良い悪いで判断したことが原因で人を責め自分を責め、それが不平不満になり、その不平不満が原因から不安・心配・怒り・恐れになり、また妬み恨みやきもち・嫉妬になり、それがあだ討ち・仕返し・制裁・復讐になったり、そして暴力・争い・人殺し・侵略・戦争などの破壊意識にまで至ります。
また見栄や世間体やのプライド・自尊心や私は正しいの自己主張や顕示・誇示することにもなり、そして不信感を持っているがために自分に不都合な事柄(敵対するもの)から守り闘う守り意識を持つことにもなっていますが、その良い悪いで判断することから善悪・損得・優劣で分離比較判断したり競争することにもなり、その結果「差」のある比較競争差別意識になりますが、これら全てを個人意識・不完全意識と言われています。
だから良い悪いで判断している限りにおいて自由・平等・平和の調和はありません。
そして宇宙・神は「意識・命」であり、その宇宙・神から生まれた地球・人類・万物も同じ「意識・命」であり、その「意識・命」が原因で見える姿形は結果になります。
だから姿形が違っていても皆が同じ意識・命が原因の結果ですから「差」は一切ありません。
だから「すべてが神」なのです。
その関係を「一神にして多神」「多神にして一神」「すべてはひとつ」と言われるのです。
ところが人間だけが良い悪いで判断する不完全意識を持っているがために「地上の天国」「至福」を味わいきっていません。
すなわち不平不満に思っているときに至福を味わうことはまずありません。
ましてプライドが出ていたり不信感や守り意識でいるときに至福を味わうことは絶対にありません。
だから不完全意識の者同士の関係から至福を味わうことには相当な無理があります。
その至福を味わっていないから、満たされた思いが無く、虚しく、生きている事に自信も無く、その満たされていない思いが不平不満になり、その不平不満を解決するために何か事を成してその自己満足を味わっているのです。
ところが(逆に)何か事を成して自己満足する事が無くなると(相対関係にある)不平不満が出てこなくなるのです。
そして不平不満が出なくなると(先程書いたように)自ずと調和の意識になりますから、いつの間にやら「至福の時」を(僅かながらでも)味わっていたことに気付く時があります。
そしてその時に何も思い考え判断していない自然体のとき、ただ生きるために何かをしているとき、何気なく見えたり聞こえてきたり感じたとき、すなわち完全真理でいうところの「あるがまま」のときに至福の時を過ごしていた事に気付きます。
だから対人関係にある時でも(その個の思い思惑がないままの)あるがままの個性・感性をありのままに出し合っているときに調和があれば・意識の歯車が噛合っていれば至福が訪れます。
すなわち互いを意識し合っているのだが、その双方に思い思惑がなくて自然体で接し触れ合っている中で感じられる満たされた思い・至福です。
だから恋愛感情・人情義理・恩義でもなく、また努力したとか思いやったとかのそれらの自覚・自己意識もなく、ただ成るように成っている中で感じられるものです。
すなわち個人意識・不完全意識が出ていないときに感じ味わえる中の、いま共に生きている感覚、また離れていても(意識すれば)いつも側に居るような感覚です。
※不平不満と自己満足の関係が判りやすい事例
いつもと違う何か美味しい物を食べたくなるとそれが不満・欲を持った事になります。
そこで何か美味しい物を食べると満足しますが、求めて得たものは自己満足になります。
それがまた思うほどに美味しい物でなければ、それがまた不平不満になります。
そしてまた自己満足できるものを探し求め欲しがります。
・・・すなわち他の不満を満たすために、何か「美味しい」物を欲しがった、とも言えるのです。
また自己満足したものは飽きてきますから、また別な美味しい物を食べたくなります。
そして美味しい美味しくない(良い悪い)の繰り返しが続きます。
そして不平不満を持っていることに慣れ親しんでそれが当たり前のような生活にもなっているのです。
そして満足できないでいることから、何かの満足を欲しがることにもなっている、その事にさえも気付かないでいるのです。
そしていつも手っ取り早く満足できる物を得て自己満足するその繰り返しが続いているのです。
その繰り返しを思い止まる事になるのが、矛盾も妥協も嘘もない「完全真理」を学び知った時からです。
また見栄や世間体やのプライド・自尊心や私は正しいの自己主張や顕示・誇示することにもなり、そして不信感を持っているがために自分に不都合な事柄(敵対するもの)から守り闘う守り意識を持つことにもなっていますが、その良い悪いで判断することから善悪・損得・優劣で分離比較判断したり競争することにもなり、その結果「差」のある比較競争差別意識になりますが、これら全てを個人意識・不完全意識と言われています。
だから良い悪いで判断している限りにおいて自由・平等・平和の調和はありません。
そして宇宙・神は「意識・命」であり、その宇宙・神から生まれた地球・人類・万物も同じ「意識・命」であり、その「意識・命」が原因で見える姿形は結果になります。
だから姿形が違っていても皆が同じ意識・命が原因の結果ですから「差」は一切ありません。
だから「すべてが神」なのです。
その関係を「一神にして多神」「多神にして一神」「すべてはひとつ」と言われるのです。
ところが人間だけが良い悪いで判断する不完全意識を持っているがために「地上の天国」「至福」を味わいきっていません。
すなわち不平不満に思っているときに至福を味わうことはまずありません。
ましてプライドが出ていたり不信感や守り意識でいるときに至福を味わうことは絶対にありません。
だから不完全意識の者同士の関係から至福を味わうことには相当な無理があります。
その至福を味わっていないから、満たされた思いが無く、虚しく、生きている事に自信も無く、その満たされていない思いが不平不満になり、その不平不満を解決するために何か事を成してその自己満足を味わっているのです。
ところが(逆に)何か事を成して自己満足する事が無くなると(相対関係にある)不平不満が出てこなくなるのです。
そして不平不満が出なくなると(先程書いたように)自ずと調和の意識になりますから、いつの間にやら「至福の時」を(僅かながらでも)味わっていたことに気付く時があります。
そしてその時に何も思い考え判断していない自然体のとき、ただ生きるために何かをしているとき、何気なく見えたり聞こえてきたり感じたとき、すなわち完全真理でいうところの「あるがまま」のときに至福の時を過ごしていた事に気付きます。
だから対人関係にある時でも(その個の思い思惑がないままの)あるがままの個性・感性をありのままに出し合っているときに調和があれば・意識の歯車が噛合っていれば至福が訪れます。
すなわち互いを意識し合っているのだが、その双方に思い思惑がなくて自然体で接し触れ合っている中で感じられる満たされた思い・至福です。
だから恋愛感情・人情義理・恩義でもなく、また努力したとか思いやったとかのそれらの自覚・自己意識もなく、ただ成るように成っている中で感じられるものです。
すなわち個人意識・不完全意識が出ていないときに感じ味わえる中の、いま共に生きている感覚、また離れていても(意識すれば)いつも側に居るような感覚です。
※不平不満と自己満足の関係が判りやすい事例
いつもと違う何か美味しい物を食べたくなるとそれが不満・欲を持った事になります。
そこで何か美味しい物を食べると満足しますが、求めて得たものは自己満足になります。
それがまた思うほどに美味しい物でなければ、それがまた不平不満になります。
そしてまた自己満足できるものを探し求め欲しがります。
・・・すなわち他の不満を満たすために、何か「美味しい」物を欲しがった、とも言えるのです。
また自己満足したものは飽きてきますから、また別な美味しい物を食べたくなります。
そして美味しい美味しくない(良い悪い)の繰り返しが続きます。
そして不平不満を持っていることに慣れ親しんでそれが当たり前のような生活にもなっているのです。
そして満足できないでいることから、何かの満足を欲しがることにもなっている、その事にさえも気付かないでいるのです。
そしていつも手っ取り早く満足できる物を得て自己満足するその繰り返しが続いているのです。
その繰り返しを思い止まる事になるのが、矛盾も妥協も嘘もない「完全真理」を学び知った時からです。