1週間ほど前、知覧特攻基地戦没者慰霊祭 の今年の様子の冊子が送られてきた。昨年と同様にコロナで少人数の開催となって、終わったようだ。夜に菊花の打ち上げ花火で慰霊祭を締めくくったようだ。今年の12月にアメリカとの開戦80年となる。参列した親族も生きていた特攻隊員を見ていた人も年々少なくなっていることを鹿児島中央駅からの式典送迎バスの中で話していた。次々と記憶を語る人が消えてゆく。そして生きていた人も76年の歳月から断片的な話となる。
なぜか叔父の記録が消えているか探り出してすでに10年になる。遅かったと思うが今となれば戦後に受けた特攻隊員に対する扱いから、親族が写真を残し記録と記憶を消したと感じる。何が戦後の叔父の生家にあったのだろうか。謎解きは続く。特攻した叔父を英霊として扱ったが敗戦とともに米軍が近所に進駐すると厄介者扱いされたのだろうか。
今年の5月20日の特攻死はコロナで墓前に語ることもなく過ぎ去った。
台湾の台北大空襲1945年(昭和20年)5月31日、フィリピンの基地からB29による連合国軍の空襲により日本統治時代の台湾台北州台北市に対して行われた無差別爆撃である。この時期はもう日本軍には迎撃する飛行機は特攻用向けで日本人居住区を狙った。この空襲で市民約3000人(日本人が中心)が死亡、重軽傷者並びに家屋を失った者は数万人以上に上った。
この空襲は5月20日に台湾八塊基地から沖縄嘉手納沖に集結していた米軍艦船に叔父らの特攻隊が出撃し、米軍記録でもこの時期としては多大な戦果をあげた。そしてその報復とも考えられる台北の空襲があった。叔父らの特攻に対する反撃だったのだろうか。台湾でのこの空襲に対する研究はなされていないようだ。
この台北大空襲を知ったのは、叔父の特攻出撃の最後の宴会に参加していた、14歳のお転婆女子の著書から知った。(14歳の夏)中田芳子著
今でも90歳のユチュ-バーとして活躍していて、中田芳子・戦争と入力すると、小学校での平和教育として講演しているのが見える。
歴史は勝者の記録が残り、敗者は質量ともに記録が少ない。コロナの敗戦の今次の感染病のために記録を残し、成功した事例や失敗した事例を記録し、記憶するしかない。
東日本震災時に過去の津波の上限到達地に石碑があった。かなり高いが地域の記憶復活に役に立ったようだ。