孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

自由を犠牲にして快適便利な自由を買い(素朴に生きる事を忘れて)束縛制限支配の不自由を得ています。

2011年07月26日 | Weblog
完全真理は完全ですから、良い悪いで判断している不完全意識の私達には不向きな実践真理になります。

それでも(私が)完全真理を「実践」するのは、皆が持っている不完全意識に(自他共に)「うんざり」しているからです。
しかも何をやっても不完全な結果になることを味わい知っただけに、尚更に「うんざり」しているのです。
・・・ところがご縁必然の成り行き任せに生きることで苦が無くなり楽な生き方になるのを知ったのです。

孤独よりも家族に囲まれているほうが賑やかで一家団欒を味わえるのに何で孤独を味わっているのでしょう、そう思いません?
またスーパーの半額惣菜主体の食事ではなくて妻の手料理を味わうほうが美味しいはずなのに何でと思いません?
妻が居ないためにバイト帰りの汗やホコリまみれのままの男がスーパーへ立ち寄る姿を惨めに思いません?
また独り寝よりも妻と一緒のほうが夫婦の味を味わえるのに何でと思いません?
ゴミくずやクモの巣やで汚れた家で住むよりも、妻が掃除した清潔な屋敷のほうが住み心地がいいのにと思いません?

独りして山や空を見たり夜空の月や星を見るよりも仲間が居るほうがいいですね。
独りして庭先で食事をするよりも仲間が居るほうがいいですね。
独りして犬猫と一緒に散歩するよりも、それを喜ぶ仲間がいるほうがいいですね。

何か異変や有事が起きても急ぐ間に合わない所で安心していられませんね。
崖下に転落しても助けを呼べないところ(人影も無く携帯電話も使えない所)で安心して動き回れませんね。
独りして死んで白骨になるまで気付かれないような死に方はいやでしょうね。

暇で退屈するような余裕の時間があるのなら、何でパチンコだけではなくてもっと色んな事をすればいいのにと思いますね。
ポリバケツに腰掛けてウンコするよりも水洗便所がいいと思いますね。
山から材木を運んで薪割して焚き付ける風呂よりスイッチポンの風呂が楽ですね。
春夏秋に草刈しなければ通りづらい田舎道や草ぼうぼうになる敷地よりも舗装された道や敷地のほうが面倒要らずですね。
日が暮れれば真っ暗な細い夜道を曲がりくねりながら通ることにもなり、小さな携帯ライト頼りで急勾配の坂道下の豆球だけが灯る我家に帰ることになるし、見渡せど何処にも明かりのついた家屋が見えない場所に住んでみたいと思いますか?
・・・まだまだありますが、全てにおいて良いこともあれば悪いこともあるのが、この世です。

その、良いこともあれば悪いこともある、この世とその人間関係の不調和・矛盾を味わっただけに「うんざり」しているのです。
また、自他共に持っている不平不満とその自己満足の苦と楽を味わっていることにも「うんざり」しているのです。
また、その自己満足は直ぐに消えるのに不満だけは(うんざりするほど)いつまでも引きずるのです。
そして結果的に裏切り関係になって共に「うんざり」することにもなるのです。

それが原因とその結果からして、苦なくして楽に生きる、カッコよく言えば自然体で生きる事に目覚めたとも言えます。
おかげで人様の小言・不平不満に巻き込まれないで(うんざりしないで)済む孤独があります。
また見栄や世間体や常識や道徳に関係なく、自分が思うがままの自由があります。
また何にも無いような環境なのに、何かしらのエネルギーを受けて得ているようなのです。

こうしてあれこれと書いたとしても、人様が簡単に真似出来ない事だと知っているだけに、また深く理解されない事を知っているだけに、また私の中にあることですから、それを判りやすく伝えるためにあれこれと事例を書いているとも言えます。
だからこんなブログも珍しいと思っています。
それも毎日100人以上の人様が訪れて何篇かの文書を読まれているから書き続けているわけですが、それらを読みながらも内心では否定反発・不信感で読まれている人がいると思います。

それを端的に言えば、世間のしがらみを捨てた「自由」を味わい知らないからです。
その自由を犠牲にして快適便利な自由を買い、そして素朴に生きる事を忘れてしまって、その結果から束縛制限・排除される不自由な目にあっていることに気付いてないからです。
そのしがらみ・過去に未練も執着も無く、また今であれ先々であれ、現時点では不完全ながらも、人が持つ不信感や不安心配や恐れも無くなっているような生き様を味わい知らないからです。
また不調和・不完全意識の者同士の歯車が噛みあわない味気無さ虚しさが多くて、自己満足ではない求め探したわけでもない至福を味わえることがあまりにも少ないことに気付いていないからです。
また自己満足や刺激に慣れ親しみすぎて昔の素朴さを忘れているからです。

・・・それだからこそ・・・(私は)否定反発のない調和の人間関係を求める事になっているのです。
またそれにも互いの自由を尊重し合う調和が必要になります。
ただ不完全意識に変わりはありませんから完全な調和は望めません、それでも一時の調和・至福を味わえば、衣食住・財やの形がどうでもいいことになり(自己縮小が進み)、調和の意識になる実践が進展します。

それでも大方は読むだけで終わるのが関の山です。
それでも(このブログに)ご縁・必然があったことは後々役立つかもしれません。
それも願わくば「あの世」ではなくして「この世」で役立って欲しいものです。

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