この世の矛盾の中で生きているだけに私たち人間は生まれながらにして(自他共に信じられない)不信感を抱き持っています。
そして世間では言葉に出していわなければ相手に通じないと言われますが、しかしその言葉には必ず裏(裏心・下心)があります。
だから愛しているとか、信じているとかでその自分の思いを伝える中にも下心と不信感が隠れていたり、それを聞く側にも思惑期待感や不信感を持っていますから、その双方に確たる自信が無いことからして、あえて言葉に出して確認しあって安心したがっているようなものです。
もし本心から絶対に愛しているのなら(その自信があるのなら)、また絶対に信じているのなら(その自信があるのなら)、何でわざわざそれを言葉に出して相手に伝える必要があるのでしょうか。
己の内なる意識に問いかければ(自問自答すれば)自ずと答えが出てきます。
ちなみに私は人を信じるよりも、また人に頼るよりも、自分で「成す」か、またあるいは人に(すべてを)「任す」かのいずれかでした。
それゆえに自信と自力で<成す>ことが多くなり、そして成り行きに<任す>生き方になったわけです。
ちなみに私は妻や子供を愛しているとか信じているとか言ったことはありませんし、また(過去も未来も)信じて頼ることもありませんし、此れまで妻や子供の自由に任せて来たし此れからもそれは変わりません。
だから地域社会や仕事においても相手から信じ頼られると何だか窮屈そうになるが、私のやり方に一任されるほうが私の本領を自由に(十分に)発揮することが出来ました。
また私が神仏霊魂の世界を信じる必要が無かったからして50代後半まで無縁だったと思うし、それだけに信じるか否かの精神世界の形に私なりの違和感を感じたのだと思います。
ところが多くの人は信じようとします。
何故なら欲絡みの思惑期待するところがあるからです。
ところが私は自分の出来ることを(自信のあることを)自力を使って(創意工夫しながら)成すことが好きでした。
そしてその自力を超えたことは他力に任すしかありませんから(ほっとくしかありませんから)、その他力に対して不信感や欲絡みの思惑期待で接することもありませんでした。
それだからこそ神を信じたがる人の裏心に思惑期待が込められている事に気付くこともできたわけです。
またそれが邪な欲絡みの精神世界を説く者には(思う壺にはまってくれて)好都合になるわけです。
だから実在しない特別な神を祀り上げて願えば叶うが如くに思わせ見せ掛けると(その教祖主導者が神懸り超能力でも見せれば)その神や教祖指導者に期待感からして信じようとします。
(思惑期待も持てないような神&教祖を信じて頼る人はいません)
(だから思惑期待&信じて頼ることのない完全真理が普及しないのです)
ちなみに神&相手を信じる中に(神&相手の心意識を信じるのではなくして)自力自信の欠如した自分を信じたがる(偽りの自信を持ちたがる)その自己陶酔・自己暗示・自己洗脳が隠れているように思います。
言い換えれば見えてもいない神を信じることのできるそんな度量力量&能力のある自分を過大評価したり自己陶酔の自惚れからしてそれを偽りの自信にしているのかもしれません。
だから思い思惑期待を持ってからして人を愛することでも神を信じることでもありません。
そこで束縛制限する事無くまた否定反発や不信感や欲絡みの思惑期待を持つことなく平常心(自然体&自由意識)で接していれば、それは裏のない愛でもって接しているのと同等になると私は思っています。
そして世間では言葉に出していわなければ相手に通じないと言われますが、しかしその言葉には必ず裏(裏心・下心)があります。
だから愛しているとか、信じているとかでその自分の思いを伝える中にも下心と不信感が隠れていたり、それを聞く側にも思惑期待感や不信感を持っていますから、その双方に確たる自信が無いことからして、あえて言葉に出して確認しあって安心したがっているようなものです。
もし本心から絶対に愛しているのなら(その自信があるのなら)、また絶対に信じているのなら(その自信があるのなら)、何でわざわざそれを言葉に出して相手に伝える必要があるのでしょうか。
己の内なる意識に問いかければ(自問自答すれば)自ずと答えが出てきます。
ちなみに私は人を信じるよりも、また人に頼るよりも、自分で「成す」か、またあるいは人に(すべてを)「任す」かのいずれかでした。
それゆえに自信と自力で<成す>ことが多くなり、そして成り行きに<任す>生き方になったわけです。
ちなみに私は妻や子供を愛しているとか信じているとか言ったことはありませんし、また(過去も未来も)信じて頼ることもありませんし、此れまで妻や子供の自由に任せて来たし此れからもそれは変わりません。
だから地域社会や仕事においても相手から信じ頼られると何だか窮屈そうになるが、私のやり方に一任されるほうが私の本領を自由に(十分に)発揮することが出来ました。
また私が神仏霊魂の世界を信じる必要が無かったからして50代後半まで無縁だったと思うし、それだけに信じるか否かの精神世界の形に私なりの違和感を感じたのだと思います。
ところが多くの人は信じようとします。
何故なら欲絡みの思惑期待するところがあるからです。
ところが私は自分の出来ることを(自信のあることを)自力を使って(創意工夫しながら)成すことが好きでした。
そしてその自力を超えたことは他力に任すしかありませんから(ほっとくしかありませんから)、その他力に対して不信感や欲絡みの思惑期待で接することもありませんでした。
それだからこそ神を信じたがる人の裏心に思惑期待が込められている事に気付くこともできたわけです。
またそれが邪な欲絡みの精神世界を説く者には(思う壺にはまってくれて)好都合になるわけです。
だから実在しない特別な神を祀り上げて願えば叶うが如くに思わせ見せ掛けると(その教祖主導者が神懸り超能力でも見せれば)その神や教祖指導者に期待感からして信じようとします。
(思惑期待も持てないような神&教祖を信じて頼る人はいません)
(だから思惑期待&信じて頼ることのない完全真理が普及しないのです)
ちなみに神&相手を信じる中に(神&相手の心意識を信じるのではなくして)自力自信の欠如した自分を信じたがる(偽りの自信を持ちたがる)その自己陶酔・自己暗示・自己洗脳が隠れているように思います。
言い換えれば見えてもいない神を信じることのできるそんな度量力量&能力のある自分を過大評価したり自己陶酔の自惚れからしてそれを偽りの自信にしているのかもしれません。
だから思い思惑期待を持ってからして人を愛することでも神を信じることでもありません。
そこで束縛制限する事無くまた否定反発や不信感や欲絡みの思惑期待を持つことなく平常心(自然体&自由意識)で接していれば、それは裏のない愛でもって接しているのと同等になると私は思っています。