孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

私は特別な神様仏様や神の手に関係ないところの「先人の言葉」でもって多くを学んでいます。

2015年11月05日 | Weblog
私は神仏霊魂の信仰宗教に無関心だっただけに宗教的な説法や戒めや理想目的などは知りませんが、
しかし先人が残した言葉は大いに役立ちましたし、その言葉に自らが学び経験したことと照らし合わせれば納得できることが多くあります。

ちなみに「触らぬ神に祟りタタリ無し」「知らぬが仏」=余計なことを学び知ったり関わらなければ何事も無くそのままが続きますが、関わったが為に不完全な結果になり、その良くも悪くもその苦楽を味わって精神を乱します。

その不完全・矛盾偽善からしてその結果もどっちつかずの中途半端になって「帯に短し襷タスキに長し」となります。
そして結果的には「役立たず」の余計で無駄なことを成したことになります。

また「捨てる神あれば拾う神あり」=私の場合は「目新しい」ことを始めたり、今以上の「優れもの」に出会ったときには「二兎追うものは一兎も得ず」からして古くなったほうを捨ててきました。
それがゆえに(捨てるから=無くなるから)次から次と目新しいものや優れものに出会う(無から有=拾われる)ことにもなりました。

その中に有頂天になっていたビデオ撮影制作業を自主廃業して年金過疎地暮らしを始めたことと、その私の生き方に納得できない妻から離れたことで「孤独の自由」と「楽に生きる」ことの価値真価を味わえることになりました。
然るにまったく「予想だにしなかった」ことです。

また特別欲しさからして「飛んで火にいる夏の虫」「火中の栗を拾う」「藪から蛇」「犬も歩けば棒にあたる」ことにもなりませんでした。
然るに拘り執着しなかったからです。

そして過去の自己拡大の生き様からして=赤信号を皆と一緒に渡ること=井の中の蛙でいること=ドングリの背比べ=でもって生きることの愚かさを知り卒業できました。

然るに「ミイラ取りがミイラになる」ことも、
然るに自らが「墓穴を掘って」その「土壺から抜け出せなくなる」ことにもなりませんでした。

また「来るものは拒まず、去る者は追わず」からして「成り行き任せ」にもなりましたが、そのお陰で「必然のご縁」がうまい具合に「仕組まれ」続けました。

然るに「成ることはなるが、成らないことはならない」=然るに「自然体」の重要さに納得確信しました。

その成り行き任せだけに「石橋を叩いて渡る」不信感も無く、またそれがゆえに否定反発することもなく、そして束縛制限することにもなりませんで「ほっとけ=仏に任す」にもなりました。

また「果報者は寝て待て」が如くにして、
然るに「生き馬の目をくりぬく」が如く我先に一目散に急ぎ慌てずに、ただ静寂なところでもって食って寝て糞をするだけのような謙虚・素朴・楽ちんからしても、何とかこの世を生きていられることは=いい時代になったもので=果報者と言えます。

しかも巷の神様仏様や超能力者に関係ないところの「己の意識に似合った」生き方にして満足・納得できるのですから有り難いことです。

この世は「学びの場」です、然るに何を学んできましたか、また此れからは何を学びますか、

2015年11月05日 | Weblog
私たち人間はこの地球で様々なことを学ぶために生まれてきました。
ところが一回こっきりの人間で終わるのならば何も学ばなくても死ねば終わりですから何の後腐れもありません。
ただ宇宙のチリとなって二度と人間には生まれません。

しかしその大元の宇宙のチリ=魂・意識命=から進化して人間になったのだから次なる進化にもつながります。
だからその為にこの世で様々なことを学び知り次なるステップにつながなければこの世で生きている意味が薄れてしまいます。

然るに過去・過去性がどうであれ、今の私たちも、次に生まれてくる人も、その学びの途中なのです。
だから過去性で学び切れなかったことを再び学ぶためにこの世に生まれてきたのです。

然るに私は神仏霊魂・信仰宗教・超能力・霊力・念力、手かざし・チャネリング・ヒーリング・セラピー・カウンセラーなどは卒業していると思います。
何たってそれらに関わることがあっても其処で止まっていないからです。

また常識や冠婚葬祭などの伝統風習や道徳も卒業していると思います。
何たってそれらと関係ない生き様になっています。
だから先祖供養も親孝行も過去性で卒業していたと思います。

然るに過去性で貧困飢餓も弾圧も、裕福も士族も、士農工商、文化芸術、教祖学者先生や師匠と弟子や信者、詐欺や犯罪も人殺し戦争とも関わり接し触れあい学んできたと思われます。

そして知りたがるやりたがる性格からして、この世の自己拡大と自己縮小の裏表・矛盾やその喜怒哀楽を十分味わい、
その自己拡大や喜怒哀楽を(まだ途中結果ですが)(意識的には)卒業する手はずになっています。

また他力を使うことも自力を使うことも大いに経験しましたが、結果的には自力を多く使うことに優るものはなしとなりました。
然るに人を集めることの矛盾をも学びました。

だから孤独の自由にして独自独歩で生きることにもなりました。

とにかく見栄や世間体よりも自由気ままに・思うがままに・やりたいようにやってきたつもりです。

それだけに家族や人様に対しても否定反発・束縛制限することもまた余計な口出し手出し足だしすることも無かったように思います。
然るにほっとくことが多かったのです。

そして自分には不向きなことや先行き不透明でどうなることやら判らないことを「成り行き任せ」にしたことからして、結果的には必然ご縁の仕組みに導かれることにもなりました。

とにかく知りたがるやりたがる事からして多くを学んできました。

そして現在は
見栄張らない、欲張らない、頑張らないで、余計なことを無理しないで、その精神の安定でもって素朴楽ちんにして生きることを大いに味わっています。

然るに「此れではダメだ」「何とかしなければ」の無い=謙虚さ
然るに何事とも争い闘わない謙虚さ、
然るに成るようになる老後や死とも闘わない謙虚さ、

然るに「成り行き任せ」の謙虚さが身に付いているようです。