形が鹿島からMF増田誓志(24)を獲得することが24日、分かった。この日、増田が山形への移籍を決断。既に山形への移籍を決めたことを報道されたFW田代有三(27)とともに、ホットラインを形成して来季のJ1での躍進を目指す。

 出場機会を求めて移籍を志願していた増田の行き先は山形に決まった。増田はトップ下とボランチで高い能力を発揮するMF。元U―22日本代表の肩書通り実力は折り紙付きだが、鹿島では今季年間MVPのMF小笠原らの陰に隠れて出場機会を失い、シーズン中から移籍先を探していた。

 鹿島出身の黒崎コーチが監督に昇格した新潟への移籍が有力視されていたが、同じく出場機会を求めていた田代が山形へ期限付き移籍することになり後を追うことを決断。山形は鹿島からC大阪に期限付き移籍中だったMF船山にもオファーを出していたが、船山本人に21日に断られていたこともあり、増田獲得の運びとなった。

 来季の山形がJ1で中位以上を目指すには、得点力の向上が一番の課題。「もっと得点を取る必要がある。それができる選手をとる」と小林監督も明言していた。王者・鹿島で腕を磨いた2人ならまさに適役。山形がJ1定着への大きな人材を手に入れた。

 ◆増田 誓志(ますだ・ちかし)1985年6月19日、宮崎県出身。24歳。宮崎・鵬翔高から04年に鹿島に入団。卓越したパスセンスに加え、運動量も豊富で中盤以外にも右サイドでのプレーが可能。06年にはU―22日本代表にも選出された。鹿島の日本代表FW興梠は高校の1年後輩。179センチ、75キロ。血液型B

(2009年12月25日10時38分 スポーツ報知)

誓志の山形移籍決断を大々的に報じる報知である。
これは日本を揺るがす大きな移籍ということであろう。
それほどに、誓志の潜在能力は大きいのである。
我等も涙を呑んで送り出すこととなった。
しかしながら、誓志は鹿島との契約を延長し、レンタルという形を取って移籍するのである。
山形でのプレイにより、今まで以上に大きく成長して還ってきて欲しいと願う。
ところで、この記事の中に船山の記述があった。
船山は山形からのオファーを断っておったとのこと。
誓志の移籍、ダニーロの退団により中盤の層が不安視されておる。
ここに船山が帰参せしむれば、大いなる戦力となろう。
セレッソで経験を積んだ船山は、計算出来るコマである。
満男のようにキープと前へ飛び出すボランチとしても、前線からパスを出し、シュートを放つ攻撃的MFとしても実績十分と言えよう。
是非とも還ってきて欲しい。
船山の去就に注目が集まる。