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遺族が言う「無罪はありえない」という主張

パロマ工業元社長ら無罪主張=「改造で事故予測できず」-CO中毒死・東京地裁(時事通信) - goo ニュース

身も蓋も無い言い方をすると、遺族は感情でモノを言っている訳で論理的でない、と思う。明らかな殺人犯を目の前にしてもだ。無論私がその立場に立てばそうなると思うし、そこまで冷静になりたくない。

医療事件(あえて事故とは呼ばない)ではそのような傾向が色濃い。例えば福島の胎盤癒着に対する処置であるとか、割り箸が刺さった時の処置とか。遺族が悪いと言っているのではない、裁判のキモが過失が有るか無いかなのに、遺族が「過失を認めて謝る」のは当然だと言う態度に違和感があるのだ。そして裁判の結果無罪であったり敗訴しても、さも過失が有ったにも関わらず不当な判決なごときの報道は世論操作では無いかと思えるほどだ。遺族がどう思おうが事実と判決が妥当であった場合、被告や被告人は事実上人生を棒に振る。遺族の感情の論理を表明するのには違和感は無い、報道が脚色すればするほど現場は萎縮する。

遺族に自制しろとは寸分も思わない、裁判をしても良いであろう。さらに判決を受け入れられなくても仕方が無いであろう。彼らは論理で行動しているわけでは無いのだから、感情の行き場が間違ったりすれ違ったのであろう。それはそれでいい。

何故それを「遺族が不幸」として報道する必要があるのか。その究極的なのは刑事事件の量刑を遺族が言及した事件(光市母子殺人事件等)である。もちろん遺族が不快感を示すことに異論は無い。しかしそれをセンセーショナルに煽る必要も無い。マスコミは視聴率と言うか顧客重視が徹底しているのでそのような行動にインセンティブがあるとしたら、被告や加害者はマスコミを訴える権利があるのかもしれない。

であればマスコミが遺族に焦点を当てるのは、煽り行動だと非難されてもおかしくない。マスコミが顧客至上主義で、事実関係を偏り無く伝えることが出来ないのであれば被告や被告人はきちんと訴えて頂きたいものだ。遺族の感情を尊重するのは結構であるけれども失われた人権にもそれ相応の配慮をしてほしいと感じる。

話を戻すと遺族は当然マスコットと理解して自分の主張を述べているのであろう。そしてそれは客観的ではないことは明らかだ。遺族の主張は主観的であると言うことを忘れてはいけないのだ。

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