孤独の自由と欲張らない実践=頑張らない~楽になるブログ

個人意識丸出しながらも、欲張らない、見栄張らない、頑張らない、無理をしないで楽に生きる実践

不満と欲と矛盾に満ちているこの世人間界の中で生きているだけでも罪作りになることを自覚認識して生きていく必要があります。

2020年02月12日 | Weblog
数に限りがある有限の世界で欲張ることは弱者を虐めることになりますが、それが犯罪でなくても精神世界で犯した罪になります。

また不満と欲と矛盾に満ちて間違い狂っているこの世人間界に慣れ親しんでいること自体が精神世界を疎かにしている罪になります。

また欲張っちゃダメなことを知りながらも見栄や世間体やプライドからして欲張っていれば同罪になります。

また良かれと思って新たな事を成しても、それが矛盾偽善の結果が出る事実からしても、その罪作りになります。

また不満と欲と矛盾に満ちている心精神意識を持っているのに、人情愛情でもって困っている人を助ける行為が偽善の罪作りになるばかりか、
その困っている人の自力自信となるチャンスを邪魔している罪にもなるし、
また困った時の神頼み的な他力依存型の人が増える、その罪作りにもなります。

また食って寝て糞をしながら生きていくために自然界を汚染し破壊するのも大きな罪になります。

だから素朴謙虚にして小さく生きていく必要があるのです。

なのにそれを無視して大きく生きることになり、しかも生きているからには楽しまなくちゃとなり、巷の趣味嗜好娯楽で変化刺激を味わうことになれば、その大きな罪作りになります。

またお金と性欲に拘り執着すれば精神未熟者となり精神世界の落ちこぼれになるばかりか、その罪作りを繰り返すバカ者になるかもしれません。

とにかく不満と欲と矛盾で生きているだけでも罪作りになることを自覚認識して生きていく必要があるのです。

ゆえに自然界の衣食住のお蔭で「生きている」だけでもありがたい事なのです。

自力で生きていくことが精神力のある生き方にもなり・多くの精神の学びにもなり・生きている価値も見いだせるのです。

2020年02月12日 | Weblog
人間は生まれたからには必ず死にます。
だから死ぬことは当たり前の普通なのです。

ところが死を特別に思うから、そこで拘り執着してヘンテコなことをしでかしているのです。

ちなみに死ぬことで此れまで生きていくための衣食住から解放されるし、また此れまでの人間関係のしがらみからも解放されて、俗に言う自由な魂となるのですから、逆に喜ぶべきことかもしれません。

なのにヘンテコな葬儀法要儀式となっているのですが、皆がそろってやっているから、いつの間にやらそれが常識や伝統風習にもなったのです。

そして死を特別にするから祭壇に美しいものや美味しいもので飾りたてて別れを惜しんだり特別な立派なお墓や仏壇仏具が必要になるのです。

ところがそんな葬儀儀式に違和感があったり余計なことで無駄なことだと思う人が次第に増えたから…人様にあまり迷惑を掛けない家族葬が増えているのです。

それを裏返せば…葬儀法要などが必要ないことに(内心では)すでに気付いていることになるのです。

ところが見栄や世間体を気にしたり、そのプライドからして余計で無駄になる式を執り行うことにもなっているのです。

然るに自信自力のない精神力の未熟な人になるのです。

また死んだ人にも責任があります。

何かと見栄っ張りでもって自尊心も高く、それだけに世間に目立ちたがったことでしょうし、また欲張って資産財産をあまるほど残したことでしょうし、それに見合った葬儀法要を望んでいたことでしょう。

ちなみに死後の葬儀法要が無駄で余計なことだと自覚認識していた人ならば、前もってそれなりの手立てを考えておいて・残る家族にもしっかりと伝えていたはずです。

そこで私の事例になるのですが(何度も登場しますが)…
私の死後の葬儀法要やお墓仏壇に祀ることも不要とし…
また私が死に拘り執着し未練を残さないためにも…ここ20年あまりいっさいの葬儀法要に関わらずにきました。

しかも独りして山の中で作業している時や山歩きを楽しんでいる時に事故に遭ったりして身動きできなくなる場合もあるかもしれませんが、それでも自力でもって何とか助かればいいし、自力不足で助からずに野垂れ死にすることになればそれも死ぬ時・寿命が尽きたとして納得できるのです。

だから同じく事故や病気で助かるのも自力があるからでして、それが助からなければそれだけ自力不足だったという証だからそれで納得します。

だから死に目に遭いそうになっても…慌てず騒がず静かにして…自力でもって対応し、そして生きるも死ぬも成り行き任せになります。

だから死に至る確率の高い病気であっても自力に任せて手術などはしません。

そしてそれが原因で死に至ることになるかもしれませんが、それに拘り執着しないで成り行きに任せてにすることができるし、その分だけ死に際まで静かに過ごせると確信しています。

また重度の認知症になって自力で食事が出来なくなれば・余計な情けは迷惑だからとして、何某の延命治療は全く必要ないと家族に伝えています。

また元気な内に重度の認知症になり、それが原因で行方不明になっても、余計な捜索をしないでほっといておいて、私が自力もって帰宅するのか、また誰かに保護されて帰って来るのか、

それとも自力で帰れずにしてどっかで遺体や白骨となっていれば、それも私に仕組まれたことであり、またそれも私が前もって「望んでいた」ことだとして…

残る家族らが余計な気疲れしたり、執着や未練や後悔を持たないようにと、前もってしっかりと家族に伝えています。

ちなみに私が思うには…重度の認知症になって自力で帰宅できなくなったり、また自力で食事が出来なくなることは、人間として生きていく「機能が壊れた」のですから(死ぬしかないのだから)その延命処置など施すのは余計で無駄なことと思っています。

だから私自身の延命処置などは無用として…死ぬ時が来たら死ぬおの自然死を望んでいるのです。

何はともあれ…<自力>でもって生きていくことが確かに出来ていれば…その精神力のある確かな生き方にもなり、また人間として生きていることの精神の学びも深くなり、また生きている価値も見いだして、それが生きていることの自信確信にもなります。