孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

今が天国や楽園に思えなくても、今を生きることに疲れない生き方に私は価値を見い出しました。

2013年03月15日 | Weblog
私たちは良い悪いの善悪損得優劣で判断し、その何れかを「使い分け」して、その良いと思う方を「良いとこ取り」していますから、常にこの世は矛盾した結果形に満ち溢れています。

例えば自分は自由という「良いとこ取り」をして自由勝手にしたがるのに、ところが(自分に都合が良くなるためには)その相手を束縛制限して自由を奪うことがあります。
すなわち自由と不自由の裏表の矛盾を使い分けて、その何れか一方の自分に都合が良くなる方を使い分けながらその良いとこ取りをしているのです。

だから何事かで自分が損する立場になったときはその損を少しでも少なくなるように立ち回るが、ところが相手が損する立場だとその損を少しでも多くさせてその分だけ自分が得するように働きかけます。

また人の集まりで自分の都合が良くなるときは苦労を買ってでも出るが(優秀さを見せびらかし目立ちたがるが)、自分にあまり都合が良いことでなければそれを謙虚控えめにしたり、何かと言い訳正当化して(言い逃れして)人様に押し付けようとします。

その都合の良い言葉に「疲れた」があり他にも忙しい・自信が無い・臭い・汚い・危ない・怖いなどがあります。
ところが自分を出して人様に見せびらかしたときはそんな言葉を覆したように我先に動きを出して見せます。

それが身近な家族関係の中にもありますから、その家族の誰もが善悪損得優劣で判断して自分の都合に叶うほうを選り分けてその良いほうを選びたがります。
ゆえに必ずしも表向きの「善・得・優」の良いとこ取りに限らずに、時と場合によっては裏側の「悪・損・劣」の<裏>を選んで自分の都合を良くしたがる、その良いとこ取りもあるのです。

それでも可愛く甘えられるが如くの形ならまだしも、それを責任義務だとまで押し付けられれば、それを否定反発するまでに到らなくても、誰もが嫌気になります。

そんな表裏を使い分けてまでも良いとこ取りしたがる(欲張る)、そんなややっこしい人間関係の中で自己拡大をすることをやめて(卒業し離れ)、そこで呑気な成り行き任せのその時その時の必然ご縁に限り対応対処する自己縮小の生き方に変われば、同じ不完全意識であっても、その自己満足と不平不満の喜怒哀楽を味わうことが少ない分だけ安らかな心持を味わえます。

だから今が天国や楽園に思えなくても、今を生きていることに疲れないでいられる生き方に私は価値を見い出したわけです。
だから不完全意識でありながらも此れまでに味わったことが無いその新たな人生を味わい生きている事になります。