孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不完全な不平不満・自己満足の繰り返しを思い止まる事になるのが、完全真理を知った時からです。

2011年07月12日 | Weblog
良い悪いで判断したことが原因で人を責め自分を責め、それが不平不満になり、その不平不満が原因から不安・心配・怒り・恐れになり、また妬み恨みやきもち・嫉妬になり、それがあだ討ち・仕返し・制裁・復讐になったり、そして暴力・争い・人殺し・侵略・戦争などの破壊意識にまで至ります。

また見栄や世間体やのプライド・自尊心や私は正しいの自己主張や顕示・誇示することにもなり、そして不信感を持っているがために自分に不都合な事柄(敵対するもの)から守り闘う守り意識を持つことにもなっていますが、その良い悪いで判断することから善悪・損得・優劣で分離比較判断したり競争することにもなり、その結果「差」のある比較競争差別意識になりますが、これら全てを個人意識・不完全意識と言われています。

だから良い悪いで判断している限りにおいて自由・平等・平和の調和はありません。

そして宇宙・神は「意識・命」であり、その宇宙・神から生まれた地球・人類・万物も同じ「意識・命」であり、その「意識・命」が原因で見える姿形は結果になります。
だから姿形が違っていても皆が同じ意識・命が原因の結果ですから「差」は一切ありません。
だから「すべてが神」なのです。
その関係を「一神にして多神」「多神にして一神」「すべてはひとつ」と言われるのです。

ところが人間だけが良い悪いで判断する不完全意識を持っているがために「地上の天国」「至福」を味わいきっていません。
すなわち不平不満に思っているときに至福を味わうことはまずありません。
ましてプライドが出ていたり不信感や守り意識でいるときに至福を味わうことは絶対にありません。
だから不完全意識の者同士の関係から至福を味わうことには相当な無理があります。

その至福を味わっていないから、満たされた思いが無く、虚しく、生きている事に自信も無く、その満たされていない思いが不平不満になり、その不平不満を解決するために何か事を成してその自己満足を味わっているのです。

ところが(逆に)何か事を成して自己満足する事が無くなると(相対関係にある)不平不満が出てこなくなるのです。
そして不平不満が出なくなると(先程書いたように)自ずと調和の意識になりますから、いつの間にやら「至福の時」を(僅かながらでも)味わっていたことに気付く時があります。
そしてその時に何も思い考え判断していない自然体のとき、ただ生きるために何かをしているとき、何気なく見えたり聞こえてきたり感じたとき、すなわち完全真理でいうところの「あるがまま」のときに至福の時を過ごしていた事に気付きます。

だから対人関係にある時でも(その個の思い思惑がないままの)あるがままの個性・感性をありのままに出し合っているときに調和があれば・意識の歯車が噛合っていれば至福が訪れます。
すなわち互いを意識し合っているのだが、その双方に思い思惑がなくて自然体で接し触れ合っている中で感じられる満たされた思い・至福です。
だから恋愛感情・人情義理・恩義でもなく、また努力したとか思いやったとかのそれらの自覚・自己意識もなく、ただ成るように成っている中で感じられるものです。
すなわち個人意識・不完全意識が出ていないときに感じ味わえる中の、いま共に生きている感覚、また離れていても(意識すれば)いつも側に居るような感覚です。

※不平不満と自己満足の関係が判りやすい事例
いつもと違う何か美味しい物を食べたくなるとそれが不満・欲を持った事になります。
そこで何か美味しい物を食べると満足しますが、求めて得たものは自己満足になります。
それがまた思うほどに美味しい物でなければ、それがまた不平不満になります。
そしてまた自己満足できるものを探し求め欲しがります。
・・・すなわち他の不満を満たすために、何か「美味しい」物を欲しがった、とも言えるのです。
また自己満足したものは飽きてきますから、また別な美味しい物を食べたくなります。

そして美味しい美味しくない(良い悪い)の繰り返しが続きます。
そして不平不満を持っていることに慣れ親しんでそれが当たり前のような生活にもなっているのです。
そして満足できないでいることから、何かの満足を欲しがることにもなっている、その事にさえも気付かないでいるのです。
そしていつも手っ取り早く満足できる物を得て自己満足するその繰り返しが続いているのです。

その繰り返しを思い止まる事になるのが、矛盾も妥協も嘘もない「完全真理」を学び知った時からです。


不平不満や自己満足に意識が囚われているときは「至福の時」を感じ気付くことは出来ません。

2011年07月10日 | Weblog
浮世離れしたような暮らしの「食って寝て糞をする」の言葉に違和感や反発から(このブログから)離れていった人も多いとは思いますが、それは現在の高度な文化文明の中に居るから如何にも浮世離れしたように思うのです。

しかし人類の始まりはアダムとイブの例えのように、無垢の人間・男女から始まり、食って寝て糞をしながら生きていることがアリガタイことだと思っていた時代もあったのに、いつしかそれでは駄目だと不足に思うようになり、その不平不満とそれを解決する自己満足の繰り返しからこの世の文化文明が進化発展しているのですが、その不平不満とその自己満足が繰り返されている事を良しとする間違った人間意識に気付いていないのです。

またその人類の始まりがあったということは、その元たる原因が無ければ何事も始まりません。
その元たる原因が宇宙・神と言われる「意識・命」であって、その意識・命が人間と言う姿形を持った結果となります。
その人間の姿形を維持するために(生きる為に)食って寝て糞をしているのですが、それだけでは事足りずにあれも欲しいこれも欲しいと欲張り続けていることに気付いていないから、(進化してきた)いつの世も食って寝て糞をするだけでは不満に思うのです。
・・・人間が死して元の原因「命・意識」に帰れば(生きる為の)衣食住さえもいらなくなることが自覚できていないとも言えます。

その不平不満を無くすることが求められている完全真理を実践する者が、生きているだけではつまらないとか、何か事を成さなければならないと欲張れば、それが不平不満の元になっていることに気付いていないということになります。
また生きているだけではつまらないと思うから(逆に)その生きる事に支障をきたすことになる有事・事故や病気や死を怖がり恐れることにもなり、併せてその守り意識を持つことにもなり、その自分に不都合なことを否定反発・排除したがるようにもなっているのです。
・・・だから不平不満が更に別な不平不満を生む構図になっている事に気付いていないのです。
だから不平不満が原因となって様々な問題結果が出ている事を何度も書いているのです。

この世に何の不満も無ければ「地上の天国」と思えるようになるのですが、ところが不満ばかりが先立つ世の中だけに、せめても質素・素朴に生きる事にすればその不満が減り、その不満が減れば(原因と結果は同じですから)自己満足することも減ってくるのです。
・・・そして次第に「生きて」いるだけで満足・アリガタイことになるのです。

その不満なく生きることが出来ればそれが「地上の天国」なのですが、しかし「地上の天国」は見える形ではありませんので、各々の意識の中に実在することになります。
すなわち不満のない者同士の意識が交じり合い「調和」することから感じられる人間界での至福、すなわち地上の天国なのです。
・・・各々の意識同士が水や空気のように溶け合い・融合し合う一体感・一心同体のようなものです。
・・・多神にして一神、一神にして多神、すべてが「ひとつ」になるようなものです。

だから「至福」「地上の天国」を味わった者が不平不満の生活に戻ることは無いのです。
すなわち「完全」を知ったものが「不完全」に生きることを望むはずも無いのです。
・・・もし不完全意識のままでいいと思う人なら、それは「完全」を味わっていないからです。
そこで「食って寝て糞をする」だけでは不足だからと様々な自己満足を探し求めることにはなりません。
しかし今の不完全意識に変わりはありませんから(私が)この先どうなることか不確かです。
だから欲張らないでいて、その時々の必然ご縁に任せ、完全真理の実践意識のままに生きていくしかありません。

「調和の人間界」「地上の天国」は現実には程遠いものです。
そして人間が持つ不平不満をなくすることも無理です。
しかし人間は意識で生きていますから、生きているだけで善しと思えるようになることは不可能ではありません。
だから先程のように自己満足と不平不満の繰り返しをどんどん減らしていけばいいのです。

しかしそれを阻む形が社会にも身近にもありますから、それさえも無理かもしれません、と書いてきました。
だからこの浮世では実践し難くても、この浮世を離れれば実践がし易くなるのは事実にあります。
ところが浮世から離れることが出来ないのは未練・執着であり守り意識があるからです。
・・・大元の「意識・命」のことよりも、今の形ある結果を大事に守りたがっているのです。

しかし、その個の思いから離れられないのが現実ですから無理することでもありません。
だから浮世の不完全・矛盾を精一杯味わい感じる(気付く)ことからして、いつしか浮世離れすることも出来るのです。
だから完全真理を意識した日々の実践が重要だと何度も書いているのです。
そして日常の中にある時折感じられる(自己満足ではない)至福の時があれば、更に実践が進んでいくのです。
しかし不平不満やその自己満足に意識が囚われているときは(絶対に)至福の時を感じ気付くことは出来ません。
・・・だから執着しない、無理をしない素朴が言われているわけです。

暇や退屈を言わない(私を越えている)我家の犬猫が羨ましくなっています。

2011年07月09日 | Weblog
山田耕栄さんが無理のない素朴に生きることを真理の会の仲間内に言ったことから、早速私の娘が実践意識になり、長く続いていたアルバイトをやめました。
・・・アルバイト先の店主との不調和が増したのもありましたから、まさしく「渡りに船」的なタイミングでした。
そして専業主婦に戻ったのですが、子供達が学校に行っている間はあまりすることがなくて、暇で退屈していました。
ところが子供たちは学校から帰ってくるといつも母親が居て、しかも待っていたかのように優しくしてくれるからいつもご機嫌です。
そして手料理の食事や手作りお菓子があって華やかで賑やかで楽しい限りです。

ところが半年後には再びアルバイトに行くようになりました。
・・・暇で退屈な時間に馴染めなかったのです。
そうなると子供達が学校から帰ってきても母親が留守のときが多くなります。
また伝言を書いた子供宛のメモが貼り付けられ置かれたりする味気ないものになります。

また親もバイトで心身ともに疲れて帰宅することにもなります。
また仕事場での苦・楽を引きずって家に持ち帰りますから、それらにも意識が使われます。
だからその分だけ主婦(役割)意識が薄れます。

だから質素・素朴な生き方の実践も快適便利な普段の生活の中では難しいものなのです。
・・・それでも実践意識になって取り組んだことは今後に活かされて無駄にならないとは思います。
だから私は自然の中で暮らすほうが素朴な生活になると書いているのですが、それを実践するのも容易ではありません。
・・・だから誰しも無理だとも書いています。
まして昔の田舎で暮らした経験のない親や子供達には馴染めないことが多すぎます。
・・・それが臭い汚い暗い怖い寂しいという先入観が邪魔し、その不慣れが不便にもなり、長居も出来ないのです。

だから娘家族・孫達が山へ遊びに来ても、ただ犬や猫やと一緒になって遊んで帰るだけで終わります。
そこで私とすれば、皆と一緒に山菜を取って皆して料理し皆してご馳走になる、その楽しさ喜びを知っても欲しいのですが、一度もやっていないから、味わっていないから、また時間的な制約も有って、どうやら無理があるようです。

また皆しての草刈や枝打ちやまた長い散歩の途中で一時くつろぐ時、そこら適当なところに座り込み、咽を潤すお茶や小腹を満たしてくれるおにぎりでもあれば、皆して至福の時を味わうことにもなります。

私自身は田舎で暮らすようになって様々な喜び楽しさを味わってきましたので、それらと同じ事を皆さんにもお勧めしているわけですが、本当にやる気になることも無く、手短な自己満足だけで終わっています。
また私の誘いに応じてやる気になることがあっても、心に残るほどの満足・至福が得られなくて、二度と同じ事をしたがりません。
・・・日々の暮らしの中で高度な刺激的な特別仕様の自己満足ばかり積み重ねているのが主な原因にあります。

特別のない「食って寝て糞をする」だけのような生産性の低い、欲らしい欲を持たないままに、必然ご縁に任せた生き方をしている中でこそ、その質素・素朴の本質を味わう事になるのです。
だから自己満足や不平不満の繰り返しで生きているからには質素素朴の本質・喜び楽しさを知ることにならないのです。

すなわち「食って寝て糞をする」だけのような生活、暇で退屈な生活を続けているからこそ、また思いが先立ち急ぎ慌てないで成り行き任せにしているからこその、今まで小さくて気付かなかったことや忘れていたことに気付くことになって、その喜びや楽しさに気付きそれを味わい感じることにもなっているのです。
・・・手っ取り早く味わい楽しめる自己満足とは違うのです。

そしてもっと突き詰めていくと、喜び楽しさ満足ともいえないが満ち足りた感じ、過不足のない丁度いい感じ、充実しているわけでもないが不足しているとも思えない感じ、そんな「調和」の中で居る安心安全(感)があります。
だから否定反発することも次第に無くなり、ゆえに不平不満・不信感・不安心配や怒り、そして守り意識も次第に出てこなくなりましたから、更に成り行き任せになり、更に暇で退屈する時間(ブログを書く時間やパチンコ)が多くなっています。
・・・その暇や退屈を言わない(私を越えている)我家の犬猫が羨ましくなっています。

否定反発しない関係、判り合い・聞く耳がある者同士の中に、僅かな至福が味わえる時があります。

2011年07月07日 | Weblog
私はささやかな自己満足と必然ご縁の成り行き任せで得られる少しの満足で暮らしていますが、それだけに暇で退屈している時間が多い事を何度も書いています。
だからそんな私にもささやかな望みがあります。
それが同じ思いで時を過ごせる「至福の時」を味わえる人とご縁・必然があることです。
しかし自他共に不完全意識ですから、互いの歯車が噛合わないだけに難しいところがあります。

しかし否定反発しない方で「知りたがる」そして「やりたがる」人であれば概ね波長が合います。
そうなれば当然ながら会話も弾みますから、千夜一夜物語ではないけれど、話し切れないほどの話題・情報・経験体験、しかも常識を超えた事実・霊魂・精神世界や真理や摩訶不思議な事も含めてたくさんの事実ネタがあります。

だから、知らない事を知りたがる人であれば、時折の必然ご縁ごとに(事ある毎に)、その場その時に相応しい話題・必然性のある会話として出てきますし、また私も知りたがる関係からして、私の知らないことを人様が話していればそれに引き込まれていきますから、互いに否定反発しないままに会話が進んでいきます。
また世間的な話題であっても、その結果の原因を(矛盾や妥協や嘘のない完全な)真理に沿って思い考え気付き学び知る事になりますから、意見の食い違いもまた思考錯誤・葛藤することにもなりません。

また何でもやりたがる人となら季節の野菜作りや草刈や枝打ちや薪作りをしたり、山道を散歩しならが山菜(竹の子・ワラビ・ゼンマイ・フキノトウ・ふき・ツクシ・たらの芽・イタドリ)の時期であれば、それらを採取し調理料理して一緒に食べるのも味のある時間になります。
また山野草を見つけてそれをめでるのも味わいある時間になります。
また四季折々の自然現象に接し触れ合う中にも奇遇ともいえるような(見たこともないような)自然現象を見ることにもなるでしょう。

すなわち新たに学び知る事も、見る事も、成す事も、また思い考えることも一般世間的ではなくなり、しかも自然界の中で質素・素朴に暮らしているからこその必然ご縁の事例・事実が多くなるのです。

それなのに(残念なことに)友がチョコッと来て、良いとこ取りだけして、すぐさま帰り支度をするような繰り返しですから、まだ知らない事を知ることにもならずに、また、まだ味わっていない事を新たに味わって帰ることにも(味わい深いことに)ならずにいますから、10年続く質素・素朴の「味わい深い」生き方を十分に理解できないままのお付合いになっています。

ところで、完全意識・神意識・宇宙意識になったからとて特別な文化文明・物質や形のある世界になるのでは無くて、万物すべての意識が解け合い・調和した者同士となり(地上の天国といわれる)あるがままの自由と調和の至福を意識で感じあうことになるだけです。

だから今は完全な調和でなくても、互いが否定反発し合わない精神を持ち、判り合おうとする気持ちや聞く耳を持とうとしている者同士の関係になれば、時として、共に判り合える関係のささやかな楽しさ喜び・調和・至福を味わえる時がありますから、それを味わえる時間やその回数が今より増えてくれば、暇で退屈しているだけにそれで十分過ぎるほどになるのです。

すなわち「良い悪い」(否定反発・不平不満)のない地上の天国・至福をチョコッと先取りしたような人間関係を望んでいるわけです。
そして同じ思いの仲間が増えて、時折、共に過ごす時間や回数が増える事を望んでいるのです。

ごちゃごちゃして、おかしげで、むちゃくちゃもある、釈然としない不確かな不完全意識、それが私達です。

2011年07月05日 | Weblog
私が元住んでいた所に用事が有って帰っているときに、居座る妻がいつもより早くバイト先から帰ってきたので、思いもよらない・いきなりだったために(思いつくままに)長年続けている「お花」の会に行くの?と言うと、何でな!お花ばっかり行っていないわ!予約している歯医者に行くために早く帰っただけ、だと腹立たしく言われましたので、そのあとの言葉も出ないままに(触らぬ神にたたりなしで)私はその場から離れることになりました。

そんな場合に私が妻に「お帰り」だけでなくて「お疲れさん」「ご苦労さん」と労をねぎらう優しさで言っていればそれが「思いやり」かもしれませんが、しかしその妻が思いやりに受け止めなければ「思いやり」にはなりません。
だから不完全意識の者同士では双方の思い気持ちが通じずにややこしい事になるのです・・・だから不完全意識の人間から出る優しさ思いやり・義理人情のその思い感情の歯車が噛合わずに終わることも多々あると思います。

私は人様の善意を素直に受け取るタイプですが、良心的な先方から仕事の話を(先方は良かれと思って)持ち込んできても、(私方の事情を知らずに来ていますから)それが理にかなう仕事で無ければ忙しさが増すばかりですから、それを誠意でもって断っても、その善意をむげにした事で相手が不満に思うかもしれません。
・・・先方の思い込みだけでおわり、私を思っての善意にはなりませんでした。
だから素直に受け取れないような善意も何だかややこしいことになります。
・・・これに似たようなことに信仰宗教の布教・宣教活動、また完全真理の会やファバラ製品の善意の紹介もあてはまります。
ゆえに私から善意をむやみに差し出すことも差し控えるようになりました。
・・・だから自然体の必然ご縁の成り行きに任すことにもなりました。

精神世界が縁で(概ね9年目になりますが)年に3回ほど(姪を連れて)山へ遊びに来る娘さんと会話していると、私が言った言葉に即座に反応して、機転の効いた突っ込み・ジョーク・ユーモアでもって味わいのある・花を添えた言葉と明るい笑顔で返ってくることが多いので、その会話が賑やかで微笑ましくも楽しくもなります。
ところがその娘さんはそんな自分を恥じていて、家族や職場やの外見では几帳面・真面目・潔癖な面しか出していないそうで、山へ来た開放感から元々の「素」(個性)を発散していると言うのです。
・・・「素」のままにいればいいものをなんて勿体ない事をしているのと私は思うのですが・・・
本人は即座に軽々しく返す言葉によって知らない間に人の心を傷つけているのでは?と心配しているようですが、(裏を反せば)中身が軽い女・軽々しく思われるのを用心しているのだとも思えます。
・・・長所を欠点に思い、また欠点を長所に思う場合もあり、またごちゃ混ぜにもなりますから、不完全意識は不確かなのです。

同じく精神世界が縁で「メル友」になり、やがて先方(50代の主婦)の依頼・相談事から電話での直接会話になり、それが縁で月に一度か二度程度の長電話を受ける形になりましたが、私が話す真理の内容にまったく否定反発しないで(メモを取りながら)話の合間に素直に理解できて、あっそういうことか、あっそうだね、何だからわかるような気がする等と(違和感も無く)聞いて良かった、知って良かったといった調子で約2年くらい続いたことがありました。
あれほど呑み込みが早く、また話の聞き上手な人はいませんでしたが、私の話が相手のトラウマに触れたのか次第にメールも電話も少なくなりましたが、それでも私は去る者は追わずですから、やがてご縁が途絶えることになりました。
・・・私にしたら長いご縁が勿体無いのですが、やはり知識だけで実践がなければその知識に違和感や不信感が出たり、また生活が先立ち真理が面倒くさいことになるのかもしれません。
・・・だから知識だけでは飽きたり、ややこしくなって長続きしないとも言える訳です。

ところで先程紹介した山へ来る娘さんと一緒に過ごしている時や会話中にも、また県外の主婦との長距離・長電話の時、それほどのことでもないのに、その時の私は判り合える(否定反発のない)友と一緒に居るという「至福」を(連続ではなく時折)味わっています。
だから何時間でも続いて欲しいし、何度でも機会があればいいと思っています。

でも相手が物足りなさそうになれば、その時の私は至福を味わってはいません、それが意識のすれ違いの時です。
だから物足りなくなったり単調が長々と続くと飽きたりして、やがて聞く耳・見る目が遠くなります。
すなわちその場から「離れ」たくなるのですが・・・もし至福であれば「一緒」に居たがるものです。
・・・だからこそ意識が解け合う「調和」が平和・至福になるのです。

親しい者同士の会話であっても互いの不完全意識が邪魔をして波長が合わない・歯車が噛合わないのですから、会話を超えた形になれば更にややこしくなるのも当然です。
だから良かれと思った善意や優しさ思いやりや義理人情がおかしげな事になるのも当然です。
だからおかしげでややこしい不完全意識の人間関係・人様の思い感情に私が自ら関わったことで、私の意識までがおかしげでややこしい事や不確かな面倒な事に巻き込まれるのであれば、それよりも単純明快・簡単明瞭な完全真理の実践意識でもって、独自独歩の歩みと必然ご縁の関係以外は成り行き任せの生活をしているほうが面倒くさくなくて気楽な気分・意識で暮らせます。

その無理のない生き方、執着のない生き方、質素素朴な生き方、自己満足の少ない生き方、不平不満の少ない生き方、必然ご縁に任せた生き方、などが実践できているのも、既に幾つかの至福の時・心に満ち足りた思いを過去に味わい知っているからです。
(求めたわけでもないのに)必然ご縁のままに生きている中で幾つかの幸せな気分・満足喜び至福を実際に味わい知ったからです。
しかも大きい事にあるのではなくて小さな事の中にあることですから、欲張り先走りその苦楽(自己満足と不平不満)に意識が使われている限りにおいては、その必然ご縁もなく、また感じ取り気付くことにはならないと思います。

誰もが人間の赤ちゃんとして生まれてきた当初は「食って寝て糞をする」だけで十分でした。

2011年07月03日 | Weblog
私が不平不満になるのは「私」(個人意識)の思いが出るからです。
人様の行為・表現に文句を言うのも腹立て怒るのも「私」です。
人様の好意を喜ぶのも粗末に思うのも不都合にも思えるのも「私」です。

すなわち人様の意識・思いに関係なく、自分の意識・思いが先立って自分勝手に思いを巡らし判断したことが原因であり、それが都合の良い結果なら自己満足し、都合が悪ければ相手を責めて不平不満に思うのです。
だから人様が私の為を思っていたことであっても、それが私に不都合だと、それを相手の責任にしたがるのです。
すなわち人様の思いとは関係なく自分の中にある私という個人意識が出てきているのが原因であって、人様が原因では無いのです。

また人様の嫌いな事を私がするから人様に嫌われる結果が出るのですが、それは「私」が原因の結果です。
また人様の気に入られるように私が行うから人様に好かれるのですが、それも「私」が出ています。
ところが私のその意に反して人様が不満に思われることになっても、それも「私」を出したのが原因の結果となります。

そんな「私」を出したことが原因の結果を「私」の思いで如何様にも変化させることが出来るのも、また「私」です。
だからいつも尺度・距離の中心の点に「私」がいるのです。
だから中心の<点>「私」を無くすることから「完全意識」になることが出来るのです。

しかしそれも私は「無理」だと思っています。
だったら何で「完全真理」がこの世に出てきたのでしょうか・・・そこで何度も書いているように完全と不完全を学び知り味わい感じることにあると書いてきました。

そこで(私が思うに)人間の赤ちゃんとして生まれてきた当初は「食って寝て糞をする」だけで十分でした。
ところがいつしか欲が出て、それだけでは不足・駄目に思うようになりました。
そして比較競争し合い幾多の苦・楽を味わい尽くす結果にもなっています。
ところが(個の思い・自分を出して)その苦楽を味わうことが気疲れ・しんどい事・虚しいことだと(私が)自覚できたのが今の田舎暮らしの結果であり、その「食って寝て糞をする」だけのような呑気な暮らしを実際に味わい感じてきたお蔭でもあります。

すなわち苦・楽を実際に多く味わってきたからこそ(それに気付いたからこそ)今の質素・素朴な暮らしに親しみ馴染めたのです。
・・・この世の不完全を多く味わっただけに、その不完全が出てこない暮らしぶりが調和で満たされていることを知るのです。
すなわち完全しか知らない神・人が多くの不完全を味わったことで、その完全さの調和・有り難さに気付いたことと同じようなものです。
・・・その完全の「ありがたさ」を知ることが宇宙・地球・人類の進化に必要なことだと完全真理で言われているのです。

だから個人意識を無くして「われ神なり」の境地・完全意識になる実践が無理ならば、先ずは完全真理を知ってこの世の不完全さを身をもって気付き悟るその実践の方が無理がありませんし、その気付きの実践をし続けることで十分とさえ思えるようになりました。

自我・欲を出してその良いところも悪いところも知ればそれが苦楽を味わったことになりますが、その欲を出さなければ気楽に暮らせることを実践で実際に気付かなければ(言葉で知っただけでは本物を実際に味わっていませんから)その自我・欲からなかなか抜け出すことはできません。
またその自我・欲を出すことから苦労をすることになっていることに「気付」かなければ、その気楽に暮らす実践には至りません。
だから誰もが欲を出して生きることから脱却できないで苦と楽の裏表・矛盾・不完全を味わい続けているのです。

そこで完全真理によって完全を学び知り、その完全を知ったことでこの世・人間の不完全意識・矛盾・苦楽に気付き知り、そこで実際に苦のない楽に生きる事を実践でもって味わい学び知り、そこで(結果的に)「苦」のある不完全に生きることよりも、「楽」に生きて<至福>を味わえる完全意識のありがたさを学び知る事になるのです。

すなわち「赤ちゃん」から始まり終わり、また「赤ちゃん」から始まり終わるその繰り返しが終わって、この世の不完全を味わい知った人間「命・意識」がもともとの宇宙意識・神意識・愛意識に蘇ることになるのです。