孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不平不満や自己満足に意識が囚われているときは「至福の時」を感じ気付くことは出来ません。

2011年07月10日 | Weblog
浮世離れしたような暮らしの「食って寝て糞をする」の言葉に違和感や反発から(このブログから)離れていった人も多いとは思いますが、それは現在の高度な文化文明の中に居るから如何にも浮世離れしたように思うのです。

しかし人類の始まりはアダムとイブの例えのように、無垢の人間・男女から始まり、食って寝て糞をしながら生きていることがアリガタイことだと思っていた時代もあったのに、いつしかそれでは駄目だと不足に思うようになり、その不平不満とそれを解決する自己満足の繰り返しからこの世の文化文明が進化発展しているのですが、その不平不満とその自己満足が繰り返されている事を良しとする間違った人間意識に気付いていないのです。

またその人類の始まりがあったということは、その元たる原因が無ければ何事も始まりません。
その元たる原因が宇宙・神と言われる「意識・命」であって、その意識・命が人間と言う姿形を持った結果となります。
その人間の姿形を維持するために(生きる為に)食って寝て糞をしているのですが、それだけでは事足りずにあれも欲しいこれも欲しいと欲張り続けていることに気付いていないから、(進化してきた)いつの世も食って寝て糞をするだけでは不満に思うのです。
・・・人間が死して元の原因「命・意識」に帰れば(生きる為の)衣食住さえもいらなくなることが自覚できていないとも言えます。

その不平不満を無くすることが求められている完全真理を実践する者が、生きているだけではつまらないとか、何か事を成さなければならないと欲張れば、それが不平不満の元になっていることに気付いていないということになります。
また生きているだけではつまらないと思うから(逆に)その生きる事に支障をきたすことになる有事・事故や病気や死を怖がり恐れることにもなり、併せてその守り意識を持つことにもなり、その自分に不都合なことを否定反発・排除したがるようにもなっているのです。
・・・だから不平不満が更に別な不平不満を生む構図になっている事に気付いていないのです。
だから不平不満が原因となって様々な問題結果が出ている事を何度も書いているのです。

この世に何の不満も無ければ「地上の天国」と思えるようになるのですが、ところが不満ばかりが先立つ世の中だけに、せめても質素・素朴に生きる事にすればその不満が減り、その不満が減れば(原因と結果は同じですから)自己満足することも減ってくるのです。
・・・そして次第に「生きて」いるだけで満足・アリガタイことになるのです。

その不満なく生きることが出来ればそれが「地上の天国」なのですが、しかし「地上の天国」は見える形ではありませんので、各々の意識の中に実在することになります。
すなわち不満のない者同士の意識が交じり合い「調和」することから感じられる人間界での至福、すなわち地上の天国なのです。
・・・各々の意識同士が水や空気のように溶け合い・融合し合う一体感・一心同体のようなものです。
・・・多神にして一神、一神にして多神、すべてが「ひとつ」になるようなものです。

だから「至福」「地上の天国」を味わった者が不平不満の生活に戻ることは無いのです。
すなわち「完全」を知ったものが「不完全」に生きることを望むはずも無いのです。
・・・もし不完全意識のままでいいと思う人なら、それは「完全」を味わっていないからです。
そこで「食って寝て糞をする」だけでは不足だからと様々な自己満足を探し求めることにはなりません。
しかし今の不完全意識に変わりはありませんから(私が)この先どうなることか不確かです。
だから欲張らないでいて、その時々の必然ご縁に任せ、完全真理の実践意識のままに生きていくしかありません。

「調和の人間界」「地上の天国」は現実には程遠いものです。
そして人間が持つ不平不満をなくすることも無理です。
しかし人間は意識で生きていますから、生きているだけで善しと思えるようになることは不可能ではありません。
だから先程のように自己満足と不平不満の繰り返しをどんどん減らしていけばいいのです。

しかしそれを阻む形が社会にも身近にもありますから、それさえも無理かもしれません、と書いてきました。
だからこの浮世では実践し難くても、この浮世を離れれば実践がし易くなるのは事実にあります。
ところが浮世から離れることが出来ないのは未練・執着であり守り意識があるからです。
・・・大元の「意識・命」のことよりも、今の形ある結果を大事に守りたがっているのです。

しかし、その個の思いから離れられないのが現実ですから無理することでもありません。
だから浮世の不完全・矛盾を精一杯味わい感じる(気付く)ことからして、いつしか浮世離れすることも出来るのです。
だから完全真理を意識した日々の実践が重要だと何度も書いているのです。
そして日常の中にある時折感じられる(自己満足ではない)至福の時があれば、更に実践が進んでいくのです。
しかし不平不満やその自己満足に意識が囚われているときは(絶対に)至福の時を感じ気付くことは出来ません。
・・・だから執着しない、無理をしない素朴が言われているわけです。