孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

「自由」が無ければ自分さえ良ければの個人意識を無くしていく実践も無理になります。

2011年07月25日 | Weblog
「自由」が無ければ不完全です。
だから先ずは「自由」にならなければ個人意識を無くしていく実践もままなりません。
それなのに何故かその個人意識を大事に守っている形が現実に多くあります。
それはこの世で生きているからです。

そのこの世で生きていることが結果であって、その結果に意識が縛られているから自由が無いのですが、その自由よりも今の結果を大事に思っている限り、当然ながら絶対に自由にはなれません。

その結果・形を大事に守ったところで、その結果・形は不完全で自由がありませんから、無理・苦楽が多くもなります。
しかもそこで何を成しても、何度成しても、その結果・形に自由がありません。
・・・同じ結果の繰り返しで終わります。

それも「自由」が大切な事を意識していないからです。
しかも自由よりも、人様を巻き込んだ自分の都合ばかりが優先されているからです。
その自分の都合が大事なだけに、それに反する事柄を否定反発・排除したがりますから、人様の自由まで邪魔をしています。
それが恋人・夫婦だったり家族家庭や両親や親戚兄弟に限らずとも、何かと否定反発し束縛制限し自由を阻害しています。
すなわち自分の都合を優先する個人意識の人に本物の「自由」は無いのです。

だからその自由を実践するのに多くのものを犠牲・捨てる自己縮小が必要になります。
・・・財産や人間関係に恵まれた中で本当の自由を味わえるのに越したことはありませんが、概ね自己満足の自由になります。
その不完全意識の人間関係から、結果的に独居生活や孤独なフリーター・ホームレスや田舎暮らしになるかもしれません。
・・・しかし(私が)自由になったことで妻や子供たちも(私から)自由になっています。
また(不完全な人間関係から離れた)孤独の中に自由がある事を知ることにもなります。
・・・だから孤独に生まれ育ち死んでいくことにもなるのです。
そこで共に否定反発しない自由な意識の者同士が寄り集まり(形作らずに)接し触れ合うことが「重要」になるのです。
そして「調和」の意識になれば孤独ではなくなり、友と共に居ることになり、「すべてがひとつ」に感じるようにもなるのです。

また不自由であろうが自由であろうが「生きて」いることは皆同じになります。
またそれぞれの結果・姿形は違っていても「生きて」いることに何ら変わりはありません。
・・・だから良い悪いで判断して否定反発・肯定することではありません。
ところが原因と結果は同じですから、自由を多く味わっていればその分だけ個人意識が薄れているはずです。
だから不足に思うことがあっても欲張りません、無理しません、今のままで十分に思えるようになります。
そして(自分が味わっているだけに)人様の自由を尊重するようにもなります。

そして現れた結果に執着しませんから、気になりません。
すなわち不完全な姿形や結果に意識を使うことよりも、自他共に否定反発しないで束縛制限されない自由な生き方を意識します。
そうなれば更に否定反発しなくなりますから、真坂の事故や災害被害にも精神が動揺する事無く平然と生きていくことが出来るようにもなるし、また病気や死さえも気にならないで即身成仏したかのように生きることが出来るようにもなります。

そして「良い悪い」で判断する不完全な矛盾も妥協も嘘もない「自由・平等・平和」の調和のある「新たな人間界」の一員になれる可能性が十分あります。
だから自由が有ってこそ完全真理が活かされます。
だから否定反発しない自由な意識でもってこの世の不自由を味わうことで、その完全と不完全の両方を味わうことにもなり、併せてその自由に生きることの大切さが自信確信・悟りとなってきます。

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