私の思い信念や真理からして…私の死後の葬儀法要は一切なし、仏壇お墓も不要としています。
ちなみに過疎地暮らし約20年の間(ブログに書いているように・私の思い信念からして)どなた様の葬儀法要に関わったことがないから
…当然ながら私の死後のこともお構いなくほっといてくださいとなります…
となれば当然ながら…私が生きている間に…家族やの誰かが葬儀となっても、そのお通夜に行くことがあっても、その後の葬儀式典や法要には参列しませんし、ましてお墓参りや仏壇に手を合わすこともありません。
そんな私の思い信念をちょっとでも知りたければ…
この世人間界が不満と欲と矛盾に満ちて間違い狂っている事実を書いているこのブログを読めば明確にして納得できるはずです。
それを簡単に説明すれば…矛盾偽善から始まった事は同じ矛盾偽善の結果が出てくると言う原理原則=原因と結果は同じからして=何を成しても無駄で余計なことになる=そして結果的には不満と満足の喜怒哀楽の繰り返しでもって生きていくことになる事実があるのです。
…此れだけの端的な説明で理解できなければ…根掘り葉掘り詳細に書いているブログをお読みください。
何はともあれ…私は香川医大に検体登録しているから、お通夜を始め葬儀法要も必要なく、お骨遺灰となって帰ってきますから、それを受け取り過疎地の敷地に振りまいて終わりとしますから、それ以外の無駄で余計なことは一切なしとなります。
…この件は既に家族に伝えております…
また孤独の自由にしての独り暮らしですから…何か事があっても…己の自力で生きていく覚悟ができています。
だから事故や病気で入院するも、自力で生きていけなくなれば&自分の力で食べることができなくなれば…そのままにしてただ死を待つだけにして…
何某の延命処置不要にしての…食べられなければ死ぬのが当たり前だから…その衰弱死&自然死を望んでいるのです。
また生命にかかわる重度の病気になっても・自力の成り行きに任せて・その手術は受けません。
しかし症状による痛みや苦しみを和らげる薬剤に頼ることはあります。
とにかく死に対する恐怖感がなく、また長生きしたいとも思っていませんから、寿命が尽きれば素直に死ぬだけです。
またその死も(私の信念・自信確信からして)単なる(痛くも痒くもない)「眠りに入る」だけなのです。
またその眠りの中で見る夢が現実に思えますから…自分が死んであの世とやらに居るなんて自覚認識できません。
だから人間として終わっても死後のあの世とやらでは生きていることになります。
だからあの世とやらで…人間の時の思いや感情や記憶やらがごちゃごちゃに混じりながらも蘇がえり…人間の時に学びきれなかった事柄を再び学び直すことにもなるのです。
そこでちょっと賢くなって…いつしか人間として再び生まれてきます。
ちなみにそれが過去世や前世と言われるものです。
…信じるか否かになりますが私は確信しています…
何はともあれ…私が元気な時に重度の認知症となって行方不明となっても…その捜索をしないままの無関心にして放置してください。
…どっかで遺体や白骨となっていれば(無縁死・孤独死)私の望むところです…
また入院当初はたぶん地元の徳島ですが、寝たきりでもって死を待つだけとなれば、検体登録している香川医大に転院する予約をしてその日を待ちますが、その通りとならないで徳島で死ねば(専門分野に任せて)その遺体を香川医大に転送してください…受け取ってくれるはずです…そして冷凍保存されます。
また事故や病気で身体が不自由になっても、何とか自力で食事と排便ができるうちは県外の家族の介護や地元施設での入院介護とはなりません。
その事例が如くに(私が事実にして見てきた15年以上前から)(片足に障害を持ったまま)(家の中ではいつくばりながら)(週に二回ほどヘルパーの世話を受けながら)(死に目が近づくまで元気にしていた)独居老人がご近所に居ましたが…介護施設に入居してまもなく死亡しました。
ちなみに私の先行きの生き様の見本が如くに…(私が過疎地暮らしとなる以前から)前もって仕組まれ用意されていたことにもなります。
然るに私も同じ目に遭えば(はいつくばっても生き続ける覚悟がありますから)そこで生活に必要な物資や食糧の買い出しが不自由な身となれば…訪問ヘルパーに依頼します。
ちなみにここ20年ほど殆どがスイッチポンの食事でしたから、体が不自由になってもスイッチポンの生活くらいは可能です。
また入浴ができないことで死ぬこともありませんからお構いなしでOKです。
…聞くところでは…どっかの施設での入浴介助が受けられるようです。
ちなみに此れまで(牛舎のパートで帰っても)手も顔も洗わないで平気で食事していますから、我が家のホコリだらけの不衛生に慣れ親しんでいますから、当然ながら衛生面では何の問題もありません。
何はともあれ…自力で生きていけなくなれば「死を待つ」だけの日々となりますが、しかし可能な限り自力で成しながら、何とか人様に迷惑を及ぼさないように心掛けて生きていきます。
然るに私に対する愛情や義理人情は全く必要ありません。
無関心で薄情にしてほっといてくれるほうが私には(信念からして)都合がいいのです。
何たって私自身が薄情だから…お互い様で納得できるのです。
そして他力が必要となれば…その道の専門分野に依頼しますし、そのお金が無ければその依頼をすることもありません。
それでも自力と自信の精神力でもって…食って寝て糞をしながら生きていくことは可能だからです。
また財産らしい財産はありませんし、現在の家屋敷地も財産的価値はありませんから、私の死後の成り行きに任せます。
と言った具合ですが…何か書き漏れしたことやアドバイスなり質問があればコメントしてください。
ちなみに過疎地暮らし約20年の間(ブログに書いているように・私の思い信念からして)どなた様の葬儀法要に関わったことがないから
…当然ながら私の死後のこともお構いなくほっといてくださいとなります…
となれば当然ながら…私が生きている間に…家族やの誰かが葬儀となっても、そのお通夜に行くことがあっても、その後の葬儀式典や法要には参列しませんし、ましてお墓参りや仏壇に手を合わすこともありません。
そんな私の思い信念をちょっとでも知りたければ…
この世人間界が不満と欲と矛盾に満ちて間違い狂っている事実を書いているこのブログを読めば明確にして納得できるはずです。
それを簡単に説明すれば…矛盾偽善から始まった事は同じ矛盾偽善の結果が出てくると言う原理原則=原因と結果は同じからして=何を成しても無駄で余計なことになる=そして結果的には不満と満足の喜怒哀楽の繰り返しでもって生きていくことになる事実があるのです。
…此れだけの端的な説明で理解できなければ…根掘り葉掘り詳細に書いているブログをお読みください。
何はともあれ…私は香川医大に検体登録しているから、お通夜を始め葬儀法要も必要なく、お骨遺灰となって帰ってきますから、それを受け取り過疎地の敷地に振りまいて終わりとしますから、それ以外の無駄で余計なことは一切なしとなります。
…この件は既に家族に伝えております…
また孤独の自由にしての独り暮らしですから…何か事があっても…己の自力で生きていく覚悟ができています。
だから事故や病気で入院するも、自力で生きていけなくなれば&自分の力で食べることができなくなれば…そのままにしてただ死を待つだけにして…
何某の延命処置不要にしての…食べられなければ死ぬのが当たり前だから…その衰弱死&自然死を望んでいるのです。
また生命にかかわる重度の病気になっても・自力の成り行きに任せて・その手術は受けません。
しかし症状による痛みや苦しみを和らげる薬剤に頼ることはあります。
とにかく死に対する恐怖感がなく、また長生きしたいとも思っていませんから、寿命が尽きれば素直に死ぬだけです。
またその死も(私の信念・自信確信からして)単なる(痛くも痒くもない)「眠りに入る」だけなのです。
またその眠りの中で見る夢が現実に思えますから…自分が死んであの世とやらに居るなんて自覚認識できません。
だから人間として終わっても死後のあの世とやらでは生きていることになります。
だからあの世とやらで…人間の時の思いや感情や記憶やらがごちゃごちゃに混じりながらも蘇がえり…人間の時に学びきれなかった事柄を再び学び直すことにもなるのです。
そこでちょっと賢くなって…いつしか人間として再び生まれてきます。
ちなみにそれが過去世や前世と言われるものです。
…信じるか否かになりますが私は確信しています…
何はともあれ…私が元気な時に重度の認知症となって行方不明となっても…その捜索をしないままの無関心にして放置してください。
…どっかで遺体や白骨となっていれば(無縁死・孤独死)私の望むところです…
また入院当初はたぶん地元の徳島ですが、寝たきりでもって死を待つだけとなれば、検体登録している香川医大に転院する予約をしてその日を待ちますが、その通りとならないで徳島で死ねば(専門分野に任せて)その遺体を香川医大に転送してください…受け取ってくれるはずです…そして冷凍保存されます。
また事故や病気で身体が不自由になっても、何とか自力で食事と排便ができるうちは県外の家族の介護や地元施設での入院介護とはなりません。
その事例が如くに(私が事実にして見てきた15年以上前から)(片足に障害を持ったまま)(家の中ではいつくばりながら)(週に二回ほどヘルパーの世話を受けながら)(死に目が近づくまで元気にしていた)独居老人がご近所に居ましたが…介護施設に入居してまもなく死亡しました。
ちなみに私の先行きの生き様の見本が如くに…(私が過疎地暮らしとなる以前から)前もって仕組まれ用意されていたことにもなります。
然るに私も同じ目に遭えば(はいつくばっても生き続ける覚悟がありますから)そこで生活に必要な物資や食糧の買い出しが不自由な身となれば…訪問ヘルパーに依頼します。
ちなみにここ20年ほど殆どがスイッチポンの食事でしたから、体が不自由になってもスイッチポンの生活くらいは可能です。
また入浴ができないことで死ぬこともありませんからお構いなしでOKです。
…聞くところでは…どっかの施設での入浴介助が受けられるようです。
ちなみに此れまで(牛舎のパートで帰っても)手も顔も洗わないで平気で食事していますから、我が家のホコリだらけの不衛生に慣れ親しんでいますから、当然ながら衛生面では何の問題もありません。
何はともあれ…自力で生きていけなくなれば「死を待つ」だけの日々となりますが、しかし可能な限り自力で成しながら、何とか人様に迷惑を及ぼさないように心掛けて生きていきます。
然るに私に対する愛情や義理人情は全く必要ありません。
無関心で薄情にしてほっといてくれるほうが私には(信念からして)都合がいいのです。
何たって私自身が薄情だから…お互い様で納得できるのです。
そして他力が必要となれば…その道の専門分野に依頼しますし、そのお金が無ければその依頼をすることもありません。
それでも自力と自信の精神力でもって…食って寝て糞をしながら生きていくことは可能だからです。
また財産らしい財産はありませんし、現在の家屋敷地も財産的価値はありませんから、私の死後の成り行きに任せます。
と言った具合ですが…何か書き漏れしたことやアドバイスなり質問があればコメントしてください。