矛盾も妥協も無い完全な神の愛の真実を説く完全真理やまた巷の神仏霊魂の精神世界を説く形があってもその真の実践となるとそう簡単ではありません。
だからその実践意識になるためにもそれ以上に知りたがる人がいたり、または自分に似合った都合の好い神や精神世界を捜し求めたり、中には見聞知識を広げてそれを自慢したがるために精神世界を学んでいるような格好になっている人もいることでしょう。
ところが精神世界をそんなに詳しく知らなくても実践できるのが自由になることであり、その自由の中に平等調和があります。
ところがその自由になるためには否定反発・束縛制限・比較競争差別し合わないこと、そして欲張り無理しないこと、見栄や世間体を気にしないこと、そして常識や伝統風習や道徳を気にしないこと、そして他力に依存しないこと、そして複雑怪奇な人間関係を気にしないこと、そのためにはしがらみを気にしない、そのためには人情愛情・義理や恩を気にしないこと、そのためにはお陰様とお互い様の人間関係を知ること、そのためにはすべてはひとつであることを学び知り特別が無いこと、ニワトリが先でも卵が先でもないこと、そしてetsとあり、またそのためにはetsとあり、
と言うように(確かな実践する以前に)どんどん深く学び知ることになるわけです。
そして中には知識だけで悟った気になる人もいるでしょうが、本来の自由を味わっているわけではありません。
そして欲張るから自らに自由が無いこと、他力に頼るから自由が阻害されていること、人のことはどうしようもないのだからほっとけばいいものを口出し手出しして人様を巻き込んだりまた巻き込まれたりして自他共に自由を失っていること、
また孤独感からして自らの自由を捨てている人がいたり、
また自由になるためには損を覚悟でなければ成せないと思っていたり、
とにかく現実からして言えば、
自分の都合次第で(良いとこ取りからして)自由になったりまた不自由になったりしながら、その楽あり苦ありの矛盾する喜怒哀楽で生きることも好しとする、
その中途半端な矛盾する精神・意識・心からして、しかもその確かな実践なくして、あわよくば真実の神や愛を学び知ろうとしていることは、
その自分の都合からして土台無理なことを何とかして成そうと余計なことや無駄なことをしていることになるわけです。
何たって自由なくして何の精神世界の学びやその実践が出来るのでしょうか、
自分に自由が無いのに何で人様を自由平等調和に成せるでしょうか、
また矛盾のある不完全意識のままにして何か一つでも完全が成せるのでしょうか、
また完全なる真実の神の愛を知った者が、何で人集め金集め物売りになるでしょうか、
また壇上に上がって目立ちたがったり、摩訶不思議を見せて人様を引き寄せ引き止めようとしたり、大勢を引き連れてヒーロー主人公や救世主気取りになるでしょうか、
ところで私のような未熟者でもってしても悟った事にあるのが、
この世の形やその人間関係を「どうすることも」出来ないし、また「どうしようもない」から、そのままにしてほっとくしかないと、その事実真実を自らの見識見聞経験からして学び知り悟り、
またその精神世界の真実事実を知る以前から始まっていた食って寝て糞をするだけのような過疎地暮らしが13年以上続いているのも人間関係のしがらみから離れた自由を味わい知ったからですし、また我が身がいつまでも自由でありたいがためです。
昔話に孤独にして霞を食って生きている仙人(悟りを極めた者&この世から超越した者の形)が登場しますが、
その頃の釈迦やイエスが「何で」その仙人になれなかったのでしょうか、それとも仙人になろうと思わなかった(実践しなかった)のでしょうか、
ちなみにその釈迦やイエスが、自らして未熟者で不完全意識丸出しで生きている事に気付いていたのは間違いないと思います。
そして不完全意識を克服し超越するためなのか、また不完全意識がためにまだ知らない完全な神の愛の境地・神意識を悟るためなのか、いずれにしろ無駄な艱難辛苦の修行を重ねた史実があります。
しかし幾ら修行を重ねても自らの矛盾意識・不完全意識だけはどうしようもないと(有能で賢いことからして)悟ったはずです。
そして自らが無理だと判ったのならば、その無理なことを人様に実践しなさいと教え広めるはずはありません。
それならば(賢い人ですから)
教え広める無理無駄で余計なことしないままに自らが仙人が如き生き方の方が大勢の人をを巻き込んだりまた巻き込まれたりしないですむし、自らの意識でもってそのままに穏やかに暮らしながらも時おり必然ご縁の都度に気付き悟る、その積み重ねのままに人間を終える道を歩いたと(私は)思います。
ところがそれが(実践)出来なかったのであれば、やはり真の神の愛の自由(平等調和)の真価価値を味わい知らずにいたと思われます。
それどころか自由が邪な意識(身勝手・我が侭・無秩序)の原因になると思い違いしてその自由を(サタン・魔女・邪悪者・異端児・異教徒として)(言い訳正当化して)(策略弾圧)封じ込めていたかもしれません。
だから「自らを守り戦う」ための人殺し戦争を未だに正義や聖戦に誤魔化している形が引き継がれています。
また不完全意識の者が何を成そうとも(神懸り奇跡の超能力でもってしても)その結果も不完全で終わることを気付き悟っていたわけでもなさそうです。
そうなるとやはり完全な神の愛を知らないままの邪道を説いて広め歩いていた好からぬ類の同じ穴の狢となります。
しかも自らが実践していないのにただ「言うだけ聞かせるだけ」にしてあとは摩訶不思議を成して見せて(神業に思わせて)人心を惑わしていただけの輩になりますが、皆さんはどう思われますか。
だからその実践意識になるためにもそれ以上に知りたがる人がいたり、または自分に似合った都合の好い神や精神世界を捜し求めたり、中には見聞知識を広げてそれを自慢したがるために精神世界を学んでいるような格好になっている人もいることでしょう。
ところが精神世界をそんなに詳しく知らなくても実践できるのが自由になることであり、その自由の中に平等調和があります。
ところがその自由になるためには否定反発・束縛制限・比較競争差別し合わないこと、そして欲張り無理しないこと、見栄や世間体を気にしないこと、そして常識や伝統風習や道徳を気にしないこと、そして他力に依存しないこと、そして複雑怪奇な人間関係を気にしないこと、そのためにはしがらみを気にしない、そのためには人情愛情・義理や恩を気にしないこと、そのためにはお陰様とお互い様の人間関係を知ること、そのためにはすべてはひとつであることを学び知り特別が無いこと、ニワトリが先でも卵が先でもないこと、そしてetsとあり、またそのためにはetsとあり、
と言うように(確かな実践する以前に)どんどん深く学び知ることになるわけです。
そして中には知識だけで悟った気になる人もいるでしょうが、本来の自由を味わっているわけではありません。
そして欲張るから自らに自由が無いこと、他力に頼るから自由が阻害されていること、人のことはどうしようもないのだからほっとけばいいものを口出し手出しして人様を巻き込んだりまた巻き込まれたりして自他共に自由を失っていること、
また孤独感からして自らの自由を捨てている人がいたり、
また自由になるためには損を覚悟でなければ成せないと思っていたり、
とにかく現実からして言えば、
自分の都合次第で(良いとこ取りからして)自由になったりまた不自由になったりしながら、その楽あり苦ありの矛盾する喜怒哀楽で生きることも好しとする、
その中途半端な矛盾する精神・意識・心からして、しかもその確かな実践なくして、あわよくば真実の神や愛を学び知ろうとしていることは、
その自分の都合からして土台無理なことを何とかして成そうと余計なことや無駄なことをしていることになるわけです。
何たって自由なくして何の精神世界の学びやその実践が出来るのでしょうか、
自分に自由が無いのに何で人様を自由平等調和に成せるでしょうか、
また矛盾のある不完全意識のままにして何か一つでも完全が成せるのでしょうか、
また完全なる真実の神の愛を知った者が、何で人集め金集め物売りになるでしょうか、
また壇上に上がって目立ちたがったり、摩訶不思議を見せて人様を引き寄せ引き止めようとしたり、大勢を引き連れてヒーロー主人公や救世主気取りになるでしょうか、
ところで私のような未熟者でもってしても悟った事にあるのが、
この世の形やその人間関係を「どうすることも」出来ないし、また「どうしようもない」から、そのままにしてほっとくしかないと、その事実真実を自らの見識見聞経験からして学び知り悟り、
またその精神世界の真実事実を知る以前から始まっていた食って寝て糞をするだけのような過疎地暮らしが13年以上続いているのも人間関係のしがらみから離れた自由を味わい知ったからですし、また我が身がいつまでも自由でありたいがためです。
昔話に孤独にして霞を食って生きている仙人(悟りを極めた者&この世から超越した者の形)が登場しますが、
その頃の釈迦やイエスが「何で」その仙人になれなかったのでしょうか、それとも仙人になろうと思わなかった(実践しなかった)のでしょうか、
ちなみにその釈迦やイエスが、自らして未熟者で不完全意識丸出しで生きている事に気付いていたのは間違いないと思います。
そして不完全意識を克服し超越するためなのか、また不完全意識がためにまだ知らない完全な神の愛の境地・神意識を悟るためなのか、いずれにしろ無駄な艱難辛苦の修行を重ねた史実があります。
しかし幾ら修行を重ねても自らの矛盾意識・不完全意識だけはどうしようもないと(有能で賢いことからして)悟ったはずです。
そして自らが無理だと判ったのならば、その無理なことを人様に実践しなさいと教え広めるはずはありません。
それならば(賢い人ですから)
教え広める無理無駄で余計なことしないままに自らが仙人が如き生き方の方が大勢の人をを巻き込んだりまた巻き込まれたりしないですむし、自らの意識でもってそのままに穏やかに暮らしながらも時おり必然ご縁の都度に気付き悟る、その積み重ねのままに人間を終える道を歩いたと(私は)思います。
ところがそれが(実践)出来なかったのであれば、やはり真の神の愛の自由(平等調和)の真価価値を味わい知らずにいたと思われます。
それどころか自由が邪な意識(身勝手・我が侭・無秩序)の原因になると思い違いしてその自由を(サタン・魔女・邪悪者・異端児・異教徒として)(言い訳正当化して)(策略弾圧)封じ込めていたかもしれません。
だから「自らを守り戦う」ための人殺し戦争を未だに正義や聖戦に誤魔化している形が引き継がれています。
また不完全意識の者が何を成そうとも(神懸り奇跡の超能力でもってしても)その結果も不完全で終わることを気付き悟っていたわけでもなさそうです。
そうなるとやはり完全な神の愛を知らないままの邪道を説いて広め歩いていた好からぬ類の同じ穴の狢となります。
しかも自らが実践していないのにただ「言うだけ聞かせるだけ」にしてあとは摩訶不思議を成して見せて(神業に思わせて)人心を惑わしていただけの輩になりますが、皆さんはどう思われますか。