孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

特別な人は世間に目立つがその苦楽が多く、普通の人は謙虚なだけに精神の安定が得られやすい。

2015年11月14日 | Weblog
年負えば体力能力は衰えるがその分だけ人生経験を積み重ねてきていますから、物事の見極め判断能力が十分に備わってきます。

だからこの世の人間関係の中での(私自身も含めて)人それぞれの人生模様の中には特別の人も普通の人も<大差が無い>ことが判りました。

何たって特別に自己満足が多かった人はその分だけ苦労していますから、プラス・マイナス=0=でチャラ・差が無くなり、
また自己満足が少なかった人は特別がなくて物足りないが、その分だけ楽をしているはずですから、プラス・マイナス=0=でチャラ・差が無くなり、
然るに特別も普通も=どっちもこっちも「同じ」じゃーんとなるのです。

然るにどっちが得で、どっちが損でも、ないのです。

ただ見栄・世間体を気にしていた人と、謙虚にしていた人との、精神・意識に違いがあるだけです。

然るに世間で目立つ人と控え目にしていた人との違いに喜怒哀楽の質と量の違いがあるのです。

ちなみにそれが精神安定の違いにもなるのです。

然るに精神の安定を選ぶのか、山あり谷ありの喜怒哀楽を選ぶかのか、その違いにもなるのです。

そこで「ちょっと」だけでも楽しくなければ人生面白くないとして欲張ったことが、その自己満足と不平不満の苦楽・喜怒哀楽を選んだことになるのです。

そして私自身は60歳にして素朴謙虚に生きる道を選んだことからして今では精神が安定した生き方になっているのです。

と言うことは人間として生きていることは皆んな同じでも、謙虚に生きるのか、それとも不完全意識のままの喜怒哀楽で偽善を積み重ねて生きていくのか、その人間意識による白黒の選択の為にこの世人間界があるのです。

そして謙虚の白い玉を選んだ人だけに人間意識の進化の道のりが開けてくるようです。

己の中では「火の車」なのに「対岸の火事」がごとくに誤魔化して平然としていませんか。

2015年11月14日 | Weblog
自然界の中には万物が無限が如くに実在して我々人間にエネルギーを与え続けていると言われています。

その自然界のエネルギーを直接的に受ける普遍の場合と=人間の五感「視覚・聴覚・嗅覚・味覚・触覚」や「人間意識の有様・感情や精神」によってエネルギーの質と量が変化していることもあるのではと思っています。

然るに自然界の中で長くいると何だか心身が調和されているようにも感じます。
またそれだけに人的なエネルギーも自然のエネルギーも質と量が多いと思っています。

そして思うに、自然界の様々な「音」を本能的・潜在的・欲求からして聞きたいけのだけど、しかし余裕の無い今は(自然の音を)聞ける状況ではないから、そこで手っ取り早く聞ける人工的なものとして音楽が代替で創作されたと思います。
然るに風の音・水の音・さざなみ・そよ風・波風・渦潮・怒涛・雷・嵐、昆虫やカエルや鳥の鳴き声、動物の出す声や行進する音等々の自然界の音・旋律が人工的な音楽に応用されたと思います。

また自然界で形あるものを実在で見たくても見れないときはその模造品・絵画彫刻・デザイン・絵本・アニメ、今では実写版の写真・フイルムやビデオ映像があります。

また自然界の匂いでお気に入りがあっても出掛けて行けないときは人工的な香料芳香製品があります。
また自然界の動植物の感触・触覚を味わうために剥製や毛皮や布や植物を身近に置くことが出来ます。
また味覚も手っ取り早い人工的なものがたくさんあります。

と言うように、いつの間にやら人工的なもの(人為的エネルギー)に慣れてしまって自然界そのものの本物に接し触れあい味わい楽しむことが少なくなりました。
然るに何やら上手い具合に代用品で誤魔化されて納得し切れないままにいるから、内心では何がしのストレスを潜在的に溜め込んでいるような気がします。

だから巷の人工物に満たされて慣れてしまった人が自然界で本物と接することになるとその感覚感動が本物だけに以心伝心が如くに本物のエネルギーが伝わってくる感じではないでしょうか。
然るに自然界の中にいて何でもないような落ち葉が舞い落ちる様やそよ風に吹かれて落ち葉がさらさらと転がるさまに感動するように。

と言うことで何やら前置きが長いようですが、結論を言えば、
およそ16年間あまり人工的な邪魔物・ゴチャゴチャ雑多雑音から離れてストレスを受けなくなり、そして我が心身に余計なエネルギーを使わずにして、しかも自然界の本物エネルギーで満たされ続けてきましたから、
いつの間にやら巷の代替・代用品・人工エネルギー・人工的な変化刺激が次第に必要なくなっているような気がします、と言うよりも馴染めなくなったのです。
何たって下町に下りることさえ控えるようになりました。

と言うことは諸々に馴染めなくて、または必要性・重要性が薄らぎ、その反動で学童らが引きこもりや不登校気味になっているのかもしれません。
また孤独感を味わっている人や老人が閉じこもるのも無理は無いとも思えます。

然るに私方からすれば、今時に馴染めてこの世をうまい具合に(黄信号や赤信号を)渡り歩いている人の精神・意識の有様のほうが異常なのでは、と気になっています。

然るにその人間意識を受けて大元の自然界も異常になっています。

とにかく(私から見れば)何かと多くの問題を抱えているのに(火の車なのに)見栄・世間体のプライドからして(対岸の火事が如くに)平然と装っているものと思われます。

果たしてそれで大丈夫ですか、それでよろしゅう御座いますか、と問いかけ続けています。