孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

見栄・プライドがズタズタになって<惨め>に思える=(他力に頼る)己の「ウンコの後始末」

2015年11月08日 | Weblog
先人の言葉ですが
=自分のことは自分でする=
=自分の尻は自分で拭く=
=自分がまいた種は自分が刈り取る=があります。

=人様の事が我が身に及ぶ=然るにそれが「有事」でもありますが、
そんなに大きな有事ではなくても此れまでの見栄・プライドがズタズタになって<惨め>に思える=己の「ウンコの後始末」があります。

私の妻やご縁のあったご婦人方に、どうせパートをするのなら=此れからは介護の仕事が増えるから=ホームヘルパー・介護のパートをすればと進言したときに、妻はちょこっと舅を世話していただけに=そんな仕事・仕事量は思うほど市場に無いから収入にならないと言い訳して弁当屋に行きました。
とあるご婦人は=他人のウンコを触るなんて私には出来ない=と正直に(誤魔化し言訳せずに)言いました。

ところがどっこい将来自分が人様から「ウンコの後始末」をしてもらう立場になることを自覚していたでしょうか。
然るに私を含めてここへ来られる皆さん方も「ウンコの後始末」を真剣に自問自答する必要があります。

ちなみに世間に目立つ立場になった人や世間に役立ったと自慢し自惚れている人のプライドがズタズタになるのは介護を受ける立場になったときです。

だから要介護の立場になった人が何かと文句を言ったり怒りっぽくなるのは人様のしていることが気に入らないだけではなくて裏では惨めになった自分にも腹が立っているのです。
ところがプライドの少ない人は概ねニコニコしていて感謝の言葉が多くなっています。

ちなみに自分に出来る簡単なことを他人に任せておいて、それよりもカッコいいことに手を出す人は他力依存にして自分をカッコ付けしていることになりますから、その反動・しっぺ返しで「ウンコの後始末」を他力に頼ることになり、そのカッコいいプライドが大きく傷つきます。

それをハッキリ言えば
自分に都合が悪いことを他人に頼んでおいて、自分に都合がいいところだけを楽して取る、その「良いとこ取り人間」が後々や老後や死に様にしっぺ返しが現れてきます。

だから今からでも遅くはありません。

己の為に見栄を張らずに謙虚に生きていく実践を始めてみては如何ですか、

今の見栄っ張りがズタズタになって惨めに思えるようになる、その「ウンコの後始末」のためにも。

皆さんはどんだけ「本物=事実」を見ていますか。

2015年11月08日 | Weblog
皆さんはどんだけ「本物=事実」を見ていますか。

何はともあれ人為的・人工的なものは不完全意識の人間の創作ですから本物にはあたりません。
だから庭園や花壇や植物園で見たものは(人為のエネルギーが紛れ込んでいて)本物とはいえません。
然るに動物園やゲージ・囲いの中の動物も本物ではありません。

然るに宇宙や惑星や地球や自然界を写真やビデオ映像で見たのでは尚更に本物にはなりません。
しかもコンピューターで実物そっくりにも、またそれ以上にも描かれる時代になっています。

ところで私は「知りたがる、やりたがる」性格なのに過去から続く絵画・彫刻・陶芸などの造形や音楽関係・芸術関係や書籍関係などに関心がありませんでした。
と言うことはそれらは既に前世で卒業していたと思われます。

しかし真新しいテレビの時代になったり、また素人でも録音できたり写真やビデオ映像にすることが出来る時代になったことからして音楽やフイルム映像やビデオ映像に取り組んだ経緯がありますが、それらもその都度何やら飽きてきて止まり、あまり深く追いかけなかったことからして、それらを納得してから卒業したことになります。

ちなみにそれらが私の中で本物となって極めたところで(今の私にすれば)何の意味もありません、然るに余計なことを無理して無駄にしたことになります。
だから興味が無くなったことでそれら録音テープや写真や8ミリ映像やビデオ映像などのすべてを廃棄処分にしたほどです。

そして若い時はテレビ三昧だったのに地デジ放送をきっかけにしてテレビも廃棄処分して、今ではギャオの映像をPCで楽しむ程度になっていましたが、そのギャオさえ最近は飽きてきました。

そこで気付いたのですが、
一般的には自然界の本物を容易く見られないから、それらの「人工的な創作もの」動物園・庭園の類や写真集やビデオ映像やブログ映像でもって本物を見たと思いたいのです。
ところがどっこい仮のものであって真の姿・事実・本物ではないことを知っているだけに心から納得できないはずです。
だから(自らの意思でもって見ただけに)「癒された」と勝手に思いたがっている・思い込みたがる偽善が裏にあります。

とにかく(私の場合は)目の前で繰り広げられる「自然界の本物」のみならず、人間界の矛盾偽善を知ってその中の「本物」を味わうようになってからは何やら満ち足りた感じなのです。

然るに自然界から知らない間にエネルギー的なのを得ているのではないでしょうか、
それだから逆に「癒されている」という感じがしないのかも知れません。

とにかく人為的情報や映像を含めて諸々の人工的に特別に装飾された形に魅せられて・何だか引き付けられて・惑わされて・洗脳されたようで・騙された感じになるから=写真と実物が違って「騙された」と思えるのと同じ感覚=だから好きだったものがいつの間にやら違和感に様変わりしたり、または飽きてきて、そして必要としなくなるのでしょう。

然るに=もう「騙されないぞ」となり=目新しいもの・美味しそうなもの・見栄えカッコがいいものを含めて諸々を欲しがらなくなり衣食住・趣味嗜好娯楽の類がどんどん簡素になりました。

何はともあれ私の目の前に本物の自然界はそのままにずーッと実在していますから、たとえ見飽きて馴れて来て=その都度「癒された」と思えなくても=それでもエネルギー的なものを受け続けて吸収されているのでしょう。

だから時たまに来た人が=何やら癒された=と言って帰っていくのも当然なことかもしれません。

とにかく「本物」を味わい知る事が多いほど自力自信につながりその分だけ不信感・不安心配・恐れ・孤独感にならずにすむようです。

そしてまた此れまで様々な摩訶不思議を事実本物にして見て来た事が「付録のおまけ」=ご褒美=になっています。