始まりなき終わりなき大元の宇宙・神の「命・意識」から生まれた人間と言う「命・意識」が、その人間と言う姿形を持って生きる為には、まずは「食って寝て糞をする」必要があります。
すなわち姿形を維持して「生きる」ために衣食住をはじめ諸々の形が必要になりました。
そして生きる為に必要な物・形が豊富になることが幸せに思えるようにもなりました。
そこで便利な言葉や文字が創造され、そして数字による計算も行われるようになり、また便利な道具も様々に作られました。
そしてそれらの教育が成されるようにもなりました。
その積み重ねの歴史が今日まで続いていますが、(自己満足を除けば)誰一人幸せではありません。
と言うことは衣食住やの形や便利なものやの物真似や創意工夫やその教育や研究をしたところで幸せにはなれないのです。
またいつの世も姿形ではない精神世界を説くものが現れてきては消えて、その足跡が宗教化され神仏が偶像・形作られ、またそれら受け継ぐ指導教育する形も続いていますが、未だに幸せになった人はいません。
・・・過去に誰か一人でも幸せになった人がいたのなら、もう既にこの世は幸せな人達で一杯になっているのです。
しかし残念なことに宗教と言う形が大きく膨らむばかりで、(洗脳・陶酔・自己満足している人達を含めて)皆が巧妙に欺かれたままにことが進んでいます。
しかしそれら形は必然から生まれたことですから、その形の指導教育や宗教の性(原因)では無いのです。
すなわち私達の個人意識、自分さえ良ければの意識に原因があるのです。
だから指導教育も宗教も(指導者・宗教家を含めて)自分の都合を良くするためにやっている個人意識が原因なのです。
ところで快適便利な暮らしをしている中にも昭和の時代を懐かしんで「昔は良かった」と言われる人が居るように、いつの時代でも昔は良かったと思う人達が大勢いたのは事実です。
だから私も昭和の物不足の頃の暮らしが懐かしいものになっています。
それをよく考えてみたら、矛盾しているようだが、物が無かったからその分だけ楽しい思い出が多くあるのです。
また物が少なければ、また交通・移動手段が遅ければ、また快適便利さが無ければ、それだけ時間がゆっくりと動いていたからその分だけ生活が味わい深くなっていたのです。
だから反対に物が豊かで急ぎ慌てている快適便利な暮らしが何故か味気ないのです。
・・・だから昔に戻ったような過疎地の生活が落ち着いていられるし味わい深いのです。
だから昭和よりも大正や明治の時代になるほどに「生きて」いるという感覚の時間が長かったはずです。
もっと時代を昔にすれば「食って寝て糞をして」<生きている>だけの時間が多かったはずです。
もっと太古にすれば「生きている」ことだけで十分だったはずです。
だから一日の時間が短く感じる人ほど(変化刺激に満たされてはいるが)味わい深い生き方にはなっていないのです。
・・・だから人間の「命・意識」として生きていないで、形ばかりに囚われている「どうしようもない人」で「つまらない人生」「つまらない時間」を過ごしていることになります。
なんで「生きている」だけでは十分に思えなくなったのでしょうか。
それが先程にも書いたように今のままではいけないと思う欲だったのです。
そして言葉や文字が出来てその教育指導やその伝達がスピードアップして皆に浸透するのがどんどん早まったのです。
その中に「不平不満」を解決して「自己満足」するという形が定着し更に進化拡大する事になったのです。
またその中に神仏に願って自分の不満不安恐れを解決してもらいたいと思う他力本願を持つことにもなりました。
だから神仏のみならず奇跡を成す人や権力支配者に依存するような人達が大勢います。
しかしそれでも思い通りにならなければそれも不平不満になり、更に別な方法で解決したがることにもなっています。
その中にあだ討ちし返し報復制裁や破壊暴力で事を成したがるようにもなっています。
そのすべての責任・原因が「個」の中の思い・意識にあることも知らずに他者責任・原因に思うのも自分が大事だからです。
だからその「個」を無くすることを説く完全真理が宇宙・神の仕組みで出てきたのです。
そして「幸せ」「至福」「地上の天国」「調和」が一体どんなものかを知らなければ、その知らない事を自力や他力で得ることにはなりませんから、まずは完全真理の実践で学び知ることが重要なのです。
すなわち姿形を維持して「生きる」ために衣食住をはじめ諸々の形が必要になりました。
そして生きる為に必要な物・形が豊富になることが幸せに思えるようにもなりました。
そこで便利な言葉や文字が創造され、そして数字による計算も行われるようになり、また便利な道具も様々に作られました。
そしてそれらの教育が成されるようにもなりました。
その積み重ねの歴史が今日まで続いていますが、(自己満足を除けば)誰一人幸せではありません。
と言うことは衣食住やの形や便利なものやの物真似や創意工夫やその教育や研究をしたところで幸せにはなれないのです。
またいつの世も姿形ではない精神世界を説くものが現れてきては消えて、その足跡が宗教化され神仏が偶像・形作られ、またそれら受け継ぐ指導教育する形も続いていますが、未だに幸せになった人はいません。
・・・過去に誰か一人でも幸せになった人がいたのなら、もう既にこの世は幸せな人達で一杯になっているのです。
しかし残念なことに宗教と言う形が大きく膨らむばかりで、(洗脳・陶酔・自己満足している人達を含めて)皆が巧妙に欺かれたままにことが進んでいます。
しかしそれら形は必然から生まれたことですから、その形の指導教育や宗教の性(原因)では無いのです。
すなわち私達の個人意識、自分さえ良ければの意識に原因があるのです。
だから指導教育も宗教も(指導者・宗教家を含めて)自分の都合を良くするためにやっている個人意識が原因なのです。
ところで快適便利な暮らしをしている中にも昭和の時代を懐かしんで「昔は良かった」と言われる人が居るように、いつの時代でも昔は良かったと思う人達が大勢いたのは事実です。
だから私も昭和の物不足の頃の暮らしが懐かしいものになっています。
それをよく考えてみたら、矛盾しているようだが、物が無かったからその分だけ楽しい思い出が多くあるのです。
また物が少なければ、また交通・移動手段が遅ければ、また快適便利さが無ければ、それだけ時間がゆっくりと動いていたからその分だけ生活が味わい深くなっていたのです。
だから反対に物が豊かで急ぎ慌てている快適便利な暮らしが何故か味気ないのです。
・・・だから昔に戻ったような過疎地の生活が落ち着いていられるし味わい深いのです。
だから昭和よりも大正や明治の時代になるほどに「生きて」いるという感覚の時間が長かったはずです。
もっと時代を昔にすれば「食って寝て糞をして」<生きている>だけの時間が多かったはずです。
もっと太古にすれば「生きている」ことだけで十分だったはずです。
だから一日の時間が短く感じる人ほど(変化刺激に満たされてはいるが)味わい深い生き方にはなっていないのです。
・・・だから人間の「命・意識」として生きていないで、形ばかりに囚われている「どうしようもない人」で「つまらない人生」「つまらない時間」を過ごしていることになります。
なんで「生きている」だけでは十分に思えなくなったのでしょうか。
それが先程にも書いたように今のままではいけないと思う欲だったのです。
そして言葉や文字が出来てその教育指導やその伝達がスピードアップして皆に浸透するのがどんどん早まったのです。
その中に「不平不満」を解決して「自己満足」するという形が定着し更に進化拡大する事になったのです。
またその中に神仏に願って自分の不満不安恐れを解決してもらいたいと思う他力本願を持つことにもなりました。
だから神仏のみならず奇跡を成す人や権力支配者に依存するような人達が大勢います。
しかしそれでも思い通りにならなければそれも不平不満になり、更に別な方法で解決したがることにもなっています。
その中にあだ討ちし返し報復制裁や破壊暴力で事を成したがるようにもなっています。
そのすべての責任・原因が「個」の中の思い・意識にあることも知らずに他者責任・原因に思うのも自分が大事だからです。
だからその「個」を無くすることを説く完全真理が宇宙・神の仕組みで出てきたのです。
そして「幸せ」「至福」「地上の天国」「調和」が一体どんなものかを知らなければ、その知らない事を自力や他力で得ることにはなりませんから、まずは完全真理の実践で学び知ることが重要なのです。