孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全な闇意識の形諸々を手放せないで守っているから束縛制限支配されて「自由」が無いのです。

2011年07月23日 | Weblog
私が宇宙エネルギーを知り、そして精神世界・霊魂の世界を知り、そして今の完全真理を学び知り気付き、その実践意識でもって今日に至っています。
そして完全真理で言われるところの自己縮小すること、執着しないこと、無理のない素朴に生きることなどを、その完全真理を知る以前から過疎地暮らしで既に実践している形になっていました。

だから呑気気ままな自由を大いに味わっていますから、その分だけ(自他共に)否定反発・束縛制限支配することも無く、またその分だけ不平不満に思うことも少なく、まして何事にも執着することも無いから無理も無く、必然ご縁の成り行き任せで、自然が豊かな過疎地で質素倹約な田舎暮らしに慣れ親しんでいましたから、まさしく完全真理に添った生き方に近い実践をしていることにもなりました。

だから例え完全真理を知らなくても、否定反発することも束縛制限支配することも不平不満に思うことも無理をすることも少なかったのは事実ですし、必然ご縁のお仕組みで成るようになっているのも事実にあります。
ただ完全真理を知ったお蔭で(太鼓判を頂いたようで)更に自信になり、更に実践意識が増してきたのはありがたいことです。

また田舎暮らしを始めたことから(暇で退屈したときに)オーラー・テレパシー・奇跡や異次元や宇宙エネルギーなどの摩訶不思議な世界、また精神世界・霊魂の世界などの「見えない世界」全般をHPやブログに書いていましたから、多分その残骸もまだ残っていると思います。
そして今は完全真理のブログだけになっていますが、それもその摩訶不思議な世界も精神・霊魂の世界やの「見えない世界」全般のことが「全て」完全真理につながっているからです。
すなわち「見えない世界」全般の「完結」版に等しいのです。

それだけに「すべてはひとつ」を説く完全真理が私の中に素直に入ってきたのです。
だから他は必要なく「完全真理」一本やりで十分なのです。

またそれだけに真剣な趣で身近な人やご縁のあった人に完全真理・意識命の世界・宇宙エネルギー・ファバラ製品、そして私の田舎暮らしを紹介していたのですが、結果的にそれらは余計な事で無駄なことで無理することではないと悟った次第です。
だから時間つぶしのこのブログだけになっています。

それでも心残りなのが、やはり見えない世界全般や完全真理を学び知るにも、また自己縮小や無理のない素朴を学び知るにも、自然界・エネルギーを感じるにも、心静かに過ごすにも、質素素朴を感じるにも、また自由の醍醐味を味わうにも、その実践に都合がいい田舎暮らしのサンプルがあるのに、何で御無沙汰な人が多いのだろうという思いは未だに捨て切れません。

その過去の事例になりますが、此れまでご縁ある方々や新たにご縁あって山へ来られたときに、せめて一泊でもと薦めるのですが、此れまでの事例で言えば遊び感覚と好奇心と憧れの入り混じった感じで来ているだけに、やはり一度泊まることがあっても二度とありません。
・・・遠方から来た人でそれっきり音沙汰・ご縁も途絶えたままの事例もあります。
ただ一件だけ本気になりかけた人もいますが、それも週末の別荘感覚程度の軽い気持ちなのに、近所の廃屋を賃借して三回ほど来て手直しているうちに自信喪失し頓挫した例があります。

自然界の中の我家へ来たことで目の前や身近な所に素朴を味わえるものが数多くあっても、それを一つ二つチョコッと味わっただけで長続きしないで終わるくらいだから、賞味の素朴を味わったことの少ない人が快適便利で刺激的な暮らしをしている中で素朴を味わう実践には無理があるかもしれません。
そして忌み嫌い臭い汚い暗い怖いと否定反発する潔癖・完璧からも抜け切れません。
とどのつまり完全真理を知っているだけで実践は無理なままにほっとかれて進みません。

そして孤独の中に自由があることや否定反発しないことで自他共に「自由」があることを味わいきれないままに、また自由の中に素朴があることも味わえないままに、結局は中途半端な意識のままに、せっかくの完全真理を活かしきれないままに、この世に牛耳られ不自由なままに、この世の矛盾・苦楽(不平不満と自己満足)にまみれたままに、その残念な結果のままに過ごす人生で終わる事になるかもしれません。

不完全なこの世やその人間関係から離れて、田舎などで人様に気兼ねなく呑気気ままに暮らしたい思いは誰にもあるようですが、それを実現できないのも不便だから不潔だから不慣れだから先々不安があるから、そして今の仕事や生活環境や家族等の人間関係やに未練や執着やその守り意識があるからです。
すなわち(田舎暮らしでなくても)無理もしないで素朴に生きる事を思い描いてもそれが実践できないのは、不完全な形と知りながらもその今の形を守りたいからです。

またその守り意識を無くしなければと思っているのに、それも実践できないのです。
すなわち完全真理を知ってもいるし実践しなければならないとも思ってもいるが、その自信・自力・精神力・実践力がないのです。
それを裏返せば「完全真理」がまだ<本物>「光」になっていないのです。
だから不完全な闇意識の形諸々を手放せないで守っているから束縛制限支配されて「自由」が無いのです。

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