孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

己が積み重ねてきた偽善の土壺(棺おけ)から抜け出すには謙虚になるしかありません。

2015年11月20日 | Weblog
病院のベットに寝たきりになって、自らの意識で食うことも飲むことも無くなり、また痛くも痒くも無くなり、死んだも同然にして寝ているだけの人もいるようですが。

しかしそれでも=己の意識が原因の結果として=そんな生き様になることを=世間に見知らせする=その「お役を」果たしている人=になります。
然るにそんな有様でもお役を果たしているから・お手本・見本を見せることになっているから無駄に生きていることにはならないのです。

また死んだも同然なのに、それでも生きていて欲しいと願う家族がいるという現実を世間に見知らせするその役目を担っている家族の人も同類になります。

だから巷では賛否両論が言われています。

然るにそれらを見聞したことで、私のように延命治療どころか大きな手術もせずにほっといて死ぬ時が来たらあっさり死ぬことを望む者も出てくるのです。

ところがそれよりも厄介なのがアルツハイマー・認知症です。

ちなみに私が認知症を患えば次第に記憶が無くなっていき、生きてはいるが生きている気がしない、然るに何やらさっぱり判らないままにただ生きることになります。

だから先ほど飲み食いしたことさえ忘れて(そのままほっとけば)また飲食をすることにもなります。
また便所を使うことを忘れて(犬猫のように)ウンコ・シッコを何処ででもしたり、そのまま垂れ流しにもなるかもしれません。
だから常に付き添い人が必要にもなります。

ところが認知症の私にはその記憶が無いから、はた迷惑なことを仕出かし続けていても、それが何やら判らないままにただ時が過ぎていくだけです。
そして私の頭脳の中でもさっぱり判らないままですから、生きていることを五感で味わえません。

然るに私たちが=先々で「生きているけれども死んだも同然」のような生き方になる可能性があるとして=前兆的に見知らせしてくれているのです。

然るに他人事ではないという現実を見せてくれているのです。

だから私はこの先で苦痛を味わいながら死ぬことがあっても寝たきりや認知症のままに生きていたいとは思いません。

そのためにも寝たきりや認知症になる可能性を若い時から積み重ねていることを自覚認識しておく必要があります。

然るに謙虚さに欠けていて、少しでも良くなろうとして頑張り欲張り見栄張り続けていることが、己の入る土壺(棺おけ)のレンガを積み重ねていることになるのです。

しかもそれが正しいとして世間に目立つ特別人間になろうとするほどに積み重ねたレンガを上塗りして(正しい自分を守るために)より強固にして、いかにも其処が自分の居場所と決めたが如くにもなっているのです。

まさかそんな事になっているとは知らないままにどんどんレンガを積み重ねていくと次第に抜け出せなくなって自分が困った立場になるのです。
そしてそのままに其処で死に到るのです。

然るにそれが真坂の有事や老後であり死に際や死に様になって現れ出ると言うことです。

だから行け行けどんどんで人を蹴散らし跳ね除けて先を走っている人よりも世間の片隅で静かに暮らしている人の方が前もって謙虚さを持っていたことにもなるのです。

だから謙虚に生きるにも都合がいい立場でいるのです。

そして老後の健康健全のためにも今からストレスの無い精神の安定でもって生きることを意識して謙虚になれば、
今まで積み重ねてきた己の土壺から抜け出せることにもなるのです。

老後と死は絶対ですから、謙虚な生き方に修正するほうが後々の「あなたの為」になります。

2015年11月20日 | Weblog
良いと悪いで判断しながら生きているからには孤独の自由がいい事ばかりではありません。
然るに身近な家族がいればいいと思うこともあるのですが、その家族がいれば良いことも悪いこともあります。

そして基本的には面倒臭いことに関わらないですむ孤独の自由の方が精神の安定のためにいいとなります。

だから不満不足の出ない謙虚な者同士の関係なら何とかうまい具合に事が運ぶのですが、その謙虚さに欠ける者ばかりが集まっているのがこの世でもありますから、然るに高望みになるのです。

だから「謙虚に生きることを実践する者同士」が寄り添い集まれば、かなりうまい具合になるのですが、それもそう簡単ではありません。

結局は我独りになります。
その我独りの者同士が何かと接点があれば、無いよりはマシになります。
ところがその我独りの者さえもいないかもしれません。

また似たような者同士がいても、人それぞれに性格個性が異なっていますから、そんなに多くの接点があるわけでもありません。
だから結果的には互いの時間つぶしになるだけでして(実にならずにして)有っても無くても「どうでもいい」相手となります。

だから私は未だに孤独の自由にして己の思うがままの独自独歩が続いています。

となれば仙人が如くの境地になるしか他に道がないのかも、と思えていますが、
ところがそれも簡単ではありませんから、今のままが続きます。

ところが書き続けているうちに先行きが明るく見えてきたことがあります。

それが謙虚さからして自力を多く使い他力依存的な生き方になっていませんから、意識が原因の結果がでるこの世でもありますから、
然るにその老後にも他力を必要としない、然るに人様の要介護とならずに元気なままに死ねる可能性が十分にあるということです。

また孤独感に病んだり、うつ状態・引きこもり・精神疾患になったり、いまはやりの認知症になる可能性も低いということにもなります。

だったらそれだけでも十分すぎるほどですから、今のままに素朴謙虚にして生き続けることが出来るのです。

然るに皆さんにも老後と死は絶対ですから、今のうちに謙虚な生き方に修正するほうが後々の「あなたの為」になるとして書いているのです。