私が妻と離れて暮らしていることが不幸と思えば不幸になるし幸せに思えば幸せになります。
然るに人は己の思い・己の意識でもって生きていると言われるのです。
だから人様がどう思うとも関係ないのです。
然るに私は人様の思いを気にすることから卒業できました。
だから見栄も出なくなりました。
その見栄がなくなると妻や家族や孫のことも「どうでもいい」ことにもなり、余計なことに心配することも無くなり、その本人の自由に任せることにもなりました。
然るにそれが謙虚さにもなるのです。
と言うことは見栄を出すから、謙虚さが出なくなるのです。
然るに謙虚が出れば、見栄も出ないのです。
ちなみに見栄が高い人ほど何かと不満不足に思うことが多くなります。
然るにそれだけ苦に思うことが多くなるのです。
だからそれだけ文句を言うことも増えます。
然るに「私は正しい」の意識が強くもなっています。
だから己を守りたがる守り闘う意識も強くなっています。
然るに綺麗好きの潔癖症にもなりますし、自分に累が及ぶ間違いを許せない完璧主義にもなっているはずです。
そして優しさがあればそれと同じだけの厳しさも出てきます。
然るに「出す」だけに、それを「求める」ことにもなるのです。
然るに社長になるだけの器が出せる人は、それだけ人様に対しても同等なことを出すように求めたがります。
だから社長にもなれるのです。
然るに自分が苦労して事を成せば、その苦労を認めてもらい自慢したいが為にも、
それと同じように「苦労を買ってでも」しなさいと粋がったり、また同じ苦労を真似させたり、時には人様に押し付けることにもなっているのです。
然るにそれがこの世にある様々な名人や達人や創始者であり後継者でもあり、何らかの肩書きを持つ著名人や有名人にも見られます。
ちなみに自分がうまい具合になれば、それと同じように人様にもうまい具合になるようにと志ある者を集めて口出し手出し足だし・金を出して応援援助することもありますが、
しかしそれがお仕着せや恩着せや己の自己満足や自惚れ慢心にもなっていますし、その誉れを人様に自慢したがりますが、
しかし途中で雲行きが悪くなって自分の都合が悪くなると、誰か人様の性にしたり、その悪口を言ったり、また策をめぐらしておとしめたりと、手の平を返したが如く否定的になったり攻撃的にもなったりするし、
それが実質的に損な立場になると、裏切り者が出たとか、恩も義理も人情もないとか言いふらしたり、また自分を正統な立場・本家本元と正当化することにもなります。
とにかく何事かで自分が被害者に思うことが事実にあっても、その裏では(過去に)それ相当の迷惑を負わせていた加害者の立場でもあったことの「矛盾=カラクリ」に気付かない限り、
結果的には己が自傷するが如くに傷つき、また相手も加害的に傷つけることにもなるのです。
然るに「自分の首を自分で絞める」結果にもなるのです。
何はともあれ、裏表の矛盾偽善が出るのがこの世人間関係なのですから、お互い様とお陰様の意識にならなければ物事はもめ続けてそれだけ苦労も続くのです。
だから常識離れ世間離れした生き様の中にしか精神の安定が得られないとも言えるのです。
然るに人は己の思い・己の意識でもって生きていると言われるのです。
だから人様がどう思うとも関係ないのです。
然るに私は人様の思いを気にすることから卒業できました。
だから見栄も出なくなりました。
その見栄がなくなると妻や家族や孫のことも「どうでもいい」ことにもなり、余計なことに心配することも無くなり、その本人の自由に任せることにもなりました。
然るにそれが謙虚さにもなるのです。
と言うことは見栄を出すから、謙虚さが出なくなるのです。
然るに謙虚が出れば、見栄も出ないのです。
ちなみに見栄が高い人ほど何かと不満不足に思うことが多くなります。
然るにそれだけ苦に思うことが多くなるのです。
だからそれだけ文句を言うことも増えます。
然るに「私は正しい」の意識が強くもなっています。
だから己を守りたがる守り闘う意識も強くなっています。
然るに綺麗好きの潔癖症にもなりますし、自分に累が及ぶ間違いを許せない完璧主義にもなっているはずです。
そして優しさがあればそれと同じだけの厳しさも出てきます。
然るに「出す」だけに、それを「求める」ことにもなるのです。
然るに社長になるだけの器が出せる人は、それだけ人様に対しても同等なことを出すように求めたがります。
だから社長にもなれるのです。
然るに自分が苦労して事を成せば、その苦労を認めてもらい自慢したいが為にも、
それと同じように「苦労を買ってでも」しなさいと粋がったり、また同じ苦労を真似させたり、時には人様に押し付けることにもなっているのです。
然るにそれがこの世にある様々な名人や達人や創始者であり後継者でもあり、何らかの肩書きを持つ著名人や有名人にも見られます。
ちなみに自分がうまい具合になれば、それと同じように人様にもうまい具合になるようにと志ある者を集めて口出し手出し足だし・金を出して応援援助することもありますが、
しかしそれがお仕着せや恩着せや己の自己満足や自惚れ慢心にもなっていますし、その誉れを人様に自慢したがりますが、
しかし途中で雲行きが悪くなって自分の都合が悪くなると、誰か人様の性にしたり、その悪口を言ったり、また策をめぐらしておとしめたりと、手の平を返したが如く否定的になったり攻撃的にもなったりするし、
それが実質的に損な立場になると、裏切り者が出たとか、恩も義理も人情もないとか言いふらしたり、また自分を正統な立場・本家本元と正当化することにもなります。
とにかく何事かで自分が被害者に思うことが事実にあっても、その裏では(過去に)それ相当の迷惑を負わせていた加害者の立場でもあったことの「矛盾=カラクリ」に気付かない限り、
結果的には己が自傷するが如くに傷つき、また相手も加害的に傷つけることにもなるのです。
然るに「自分の首を自分で絞める」結果にもなるのです。
何はともあれ、裏表の矛盾偽善が出るのがこの世人間関係なのですから、お互い様とお陰様の意識にならなければ物事はもめ続けてそれだけ苦労も続くのです。
だから常識離れ世間離れした生き様の中にしか精神の安定が得られないとも言えるのです。