孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

この世の精神世界を学び知る中に<すべては愛である>の意識が絶対的に必要になります。

2013年03月28日 | Weblog
どんな生き方であろうとも食って寝て糞をしながら何とか生きてさえいればそれで人間としてのお役を十分に果たしています。それが事実です。
だからこの世に様々な居場所・環境・境遇があり、またその中でもって様々な生活様式の生き方があり、また日々様々に変化更新進化しています。

その人間としての生き様の中に善人悪人が登場するのも人間界だからですが、
それだけにその善人も悪人もその必然からしてそのお役を果たしているだけだとして、それを素直に理解できる人は少ないと思います。

すなわちその善人も悪人も同じ人間が作り出した形ですからすべての人間の責任でもあるのです。
だから個々を見て判断することでもないわけです。
だから「すべてはひとつ」が言われているわけです。

しかもその善人が善をしているとか悪人が悪をしているとは限らないのに(不確かなのに)それを自分の見極め尺度や自分の都合で勝手に決め付けているところがあります。
だから後日善人が悪人になったり悪人が善人に思われることにもなっています。

また明らかに極悪非道なる犯罪者の場合であっても(精神世界を論ずる人なら)それが皆の責任であることも理解できているはずです。
そしてその原因に(人間が)愛の心&神の心を見失っていることにあるというのも理解できているはずです。

だから時々にして極悪非道で残酷残忍な人殺し事件や戦争が起きるのもその神の愛の精神世界を論ずる人やその精神世界をまだ知らないで極悪非道呼ばわりしているそれらの人のために必然にして仕組まれている事になります。

だからその犯罪も皆の(愛の無い者たちの)集合意識が原因のその結果としてその犯罪に到ったわけですから、
その形の裏には(隠れた事実には)、この世でそれらを見える形にする必然からして、そのお役を(神の愛の仕組みに従った&極悪非道の残酷残忍なお役を)果たした「愛の人」となるのです。

それを完全真理にして書くと、良い悪いで判断している人間に対して、その良い悪いの判断の加わらない完全なる神の愛を学び知り気付かせるために、その必然からして様々に起きているその結果形なのです。
ゆえにこの世のすべては<神の愛>になるのです。

それを知ってか知らずにしてか、自分が悪と思える者&邪な者を否定反発排除したのが過去の釈迦やイエスの類なのですが、それも(私が思うに)この世の必然からして神の愛で仕組まれたことなのかもしれません。

私はこの基本の<すべては愛>を宇宙的愛の霊能者から無料で郵送されてくる(召喚した霊魂が言霊で語る)「お伝え」なる文書を読んで気付き悟ったことですが、それが精神世界の初心者の私なのに「何で」となりますが、
その私の中に否定反発や束縛制限することのない自由意識をもっていたことや成り行き任せの生き方からして既に精神世界にマッチしていた部分が(過去世の学びからして潜在的に)あったからだと思います。

仮にして私の中に否定反発や束縛制限するその意識(潔癖完璧)が強ければ、私が初心者だけに「すべてが愛」のその基本がまったく理解できないままに読み忘れてしまったことでしょう。

ところがその「すべてが愛」を理解納得していただけに後日知ることになった「良い悪いで判断しない」完全真理の理解が尚一層進んだわけです。
しかしながらその実践意識となると、その何れにも無理があるのです。
だから言うだけ聞くだけの実践の伴わない真理・説教になったわけです。

ところが「自己縮小」の実践ならば(完全真理を知る以前から)その小さな形の生活を遊び半分でしていましたから、私にすれば「魚に水」「渡りに船」となり現在も続いているわけです。

と言うことからして「この世はすべて愛である」となり
だから特別が一切無いこと、すなわち「差」が無いこと、
だから人それぞれの個性役割でもって生きてさえいればそれで十分になるわけです。

なのに自分さえ良ければの良いとこ取りをしてその裏の悪いところを排除したがることからして良い悪いで判断しているのです。
だからその良いとこ取りを少なくするためにも素朴に生きるその自己縮小が言われているわけです。
そして自己縮小すればするほどに喜怒哀楽の感情や物質金銭欲などが少なくなりますから(当然ながら)良い悪いでいちいち判断する必要が無くなる事実があります。

その実践が今は無理としても、先ずは精神世界を学び知る基本である(善も悪も無い)「すべては愛」を意識する必要があるのです。
それを知らないと精神世界を信じるか否かの不完全な形にしているその中に引き込まれることにもなり、また信じて頼る他力依存にもなり、更に不確かなその思い思惑に期待を寄せることにもなるのです。

その「すべてが愛」を知ったことからして、この世に現われ出たその形結果やその人間関係が如何になろうともそれを気にしないでいられるようにもなります。
だから「気にしない」で「ほっとく」「成り行きに任せる」ことにもなります。

そして何度か書いたように「気にして得なことよりも気にして損になることが多い」のがこの世の常でありそれが事実なのです。

しかも内なる精神を知るのが精神世界なのに、その精神世界に身を置きながらも外見・形・結果の見せ掛けに執着してそれを気にしているくらいだから、
その精神世界を副業や生業にしたり、また金集め人集めの勢力にしたり、また目立つヒーロー主人公になりたがる者やまた名誉権威の肩書きや権威権力の形にしたがる者の手先&宣伝広告塔の役目役割まですることにもなるのです。

己の思い感情(喜怒哀楽)やその思惑期待感や理想目的や祈願願望やまた差のある価値観や正義感は「精神」世界にあらずにして「想像」の世界で<白昼夢>が如くに生きているのと同じですから、早くその夢から目覚めなければなりません。

それが「気付き」なのです。
だから実践意識でもって気付き続けるのが精神の学びになるのです。

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