孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

暇や退屈を言わない(私を越えている)我家の犬猫が羨ましくなっています。

2011年07月09日 | Weblog
山田耕栄さんが無理のない素朴に生きることを真理の会の仲間内に言ったことから、早速私の娘が実践意識になり、長く続いていたアルバイトをやめました。
・・・アルバイト先の店主との不調和が増したのもありましたから、まさしく「渡りに船」的なタイミングでした。
そして専業主婦に戻ったのですが、子供達が学校に行っている間はあまりすることがなくて、暇で退屈していました。
ところが子供たちは学校から帰ってくるといつも母親が居て、しかも待っていたかのように優しくしてくれるからいつもご機嫌です。
そして手料理の食事や手作りお菓子があって華やかで賑やかで楽しい限りです。

ところが半年後には再びアルバイトに行くようになりました。
・・・暇で退屈な時間に馴染めなかったのです。
そうなると子供達が学校から帰ってきても母親が留守のときが多くなります。
また伝言を書いた子供宛のメモが貼り付けられ置かれたりする味気ないものになります。

また親もバイトで心身ともに疲れて帰宅することにもなります。
また仕事場での苦・楽を引きずって家に持ち帰りますから、それらにも意識が使われます。
だからその分だけ主婦(役割)意識が薄れます。

だから質素・素朴な生き方の実践も快適便利な普段の生活の中では難しいものなのです。
・・・それでも実践意識になって取り組んだことは今後に活かされて無駄にならないとは思います。
だから私は自然の中で暮らすほうが素朴な生活になると書いているのですが、それを実践するのも容易ではありません。
・・・だから誰しも無理だとも書いています。
まして昔の田舎で暮らした経験のない親や子供達には馴染めないことが多すぎます。
・・・それが臭い汚い暗い怖い寂しいという先入観が邪魔し、その不慣れが不便にもなり、長居も出来ないのです。

だから娘家族・孫達が山へ遊びに来ても、ただ犬や猫やと一緒になって遊んで帰るだけで終わります。
そこで私とすれば、皆と一緒に山菜を取って皆して料理し皆してご馳走になる、その楽しさ喜びを知っても欲しいのですが、一度もやっていないから、味わっていないから、また時間的な制約も有って、どうやら無理があるようです。

また皆しての草刈や枝打ちやまた長い散歩の途中で一時くつろぐ時、そこら適当なところに座り込み、咽を潤すお茶や小腹を満たしてくれるおにぎりでもあれば、皆して至福の時を味わうことにもなります。

私自身は田舎で暮らすようになって様々な喜び楽しさを味わってきましたので、それらと同じ事を皆さんにもお勧めしているわけですが、本当にやる気になることも無く、手短な自己満足だけで終わっています。
また私の誘いに応じてやる気になることがあっても、心に残るほどの満足・至福が得られなくて、二度と同じ事をしたがりません。
・・・日々の暮らしの中で高度な刺激的な特別仕様の自己満足ばかり積み重ねているのが主な原因にあります。

特別のない「食って寝て糞をする」だけのような生産性の低い、欲らしい欲を持たないままに、必然ご縁に任せた生き方をしている中でこそ、その質素・素朴の本質を味わう事になるのです。
だから自己満足や不平不満の繰り返しで生きているからには質素素朴の本質・喜び楽しさを知ることにならないのです。

すなわち「食って寝て糞をする」だけのような生活、暇で退屈な生活を続けているからこそ、また思いが先立ち急ぎ慌てないで成り行き任せにしているからこその、今まで小さくて気付かなかったことや忘れていたことに気付くことになって、その喜びや楽しさに気付きそれを味わい感じることにもなっているのです。
・・・手っ取り早く味わい楽しめる自己満足とは違うのです。

そしてもっと突き詰めていくと、喜び楽しさ満足ともいえないが満ち足りた感じ、過不足のない丁度いい感じ、充実しているわけでもないが不足しているとも思えない感じ、そんな「調和」の中で居る安心安全(感)があります。
だから否定反発することも次第に無くなり、ゆえに不平不満・不信感・不安心配や怒り、そして守り意識も次第に出てこなくなりましたから、更に成り行き任せになり、更に暇で退屈する時間(ブログを書く時間やパチンコ)が多くなっています。
・・・その暇や退屈を言わない(私を越えている)我家の犬猫が羨ましくなっています。