私が過去の快適便利な贅沢三昧から離れ過疎地に移住して最初に気付いたのがやはり「自由」があることでした。
そして過去の私に自由(勝手気まま)があったからこそ不平不満が少なかったことにも気付きましたが、それを裏返せば、この世に自由がないから不平不満が多いということにもなります。
すなわち私達は奴隷制度がなくなったものの、歩く足には足かせをはめられ、がんじがらめに縛られていて、思うほど自由ではなくて、この世の形やその人間関係に、自他共に、また心身ともに、牛耳られ、牛耳合っている関係になっているのです。
その最小で最たることが、日常の中の、何気なく出ている「否定・反発」によって自由が損なわれているのです。
それが誰もが忌み嫌うことになっている「臭い」「汚い」であり、虫やばい菌を嫌がる不信感や潔癖症、臭い・汚い・暗いから怖いの恐怖心、危ないから怖いの防衛本能・守り意識にもみられますが、それが差別意識にもつながっています。
・・・これら「小」は大につながっていますので(例えば人様に対しての好き嫌い感情や不信感)重要なわけです。
また「常識」を持ち出されて否定反発・排除されたり、何かと束縛制限されていますから、気付かない間に・知らない間に常識で牛耳られている形になっています。
また常識を含め伝統や風習やの形に反する事になれば、非常識だの世間知らずだの、マナー・礼儀知らずだと言われたり、義理人情のない薄情とか、責任感がないとか、また妥協や協調性がないといわれたりして、世間に軽く見られ、疎んじられ、蔑視・差別されることさえあります。 また道徳ともなると更に厳しい目で見られています。
だから自由(主義)だのと言われる中にも、否定反発・排除されたり束縛制限支配されていて「自由」ではないのです。
それを皆のための協調や調和のように言われていますから(正当化されて)、それらを守らなければ日常に支障を来たします。
しかしそれをよく考えると、知らない間に皆して(日常の中で)否定反発し合い自由を束縛制限し合っている関係になっているのです。
・・・完全真理を知らなければ、それが不完全意識であることすら気付いていないのだから無理もありませんが・・・
しかも(皆して)私は正しいとばかりに自分勝手に(裏の自由権利を使って)自己主張し合っていますが、それも否定反発から出ていますから、自他共に自由を束縛制限支配していることにもなります。
また見栄や世間体・プライド・名誉名声・権威権力を持ったことで世間の目・評価が気になり、行動表現の自由を自らが束縛制限することにもなるし、またそれらを守る為に身近な人達・家族までも巻き込んでそれらの自由を阻害することにもなっています。
だからどんなに快適便利になっても、また贅沢しても、人間の「命・意識」(心・魂)に自由が無ければ心は満たされないのです。
すなわち「自由」がないから不平不満を持つ事にもなっているのです。
そしてその不平不満を解決することで自己満足したがる、その繰り返しが今も続いているのです。
・・・良い悪いで判断していることで自由が失われていることさえ気付いていないのです・・・
しかもその自己満足を得るために(自由を犠牲にしてまで稼いだ)金銭を支出・犠牲にしているのですから、その犠牲・仕事・金銭に対しても不平不満が出てくるのも当然のことです。
また今は持っていない自由を手にする為に、今持っている形・状況を犠牲にする場合があります。
・・・裏を反せば自由を犠牲にして何らかを得ているのです。
そこで「良い悪い」で判断する個人意識を無くすることが無理でも、各々の「自由」を得ることは出来ます。
またその良い悪いで判断しても、そこで否定反発がなければ自由な意識を持ったも同然になります。
その意識が自由であれば(縛られていませんから)、生きる為の犠牲がその犠牲とはならずに、否定反発・束縛制限のない(自由な)犠牲になりますから、その犠牲から不平不満が出ることにはなりません。
・・・例え不平不満が出ても執着することにはなりません。
それは自由を味わっているからです。
・・・だから(私の場合)暇だ退屈だと言いながらも、過去の生き方よりも今の自由が快いのです。
その自由を味わう者同士が結び付き集まればそれが調和にもなります。
そして何ら否定反発・排除されること無く、また束縛制限支配されること無く、人間として生きている事を自由に十分味わえます。
また自由が無ければ平等でもありません。
その自由と平等が無ければ調和・平和はありません。
しかしその自由・平等・平和は形ではなくして各々の意識の中に実在するものです。
だから世間の形や身近な人達を気にかけることよりも、まずは己の意識が問われているのです。
そして意識の中に自由が無ければその不平不満と自己満足の繰り返しの虚しい人生で人間を終えることになるのです。
しかし現実に「自由」を持つためには此れまで築きあげてきた多くのものを犠牲にしなければなりません。 だから無理だとも書いてきました。 しかも自らが見栄や世間体や常識や伝統風習や道徳やを気にせずに生きる必要もありますし、また人様に押し付け強要することも束縛制限することもできません。
だから自らの自由を味わうにも、身近な恋人や夫婦家族ら他者の自由も尊重しなければ、それは自分勝手な自由を味わっている片手落ちの自由になり、不完全な自由になります。
そして無理することでもないが、それでも「自由」を得なければ完全真理を実践しているとは言えません。
すなわち「意識・命」の自由がなければ、その人間として生きている意味も成しません。
その自由が平等でもあり調和・平和でもあるからです。
だから先ずは、この世の全ての形に縛られない「自由」を味わう実践が必要なわけです。
そして自由を味わうほどに完全真理が悟りにもなり、その実践が更に進んで調和の意識にもなっていくのです。
だから全ては実践なのです。
そして過去の私に自由(勝手気まま)があったからこそ不平不満が少なかったことにも気付きましたが、それを裏返せば、この世に自由がないから不平不満が多いということにもなります。
すなわち私達は奴隷制度がなくなったものの、歩く足には足かせをはめられ、がんじがらめに縛られていて、思うほど自由ではなくて、この世の形やその人間関係に、自他共に、また心身ともに、牛耳られ、牛耳合っている関係になっているのです。
その最小で最たることが、日常の中の、何気なく出ている「否定・反発」によって自由が損なわれているのです。
それが誰もが忌み嫌うことになっている「臭い」「汚い」であり、虫やばい菌を嫌がる不信感や潔癖症、臭い・汚い・暗いから怖いの恐怖心、危ないから怖いの防衛本能・守り意識にもみられますが、それが差別意識にもつながっています。
・・・これら「小」は大につながっていますので(例えば人様に対しての好き嫌い感情や不信感)重要なわけです。
また「常識」を持ち出されて否定反発・排除されたり、何かと束縛制限されていますから、気付かない間に・知らない間に常識で牛耳られている形になっています。
また常識を含め伝統や風習やの形に反する事になれば、非常識だの世間知らずだの、マナー・礼儀知らずだと言われたり、義理人情のない薄情とか、責任感がないとか、また妥協や協調性がないといわれたりして、世間に軽く見られ、疎んじられ、蔑視・差別されることさえあります。 また道徳ともなると更に厳しい目で見られています。
だから自由(主義)だのと言われる中にも、否定反発・排除されたり束縛制限支配されていて「自由」ではないのです。
それを皆のための協調や調和のように言われていますから(正当化されて)、それらを守らなければ日常に支障を来たします。
しかしそれをよく考えると、知らない間に皆して(日常の中で)否定反発し合い自由を束縛制限し合っている関係になっているのです。
・・・完全真理を知らなければ、それが不完全意識であることすら気付いていないのだから無理もありませんが・・・
しかも(皆して)私は正しいとばかりに自分勝手に(裏の自由権利を使って)自己主張し合っていますが、それも否定反発から出ていますから、自他共に自由を束縛制限支配していることにもなります。
また見栄や世間体・プライド・名誉名声・権威権力を持ったことで世間の目・評価が気になり、行動表現の自由を自らが束縛制限することにもなるし、またそれらを守る為に身近な人達・家族までも巻き込んでそれらの自由を阻害することにもなっています。
だからどんなに快適便利になっても、また贅沢しても、人間の「命・意識」(心・魂)に自由が無ければ心は満たされないのです。
すなわち「自由」がないから不平不満を持つ事にもなっているのです。
そしてその不平不満を解決することで自己満足したがる、その繰り返しが今も続いているのです。
・・・良い悪いで判断していることで自由が失われていることさえ気付いていないのです・・・
しかもその自己満足を得るために(自由を犠牲にしてまで稼いだ)金銭を支出・犠牲にしているのですから、その犠牲・仕事・金銭に対しても不平不満が出てくるのも当然のことです。
また今は持っていない自由を手にする為に、今持っている形・状況を犠牲にする場合があります。
・・・裏を反せば自由を犠牲にして何らかを得ているのです。
そこで「良い悪い」で判断する個人意識を無くすることが無理でも、各々の「自由」を得ることは出来ます。
またその良い悪いで判断しても、そこで否定反発がなければ自由な意識を持ったも同然になります。
その意識が自由であれば(縛られていませんから)、生きる為の犠牲がその犠牲とはならずに、否定反発・束縛制限のない(自由な)犠牲になりますから、その犠牲から不平不満が出ることにはなりません。
・・・例え不平不満が出ても執着することにはなりません。
それは自由を味わっているからです。
・・・だから(私の場合)暇だ退屈だと言いながらも、過去の生き方よりも今の自由が快いのです。
その自由を味わう者同士が結び付き集まればそれが調和にもなります。
そして何ら否定反発・排除されること無く、また束縛制限支配されること無く、人間として生きている事を自由に十分味わえます。
また自由が無ければ平等でもありません。
その自由と平等が無ければ調和・平和はありません。
しかしその自由・平等・平和は形ではなくして各々の意識の中に実在するものです。
だから世間の形や身近な人達を気にかけることよりも、まずは己の意識が問われているのです。
そして意識の中に自由が無ければその不平不満と自己満足の繰り返しの虚しい人生で人間を終えることになるのです。
しかし現実に「自由」を持つためには此れまで築きあげてきた多くのものを犠牲にしなければなりません。 だから無理だとも書いてきました。 しかも自らが見栄や世間体や常識や伝統風習や道徳やを気にせずに生きる必要もありますし、また人様に押し付け強要することも束縛制限することもできません。
だから自らの自由を味わうにも、身近な恋人や夫婦家族ら他者の自由も尊重しなければ、それは自分勝手な自由を味わっている片手落ちの自由になり、不完全な自由になります。
そして無理することでもないが、それでも「自由」を得なければ完全真理を実践しているとは言えません。
すなわち「意識・命」の自由がなければ、その人間として生きている意味も成しません。
その自由が平等でもあり調和・平和でもあるからです。
だから先ずは、この世の全ての形に縛られない「自由」を味わう実践が必要なわけです。
そして自由を味わうほどに完全真理が悟りにもなり、その実践が更に進んで調和の意識にもなっていくのです。
だから全ては実践なのです。