今、日経新聞の「私の履歴書」で山本耀司さんが語っている。
今日で12稿目だが、ちょっと感動して泣きそうになった。
私が前勤めていた会社には制服があった。総合職として入社した私は本来制服はないのだが、新人の頃、一時窓口業務を担当していたので、短いながら制服の期間があるのである。
私が最初に着た制服は、正直、全然似合わなかった。今より30キロ以上軽い体重で、スリムだったあの頃でさえ、筋肉質で腕は太く(ま、高校時代に細腕と言われて頭にきて大学4年間剣道をやって太くしたのではあったが)、胸板も厚かった(当時の課長談。空手もやってたからね)のであるが、私の自慢の太腕と胸板の厚さが全く生きず、ただキツそうに分厚く見えるだけであった。(なので、男子が職場や寮祭などの出し物で着るために、私の制服を貸してくれとよく引き合いがあった。着てるのを貸し出して、クリーニングして返してもらったことも。)
で、ある時、急に制服が変わったのである。みんながワイズとか言ってた。ワイズ? 太いの? ファッションブランドに全く興味のない私の耳に初めて入ってきたヤマモトヨージとワイズなる言葉。しばらく覚えられなかった。同じ職場にスズキヨウイチという後輩がいたからな。間違ってスズキヨージを言いそうになったことも何度か。
その新しい制服はズボンとスカートのどちらかを選ぶことが出来、希望者は靴も買うことができた。私は雰囲気を変えたかったのでズボンを選択。靴も買ったのだが、その靴はどう見ても紳士靴。後年、日常的に紳士靴を履くようになる切っ掛けになった。
ズボンとペアの制服を着て、紳士靴みたいな靴を履くと、まるでタキシードみたいな雰囲気になるのがワイズの新制服。短足な私でもちょっと足が長く見えるデザイン。新制服になってしばらくして、窓口の外でちょっとした作業をしていたら、ロビーのお客さんが私の肩をポンと叩いて声をかけてきた。「似合うね〜!」と。別に私のお得意さんというわけでもないのに、窓口にいたから覚えられてたんだろうか。というか、前の制服があまりにも似合わなかったということなんだろうか。
また少し前に転出されていた別のGrの課長さんが、所用のために一瞬戻ってこられて、私の制服姿を見て、「わー、あなたのためにできた制服なんじゃないの?」と。ほとんど喋ったことのない方にそんなことを言われてびっくり。これは、よほど前の制服が合ってなかったわけだな。
ということで、新制服さまさまだったのだが、もう男子から「芸で使いたいので制服を貸してください」と言われることは無くなった。
・・で、今日の「私の履歴書」とのつながりだが、山本耀司氏は、幼い頃に父を戦争で亡くし、母は文化服装学院に通って技を身につけ、歌舞伎町で小さな洋装店を開くことで収入を得、山本耀司氏を育てたのである。耀司氏は慶応大学に進学するが、そこから一般企業に就職する道ではなく、母と同じ服飾の道を選ぶのだ。文化服装学院のデザイン科へ行き、装苑賞を取り、パリにも遊学。戻ってきて母の洋装店を手伝いながら、ある疑問に苛まれるようになる。店が歌舞伎町にあったこともあり、来店客の多くはバストやヒップの膨らみを強調するセクシーな洋服を注文してくるのだ。接客のたびに「ここを詰めてくれ」みたいな直しの要求に応えるのが辛かったらしい。お金を払うのはいつも男性。男目線から愛玩され寵愛されるための婦人服に、耀司氏は嫌気がさしてきたのだという。耀司氏は、戦争で父を失い、女手一つで働く母の背中を見て育ったので、男性に都合の良い社会そのものに疑問を持ったのだ。「女性にもっと男らしい洋服を着せたい。働く女性が自分のお金で自分のために買う意地のある洋服を作ってみよう」と思って立ち上げたのが「ワイズ」だったのだ。
そうか・・・私が似合うと言われたあの制服が生まれた背景にはそんな物語があったのか。耀司さん、ありがとう。素晴らしい。
だが、その制服経験は後年、私がワイズではなく紳士服&紳士靴で出勤することにつながってしまったので、耀司さんに恩返しできていないのであるが、ファッションブランドというものは、それぞれに立ち上げの背景や強い意思が存在するのだということを、改めて感じた。あの有名なシャネルもヨーロッパ女性からコルセットとバルーンスカートから解放したくて作られたブランド。でも創設者のココ・シャネルは女性でしょ。山本耀司氏は男性。自分の母が苦労しなければならない不条理さを、男性の目線でもしっかり感じていたのだということに感動した。