鹿島アントラーズ原理主義

愛する鹿島アントラーズについて、屈折した意見を述べていく場です。

リハビリ組、団欒

2010年05月31日 | Weblog
2010年 5月31日(月)

午前中のグラウンドでは、本山選手や笠井選手などリハビリから復帰したばかりの選手たちがフィジカル強化のメニューを行っていました。またトレーニング後には芝生に寝転がり、みんなで談笑していました。

和やかに座り込むリハビリ復帰組である。
彼らには再開後には活躍してもらわねばならぬ。
本山は攻守の中心選手としてチームを引っ張る義務があり、笠井健太には篤人移籍後の右サイドを担うほどになって欲しい。
大道にも川島にも期待せざるを得ない。
今季の大きな目標であった、アジアへの野望は潰えた。
しかしながら、来季もチャンピオンとしてアジアに飛び出すため優勝する必要がある。
その為には、復帰した彼らの力が必要なのだ。
休んでおった分の働きを頼みたい。
チーム一丸となって、二度目の国内三冠を目指すのだ。
期待しておる。

疾れ、篤人

2010年05月31日 | Weblog
内田篤人、苦悩を乗り越えた不動の攻撃的サイドバック
5月31日 10時01分配信田中滋(ISM)
■順風満帆に見えるキャリアの裏側にあった苦悩


卓越した攻撃センスを誇る内田。体調不良も克服し、最高峰の舞台で輝きを放つための準備は万端 【Photo:Getty Images】
 2006年、清水東高から鹿島アントラーズに加入してきた内田篤人を見たパウロ・アウトゥオリ監督(当時)は、宮崎合宿の初日から「今季の右サイドバックは内田でいく」と明言したという。当時の内田はまだ17歳。クラブ史上初となる高卒ルーキーでの開幕スタメン出場を果たすといきなり活躍。右サイドから積極的にドリブル突破を仕掛けPKを獲得してみせた。イタリアから復帰したばかりの柳沢敦のハットトリックにかすんでしまったものの、非凡なものを感じさせるデビューだった。

 そして、そこからの躍進には目覚ましいものがあった。07年にはU-20ワールドカップ(W杯)代表、さらに08年には北京五輪代表(U-23)、そして日本代表。ほかの誰よりも早く階段を駆け上がり、ついに南アフリカへ日本代表のレギュラーとして乗り込むところまできた。22歳となった今まで順風満帆で来たとも言えるだろう。

 だが、実際にはそうではない。はじけるような笑顔の下に、内田だけが抱える苦悩があった。カシマスタジアムの記者席は2階席の一角にある。かなり高い位置からピッチを見下ろす形になっているのだが、手前のタッチライン際にいた内田が走るのを止めて下を向いたとき、初めは何をしているのか分からなかった。普段の生活なら見ることのある光景かもしれないが、サッカーの試合中にそうした姿を見るのは初めてだったかもしれない。だが、数秒後に何をしているのかが分かった時は衝撃だった。内田は胃の中のものをグランドに向かって吐き出していたのである。

「いつものことだよ」
 何食わぬ顔で答えた内田だったがその表情は能面のよう。昨年は1年間ずっとそういった状態に悩まされていた。原因は分からなかった。痛み止めの飲み過ぎで胃が荒れているから。疲労から。さまざまな要因が疑われたが、解決策はなかった。しかし、ひょんなことで苦しみから解放される。日本代表のチームメート、長友佑都が同じ症状に悩まされた時にガムを噛むことで嘔吐感を解消させたというアドバイスを聞いたからだ。
「ずっと付き合っていく恋人だと思ってたんだけどね」
 内田の表情も、そのころを境に本来の明るいものに変わっていった。
■とにかくうまくなりたい――サッカーへの飽くなき欲求
 なぜ、そこまでして試合に出続けるのか。その答えは少しでもサッカーがうまくなりたいという単純な欲求以外にない。その外見からは想像もつかないほどハングリーに、どん欲にサッカーを追求しているのが内田篤人と言えるだろう。

 昨年、内田が次のようにつぶやいたことがあった。
「みんなどんどんうまくなっていく。おれだけ取り残されちゃうよ」
 その意味はこうだ。鹿島はここ数年、リーグ戦とAFCチャンピオンズリーグ(ACL)を戦い続けてきたため、日程は過密となり日々の練習はコンディション調整ばかり。1時間くらいで終えることも多く、それを内田は嘆いていたのである。
「おれ、まだ21歳だよ」
 もっとサッカーがしたい、もっとサッカーがうまくなりたい。その欲求は大きくなるばかり。そのため、ミッドウィークに試合がなく1週間練習を積むことができたときは、「良い練習ができた」と満足げに語ることもしばしば。チームメートの岩政大樹は「あいつにとっては久々でしょうからね」と弟分の忙しさを気遣うほどだった。

 ただ、そうした状況が何年も積み重ねれば海外移籍の話題が出るのも当然だろう。昨年、鹿島は3連覇を達成し、どうやれば勝てるのかということを、かなりのところまで突き詰めることに成功してきた。しかし、それは内田の満足感を満たすものではなかったのかもしれない。今年もACLを戦った鹿島だが、予選リーグのペルシプラ・ジャヤプラ戦で、そうした思いが顔を出す場面があった。
 この試合、内田の対面にいた13番の選手が積極的にドリブル突破を仕掛けてきた。しかし、これを余裕で対応。1対1の勝負はすべて内田の勝利だった。
「とりあえず飛び込まなければ大丈夫だと思って。後半は、監督からも『お前はそこにいろ』って言われたし」

 相手との力量差を考えれば、スペースさえ与えなければピンチを生む可能性はほとんどない。さらに点差は3-1でリードしている状況。このまま試合を終わらせれば勝ち点3は転がり込んでくる試合だった。
 ただ、内田の気持ちはそこにとどまることを良しとしていなかった。
「チームが勝つことが一番いいことだし、前に行かないでそこにいることが勝つことにつながるとは思う。でも、それだけで良いのか悪いのか分からない」
■高まる鼓動、ついに世界最高峰のピッチへ
 そうした気持ちを抱えている中で、日本代表に行けば海外で活躍する多くの先輩から刺激的な話を聞くことができる。もっとうまくなりたいという気持ちが抑えられなくなったのも必然かもしれない。そして、目の前に待ちかまえるのは南アフリカW杯だ。世界を舞台にした戦いを前に、内田の気持ちは踊る。

「サッカーに興味もない人も見るのがW杯」
 日本代表に選出された時、内田はそう定義づけた。自分も日韓W杯でベッカムの姿に魅せられた経験を持つだけに、W杯が持つ力の大きさは十分に理解している。自身もそのルックスからさまざまな媒体で取り上げられているが、あえて求められる役割をこなしている部分も強い。内田なりにサッカーが興味のない人にもサッカーを好きになってもらうためにアイコン的な役割もこなしてきた。だからこそ内田は多くの人に呼び掛ける。
「W杯という大きい大会を盛り上げていただきたいと思います。僕たちは結果で表現したいというか、結果を出したいと思います。ぜひ、青いユニホームを着て、一緒に戦ってほしいと思います」

 代表監督にまつわる解任論が沸き起こったときも、内田は「岡田さんは良い監督。ピッチに立っているのは選手なんだから、負けた責任は選手にある」と強い口調で言った。監督だけに責任が押しつけられている状況を憂い、自分たちが監督のサッカーを表現できていないことに責任も感じていたのである。
 海外の選手を相手にするには体が弱いと指摘する声もある。Jリーグの試合でも外国人選手をぶつけられることが何度かあった。しかし、鹿島と対戦するチームが、毎回毎回、内田のサイドに屈強な選手を置いてくるのなら、それを攻略法として認めることもできるだろう。しかし、1度やったことを2度3度繰り返してくるチームはない。同じ過ちは繰り返さない、そうした気持ちの強さが内田の中には秘められている。

 代表発表を受けた後、記念撮影のためにカメラマンから絵馬を渡された内田。そこには大きく「ベスト4」という目標が記されていた。
「3連覇して、監督や先輩からゲームの勝ち方や厳しさ、我慢するところは我慢する、そういうものを教わってきました。Jリーグでやってきた4年、5年。鹿島で学んだことを出し切りたいと思います」

<了>
内田篤人
Atsuto UCHIDA [鹿島アントラーズ] DF
1988年3月27日生 176cm/62kg
・前所属チーム:清水東高
・Jリーグ初出場:2006/03/05 2006Jリーグ ディビジョン1 第1節 鹿島(vs広島@広島ビ)
・Jリーグ初得点:2006/03/21 2006Jリーグ ディビジョン1 第4節 鹿島(vs甲府@カシマ)


田中氏のコラムである。
鹿島入団後の篤人について語っておる。
確かに2006年に入団してきた篤人は衝撃であった。
縦へ突破する思い切りの良さが気持ちよく、公式戦で即PKをゲットしたのが記憶に蘇る。
そして、初ゴール。
2006年イヤーDVDでは「18歳の~」とナレーションが入っておるが、当時は17歳であった。
尾崎豊の「17歳の地図」に掛けて「セブンティーンズ・ゴール」と称したものである。
その篤人は各年代の代表経てフル代表に定着し、鹿島は三連覇を成し遂げ、アジアにチャレンジする。
その余波を受けて過密日程に悩まされることとなるのだ。
観ている我等が心配であった。
ガムで乗り越え、元気に走る篤人に安心したことも最近のことである。
その篤人は、南アフリカの地を踏み、ドイツへと旅立っていく。
快く送り出すのが我等の役目であろう。
鹿島で育んだ精神を世界で、ドイツで試して欲しい。
どこへ行っても、鹿島の篤人であった経験が支えてくれるであろう。
疾れ、風のように。
楽しみにしておる。

日本代表・内田篤人コメント

2010年05月30日 | Weblog
【国際親善試合 イングランド vs 日本】試合前日の日本代表選手コメント(10.05.30)
●内田篤人選手(鹿島)
「一生懸命にやるだけ、普段どおりに。
明日はどれくらいお客さんが入るんですか? ここは1万、2万人くらいは入るんですか?イングランドは近いんですか? アウェイというか、本番でもアフリカ勢のホームみたいになりますしね。アウェイは好きなので、人が入ってくれれば。スタンドも近いですし、雰囲気もいいんじゃないかと思います。外国人特有の応援がね。
ピッチは全然大丈夫ですよ。海外は…、日本の環境が良すぎるので。明日は晴れなんですかね? 急に雨が降ったり晴れたりするのでわかりません。
高地と言ってもボールが曲がらないなというくらいで、そんなにわからないですね。そんなにデリケートではないみたいです。
ここからもいつも通りですね。そんなに特別にしてもというか…。一生懸命にやって、ケアして、大きな特別な大会ではありますが、そんなに考えていないです。かしこまってということではないです。普段どおりでいいと思います。初めてですし、わからないですし。予想と想像でしかないですしね。
(ミーティングでは)みんな結構しゃべっていましたよ。おれはしゃべってないですが。大事なことではありますが、よくあると思います。そんなに雰囲気は悪くはないですよ。
(Q:ワールドカップに出た経験の話を聞く事は?)
ワールドカップに出たことのある人の話はやっぱ、おれなんかにしてみたら出た事ないですし、特別そういう目でワールドカップを見てきたわけではないので。もちろん、ドーハの…、も知らないですしね。子供の時でわからないですし、そういう人の道というか、1本のチームの行方というか、そういうのを示してくれればもっともっとやれると思います」


平常心を強調する篤人である。
ここは、奇を衒うことなくいつもどおりプレイすることが肝要である。
力の差は歴然、それ以上に指揮官の差は天と地とあっては、結果について議論する余地は無かろう。
篤人と岩政には良い経験を積んで欲しいと願う。
そして未来へ繋げるのだ。
北条の和田一族への仕打ちを見かね、三浦も北条討伐を決意するのだった。

興梠、宮崎に義援金

2010年05月29日 | Weblog
口蹄疫:幼稚園児やスポーツ関係者などから義援金 /宮崎
 口蹄疫の義援金は、幼稚園児やスポーツ関係者など26日も多くの人から寄せられた。

 ◇八幡保育園の園児ら、街頭で集めた義援金10万1037円寄付
 宮崎市宮田町の八幡保育園(杉田芳郎園長)は、園児たちが街頭に立って集めた義援金10万1037円を県庁の募金箱に寄付した。

 園児たちは17日から24日まで(土日を除く)の毎朝、県庁前で「みんなでおうえんしています」と書いた横断幕を持って募金を呼びかけてきた。

 「宮崎の牛さんと豚さんとヤギさんを助けてください」と大きな声で呼びかけると、思わず足を止めて募金する人の姿も。

 寄付した杉田園長は「子供たちには他人の痛みが分かる人間に育ってほしい」と話した。【中村清雅】

 ◇「イオン1%ク」が1000万円 アントラーズ選手会も
 流通大手「イオン」のグループ会社でつくる「イオン1%クラブ」は、1000万円を県に寄付した。東国原英夫知事は「温かい支援の輪が広がることが、農家のみなさんの支えになります」と感謝を示した。

 同クラブは、メンバー企業が出した税引前の利益の1%を使い、社会貢献活動に取り組んでいる。同社によると、県内にはグループ28店があり、店頭でも募金を行っている。同グループの原田昭彦委員長は「宮崎にはお世話になっており、協力したい」と話した。

 また、
Jリーグの鹿島アントラーズと選手会からも義援金が贈られた。所属する県出身の興梠慎三選手がチームを代表し、河野俊嗣副知事を訪問。個人としても、100万円の寄付を予定している興梠選手は「少しでも力になりたい。早く元気になってほしい」と県民にエールを送った。【蒔田備憲】

アントラーズ選手会と興梠慎三個人がそれぞれ宮崎に義援金を贈ったとのこと。
これは素晴らしい。
興梠としては、故郷の危機に何もせずにはおられなかったのであろう。
興梠は鹿島を引っ張る、押しも押されぬ主軸である。
日本を代表するFWでもある。
その選手がこの口蹄疫問題に関わるのは重要なことであろう。
この日本の大問題が解決することを切に願う。
鎌倉への謀反を企てた廉で和田平太胤長をはじめ、幾人もの御家人が囚われた。

篤人、練習中

2010年05月28日 | Weblog
[ SAMURAI BLUE(日本代表)スイス合宿 ]5/26(水)の模様

韓国戦を欠場した内田篤人(鹿島)も、練習に参加し笑顔を見せた。

代表の練習に合流した篤人である。
代表の不調とは裏腹に明るい表情と言えよう。
ところで、シャルケとの交渉はどうのようになっておるのであろうか。
篤人としては、自分のみの振り方がはっきりした状態になりたいであろう。
我等としても、鹿島に残る可能性が1%でも有るのであれば期待してしまう。
とはいえ、既定路線である移籍を覆すことは難しいと思われる。
鹿島の翼からブンデスリーガの翼となり、欧州で名を馳せて欲しいと願う。
楽しみにしておる。
北条時政は小四郎の手によって失脚し、執権にはその息子の小四郎義時が就いた。
時政はかつて頼朝と共に造り上げた鎌倉の町、数々の功績を打ち立て、二十四年を過ごした鎌倉の町を後にして伊豆へ下って行った。

山形・田代、ヘッド二発

2010年05月27日 | Weblog
田代2発!山形連勝2位浮上/ナビスコ杯

先制ゴールの山形FW田代(中央)は、笑顔で雄たけびを上げる
<ナビスコ杯:山形2-0浦和>◇26日◇1次リーグ◇B組◇駒場

 山形はFW田代有三(27)が、移籍初マルチ得点で浦和を下し連勝。2位に浮上し、決勝トーナメント進出に大きく前進した。

 降りしきる雨を切り裂くように、山形FW田代のヘッド弾が2度、ゴールネットに突き刺さった。前半38分、DF石川のピンポイント左クロスを長髪から水しぶきを上げながら先制ゴール。後半18分には、ゴール正面で待ちかまえたMF増田の右クロスをゴール右隅へ。歓喜の輪の中心で、背番号10が満面の笑みを浮かべていた。

 雷雨予報の敵地で、再び「カミナリ直撃」は、こりごりだ。5月15日のリーグ新潟戦。1-3と完敗した試合で小林監督の堪忍袋の緒が切れた。ハーフタイムにロッカー室でクーラーボックスを蹴散らし、試合後帰郷するバスの中でも「お前らバスから降りろ!」と、怒鳴り散らした。指揮官が名指しでダメ出しした選手の中に、田代もいた。

 得点後に気持ちが守りに入り、逆転負けした新潟戦の反省は忘れていない。ゴールの喜びよりも「雨が降っていたから、守備を集中しようとみんなで話した。全員が頑張った」と、守備での貢献度をアピール。2位浮上にも、浮かれた様子はない。「まだ途中なんで」。決勝トーナメントが決定する日まで、ゴールを決めまくる。
【山崎安昭】
 [2010年5月27日12時0分 紙面から]


山形田代2発!浦和に勝った/ナビスコ杯

先制ゴールの山形田代(左)は笑顔で雄たけびを上げる(撮影・山崎安昭)

<ナビスコ杯:山形2-0浦和>◇26日◇1次リーグ◇B組◇駒場

 山形が、J1昇格後初めて浦和に勝利した。立ち上がりこそ守備に追われたが、時間を負うごとに守備の連係が高まった。流れをつかむとサイド攻撃で決定機をつくり始める。前半38分にFW田代有三(27)が、頭で先制点を奪うと、後半18分にも田代がヘッドで2点目をゲット。田代は「ナビスコ杯で点を取ってなかったし、今日取れば決勝トーナメントにいけるチャンスが広がると思っていたので、絶対取ろうと思ってました」と胸を張った。

 [2010年5月26日23時35分]

山形、プラン通りの勝利に満足/ナビスコ杯
2010.5.27 01:39

浦和-山形前半、先制ゴールを決めて喜ぶ山形・田代(10)=駒場

 ナビスコ杯予選リーグ第4節(26日、浦和0-2山形、駒場)山形は2連勝で1次リーグB組2位に浮上。序盤の守備を集中するように指示した小林監督は「立ち上がりに攻め込まれたが、少しずつボールが持てるようになり、勝負できた」と満足そうだった。

 1-0で迎えた後半開始後も浦和の猛攻を受けたが、耐えて後半18分に貴重な追加点。2得点の田代は「みんなが守備で我慢してくれてチャンスが来た。2点ともいいところにボールが来たので決められてよかった」と誇らしげだった。



浦和-山形 前半、浦和・坪井(左)、平川(右)と競り合う山形・田代=駒場

[ ヤマザキナビスコカップ:第4節 浦和 vs 山形 ]

前半38分、アウェイの山形は石川からのボールを田代有三(写真左)が頭で決めて先制。田代は後半にもゴールを決め、この日2ゴールを奪う活躍を見せた。

[ ヤマザキナビスコカップ:第4節 浦和 vs 山形 ]

アウェイで浦和に2-0で勝利した山形。田代有三(写真)は2得点を奪いチームの勝利に大きく貢献した。勝った山形はBグループ2位へ浮上した。


ナビスコ杯で輝く田代である。
ヘディング二発で勝利に多大なる貢献をしておる。
我等が期待しておった活躍をしておる。
「得点力のある隆行」の異名は伊達ではない。
鹿島に於いても2006年の田代は爆発しておった。
その甲斐あって2008年には代表にも選出されておる。
このまま代表に定着しておれば、先日のような失態もなかったやも知れぬ。
今からでも、田代を呼んだ方が良いのではなかろうか。
その田代にボールを送ったのが石川と誓志である。
石川はともかく、誓志の覚醒も喜ばしい限りである。
レンタル組の活躍で、鹿島の選手も発奮するであろう。
あと10日の休暇を楽しみつつ、再開後に照準を合わせ気持ちを高ぶらせていきたい。
畠山謀反の讒言をした稲毛入道重成は、三浦義村の率いる軍兵に襲われ誅された。

誓志、故郷へ義援金

2010年05月26日 | Weblog
増田が宮崎県に義援金=J1山形
 J1の山形は25日、MF増田誓志が口蹄(こうてい)疫の被害を受けている宮崎県の畜産農家を支援するため、同県に100万円の義援金を贈ると発表した。
 増田は同県の出身。チームを通じ「一日でも早く被害が収まることを願っている」とコメントした。。

[ 時事通信 2010年5月25日 21:58 ]

増田が故郷の宮崎県に100万円寄付…山形

故郷の宮崎に100万円を寄付した山形・増田

 モンテディオ山形とベガルタ仙台は26日、ナビスコ杯1次リーグ第4節に臨む。アウェーで浦和と対戦(午後7時開始)する山形は、MF増田誓志(24)が口蹄(こうてい)疫被害に遭う出身地・宮崎県へ自ら100万円を寄付。試合での活躍と合わせて苦しむ故郷を勇気づけた。仙台はホームでF東京と対戦(午後7時開始)。MF太田吉彰(26)がプロデビューを果たした因縁の相手からゴールを奪うことを誓った。

 増田にとって一向に収束しない家畜伝染病問題は人ごとではなかった。「宮崎出身じゃない方が寄付していたのを報道で知った。自分がしないわけにはいかない」。被害を受けた知人こそいないが、生まれ故郷の苦境に心を痛めた。この日、クラブを通じて自ら義援金を贈ることにした。「試合に出て活躍するのも(励ます)一つの手。でも直接手助けしたい」と沈痛な面持ちで語った。

 試合で活躍する姿も地元を勇気づける。浦和戦では、持ち味の攻撃センスを存分に発揮できる2列目での先発が濃厚。「彼を生かせる方法」と小林監督も期待する。故郷愛で“赤い悪魔”から勝利を奪う。

(2010年5月26日11時31分 スポーツ報知)

山形へレンタルしておる誓志が出身地である宮崎県へ義援金を送ったとのこと。
誓志クラスの選手では中々出来ぬもの。
素晴らしい行為と言えよう。
隠し立てせずに申せば、我等が鹿島アントラーズも義援金を送っておる。
しかしながら、誓志に関しては個人で送ることに敬意を払いたい。
誓志というサッカー選手の、男の器を感じさせずにおられぬ。
その器を山形で開花させよ。
スケールの大きなMFとして日本を引っ張っていって欲しいのだ。
義時は、何の不義理もない畠山に謀反の濡れ衣を着せ、討伐すべく武蔵国に向かった。

篤人、サッカーをしたい

2010年05月26日 | Weblog
松井&内田がイングランド戦出場を志願

<日本代表練習>イングランド戦出場を志願した松井大輔(左)と内田篤人
Photo By スポニチ

 右ひざ痛のMF松井と左太腿裏痛のDF内田が、W杯南アフリカ大会に向けた日本代表の強化試合イングランド戦出場を志願した。

 ともにボール回しや対人練習などのフルメニューを消化。韓国戦後に京都時代のチームメートの韓国代表MF朴智星とユニホームを交換したという松井は
「きょう初めて(対人練習を)やったけど、だいぶいい感じでできていた」
と明るい表情。内田も「早くサッカーをしたい」と次戦を見据えていた。

[ 2010年05月26日 ]

イングランド戦に出場志願の篤人である。
日本の窮地を救おうと立ち上がったと言えよう。
しかしながら、時既に遅し。
この参上は一人の選手の力では改善されることは無かろう。
残念ではあるが、我等の目は既に2014ブラジルへ向いておる。
4年後を見据え、走り出さねばならぬ。
気持ちの切り替えこそ肝要なのである。
将軍・実朝の御台所として坊門信清の娘・音羽姫が輿入れしてきた。

イ・ジョンス、世界へ

2010年05月25日 | Weblog
国際親善サッカー 鹿島・李が韓国DF統率
日本・攻撃陣に仕事させず
 韓国代表の攻撃の中心がMF朴智星(マンチェスターU)なら、守備の中心は鹿島のDF李正秀(30)だ。センターバックで先発フル出場し、ほころびを見せず、日本の攻撃陣に仕事をさせなかった。
 前線でポジションチェンジを繰り返してくる日本に対し、中央の位置から落ち着いて対応。セットプレーは中沢のマークに当たり自由を与えなかった。クロスボールも確実にはね返すなど90分間、Jリーグ同様の安定感で後方を締めた。
 欧州で実績ある選手も多く、史上最強の呼び声高い韓国。前線には朴のほかFW朴主永(モナコ)らが並ぶ中、京都、鹿島とJリーグ挑戦2年目の李は「韓国の人たちには、Jリーグで戦っている選手は海外組ではない。それでもヨーロッパで戦っている選手たちに負けない気持ちでプレーしている」。伝統の日韓戦で見せた出色の出来は、心の内の強い自負にほかならない。
 韓国代表は本大会へ向け、来日メンバー26人を23人に絞る。「けがさえなければメンバーに選ばれるだろうと思っている」。既にW杯の大舞台が思い描かれている。



【写真説明】
日本-韓国 前半3分、空中で相手と競り合う韓国・李正秀=埼玉スタジアム


韓国代表の中心DFのイ・ジョンスである。
鹿島と同様の安定感で日本に仕事をさせず、完封に貢献した。
Jリーグでは高さと強さを見せつけるが、本来は速さと巧さの選手である。
技巧はDFとして世界に名を馳せよ。
楽しみなW杯が近付いてきた。

岩政、日々の努力

2010年05月25日 | Weblog
岩政大樹、代表を熱望し続けた結果の選出
5月24日 10時00分配信田中滋(スポーツナビ)
■執念でつかみ取ったW杯メンバーの座


頑強な体を活かした競り合いの強さが武器の岩政。周囲との連係でチャンスを未然に防ぐクレバーさも併せ持つ 【Photo:Getty Images】
 岩政大樹ほど日本代表に対する思いを正直に告白する選手は珍しい。代表に選出される以前から並々ならぬ意気込みでアピールを続けてきた。リーグ優勝したチームの中心選手である自負を背に「中澤さん、闘莉王に挑むのは自分」と常に公言、そして第3センターバックというポジションを射止めた。

 しかし、2010年2月の東アジア選手権の韓国戦では、田中マルクス闘莉王の退場を受けて急きょ出場した試合で、岩政はまったく持ち味を発揮することができなかった。
「いろんな人が難しい状況だったとかばってくれるけど、そういう場面で出場することを想定していたので言い訳にはならない」
 韓国戦から数日後、鹿島で囲み取材に応じた岩政は落ち着いて自分のことを振り返っていた。しかし、その心境に至るまでに、さまざまな葛藤を乗り越えてたどり着いたことは想像に難くない。岩政は韓国戦が終わった時、両ひざに手をつき深く深くうなだれていたのだから。ところが取材の場では愚痴や不満は一切口にせず、逆に自分と同じく代表から落選した選手の心情を気遣っていたのである。

 この時は、もう一度代表に呼ばれる自信がまだ、自分の中に残っていたのかもしれない。だが、その後の招集で声がかからないと、不安は徐々に大きくなっていった。
「正直言って、ちょっと前までは20~30%くらいの可能性だと思っていたのですが、最近ちょっとテレビや雑誌でいろんな評論家の方が僕の名前を書いてくれたりしていることがあって、自分の中でのパーセンテージが上がってきて50%に近づきました」
 とはいえ50%。不安な夜が続いたことだろう。その心境を岩政は正直に吐露した。
「何度か自分が折れそうになる時があって、もう努力を続けるのが嫌になりそうな時もあった。でも、いつかまたチャンスが来ると思って、そのいつかのために努力を続けることができた」

 弁が立つということもあり、どうしてもビッグマウスととらえられてしまう岩政。おのずと批判を浴びることも多かった。同時にそれは「そんなの無理だ」「できるわけがない」という声となり、努力を妨げることにつながる。そのなかで、己を信じ続けることがどれだけ困難なことかは想像もつかない。だが、岩政は自分を信じることをやり遂げ、再び代表にまでたどり着いたのである。

「年齢順に呼ばれると思っていたので、今ちゃん(今野泰幸)の名前が出た途端、もう僕の可能性はないと思っていました。もうないと思った瞬間だったのでビックリしました」と、その瞬間の思いを語る。
 代表発表前日、“みそぎ”を行ったというのも、いかにも岩政らしい。
「僕は当落線上にいた人間。昨日は発表前日でもありましたが、最後まで自分で努力したいと思って、午後は休みだったのですが、いつも以上にハードな自主トレをして今日を迎えようと思っていました」
 代表の常連である内田篤人がしれっとしていたのに比べると、岩政は満面の表情でうれしさを隠し切れない様子だった。
■人とのつながりを大事に、W杯へ
 岩政大樹は、山口県大島郡周防大島町の出身だ。周防大島は淡路島、小豆島に次ぎ瀬戸内海で3番目に大きい島である。とはいえ、人口は2万人を超える程度。会う人会う人、必ずあいさつをする風土がある。それを当たり前と思い育ってきたため、島外にある岩国高校に通い始めた時も同じように振る舞った。しかし、返ってくるのは奇異なものを見る視線ばかり。その時は「なんて冷たい人たちなんだ」と思ったという。試合後には詳細な分析を施し、数学の教員免許を持つことから“理論派”というイメージの方が強いが、人とのつながりを大事にする周防大島で育った事実は彼に大きな影響を与えている。

 また、東京学芸大から鹿島アントラーズというルートを見ると、サッカーエリートのように感じるが、決してエリートではない。むしろその真逆とも言えるだろう。小学校から高校まで指導してきた先生や実兄の剛樹さんが共通して話すのは「とにかくサッカーが下手くそだった」ということだ。
 だが、下手くそだったことが生来の負けず嫌いに火をつけたのも事実。努力の積み重ねが岩政をプロまで導いた。現在でも、スピードが弱点であることを強く認識し、オフには横綱白鵬を訪ねて研鑽(けんさん)を重ねる。個人トレーナーを雇い入れ、体の軸がブレないことがすばやく動く秘訣と考え、普段からそのためのトレーニングを欠かさない。鹿島でも全体練習後に、独自の筋トレを行う姿がよく見られる。
 さまざまな要素が絡み合って今の岩政大樹を形作っているが、代表での経験は新たな一歩となるかもしれない。

「僕は必ず試合に出られるという選手でもないと思うので、チームの雰囲気が一体となれるように、チームの一員として練習の取り組みの姿勢から頑張っていきたいと思います」
 岩政はこのように公言した。つまり、代表23人の中での役割を理解し、その役目を全うすることを宣言したのだ。これまで岩政は、周囲と選手たちとの連係を大切にすることで守備組織を構築してきた。鹿島でポジションを取ったときは、大岩剛のサポートを受けて自分のやりたいような感覚に合わせてもらい、その後、内田篤人や伊野波雅彦と組んでからは、自分の感覚を彼らに伝えすり合わせる作業を何度となく行ってきた。そうやって意思を統一することで、クラブチームでは安定的なパフォーマンスを発揮してきたのである。
 しかし、代表チームでは岩政の個性に周囲が合わせるのではなく、岩政が周囲に合わせなくてはならない。その感覚がつかめないまま終わってしまったのが、代表を外れるきっかけとなった2月の韓国戦だったのだ。今度こそ、同じことを繰り返さないようにしなければならない。そして、そのことは岩政を大きく成長させるはずだ。

 数年前から契約している個人トレーナーからは、当初「メッシくらいなら止められるはず」と励まされてきた。ただし、それはメッシがまだまだ売り出し中だったころの話。ストライカーとして覚醒(かくせい)した今となっては、「ちょっと無理かも」とトーンダウン。それを聞いて、岩政も笑っていた。ただ、彼が目標としているのはそのレベルの選手たちと対等に戦うということだ。
「日々の努力というのは、決してW杯のためだけにやってきたのではなく、毎週毎週の試合、鹿島で結果を出すためのもの。ただ、その延長線上に世界と戦うということを意識してやってきました。もちろん、この後もサッカー人生は続いていくんですけど、あまり先を見ていても仕方ないので、常に自分の前にある結果に対して、まずW杯で結果を出していきたいと思います」

<了>
岩政大樹
Daiki IWAMASA [鹿島アントラーズ] DF
1982年1月30日生 187cm/76kg
・前所属チーム:岩国高-東京学芸大
・Jリーグ初出場:2004/04/04 2004Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第3節 鹿島(vs名古屋@カシマ)
・Jリーグ初得点:2004/06/19 2004Jリーグ ディビジョン1 1stステージ 第14節 鹿島(vs磐田@カシマ)


提供:ISM

田中氏のコラムである。
岩政について語っておる。
とはいえ、これまでの記事の集大成であり、新しい情報は少ない。
〆の岩政のコメントのみと言っても過言では無かろう。
しかしながら、このコメントには重みがあり、今後の彼のサッカー人生を象徴しておると言えよう。
一つ一つ積み重ねることの重要性を説いておる。
我等も岩政を見習い、日々を一つ一つ積み重ね、大いなる目標を成し遂げたい。
結果は後世の歴史家に語らせればよいのである。

イ・ジョンス、定位置を狙う

2010年05月24日 | Weblog
サッカー:鹿島・李&京都・郭、韓日戦でアピールなるか
センターバックで早々に「合格」の趙容亨、コンビを組むのは?
 24日に行われるサッカーの韓日戦は、代表DF陣にとっては貴重な実践の機会となる。「ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会のギリシャ戦(6月12日)までに、強化試合は3試合しかない。これからはベストメンバーでDFの組織力を完成させなければ」と関係者は口をそろえる。許丁茂(ホ・ジョンム)監督も、FW陣では多様な組み合わせを試すが、DFの方は連携プレー自体を完成させていきたいとの思いがある。

 センターバックは趙容亨(チョ・ヨンヒョン)=済州=がメーンとなる。趙容亨は許監督の就任後、最多となる30試合に出場し、4バックの真ん中の席を早々に確定した状態だ。2008年10月のアラブ首長国連邦(UAE)戦で相手FWに球を奪われ1点を許すなど、ミスも何度かあったが、W杯が近づくにつれ安定感が増している。

 許監督は、趙容亨について「クレバーな頭脳プレーでピンチを防げる選手」と評価。すでにレギュラーの座が約束されたようなものだ。

 センターバックで趙容亨とコンビを組むDFとして、李正秀(イ・ジョンス)=鹿島=と郭泰輝(クァク・テフィ)=京都=が激しいライバル争いを繰り広げている。これまでのところ、趙容亨-李正秀のコンビの方が結果がいい。許監督就任後、趙容亨-李正秀コンビは12試合で5失点(1試合平均0.4失点)、趙容亨-郭泰輝は5試合で7失点(同1.4失点)という成績だ。李正秀はスピードが、郭泰輝は空中戦に強い点がそれぞれ評価されている。

 左サイドバックの李栄杓(イ・ヨンピョ)=アル・ヒラル=も韓国DF陣の要だ。2002年、06年と2大会連続でW杯に出場した李栄杓は、豊富な経験とずば抜けた実力で、DFの中心的役割を担う。

 一方、右サイドバックの座をめぐっては、呉範錫(オ・ボムソク)=蔚山=と車ドゥリ(チャ・ドゥリ)=フライブルク=がしのぎを削る。どちらが本大会行きの切符を手にするのか、韓日戦での出来次第で運命が分かれそうだ。


さいたま=チャン・ミンソク記者
朝鮮日報/朝鮮日報日本語版


韓国代表のレギュラーを狙うイ・ジョンスである。
スピードの有るCBとして世界に名を轟かせて欲しい。
鹿島が誇るアジアの壁として羽ばたくのだ。
期待しておる。

J'sGOAL4月期MIPは田代

2010年05月23日 | Weblog
J1 4月度 J'sGOAL月間MIP(5月14日発表)
山形は初めての移籍先。そのフィット感が心配されたままシーズンインした田代有三選手が存在感をフルに発揮し始めたのが4月だった。リーグ4戦3勝。4月に挙げた3得点すべてが決勝ゴールとしてチームを勝利に導いている。

この時期の田代選手のゴールで特徴的なことがある。1つは、拮抗した試合でたたき出しているということ。1-0と勝利した第5節・広島戦では74分、2-1と逆転した第8節・京都戦のゴールはロスタイム。ここ一番での勝負強いゴールは、味方を勇気づけ、相手に大きなダメージを与えた。
2つ目は、山形らしいオートマチックな流れから生まれていること。広島戦の得点はGK清水健太選手からのビルドアップで全体を押し上げ、最後はクロスに飛び込んだ。昨年の山形ではよく見られていた得点パターンだったが、そのフィニッシャーとして田代選手がしっかりと役割を果たした意味は大きい。3月最後に古巣・鹿島から挙げた移籍後初得点は増田誓志選手との2人の関係でつくったものだが、この広島戦のゴールこそ、山形のエースとして名乗りを挙げた瞬間だった。
3つ目としては、3月の鹿島戦のゴールも含めた4得点すべてが右クロスからの得点であること。これはサイドハーフを中に入れてサイドバックを押し上げる今季のチーム戦術が表れた形だが、特に右サイドバック宮本卓也選手との相性がいい。宮本選手のクロスはけっして速くはないが山を越えてピンポイントで落ちてくることで、得点シーン以外でも空中戦を得意とする田代選手が合わせるケースが多い。また、利き足の右足をそのまま振り抜けるという部分でも右からのクロスが得点につながっている面もあるようだ。 シーズン当初は、昨年までの山形の戦い方と、自らの特長である高さや飛び出しといったプレースタイルの狭間で思うようなプレーができずに苦悩する日々が続いた。しかし、そこで自分のエゴを前面に押し出すことをせず、山形の戦術やスタイルを理解しようと、チームメイトとコミュニケーションを取ったり昨年の試合映像を観るなど、地道な努力が実を結んだ。田代選手のゴールでチームが蘇生し、田代選手自身も自信を得て存在感をさらに増す。好循環のなかで生まれたのが4月の3得点だった。
得点以外の部分でも、ロングボールに競り勝つことで高い位置で起点をつくれるなど、昨年にはないストロングポイントをチームにもたらしてもいる。
田代選手のいない山形は、もう考えられない。

Reported by 佐藤円

山形へレンタルしておる田代有三がJ'sGOALの4月期MIPに選出されておる。
田代の実力を考慮すれば当然と言って良かろう。
高さばかりがクローズアップされる田代であるが、得点力の方に注目すべき選手なのである。
中心選手としてチームを組めば必ず結果を残すと信じておった。
このまま得点を重ね、来季は鹿島への帰還を果たして欲しい。
しかしながら、山形としては田代抜きのチームは考えにくかろう。
ここは田代の悩みどころである。
じっくり悩んで結論を出すが良い。
我等は田代の考えを尊重するであろう。
共に有るか袂を別つか、運命の分かれ道である。

変わらぬ篤人

2010年05月22日 | Weblog
「普段通り…」内田篤人は笑って言った
2010年5月22日

<内田篤人:取材後記>

 イケメンで日本代表のレギュラー、鹿島ではリーグ3連覇に貢献。世の中がうらやむ状況にもかかわらず、内田篤人(22)は素朴な部分を変えずに歩み続けている。「普段通りです。それが大事だと思います。変わったって言われるのは嫌ですからね」と笑顔を浮かべる。
 07年夏のこと。田方FC(現田方トレセン)が茨城県鹿嶋市に遠征をした。恩師の佐藤文昭氏は、その時のことを回想する。「1時間ほど予定より早く鹿嶋市についたので、アントラーズの練習を見に行くと、篤人がいた。だから、頼み事をしたんですよ」
 頼み事と言うよりは「命令みたいなものです」。暑い中で小学生が試合をするため、ペットボトルの水を近所のスーパーで買いそろえるように内田に依頼したのだ。すると、午後の試合前に、内田はひょっこりと試合会場に現れ「佐藤先生、子供を何人か借りていいですか? 水を運びたいので」とにこり。マイカーに大量の水を詰め、恩師からの「命令」を実行したのだ。

 佐藤氏 その当時から既に有名選手でしたから、周りのチームの親はビックリ。内田選手がなんで田方FCに水をもってくるんだって大騒ぎになりました。でも、篤人はその騒ぎの中、ウチのチームのベンチにも入ってくれた。『お世話になりましたから』なんてことを言っていたけど、彼らしいと思いました。

 有名になっても、人気が出ても自分を見失わず、マイペースを貫ける力。普段着の姿を忘れない限り、内田は着実に成長をしていくだろう。
【菅家大輔】

日刊スポーツで鹿島を担当する菅家氏のコラムである。
篤人の人柄が垣間見られる逸話を紹介しておる。
お世話になった恩師への恩返しを忘れることはない篤人。
我等を惹き付ける魅力はプレイだけでなくこういった振る舞いから溢れ出てくるのであろう。
鹿島を離れドイツへ行って、更に選手として人間として成長していって欲しい。

現時点では鹿島の内田篤人

2010年05月21日 | Weblog
シャルケ内田「もし戻るなら鹿島に」断言
 ドイツ・ブンデスリーガのシャルケへの移籍が確実な日本代表DF内田篤人(22=鹿島)が、将来的に日本に復帰する場合は鹿島に戻る意向を示していたことが、20日分かった。これまでの移籍交渉の過程で鹿島側に伝えていたことを、鹿島関係者が明かした。

 鹿島側もリーグ3連覇に貢献した右サイドバックの新天地での成功を期待している。その上で、同関係者は、万が一と強調しながらも「もし日本に戻るようなことがあれば、鹿島でと言ってくれている」と明言した。左太もも裏炎症で16日のリーグ名古屋戦を欠場した内田は、20日まで休養。21日、日本代表合宿に参加する。

 [2010年5月21日8時41分 紙面から]

既に「シャルケ内田」と報じられる篤人である。
確実とはいえ、内田篤人は現時点では鹿島の所属選手である、このような扱いは避けて欲しいところ。
我等としては、篤人に対して特別な思いもある。
メディアはこういった気持ちを踏みにじるような行為をしてはならぬと言えよう。
その気持ちを汲んだのか、篤人自身は「日本に戻るのであれば鹿島」と明言したとのこと。
このようなリップサービスも嬉しいものである。
しかしながら、海外移籍をチャレンジと位置付けず、ステップアップと考えて欲しい。
だからこその完全移籍なのである。
日本へ戻ってくるようなことなど無いと言い切って良い。
その方が後ろ髪引かれることなく、気持ちを吹っ切れるのである。
ドイツで成功せよ、更なる高みへ駆け上がれ。
遠く日本の地から影ながら応援したい。