孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

思惑期待を持たないのが完全真理ですが、ところが思惑期待なくしては生きづらいようです。

2013年03月03日 | Weblog
私は神仏霊魂の精神世界のその道を目指してきた信者でも専門家ではありませんから、過去の釈迦やイエスやそれら類の様々な信仰宗教のことも殆ど知りません。 
何とか知っているのは巷の精神世界で言われている常識的なことの端的にしか知りません。

それでも信仰宗教のように皆が一堂に集まり深く拝礼し祈願するなどで形骸化形式化されていて、それを皆が素直に従順にして同じ格好形に揃えている、その異様なまでの有り様に違和感がありました。

その信仰宗教の不完全さを知ったのは宇宙的愛の持ち主と言われていた霊能者の「お伝え」文書からであり、
また宇宙意識に到達したといわれている山田耕栄さんの「完全真理」の録音テープを聴いて学び知ったことからです。

しかしその霊能者や耕栄さんが摩訶不思議を成すことを私が見聞したからとて、そんなに憧れ敬い期待しることなく、何を語り何を教えているのかが主でした。

特に完全真理の場合は矛盾も妥協もない完全な神の愛の真実事実を解き明かしているだけにそれを学び知ることが喜びになり楽しかったのです。

ちなみに精神世界に係わることが楽しくなければ本物にはならないと思っています。
またそこで思い悩み迷う(思考錯誤し苦悩する)事になれば、それはどこかに矛盾があるからです。

そしてその完全真理を熟知するほどに、その霊能者や耕栄さんも(信仰宗教の過ちを説く霊能者も耕栄さんも)同じ不完全意識の持ち主だと気付くことにもなりましたが、しかしそのままにしておいて、とにかく何を説いて何を成しているのかを冷静に見聞し注目しているだけでした。

ところが完全真理の奥行きまで深く学び知るほどに此れは凄いとなり、それを説く耕栄さんが(熱心な信者意識の人が言うように)神の愛の完全意識の持ち主に思え、またそのファバラ効果を体感したことで魅せられ、いつしか耕栄さんやファバラに救世主的な期待感を持つようになったのは事実です。

ところが冷静になると、その期待感(思惑期待)を抱かせるように耕栄さん自らが講話していることや、また先々ではお金を儲けさせてくれるような話が出るし、講演会では真理のことよりファバラのことが重点的になってきたし、しかも脱税問題に巻き込まれたことからして、その事業に係わる(信頼していた)仲間に裏切られたとして(その見せしめに)数名の実名まで出して言うことになるし、
そして神懸り奇跡を成す耕栄さんに対するその恩や儀を匂わしておいて、個人的な恩や儀を大切にすることが重要だとして語りだすなど、
何かと矛盾意識やそ不完全さが目立つことになると違和感が不信感になり、
私としては耕栄さんやファバラ離れになるのもしかたありません。

そして耕栄さん離れファバラ離れからして此れまで相当に期待していた部分があることに我ながら気付き、そしてそれを悔い改めることからして完全真理の奥行きが見え出したのも皮肉なおかしな事ですが、
そんなことがあっただけに、完全真理の言いだしっぺの耕栄さんを差し置いて何一つはばかる事無く自由勝手な私の見識(自叙伝)をブログに書くことが多くなりました。

そして書きながらにも気付いたのが
完全真理&完全意識には思惑期待・理想目的を持たないことが説かれていますが、ところが人間誰しもが思惑期待なくしては生きづらいと言うことです。
だから何かと人が接し合い集まるのも思惑期待の欲絡みからして集っているその事実に気付いたのです。

そして巷の信仰宗教等には思惑期待が叶えられるが如くに匂わせる形がありますが、
ところが「あるがまま」の自然体を説く完全真理には何一つとしてありません、もしそれがあったら不完全な真理になるからです。

だから完全真理の実践が簡単に出来るはずも無いのです。
何たって思惑期待があれば不完全な実践になるからです。

そこで不完全意識でもいいから、とにかく欲張らない無理しない執着しないその素朴な生き方の自己縮小の実践が言われていますが、
その実践なくしては絵に描いた餅同然になると語るその耕栄さん自らが本当に実践していたようには私には見えませんでした。

なのに神懸り超能力を魅せられたりそのファバラ効果を体験するごとにいつしか私に中に思惑期待することになりましたが、それも人間だからでしょうが、しかしそれに気付いたからこそ執着する事無く一旦終わり、その結果からして耕栄さんとファバラ離れになったのです。

そこで念のために書きますが否定反発しているわけではありませんで、時おり出てくる耕栄さんの不完全意識の事実を書いたり、また私が思惑期待していたその事実を書いているだけですから、この先で必然となれば耕栄さんやファバラにご縁があることでしょう。

とにかく、思い思惑期待や理想目的が不完全意識であり欲絡みである事実、またそれが人間関係であれば欲絡みの人情愛情の義理や恩義になること、またそれが人間関係の絆や柵(しがらみ)となって個人の自由が阻害されている事実を書いているのです。

そして個人の自由なくして平等調和の人間関係になることは不可能なことを何度も書いているわけです。