孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

完全真理は深層心理でもありますから奥が深いところがあります。

2013年03月20日 | Weblog
このブログの後半は私の事例からして(庶民的感覚から)説明することが多くなりました。
(完全真理の基本であれば初期の書き込みをお勧めします)
だからその道の言葉を並べ立てる専門家研究者やまた耕栄さんの講演会とも異なることを書いていると思います。

しかも過去の自己拡大からいきなり自己縮小の小さく生きる生活に変わっただけに、その裏表を実際に味わったその事実からして書いていることにもなります。
ちなみにその事実に気付き知ることが神の愛を知ることにつながるのです。

私が成り行き任せに生きるのも精神世界を知る以前からのことです。
またそれだけに世間的常識や伝統風習や道徳などの知識教養に疎く(私に必要としなかっただけに)その分だけ固定観念を持つことも少なかったわけです。
またその分だけ否定反発や束縛制限することが少なかったのも事実です。
またそれだけに自分が思うがままの自由にやることも出来たわけです。

またその自由のためにも、他力に依存することよりも創意工夫しながらの自力を多く使うことにもなったのです。

その自らして成り行き任せで自由にしていただけに他の人を巻き込むこともまた巻き込まれることもあまり無かったのです。
だから尚更に自分の中に創意工夫する楽しさと独自独歩の自由があったのです。

しかしそれでも不完全意識に変わりがありませんから、周りのことが気にはなることもありますが、そのことに執着しなかったから結果的には成り行き任せになり、その成り行きに任せておくほうが呑気気楽になることも予め実感でもって味わっていたわけです。

しかもその成り行き任せに必然ご縁が仕組まれてそれが成るようになって行くその事実も数々味わってきたことからして尚更に成り行き任せが板に付き、その成り行き任せに(神の愛とも言える)安心安全の心があることに気付き知ったのです。

また若い時からの知りたがるやりたがる性格からして否定反発することにもならずに多くを見聞体験することができたわけですが、その中で納得できないことが違和感として残りました。

その持ち前の性格個性からして思惑期待するよりも先に自らが動き回っていましたから人様を信じて頼ることにもならなかったのです。

だから自分からして動くのか、または人に任せるのかのいずれかでした。

また摩訶不思議の「見えない世界」に係わったのが物資的なことから始まっただけにその結果が見える感じるの格好で出てきますから、それを信じるか否かではなくして、その結果が出るか否か、事実か否かの見極めから始まったわけです。
そしてそれ以外のことは見聞知識と違和感となって残ることにもなりました。

そして矛盾のない完全真理を知ったことからして私の此れまでの見聞知識や違和感の理解納得の謎解きが次々と進んだのです。

だから完全真理を知ってそれを実践した結果というよりも、
持ち前の性格個性をそのままに出していたその結果が完全真理にマッチしているところがあっただけのことです。

だから完全真理を説き語りしかも摩訶不思議を成して見せている指導者の耕栄さんに違和感がすぐにも出てきたのは私の中では事実です。
それでも否定反発する事無く(違和感のままに)そのままに様子を伺っていましたが、結果的に耕栄さんやファバラから(新たな必然ご縁が無ければ)離れたままが続くでしょうが、本来の完全真理に優る真理が他に有るはずも無いことからしてその完全真理から離れることは絶対的にありません。

そして結論的に書けば、
如何なる精神世界であろうとも、また如何なる教祖指導者であろうとも、またその信者であっても、そこに特別はいっさい必要なく、その精神世界に係わるすべての者は未熟者であって皆が共に学び合う共に気付きあうその関係にあることに私は気付いたのです。

だから「信じる」とか、「頼る」とか、また「思惑期待」する事無く、自らの性格個性の「自力」でもって独自に学び知りるほうが、自他共に持っているその邪な不完全意識に迷い惑わされることなくそれを見極めながら進んでいけるものと確信自信でもって書いているのです。

そして出来れば「成り行き任せ」自然体&あるがままの意識でもって欲張らなければ自ずとその結果が仕組まれ出てくるはずだと確信でもって書いているのです。

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