孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

意識が原因の結果が出ることからして「謙虚」になれば「己の運命」を導き出した結果にもなります。

2015年11月15日 | Weblog
謙虚となれば=このままでいいですよ=となります。
ところがそうは問屋がおろしてくれません。
やはり持って生まれた欲があるからです。

それじゃ欲を持ったままに、そのままに生き続けるとなると、これまた問題を抱えたままになりますから、芳しくはありません。

また私の経験からしてですが、夫婦関係が充実しているうちは何とかうまい具合に行きますが、その夫婦関係が冷めだし面白くなくなると、よほどのことが無いからにはもう元には戻りません。

そして夫婦一緒に行動することがあっても何だか義理で共にしている感じになり、
やがて別行動が増えて、それぞれが違った趣味嗜好娯楽に興じることになり、
同じ屋根の下で暮らしている事がやるせない感じになったり、そのやり場の無い・身の置き所が無くなったみたいになり、ドンドン色あせてきます。
しかもそのままにして老後を過ごすとなるとその先行きが闇に覆われたかのようになりますし、入院介護や在宅介護となれば尚更に闇が濃くなりそうです。

然るに私は仕組まれてのことですが、いつの間にやら柵から離れた過疎地単身暮らしになったのですが、然るにそれが正解だったのです。
何たって諸々のストレスから開放されて心身が軽やか元気になったのです。

そして孤独の自由のありがたさを噛み締めるまでになりました。
また孤独ゆえに他力に頼らない老後になったことで、その先々の老後や死に様に何やら自信めいたものが出てきました。

そんなことからして閃き気付いたのが、
人間は意識が原因で生きていますから、その意識次第でその結果も違ってくることからして、これまで自分の都合のために他力に依存することが多かった人ほどに(その意識が原因からして)=ウンコの後始末が自力で出来ないで他力介護に頼ることになる=そんな惨めな老後になり易いと言う事です。

そして自力を多く使ってきた人ほど自分で何でも出来ますから、その自分で何とかするその自力と自信とその精神力・意識力からして他力介護になる仕組み・可能性が低いと言うことです。

と言うことは「若い時から」既に老後人生の道のりが少しずつ定まりつつあると言う事実です。
だから若い時から謙虚な人ほど、有事に遭遇しても他力に頼らずに自力で何とかしますから、その自力と自信が尚更に身に付いてくるのですが、
他力に頼りすぎる人ほど、後々まで頼ろうとしますから、有事はもちろん老後や死に際にも他力依存・他力本願になるわけです。

そして意識が原因の結果に成ることからしていえば、どうやら子供が親を頼りにすることが多かった人ほど、当然その親はその子供を大事にしますから、それだけに親もその子供に頼りたがることです。
だから親を頼りにしてきたその子供に対してその親孝行をさせられる仕組みが起き易いようです。

と言うことからして最初から「運命」が定まっていると言うよりも、己の生き様からして己の運命を自ずと決めているのです。
だから若かりし頃を省みて過ちに気付き、今からでも早めに修正した人ほどその運命の方向性も変わってくるのです。

然るに「謙虚」になればなるほどに誤った方向性・道のりが修正されます。
そうなると己が運命を導き切り開いたことにもなるのです。

然るに意識が原因のこの世(結果)と言われているのです。

<謙虚>を深く知ることで=先行きが見通せる・見極める事が可能になります。

2015年11月15日 | Weblog
全知全能にして天地を創造したのが神ならば、その神を詳しく学び知る必要は無かったのです。
何たって宇宙万物が生まれる前から、元からして有るものだから、すでに実在しているのだから「そのまま」で何ら差し支えないのです。

なのに「私は神だ」「神の声が聞こえる」「神に従う者だ」なんて邪な輩が出てきて、その輩が成す特別な能力からして(客寄せパンダからして)その輩がいう神を信じて従う「欲絡み」の人が大勢現れたのが元からして間違っているのです。

ちなみに魔術・神業なる業を使って生贄・人柱・人身御供=人殺し=を言い出した邪な輩と何ら変わらないのです。
だから(モーセやイエスが如くに)都合の悪い・敵対する者をやっつける・排除する・戦う=気に入らない人を殺す=ことが当然が如くにもなったのです。

基本的には、心安らかにして、食って寝て糞をしながらにして、それらを十分に味わいながら、思うが侭の自由にして、ただ生きているだけで良しとして、それ以上に欲張らないで「謙虚」にしていれば現在のような<大ごと>にもならなかったのです。

なのに「それではダメだ」「何とかしなければ」と<謙虚>を超えて欲張り頑張り見栄張りしたことからして、この世人間界=自然界や人間関係がヘンテコなことになったのが事実真実なのです。

何故なら、良いことがあればその裏に悪いこともある、矛盾のある世界だから、何を成せどもその良いと悪いの矛盾が出てくるのです。
だからそれを喜ぶ人と気に入らない人や妬み恨む人までが表れ出るのです。

だからそこで謙虚であれば何か新たに始めることも無いから、
然るに良いことにもならないが悪いことにもならないから、
元からしてあるがままの自由平等調和の人間界が続くだけです。

また謙虚であれば何事とも闘いません。

然るに自然とも闘いません。
だから謙虚であれば少しでも良くなりたいとして開拓開墾したりしませんから、然るにダム・人工池や堤防・護岸を作ることもありませんから、それだけ豊かな自然と調和した生き方になります。

ところがそれではダメだとして人工的に手を加えると、その良いこともあるが悪いことにもなるその現実事実が現れているのが現在なのです。

また謙虚だと、貧しい人を見てそれが貧困差別だと主張してまで闘いません。

だから成り行き任せにしてほっときます。

ちなみにどんな生き様にしろ「人間として生きていること自体がありがたいこと」ですから、その謙虚さがあれば何ら問題にはなりません。

そしてこの世に生まれたからには誰も皆が絶対に死にます。

すなわち生まれたからには死ぬ、だから死んで元々なのですから、病気や死とも闘いません。

まして名誉名声・肩書き・権威権力・財力なんて必要ないのです。

しかも死ねば衣食住や諸々に関係のない=命と意識だけの世界=魂の世界=始まり終わる「元の世界」に一旦戻るだけです。

すなわち人間として「始まり終わる」その繰り返しをしているのです。

然るに「謙虚」でさえあれば、良くも悪くも無い丁度いい湯加減のお風呂に入っている感じ=至福&地上の天国が如くに感じて生きていけるのです。

だからこの世人間関係がどうであれ、先ずは自分の為に謙虚になればいいのです。

たったそれだけのことですからあまり難しく考えることも無く、
また巷の特別な神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなる形に関係なく、

<謙虚に生きる>ことが当たり前が如くになればそれで十分なのです。