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音楽全般について 素人臭い能書きを垂れてます
プログレに特化した別館とツイートの転載もはじました

BOB JAMES / Three

2005年12月07日 21時26分58秒 | JAZZ-Fusion
 前作「2」の翌年、つまり1975年に制作されたボブ・ジェームスのCTIでの第3作。前作までの目玉になっていたクラシックのアダプテイションが姿を消し、ややサウンドがスリムになったかわりに、ファンキー色が出してきているあたりが特色のアルバムだ。

 ファンキー路線の楽曲としては、「One Mint Julep」「Storm King」、そして名曲「Westchester Lady」あたりがそれに該当すると思うが、いずれもファンキーの下世話さ、アーシーな野趣みたいなところには目もくれず、ひたすらリズムのおもしろさをフュージョン的に翻案することに腐心しているのは、いかにもボブ・ジェームスという感じ。ギクシャクしたリズムにのっかって、ボブ・ジェームスがエレピが軽快にソロを決めるあたりは、昔聴いた時より現在聴いた方がはるかにおもしろい。ボブ・ジェームスがエレピって、意外とアブストラクトというか、とりとめないフレーズを組み合わせて、けっこう独特なソロを展開していたりしたことを今頃になって発見した。

 一方、クラシックのアダプテイションのかわりに用意されたのが「Women Of Ireland」というトラッドを基にしたらしいナンバーで、後年の「羊飼いの歌」と共通するような素朴な旋律をベースにゆったりと進行後半はストリングスが加わって雄大な広がりを見せるあたりはアルバムでも有数の聴き所となっている。オーラスの「Jamaica Farewell」は、パンフルートが奏でるトラッドな旋律と思い切り上品なレゲエのリズム交錯するなかなかユニークな作品。
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ホブ・ジェームス/2

2005年12月03日 01時14分07秒 | JAZZ-Fusion
 ボブ・ジェームスで一番最初に買ったアルバムがこれ。多分、20代初頭の頃だったように思う。よく覚えていないのだけれど、当時のボブ・ジェームスは自らの主催するタッパン・ジーというレーベルから「タッチダウン」、「ラッキー・セブン」、「H」といった大ヒット作を連打していた時期で、モダンでポップなフュージョンでもって人気者だったから、きっと「今をときめくボブ・ジェームスのCTI初期の作品」みたいな感じで購入したのかもしれない。ともあれ、そうやって購入してきたボブ・ジェームスの初期の作品を一聴して感じたのは、「ちょいと古くさい、泥臭い」みたいな印象であった。昔の作品とはいっても、たかだか数年前のものではあったのだが、明らかに音楽の質感というか手応えみたいなものが違っていたのである。

 CTIレーベルでのボブ・ジェームスは「ツァラトゥストラ」を大ヒットさせたデオダードの二番手のような位置づけでデビューしたとはずだ。この時期に彼が出したアルバムはどれもクラシックの有名曲をジャズ・オーケストラ風なサウンドにアダプテイションした作品を目玉に、歌物をセンス良いフュージョン風インストアレンジしたナンバーを並べた....といった体裁で、「ツァラトゥストラ」ほどではないにしても、ムソルグスキーの「はげ山の一夜」を収録したデビュー作はけっこうなヒットをしたし、このアルバムでもビゼーの「フェランドール」とポール・サイモンの「夢のマルディ・グラ」はハイライトになっている。くだぐた書いているけれど、何がいいたいのかというと、要するにこの時期のホブ・ジェームスはCTIの総帥であったクリード・テイラーの意向に忠実な音楽を作っていたんだろうなということ。

 結局、CTIを抜けたボブ・ジェームスは、クラシックのアダプイション路線は止め、編成をどんどんスリムにして、ポップでキャッチーな方向へ進んでいき、時を同じくして一時代を築いたCTIサウンドは少しづつ古びたものになっていった。私は丁度そういうプロセスでこの作品を聴いたので、前記の「ちょいと古くさい、泥臭い」みたいな印象を感じたのだと思う。ところが、それから四半世紀も時間が経ち、当時とてもモダンに感じたタッパン・ジーというレーベルの音も、ひとつの時代の音になってしまった現在、むしろ私にとって新鮮に聴こえるのはCTIの作品だ。しかも当時は歯牙にもかけなかった5曲目「You're As Right As Rain」や6曲目「Dream Journey」あたりの思い切り上品なソウル風インストといった趣の作品がやたら心地良く感じたりするのは、ここでも何度も書いていることだが、年月の流れの妙というものだろうか。うーん、おもしろい。
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RETURN TO FOREVER / Hymn of the Seventh Galaxy

2005年11月25日 18時47分34秒 | JAZZ-Fusion
 前作からほどなく、同じ73年に発表されたリターン・トゥ・フォーエバーの第3作。メンバーはヴォーカルのフローラ・ブリムとジョー・ファレルが脱退し、彼らの後任は迎えず、そのかわりにビル・コナーズのギターが加わった形で、あくまでも再編されたバンドとなっているあたりがミソか。音楽的にはギターが入ったことから分かる通り、前2作に比べ大きくロック色が前面に出され、前作で強まったスピード感も大幅強化という形で、このアルバムくらいになると、ほぼ現在でも通じるフュージョン・ミュージックの直接の始祖という感じである。

 ジャズ関係の本など読むと、スクウェアなジャズ・ファンだとリターン・トゥ・フォーエバーというとこのアルパムで見捨ててしまったという人が多いらしい。さもありなんとは思う。なにしろ、このアルバムのロック的なエッジの切り立った感じ、ゴリゴリ感はやっぱ、ジャズの語法からするとかなりエキセントリックには違いないだろうし、前2作からの急激な変貌振りも日和ったと見られたのだろう。私のようなロックを聴いて育った人間などからすると、例えばマハビシュヌなどより、こちらの方が遙かにロック的下世話なパワー感のようなものを押さえていると感じすする分、おそらく向こう側(ジャズ側)から見れば、「こりゃもうジャズじゃない」ということになるんだろうと思う。

 収録曲では、3曲目の「Captain Senor Mouse」がまずは全6曲の中でも筆頭にくるべき名曲だろう。スペイン風な情緒を感じさせるテーマを持ちつつも、強烈なスピード感とロック的なリフを織り込んで一気呵成に進んでいく様はなかなか痛快だ。4曲目の「Theme to the Mothership」は入り組んだ変則的なリフを縦横にバンドが乗り切っていくあたりは、いかにもジャズ・ロック的なおもしろさだ。ただし、このあたりなるともはや前2作の音楽の面影ははほとんどなくなっているのもまた事実。5曲目の「Space Circus」はパート1こそ、スペイシーなエレピをフィーチャーして、前作までの浮遊感をちらっと思い出させてくれるが、パート2はポップでファンキーなインスト・チューンになってしまうし、ともあれ第1作の詩情に感動した人なら、これが同じバンドの音かと、落胆しそうな曲のオンパレードであることは待ちがない。

 ちなみギターのビル・コナーズは本作だけで、次からはかのアル・ディ・メオラにスウィッチしているが、ディ・メオラのような壮絶な早弾きこそはないものの、ホールズワースに相通じるようなウネウネ感とロック的にソリッドなフレージングはなかなかのもの。ディ・メオラもいいがコナーズもこのバンドでもう一作くらい作っても良かったと思う。ともあれ、本作以降、リターン・トゥ・フォーエバーはこうしたジャズ・ロック路線を突っ走っていくことなる。
 
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RETURN TO FOREVER / Light as a Feather

2005年11月24日 13時53分47秒 | JAZZ-Fusion
 前作に続くリターン・トゥ・フォーエバーの第2作(73年発表)。こちらは名義の上でもリターン・トゥ・フォーエバー名義となっているが、バンド・メンバー等に異動はなく音楽的にもほぼ延長線上にある。ただし、前作のような混沌とした浮遊感のようなものは、前作の「ラ・フィエスタ」で開陳したスポーティーなスピード感にとって代わられているという感じだし、全体にポップなまとまりのようなものを指向しているのも随所に感じられる。

 なにしろ1,2,4曲目という約半数のナンバーがフローラ・ブリムのヴォーカルをフィーチャーした作品なのである。これらの曲では、前作でかなり前面に押し出されたいてエレピは、ほぼヴォーカルの背後に回っているし、前作のような曖昧模糊したムードというよりは、よりまっとうなジャズ的なフレージングになっているのは注目される。ジョー・ファレルのフルートやサックスなど、まるでAORのようなフレーズを吹いたりしているのだ。
 また、名曲として知られる3曲目「Captain Marvel」はこのアルバムでのバンドの様変わりを象徴するようなスピード感溢れる作品。もっとも、その後このバンドが残していく作品群のスピード感らに比べれば大したことはないが、それでもこのテクニカルさ、チック・コリア流の鞭がしなるような敏捷さなど、このバンドのその後を明らかに予見していたと思う。
 ラストの「スペイン」は問答無用の名曲。前作の「ラ・フィエスタ」に双頭するおおとりに控えたハイライト曲だが、冒頭にアランフェス協奏曲を持ってくるなど、大衆受けする趣向はあるし、「ラ・フィエスタ」のようなくどくど旋回していくような構成ではなく、スペイン情緒溢れる旋律を生かした、比較的ストレートな構成でコンパクトにまとまっている点もわかりやすいため、名曲然としてたたずまいはこちらの方が上という感じもするが、いかがだろうか。
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CHICK COREA / Return to Forever

2005年11月23日 13時52分25秒 | JAZZ-Fusion
 チック・コリアが出した1972年の作品。厳密にはチック・コリア名義だが、一般的にはリターン・とぅ・フォーエバーの第1作ということになると思う。この作品、60年代後半に延々と続いた不毛なフリー・ジャズの試行錯誤に終止符をうった一種エポック・メイキングな作品ということでも知られていて、例のカモメのジャケットとその清澄な音楽でもって、ジャズの新時代を高らかにうたいあげたということになっているのだ。私がレコードを買い始めたのは1972年のことだけれど、確かにこのかもめのジャケットは私の済んでいた田舎のレコード屋でも目立つところにディスプレイされていたし、実際音楽を聴いても、ジャズ的にしてはやけにさわやかな音楽というイメージがあったように記憶している。

 私がこのアルバムをきちんと聴いたのは多分80年代の真ん中くらいだったと思うのだけど、その時の印象はそれまでもっていたイメージとはかなり違っていて、まぁ、さわやかとには違いないけれど、同時に妙に虚脱したような浮遊感と混沌が入り交じったような雰囲気が前半には濃厚に漂っていて、要するにフリー・ジャズの呪縛のようなものが、まだまだ残っていたのだということだった。特に1曲目のタイトル・トラックのフローラ・ブリムのスキャット・ヴォーカルなど、よくよく聴くと後半など夜叉の如き激しい表情を見せるし、バンドの演奏もかなりフリーな要素をかかえていると思う。
 ともあれ、そうした浮遊感とか混沌とした要素は不思議なことに曲を進めるにしたがって徐々に消えていき、ラストの名曲「ラ・フィエスタ」で一掃されてしまうように私には聴こえたのだった。この曲では前述の要素に代わってコリアお得意のスペイン情緒とスピード感がフィーチャーされていて、まさにこの曲に至ってフリー・ジャズ的な混沌とは完璧にオサラバした新しい次元にバンドが突入したという感じがしたものである。

 さて、今回、これを書くために改めてこのアルバムを聴いたところ、このアルバムの混沌とか浮遊感というのは、フリー・ジャズというより、むしろマイルス「びっちず・ブリュウ」あたりの無国籍なエスニック・サウンドの影響かな....という気もしてきた。あと、なんとかなく古くさい感じがしないでもなかった、エレピの音色やファレルのフルートなども、時代が完全に一回りしたせいか、現在では非常に新鮮にきこえたもの発見だった。ついでに書くと、やはり私にはこのアルバム、ラストの「ラ・フィエスタ」が登場するを、未だか未だかと待っているアルバムである。そのくらい私にとってこの曲は光輝いている曲なのである。時代によってアルバムに収録された音楽に対するイメージはかわったが、はこのことだけは30年以上たってもかわらない。
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マクラフリン with シャクティ/ハンドフル・オブ・ビューティ

2005年11月21日 15時11分29秒 | JAZZ-Fusion
 76年に発表されたマクラフリンとシャクティの共演第2作。前作は即興性を重視したライブ・ハフォーマンスを収めていたが、本作はスタジオ録音ということで、曲はどれも比較的コンパクトだし、曲毎に盛り込むべき内容を明確に絞り込んだような内容になっている。おそらくライブで即興的に現れた「使える部分」をバラしてこのアルパムにしたのだと思うが、おそらく両者にとって共演した鮮度がまだ充分に保たれている時期だったのだろう。いずれの曲も、スタジオ録音らしいととのった仕上がりにはなっているが、優等生なバランスにだしてしまうことなく、かなり高いテンションが保たれているのは素晴らしい。

 特に1曲の「歓喜の舞踏」は、冒頭の声のよる掛け合いの後、いきなり怒濤のテンションでインタープレイが繰り広げられ、筆舌に尽くしがたいスリリングさがあるし、3曲目の「インディア」や5曲目「イシス」といった長い曲では、静と動を対比しつつ、次第に緊張感を増していく構成をとっており、派手ではないが緊密なインタープレイは聴くほどに味わいがあって素晴らしい。こういう部分はある意味、マハビシュヌ・オーケストラのコアな部分を凝縮している趣もあり、全体に前作ほどあからさまにインド音楽っぽいところもやや薄れ、その後のスーパー・ギター・トリオなどとも共通する、ジャズの境界線線上に位置するような、マクラフリン流のアコースティック・ミュージックの青写真が、そろそろ出来上がりつつあることも感じさせたりする。

 ついでに書けばこのアルバム、録音も素晴らしい音。前作はライブ録音ということもあり、全体に音の厚みが感じられず全般に貧相な音という印象だったが、こちらは各種打楽器の腰のある低音がビビッドに収録され、しかも高SN比で音の粒立ちも素晴らしく立体的にHiFi感抜群。こういう録音なら是非、SACDで聴いてみたいものだ。
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Shakti With John McLaughlin

2005年11月10日 23時26分47秒 | JAZZ-Fusion
 1976年の「インナー・ワールド」でマハビシュヌ・オーケストラは再び活動停止となる。そりゃ、そうだろう、第2期マハビシュヌは「黙示録」でいきなりピークを極めて、その後の2作のテンションの低下はぶりは誰が聴いてもあきらかだったし、ポピュラリティの獲得という名目で、結局は自己の築いたスタイルの再生産になってしまったのはやはり減点要素だったと思う。こうしたことはマクラフリンが一番分かっていたハズで、おそらくその反動としてつくられたのが、この作品なのである。

 編成はマクラフリンのアコギに、シャクティと呼ばれているインド音楽集団の共演と形になっている、シャクティはヴァイオリン+打楽器奏者3人T(abra、Mrdangam、Ghatam)らしく、基本的には3人の打楽器奏者が刻む複雑で錯綜するリズムにマクラフリンのアコギとヴァイオリンがのっかるという形で進行すが、一聴しか印象ではインド音楽そのもの。いや、インド音楽そのものといったところで、私はビートルズ経由で「インド音楽らしきもの」を少し聴いているだけなので、実はなんともいえないのだが、少なくともジャズとかフュージョンといった感触の音楽でないことだけは確かだ。ともあれ、もう西洋音楽とは別のロジックで動いているとしか思えない打楽器群の複雑なリズムとこれまた西洋的情緒とは別次元の情感をかなでるギターとヴァイオリンの絡みはスリリングそのもの。特に1曲目のたたみかけるようなインタープレイの応酬は圧巻。結局マハビシュヌ的エキセントリックさバンドから消失しかけていたところで、それを取り戻すべくだとりついたのがインド音楽だったというところか。

 それにしても、これってどのくらい本場物のインド音楽を聴きなれた人が聴くと、一体どのあたりが「インド音楽らしく」また、どこが「インド音楽とは異質な部分」なんだろうか。とても興味があるところだ。 
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JOHN MCLAUGHLIN/Devotion

2005年11月08日 23時09分52秒 | JAZZ-Fusion
 このところマクラフリン関係のアルバムをクロノジカルに聴いているところだが、この作品はマハビシュヌ結成以前の1970年の作品。ジミヘンとの共演歴もあるバディ・マイルスやオルガンのラリー・ヤングらと共演作となるが、ラリー・ヤングのアシッドというかサイケなオルガンはもちろんそうだが、ジャズというより完全にロック系のリズム・セクションのせいで、先日レビュウした「サンタナ&マクラフリン」などとすこし共通する、ちょっとサイケの残り香を感じさせつつも、けだるく瞑想的70年代初頭のB級実験ロックみたいな雰囲気が強い。

 マクラフリンのギターも例のアクロバッティックな早弾きというより、歪みまくったトーンで暴力的なフレーズ連打したりや浮遊感を誘うようなカッティングが主体で、これにラリー・ヤングのスペイシーなオルガンが絡んで独特な雰囲気を醸し出していて、なんだか初めて聴くの妙にに懐かしい。70年代初頭の新宿ディスクロードを思い出すような音などといったら、分かる人には分かるかもしれない。ともあれ、非常にロック的なサウンドで、マクラフリンはここまでロックしてたのかという感が強い。とはいえ、当時の私が仮にこれを聴いたしても、あまりのとりとめのなさに、理解不能に感じていたとは思うが(笑)。
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MAHAVISHNU ORCHESTRA/Inner Worlds

2005年11月03日 23時58分28秒 | JAZZ-Fusion
 「エメラルドの幻影」に続く76年の作品、邦題は「内心界」。キーボードのゲイル・モランと前作で音楽的ポインド・ゲッター的な活躍をしたジャン・リュック・ポンティが抜け、マクラフリン以下、ナラダ・マイケル・ウォルデン、ラルフ・アームストロング、スチュゴールドバーグというかなり絞り込んだ編成で制作されている。音楽的な傾向としては、前作のポップ路線をそのまま進めているという感じで、その後大スターになるナラダのヴォーカルをフィーチャーした曲があったり、売れ線っぽいフィンキーなリズム・パターンやフレーズなども前作以上に頻出する。また前作にはかろうじて残っていた大作指向のようなものがほぼなくなり、各々が独立したコンパクトな曲ばかりで構成されているのも特徴だといえる。

 あと、このアルバムでマクラフリンはギター・シンセという飛び道具を導入しているらしく、これでもって不在となったヴァイオリンのパートを補ってみたり、オーケストラ的な効果を狙ってみたりといろいろ実験しているのはこのアルバムのもうひとつの特徴となっているといえるだろう。ヴァイオリンが抜けたのでギター・シンセを導入したのか、ギター・シンセでやるからヴァイオリンをクビにしたのか分からないが、1曲目の「All in the Family」ではマクラフリン自身がヴァイオリン風なフレーズと普通のギターの掛け合いをひとり二役でやっていたり、4曲目では「Gita」ではほぼヴァイオリン的なフレーズ(同時にヤン・ハマー的でもあるが....)で全編を押し通している。2曲目の「Miles Out」では冒頭にスペイシーなSEとギター・シンセで入れたりするのは、ありがちなパターンではあるが、あのマクラフリンがやっているのかと思うと、けっこうおもしろく聴ける。

 ついでに書けば、ラストに収録されたタイトル・チューンでは、ギター・シンセはもちろんだが、シーケンサーも使われていて、インド風な細かく動き回るリズムの上をナラダのドラムが動き回るという趣向になっている。1976年といえば、YMOやジョルジョ・モロダーも未だのはずだから、ジャズ・シーンと限定せずともこれはかなり斬新な試みだったはずだ。
 ともあれこの時期のギター・シンセはまだまだオモチャの域を出ない代物だったハズだから、それほどめざましい効果を上げているワケでもないが、これだけ使いこなしているのは、さすがにマクラフリンというべきか。

 という訳で、このアルバムにはバンドのポップ化にギター・シンセ等によるテクロジー的な実験という本来であれば水と油な要素が混在しているため、マハビシュヌらしいテンションやインター・プレイの応酬という点では、前作までの作品と比較すると大分劣ってしまった。キーボードのスチュアート・ゴールドバーグはほぼ地味なバックに徹しているし、前述のとおりヴァイオリンは不在だから、結局のところマクラフリンとナラダの絡みだけが、マハビシュヌらしい壮絶さを感じになっているのが、ちと残念である。今から聴けば分かることだが、マクラフリンの音楽性からして、こういうアルバムを作った後、一転してシャクティとのコラボラレーションに進んでいくのは、本人にとってはごくごく自然なことだったろうと思わないでもない。 

(2006/02/18加筆)
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MAHAVISHNU ORCHESTRA/Visions of the Emerald Beyond

2005年11月02日 21時15分33秒 | JAZZ-Fusion
 先日取り上げた「黙示録」に続く1975年の作品で、邦題は確か「エメラルドの幻影」、当時、これを購入しておらず、なんらかの機会に聴いたという記憶もないので、多分、はじめて聴く作品ということになる。一聴した印象としては、随所にコーラス隊やプラス・セクションなどを配し、キャッチーなフレーズやリズム・パターンなども取り入れるなどして、ずいぶんポップ....というか聴きやすさのようなものを配慮しているな....という印象。まぁ、こういう傾向はマハビシュヌに限らず、ジャズはおろかロックの方でも、概ね70年代後半から急速に強まっていく、時代的な流れとでもいうべきものなので、マハビシュヌもその例外ではなかったというところだろう。

 あと、気が付くのはブラスの他に弦楽器を数人が入って、ブラス共々前作のオーケストラとの共演の余韻のようなものが感じられる点や短い曲を組曲のようにつないでひとつの大作として構成しているあたりも、本作の特徴としてあげられるとと思う。いずれにしても、そういった様々な過渡期的な要素が入り交じったせいど、どうも焦点が定まらないというか、いささか求心力のようなものが後退してしまったいるような気がしないでもない。あすこが凄い、ここがおもしろいとはいえるが、アルバムとしてのまとまりはいまひとつといったところなのだ。この傾向は特に旧A面にラインナップされている曲に強い。その意味ではこのアルバムの聴きどころは、やはりほとんど組曲の構成された旧B面を使いきった7曲といったところだろうか、こちらはマハビシュヌらしい壮絶な緊張感だとかゴリゴリなインタープレイが、山あり谷ありの構成の中でほどよく配置されていてけだし聴き物になっている。ジャン・リュック・ポンティのヴァイオリンも凄まじい。 
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MAHAVISHNU ORCHESTRA / Apocalypse

2005年10月22日 23時50分56秒 | JAZZ-Fusion
 ジョージ・マーティンブロデュース、マイケル・ティルソン・トーマス指揮のロンドン交響楽団との共演。空中分解した第1期に続く第2期マハビシュヌの第1作といろいろな意味で話題になった74年の作品である。私はこれをほぼリアル・タイムに購入し、その難解さに辟易しつつも根気よく聴いた記憶がある作品なので、前2作と違って個人的には馴染み深い。とはいえ、聴くのは多分20年振りくらいになるが。

 さて、久しぶりに聴いたこの作品だが、メンバー間のインタープレイのみが突出してしまった「火の鳥」以降に比べると、本作では再びマハビシュヌ的本来の色合いを取り戻そうとしているのがよくわかる。やはりマハビシュヌというのは、スーパー・テクニック集団によるスポーティーでにフュージョンであればよいというのでなく、やはり「未だ見ぬ異境を音楽でもって垣間見せてくれるようなバンド」であって欲しい、その思いはマクラフリンが一番感じでいたのではないだろうか、ともかく本作ではそういう部分を甦ってきているのである。それに一役買っているのが、オーケストラの導入である。マイケル・ギブス(彼は英国のギル・エヴァンスだ)によるエキセントリックなオーケストラ・サウンドは確かにマハビシュヌ的なエキセントリックさと、巨大なスケールを作品にあたえることに成功している。アルバムの中核をなす2曲目や5曲目といった大作は、作り込んだ構成といい、鏤められたソロの充実度といい、聴き応え充分である。もっとも、前作までのメンツによる壮絶なインタープレイの充実度という点では、更に手綱がゆるんだ感じがする人もいるかもしれない。どちらをとるかは人それぞれだろうが、個人的には「ロスト・トライデント」や「虚無からの飛翔」ならば、こちらの作品に軍配を上げたいところだ。

 それにしても、マクラフリンがマハビシュヌを再構成するにあたってキーボードをゲイル・モランにしたというのは、いかにもヤン・ハマーの扱いに疲弊していたかを物語ったいるようでおもしろい。「もう、あんな獰猛な鍵盤奏者はたくさん」と思っていたかどうか知らないが。 
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MAHAVISHNU ORCHESTRA / Between Nothingness & -

2005年10月21日 23時53分12秒 | JAZZ-Fusion
 第一期マハビシュヌの最終作。昨日とりあげた「ザ・ロスト・トライデント」がお蔵入りなったおかげで、悪くいうと契約消化のために作られたものらしいが(当時のリスナーはそんなことは知る由もなかったのだが)、とにもかくにも第一期マハビシュヌのライブ・アルバムを残しておいたということだけでも、今となっては貴重といえる。収録曲は3曲でいずれも「ザ・ロスト・トライデント」に収録されていた曲で、いずれもスタジオ録音の比べて、インプロビゼーションのパートが拡張され、奔放さが横溢した、いかにもライブらしい演奏になっている。

 「トリロジー」はスタジオ版ではきっちりと3部に分かれていたパートを、ここでは奔流の如く一気呵成に演奏していて、第2部から第3部へとテンションが高まっていくあたりの流れはいかにもライブ的な感興に満ち満ちている。第3部でのマクラフリンとハマーのソロの応酬はスタジオ版も凄かったが、それをも上回る怒濤の勢いで進んでいくあたりは聴き物だ。ハマー作の「シスター・アンドレア」はマハビシュヌにしては、ポップでファンキーなテーマをもった曲で、ある意味一般的なフュージョンのフォーマットに近づいた感じだが、中間部でのマクラフリンのギターとコブハムのドラムスは最高のテンションだし、後半のハマーによるギターライクなシンセ・ソロもこの曲あたりが「走り」なのだろうが、もう完璧にひとつのスタイルとなっていると感じるのは、その後いくたのフォロワーが出たせいだろうか。「ドリーム」は演奏時間がスタジオ版の倍に拡張された演奏で、「トリロジー」と同様、割とおとなし目の導入部分はほとんどイントロ扱いになって、圧倒的なテンションの中、ハイスピードなソロの応酬に重点がシフトしている。演奏時間でいうと12分あたりから、マクラフリンとコブハムのみで演奏するところなど、いかにもライブって感じのパフォーマンスだし、このような半分遊びみたいなパートでもふたりのコンビネーションがほとんど完璧なのは、聴いていてほとんど驚異である。

 というワケでこのアルバム、とにかく凄い演奏。正直いうと「ザ・ロスト・トライデント」と同様、マハビシュヌらしいエキセントリックみたいなものが薄まり、やや求心力が低下している印象がなくもなく、スーパー・テクニック集団の見本市みたいに堕してしまっているところもあるのだが、とりあえず、ここまでやってもらえれば文句はない。ただ、今の耳で聞くとドラムの音が薄く、音像が遠方過ぎてやや音質的に万全でないのと、収録曲も少ないのが不満だ。「火の鳥」や「内なる炎」の曲もいれてアナログ2枚組くらいの分量だったらよかったのに。 
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マハビシュヌ・オーケストラ/ザ・ロスト・トライデント

2005年10月20日 19時43分55秒 | JAZZ-Fusion
 1999年に発掘されたマハビシュヌ・オーケストラの幻のサード・アルバム。ライナーを読むと当時のマハビシュヌは、バンドの発展に伴って決まっておこるバンドメンそれぞれの自我の拡大に伴うエゴの衝突を起きていたらしく、結局、あらかた収録の終わっていたスタジオ第3作はつめの段階でメンバーの意見が折り合わずお蔵入り、契約履行のためにライブ盤「虚無からの飛翔」を出した....ということらしい。「虚無からの飛翔」は未発表曲3つで構成されていたが、どうして既発のマテリアルのライブ演奏が収録されなかったのか、当時はいろいろ物議をかもしだしたらしいのだが、結局は発表することなくお蔵入りとなった幻のサード・アルバムの落ち穂拾いだったワケである。

 さて、このところマハビシュヌのあれこれ聴いているところであり、これも久しぶりに聴いてみたというワケだが、発売当初「なんでこんなに凄い作品をお蔵入りせにゃならんのか?」という印象はかわらないものの、第1作、第2作とクロノジカルに聴いていくと、スリリングかつハイテンションなソロの応酬は確かに凄いものがあるんだけど、マハビシュヌらしいエキセントリックな緊張感のようなものは、やはりかなり後退してしまって、どっちかというと練達の職人たちが、確立したフォーマットの中でそれぞれの腕を競っているだけ....などといったらいい過ぎになるが、もはや目標はテクニックだけみたいな袋小路に突入してしまっていることも実感するのも確かなのだ。これが普通のフュージョン・バンドだったら、もうこれで充分なのかもしれないが、マハビシュヌの場合、最初が最初だっただけにもうひとつ突き抜けものを期待していまうのである。

 収録曲は6曲、うち統帥マクラフリンの曲は3曲で、他の3曲はハマー、グッドマン、レアードが担当しているが、やはり聴きどころはマクラフリンの3曲だ。「ドリーム」は、タイトル通り文字通り夢見心地な冒頭の3分ほどで、すぐさまアップテンポでスリリング、凄まじいインタープレイとなる。込み入ったリズムをもったテーマ、ソロの合間の複雑なキメの間をぬって、グッドマン、マクラフリン、ハマーの順でソロが登場する。凄い演奏なのだが、それまでのマハビシュヌできかれたような、壮絶な演奏からふと浮かび上がる異世界の情景みたいなものが、この音楽からはどうも感じれられないのはちと惜しい。
 「トリロジー」は文字通り3部構成で、パート1はウェストコースト風に牧歌的なムード、パート2はギターとヴァイオリンのユニゾンで奏でられるちょっとインドっぽいミディアム調。パート3は「ドリーム」のハイライト部分に似た感じのハイテンションなパート。前半はグッドマンとハマー、後半はハマーとマクラフリンのそれぞれのソロの応酬でスリリング進行。後半のハマーを後年トレード・マークにもなるシンセにギター・ライクなソロが登場。
 「ジョンズ・ソング#2」は本作中、もっともマハビシュヌを感じさせる曲で、前2曲のようなもってまわった構成はとらず、冒頭からハイスピードな演奏でスタート。エキゾチックなムードをたたえた緊張感あるムードはいかにもマハビシュヌだし、ソロもテーマに沿った、いわば楽曲に奉仕しているプレイなのは特筆すべき点だろう。きっとマクラフリンとしてはこういうのをもっとやりたかったんだろうけど、他のメンバーが「前に沢山やったからもういいじゃん」とかいったんだろうな(笑)>
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JOHN McLAUGHLIN / Extrapolation

2005年10月07日 23時41分12秒 | JAZZ-Fusion
 69年制作のマクラフリンのデビュウ作らしい。メンツはブリティッシュ・ジャズの面々で、この時期は彼は英国というローカルなジャズのフィールドに登場した、よくいえば気鋭のジャズ・ギタリストだったというところなのだろう。音楽的には好き者の間で有名なブリティッシュ・ジャズの重鎮ジョン・サーマンのサックスとマクラフリンのギターをほぼ同比率でフィーチャーした双頭コンボといっていいようなスタイルで、このアルバムから、わずか2年後に結成されることなるマハビシュヌ・オーケストラの音楽を想像するのはなかなか難しい。音楽的にはフュージョンやジャズ・ロックというよりは、いかにも60年代末期の香りが濃厚な「英国製フリー・ジャズ」という感じがするからである。

 めだつ曲を拾ってみよう、1曲目はリズムがころころかわる錯綜したテーマをマクラフリンとサーマンでユニゾンでもって執拗に演奏していくありたりは、いかにもマクラフリン好みな感じだが、ソロの方は割と普通、例の狂おしいようにテンションがのぼりつめていくようなところだとか、インド音楽的なエキゾシズム、ロック的なダイナミズムようなものはほとんどない。5曲目はアコギをイントロにもってきて、その後はサーマンとマクラフリンとの絡みで進んでいく瞑想的な一曲。7曲目はゆったりとしたリズムに始まり、次第に高潮していくマクラフリンのギターが聴きもので、ここにはその後のマイルス・バンドやマハビシュヌで開放されるロック・ダイナミズムの萌芽のようなものが感じれるのが興味深い。ついでに9曲目のスピード感とあばれ具合はなかなかロック的なもので、ひょっとすると、この曲あたりの演奏を聴いてマイルスはマクラフリンを誘う気になったんじゃないだろうかなどと邪推してしまったりする。ラストはちょいとインドの香りがするアコギのソロで、なんだか最後の最後でおそるおそる自分の趣味を開陳しているってな風情があるのは微笑ましい。

 というワケでなんか煮え切らない作品のような書きぶりだけど、個人的にはこういう作品は大好きだ。英国製フリー・ジャズ特有の弛緩すれすれの緊張感と妙な虚脱感のようなものは、好き者にはたまらない世界だが、このアルバムもそうした逸品として聴くと実に味わい深い作品なのである。 
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ALAN HOLDSWORTH / All Night Wrong(SACD)

2005年10月06日 23時32分11秒 | JAZZ-Fusion
 アラン・ホールズワースについていうと、私はあんまり熱心なリスナーではないのだが、初ライブ、しかも日本におけるパフォーマンス(本年5月5日、新宿ピットイン)で、SACD発売ということで購入してみた。
 最近のホールワースは、しばらく前の「ナーン・トゥ・スーン」など聴くと、もはやロック・ギタリストというスタンスではほとんどなく、あくまでジャズ・キタリストとして先祖返りを濃厚に指向してきているようで、聴いていて、例のアラン・ホールズワース節な音楽であるのは違いないとしても、その音楽的感触みたいなものは、もはやジム・ホールだとか、ジョー・パスあたりと共通するような、ようするに名技性とリラクゼーションのほどよいバランスを目指した音楽になっていたと思う。本作もライブとはいうことで、ギンギンにハイテンションなジャズロックを期待する向きもあると思うが、ここで聴ける音楽も明らかに近年のラインに沿ったものである。もちろん、ここ一発という時は例の流麗な早弾きを連打するし、なにしろリズム・セクションがジョンソンにワッカーマンなのだから、オーソドックスというには、かなりアグレッシブ、かつアブストラクトなものではあるのだが....。

 ざっと内容をみていくと、
 1曲目の "Lanyyard Loop" は新曲で、いかにもジャズ臭いコード弾きのテーマと妙に入りくんだリズムが奇妙な調和を見せるいかにもホールワースらしい作品で、かなりハイテンションな中間部のソロから突如シックなソロからテーマに戻るあたりがおもしろい。 続く、"The Things You See"は、近年のジョン・スコ、メセニー、マイク・スターンあたりやっている音楽と非常に近い音楽で、テーマはモダンなコードワークでジャズ的色彩感をかもしだし、中間部では本来のキャラでソロを弾きまくるという、モダン・ジャズ・ギタリストがいかにも好みそうな折衷的な先祖返り作品。
 3曲目の"Alphrazallan"はスローでブルージーな作品で、ここでもテーマはコードワークで提示し、インプロは彼らしいソロで展開というパターンだが、ここでのソロはブリティッシュ・ロック・シーンを放浪していた時代に見せたようなうねりが満載されたもので、個人的には聴きごたえ十分。
 4曲目"Funnels"と6曲目"Water On...."、そしてはそれぞれ旧作からの再演で、オリジナルと比較すると、ライブであるにもかかわらず、テンションを後退させ、リラクゼーションが表に出てきているのが特徴だが、なにはともあれライブで聴けるのは楽しいし、ソロもバリバリ弾いているのはファンにとってはうれしいところだ。
 5曲目"Zone"とそして8曲目"GasLamp Bluse"はおそらくフリーインプロ。前者はワッカーマンの炸裂するドラム・ソロからやや低回気味にホールワースのソロが繰り出し徐々に盛り上がっていく展開、後者はいくらブルースっぽいムードでかなりハイテンションに進行するもので、ホールワースの繰り出す超絶早弾きに思わずニンマリする。
 7曲目の"Above & ...."、ホールワースのソロを中とした、やや低回気味であるが、静謐で独特のムードをもった作品。
 ということになる。

 ホールズワースというとロック・ファンからは「ジャズ過ぎる」とやや距離をおかれ、ジャズ・ファンから「あの人ロックの人でしょ」みたいに白い目で見られたりして、絶妙に落としどころない人になっているが、この作品は冒頭でも書いたとおり、やはりジャズだと思う。ブリティッシュ・ジャズロックが好きな人よりは、近年のジョン・スコとかマイク・スターンあたりが好きな人が聴いた方がよほどしっくりくると思うのだ。
 音質はライブハウス的な乾いたアンビエンスを適度にとりいれた好録音で、これだけドカスカやっていながら、全く混濁せず、妙に生々しいのはDSD録音故だろうか。(03/01/02)
コメント (1)
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