私は神仏霊魂の信仰宗教に無関心だっただけに宗教的な説法や戒めや理想目的などは知りませんが、
しかし先人が残した言葉は大いに役立ちましたし、その言葉に自らが学び経験したことと照らし合わせれば納得できることが多くあります。
ちなみに「触らぬ神に祟りタタリ無し」「知らぬが仏」=余計なことを学び知ったり関わらなければ何事も無くそのままが続きますが、関わったが為に不完全な結果になり、その良くも悪くもその苦楽を味わって精神を乱します。
その不完全・矛盾偽善からしてその結果もどっちつかずの中途半端になって「帯に短し襷タスキに長し」となります。
そして結果的には「役立たず」の余計で無駄なことを成したことになります。
また「捨てる神あれば拾う神あり」=私の場合は「目新しい」ことを始めたり、今以上の「優れもの」に出会ったときには「二兎追うものは一兎も得ず」からして古くなったほうを捨ててきました。
それがゆえに(捨てるから=無くなるから)次から次と目新しいものや優れものに出会う(無から有=拾われる)ことにもなりました。
その中に有頂天になっていたビデオ撮影制作業を自主廃業して年金過疎地暮らしを始めたことと、その私の生き方に納得できない妻から離れたことで「孤独の自由」と「楽に生きる」ことの価値真価を味わえることになりました。
然るにまったく「予想だにしなかった」ことです。
また特別欲しさからして「飛んで火にいる夏の虫」「火中の栗を拾う」「藪から蛇」「犬も歩けば棒にあたる」ことにもなりませんでした。
然るに拘り執着しなかったからです。
そして過去の自己拡大の生き様からして=赤信号を皆と一緒に渡ること=井の中の蛙でいること=ドングリの背比べ=でもって生きることの愚かさを知り卒業できました。
然るに「ミイラ取りがミイラになる」ことも、
然るに自らが「墓穴を掘って」その「土壺から抜け出せなくなる」ことにもなりませんでした。
また「来るものは拒まず、去る者は追わず」からして「成り行き任せ」にもなりましたが、そのお陰で「必然のご縁」がうまい具合に「仕組まれ」続けました。
然るに「成ることはなるが、成らないことはならない」=然るに「自然体」の重要さに納得確信しました。
その成り行き任せだけに「石橋を叩いて渡る」不信感も無く、またそれがゆえに否定反発することもなく、そして束縛制限することにもなりませんで「ほっとけ=仏に任す」にもなりました。
また「果報者は寝て待て」が如くにして、
然るに「生き馬の目をくりぬく」が如く我先に一目散に急ぎ慌てずに、ただ静寂なところでもって食って寝て糞をするだけのような謙虚・素朴・楽ちんからしても、何とかこの世を生きていられることは=いい時代になったもので=果報者と言えます。
しかも巷の神様仏様や超能力者に関係ないところの「己の意識に似合った」生き方にして満足・納得できるのですから有り難いことです。
しかし先人が残した言葉は大いに役立ちましたし、その言葉に自らが学び経験したことと照らし合わせれば納得できることが多くあります。
ちなみに「触らぬ神に祟りタタリ無し」「知らぬが仏」=余計なことを学び知ったり関わらなければ何事も無くそのままが続きますが、関わったが為に不完全な結果になり、その良くも悪くもその苦楽を味わって精神を乱します。
その不完全・矛盾偽善からしてその結果もどっちつかずの中途半端になって「帯に短し襷タスキに長し」となります。
そして結果的には「役立たず」の余計で無駄なことを成したことになります。
また「捨てる神あれば拾う神あり」=私の場合は「目新しい」ことを始めたり、今以上の「優れもの」に出会ったときには「二兎追うものは一兎も得ず」からして古くなったほうを捨ててきました。
それがゆえに(捨てるから=無くなるから)次から次と目新しいものや優れものに出会う(無から有=拾われる)ことにもなりました。
その中に有頂天になっていたビデオ撮影制作業を自主廃業して年金過疎地暮らしを始めたことと、その私の生き方に納得できない妻から離れたことで「孤独の自由」と「楽に生きる」ことの価値真価を味わえることになりました。
然るにまったく「予想だにしなかった」ことです。
また特別欲しさからして「飛んで火にいる夏の虫」「火中の栗を拾う」「藪から蛇」「犬も歩けば棒にあたる」ことにもなりませんでした。
然るに拘り執着しなかったからです。
そして過去の自己拡大の生き様からして=赤信号を皆と一緒に渡ること=井の中の蛙でいること=ドングリの背比べ=でもって生きることの愚かさを知り卒業できました。
然るに「ミイラ取りがミイラになる」ことも、
然るに自らが「墓穴を掘って」その「土壺から抜け出せなくなる」ことにもなりませんでした。
また「来るものは拒まず、去る者は追わず」からして「成り行き任せ」にもなりましたが、そのお陰で「必然のご縁」がうまい具合に「仕組まれ」続けました。
然るに「成ることはなるが、成らないことはならない」=然るに「自然体」の重要さに納得確信しました。
その成り行き任せだけに「石橋を叩いて渡る」不信感も無く、またそれがゆえに否定反発することもなく、そして束縛制限することにもなりませんで「ほっとけ=仏に任す」にもなりました。
また「果報者は寝て待て」が如くにして、
然るに「生き馬の目をくりぬく」が如く我先に一目散に急ぎ慌てずに、ただ静寂なところでもって食って寝て糞をするだけのような謙虚・素朴・楽ちんからしても、何とかこの世を生きていられることは=いい時代になったもので=果報者と言えます。
しかも巷の神様仏様や超能力者に関係ないところの「己の意識に似合った」生き方にして満足・納得できるのですから有り難いことです。