年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

おにぎりの具

2006年03月15日 | 趣味としての漬物
日本の食文化は米(=石高制・税金)食文化とも言えます.ただ実際、日本全国民が何時でも好きなだけ米が食べられるようになったのは30年前(1970年頃)からです。
米を食べる地域でも粒食文化と粉食文化に分かれており、米の種類にもねばりのあるジャポニカ米と、ぱらぱらのインディカ米とがあります。粒食、しかもジャポニカ米を食べているのは日本ぐらい。おにぎりは平安時代の頓食(とんじき)が起源といわれています。この頓食は戦国時代の兵士や畑仕事の携帯食として用いられたようです。
日本兵食史 上巻 陸軍糧秣本廠 33頁 
米について見るに、播磨風土記に粳岡または糠前の地名伝説として見ゆる粳、糠は今日云う糠と異なって、籾殻も混在した糠であると考えられる。わが上代人もまた木製の舂(ツキ)に木製の杵を以って籾米をついて籾を取り去ったもので、その結果は現時の如き玄米と同一であったとは考えられぬ。すなわち搗く事は籾殻を脱落せしめると共に、幾分の糠も取れるという程度であったろう。奈良朝から平安朝にかけて、史に見ゆるところの黒米・白米などはこの搗き方の程度に関係しているもので、白米といえども今日のごとく精白された白米と相違して、単によく搗かれて、白き米となった位のところであろう。而して、黒米は、籾殻も混在して底のもので、これが常用されていたものであろう。

125頁
平安朝時代
主食品たる米の精米は、既に上流階級の間に行われていた。これは臼で搗いて白くしたものであって、勿論現代の如き白さの程度が異なっている。同じ臼で搗いても、その程度の少ないものが黒米とすれば、多く搗いて白くなったものが白米といわれたものであろう。これらの米は甑(コシキ)にいれて蒸して食用に供するのが普通でこれを強飯(コワイイ)と呼んだ。而して鍋や釜やで煮たものを粥と呼ぶのであるが、現代人が炊事する場合にも硬軟あるが如く、この時代には、この二者の程度が著しく離れて行われたものの如く思われる。即ちよく炊かれたものを姫飯と呼ばれているが、この姫飯は大体平安朝末期より行われたものの如く、強飯に対照するものである。粥は上流貴人が朝食などに摂取する場合が多く、今日と同様に病人の食物でもあった。カタシキ飯なるものは、文字通りに堅く炊ぎたる飯で、即ち半熟の飯である。
 糒(ホシイイ)は貯蔵用に又兵食として前代から多く利用されたのであるが、今期に至っては比較的需要が少なくなった傾向が見える。それは粥やカタシキ飯やその他雑穀の飯などが鍋釜によって作られるという改革が食物界を風靡したからである。従って、糒は旅行用又は貯蔵用としてのみ、その生命が保たれることになった。これは平安朝末期から顕著になったと様に思われる。糒は冬には湯をかけて食するため湯漬といい、夏日は水に入れて食べるが故に、水飯又は水漬と呼ばれる。強飯の場合も同様に呼ばれた。
 屯飯(握り飯の様なもの)がこの時代より行われた。要するに簡便に食事をさせる為に作られた包み飯である。
 しかし、これらの食事は京師中心のものであって、一歩地方に出たならば、どの程度ものか明らかでないとしても、相当に低下されて見るべきである。と言っても、徳川期の如く麦を主食としたということは無い。麦はその収穫も少なく従って値も高かったからで、農民も亦米を主食としていたものと思われる。

漬物は米食と共にある。従って、米の歴史に影響されます。兵食の中でおにぎりの具の基本は漬物で、特にすっぱい梅干です。
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