goo blog サービス終了のお知らせ 

 年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

明治18年頃の上野公園付近の様子を本で

2025年04月25日 | 福神漬
福神漬の命名の成立時期を文献で調べることを気にしていた。東京柳巷新誌という本がネット検索で出てきた。調べると著者は服部撫松(誠一郎)だった。この人は幕末から明治の廃藩置県まで福島県二本松の公用人(県における中央の情勢収集)で待合での接待要員だった。この接待で明治初期の花柳界隈を漢文戯作風の文章で東京新繁盛記を出版し、財を成した。そして明治10年頃、銀座8丁目の所で雑誌社公益問答新聞社を経営した。そこで記者として論説を担っていたのが佐藤清・花香恭次郎でこの二人は福島で自由民権運動で活躍した。今の日本と違って、言論規制の緩やかな時代で諸外国から日本に流入してきた考え方を日本人に馴染むような回答で、多くの読者は一種の自由という文明の娯楽のようだった。今の感覚だと読者の質問に回答するようなものと言うが国会図書館で探さないとまだ読めない。自分が数冊ほど駒場の 日本近代文学館で読んだ。
 明治10年の創刊だったが社主の服部と花香の意見が西南戦争で衝突し、花香が退社し、遅れて佐藤が退社した。日本近代文学館所蔵の雑誌は編集者がまだ佐藤でいつ退社したのだろうか。さらにこの雑誌を寄贈した人は誰なのだろうか気になる。公益問答新聞の寿命は短かった。明治9年.6.月15日「広益問答新聞」創刊、明治12年9月( 第376号)終刊 週2回ほどの発行なのだろうか。廃刊理由は不明だが徐々に明治政府が言論統制を強化している時期だった。親旧幕の人が多い、江戸東京の読者を捕まえることが出来なかったのだろうか。現物を読んでみたい。


 この雰囲気は今の野球場の応援団演説に気分は似ている。ライバルとなった明治政府をいらだてるようなヤジ演説はそれを阻止する警察官と揉める様子が見える。今の時代と違って、音声の記録がないため、文献では演説の題目しか残っていないので、文章として紙媒体に残るのは今でも参考になる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬の聖地は上野寛永寺根本中堂・その2

2025年04月12日 | 福神漬
上野戦争・彰義隊の戦争まで徳川の墓所である寛永寺は巨大な寺院で、現存する絵図で想像もできない。しかし明治元年5月15日早朝から上野の山で戦闘がおこり、徐々に西軍に押され、不忍池越しに防御の要の黒門を狙いうちされ、劣勢になった。この旧暦の5月15日は新暦に直すと、7月の上旬で今でも東京は梅雨時で湿気が多く、仮に戦闘になっても、彰義隊が放火しても大火にはなりにくい。
 ここに西軍を率いた大村益次郎の戦略の優秀性が見える。一方上野方は江戸市民の支援頼みで情報収集も不足していて、黒門への攻撃で崩れた。窮鼠猫を噛むという言葉があるが背水の陣の兵士は強いので大村は逃げ道を残し、さらに逃げ道から偽の援軍を侵入させ混乱を引き起こした。これは関ケ原の小早川の行動に似ている。戦闘は半日で終わり、敗者の彰義隊は寛永寺から去って行った。今ある寛永寺は記録によると全盛期の10分の1の広さしかないという。それでも今ある寛永寺根本中堂は普通の寺院より巨大である。その境内に了翁禅師の碑があって、さらに東京都教育委員会の案内板がある。了翁禅師は秋田県湯沢市で生まれていて、湯沢市では福神漬の元祖ということで小学校の郷土史で習っている。その根拠として、了翁が上野の地で学校をつくり、その学僧のための寮の食事で余った野菜くずで漬物を作ったことから来ている。この故事から寛永寺と関係のある駒込学園で中高一貫教育で知られている。歴代の校長先生は中学1年の新入生に慣例として、了翁禅師の講和をしている様子が見える。日本の公共図書館の初めと言う文献もある。上野の寛永寺の学僧と幕府の昌平坂学問所の付近日本屋と古書店が集積し、そこから明治になって大学と書籍街が出来た。上野のサクラを最初に植えたのは寛永寺境内でなく、朱子学の学校と言う。
 了翁禅師の碑の前に巨大な碑がある。上野戦争碑記と言う。この碑文を選したのは阿部弘蔵(杖策)で彰義隊の一員で漢文の素養があって、彰義隊の命名時に強く主張したという。最初は昭と言う字を予定していたが徳川の意向が見えていて、そこから義をあらわす、彰と言う字を当てたようだ。あくまでも徳川慶喜の恭順の意向を示し、秩序維持隊としていた。しかし彼らの彰義隊が江戸市民の人気の急上昇によって、仕方なく鎮圧に西軍は向かった。
 歴史の解釈は時代と時期によって異なる。上野戦争碑記は明治44年建てられたが当時は彰義隊の碑とは出来なかったようだ。碑文の内容は記録から変えられているいう。さらにこの巨大な碑の説明の案内文が今でも境内に無いことが不思議である。台東区教育委員会のトップの席に寛永寺の浦井正明氏の意向もあった気がする。まだ明治期から戦前は輪王寺宮(寛永寺側)が逆賊扱いされていて、納得のいく碑文とは思えないのだろう。同様に上野動物園前の小松宮の騎馬像はその台東区教育委員会の説明文であいまいな表現となっている。本当は北白川宮の騎馬像が上野の地にふさわしい気がする。西郷さんの銅像、彰義隊の墓を戦死者之墓としたりしていて、上野戦争の遺恨がまだ残っている。そこに福神漬の味が甘ショッパイ味がする。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬の聖地は上野寛永寺根本中堂・台東区上野桜木1

2025年04月11日 | 福神漬
サクラの散り具合を求めて、上野公園に向かった。すでに花の盛りは過ぎて、緑と桜の混じった並木の下を、観光客が歩く。途中から清水観音堂で上野のさくらを眺める。のぼり旗があって、寛永寺創建400年と言う。寛永2年1625年となる。
国立科学博物館を過ぎて、クジラを通り過ぎて、突き当たると国立博物館となる。ちらほら見える博物館内の庭園を散策したいと思いつつ、チケット売り場で係の人に聞かれ、何も見たいものが無いと伝えたら、高齢者を証明するのものがあれば入れますと言われ、シルバ-パス利用で中に入る。目的は桜見物。ここには宴会風景の無い桜が見れる。東京国立博物館では満70歳以上の方は無料とのこと。科学博物館は65歳から。特別展は気になるが無いのでパス。本館を見つつ案内図を見て、博物館裏の庭園の入り口に向かう。日本人はほとんど居なくて異国人の人は少し。サクラの散り具合と静けさがとても上野公園内の桜見物とは思えない。途中に河村瑞賢の茶室があって、由来を見ていると福神漬の言い伝えが上野桜木に集まっているとおもう。福神漬伝説は創作であって、それぞれの伝説がいかにも真実のように伝えられている。
 4種類あるうちの一つは池之端の酒悦、二つ目は了翁禅師、三つ目は科学博物館の田中芳男、三菱の岩崎の茅町の岩崎庭園も近所にある。
 了翁禅師の碑が現存する寛永寺根本中堂の前庭の右にある。福神漬自体は酒悦主人が上野公園の整備によって増えてきた観光客用の持ち帰ることのできる食品を開発したことから始まる。そこで公園内の博覧会で出品されていた缶詰食品から、漬物を入れて売り出したが、価格が高すぎ売れなかった。そこで当時の広告のり―ダーだった薬老舗の宝旦主人のアドバイスからブランド作り、さらに効能の広告文をつくった。谷中の七福神巡りから福神漬となった。
 ただ歴史の悪戯はそれだけではなかった。つくられた伝説がいつの間に別の伝説が生まれた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

時計の回りが早くて

2025年02月26日 | 福神漬
自分が自己の当日の行動を決めて、予定しても家族の日程と宅配の様子でしばしば予定が未定となる。さらに天候の様子も変わる。
 一応今日の予定は昨日のうちに決めているが、今日家から出て、空の様子から決めるだろう。2月26日は226事件の記念日で先の戦争に向かう促進事件と今では思われている。この評価はまだ自分としては納得がいかない。どこかでためらいがあったはずだが、議論のできない日本では空気を醸成した勢力が勝つ事例が目立っている。
昨日の自宅蟄居で押し入れから取り出したファイルを眺め、整理を始めた。
 能久親王御事蹟と言う森鴎外の関係する資料で、鴎外記念館図書室でコピ-したものだった。福神漬の資料調査で森鴎外は福神漬の記述のあるものが見つかっていない。
 九段下の昭和館図書室で、能久親王御事蹟と言う本を検索すると、2冊出て来る。1冊は台湾教育委員会の編纂で、内容は能久親王御事蹟と台湾の神社にどう能久親王が祀られているかの本で、戦前の台湾でどのような皇民化教育をしているかわかる本だった。もう1冊が日本陸軍の親睦団体の東京偕行社堂陰会が編纂している。この仕組みの解読が多くの森鴎外の研究者でなされている様子があって、自分も福神漬のバックグランドから眺め、分析してみたいと思っている。
 結論から言うと、大方の記述が鴎外と共に台湾で過ごした陸軍幹部の気持ちと、実際の台湾南部の戦場で日々弱っていく北白川宮能久親王の病気治療を忌避する意志の様子が書かれている。この解釈が今の時代と明治期の解釈が異なっていて、評価の揺れが見える。
 そもそも福神漬は上野戦争で荒廃した上野寛永寺の公園化し、文明開化の象徴地域とし、観光地化となり復興が出来つつあった。その観光客用の持ち帰ることの出来る缶詰入りの漬物の商品名が福神漬と言う名称だった。当時のまだ親幕府感でブランド名を弾圧されないよう、谷中の七福神巡りを思わせる引き札を創った。中の7種の野菜に武士の象徴である刀を意味する刀豆がその暗示の一つである。しかしこの込み入った暗示は普通の東京人には理解できず、今では福神漬の中身の研究はない。漬物業界の人でも今では江戸時代に切り口が徳川の葵の紋に似いていて、下品の野菜としていたキュウリが今では福神漬の原料に加わってしまった。悲しい。

 資料参考 研究誌 鴎外88号 村上裕紀
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

皇族軍人で

2025年02月12日 | 福神漬
2月11日、建国記念の祝日で都営新宿線九段下駅で降りる予定でうとうとしていたら、通過して市ヶ谷駅で降りた。そこで戻ろうとしたが、駅構内の付近の地図を見ていると、九段下駅と市ヶ谷駅の中間に靖国神社があって、市谷駅で降りて、混雑具合を見ていたら、ガラガラで本当に建国記念日なのだろうかと思った。拝殿前の行列も、警備の人が広がって参拝してくださいと言っていたが、三列の行列が参拝後に見ると、3Mの長さしかない。普段より少ない。靖国神社をあとにして、九段下駅に隣接する昭和館図書室で能久親王御事蹟の本を読む。この本はもう数回借り出して読んでいるが、だいぶ劣化した。すでに刊行後から100年以上経っている。
 本文の書き出しは皇族である事蹟から書かれている。この本の編纂者は森鴎外である。しかし森の関与の部分が自分にはまだ察知できない。
 同時に借りだした本で皇族軍人という言葉が気になった。男性皇族が明治の初めに軍人になることになって、最初の皇族が上野動物園の正門前の銅像と知られている小松宮彰仁親王だった。ところが台東区の教育委員会の銅像の設立位置の経緯がはっきりとしない書き方で暗に台東区としては北白川宮の銅像の方が良いと思っていた様だ。福神漬はこの上野公園の成立時期に上野戦争で荒廃し復興してきた時に創製された。上野の地の手土産を下谷の意地で観光客用の持ち帰ることのできる缶詰入りの食開発だった。福神漬には維新の時に抵抗した旧幕臣の武士の意地が商材に比喩として入れてある。その代表がナタマメで漢字で書くと刀豆と書き、刀の形をしている豆である。日本刀は江戸時代には弓なりで、聖徳太子の絵などを見ている直刀であることが解かる。本当に食用のナタマメは弓なりの刀に似ている。日本に伝来したのが文献では江戸時代初めとなる。
 従って福神漬の伝説と言うか創作された物語は江戸時代の話となる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりの福神漬の点検

2025年02月03日 | 福神漬
朝余ったご飯を食べようとして、カレ―にした。そこで冷蔵庫の隅に隠れていた福神漬を取り出し、開封し、袋を眺めていた。袋の表に7種の野菜、塩分25%カット、国内工場生産等々。この表示は何を意味するのだろうか。現役時には気にしていなかった。思わずもう塩分が2.5Gになったのかと思い裏面表示を見ると100G当たり2.8Gという。すると前の規格では100G当たり何グラムとなるのだろうか。この問題は私立の中学校の入試の算数問題に出そうな気がした。
 裏面を見たのは賞味期限がはるか前に切れていた。自分は福神漬の賞味期限の設定経過と期限後の味の変化にいつも興味がある。もちろん食の保存状況によるが、自分の舌感覚が劣化したかも知りたい気分もある。
 人間の血液には塩分がある。これは人類の先祖が海から陸に上がった時の残滓と言う。この血液塩分を調べると看護師のサイトが出てきて詳しくて理解しやすい。
 看護師の常識で生理食塩水と言うのがあって、1リットル当たりの塩分が9グラムという。普通サイズの生理食塩水は500ミリリットルなので2本でほぼ厚生労働省の好ましい塩分摂取量となる。なおそこにはカリウムと言うのがあって、さらに複雑な調整があるようだ。
 今でも各都道府県で高齢者の健康寿命を延ばすための指導が塩分摂取の抑制の様だ。本当にそれで良いのだろうか。75歳以上の高齢者の生き方は和田秀樹先生の本が役に立つと思う。
和田先生の見解では高齢になると、腎臓が塩分を貯留する能力が落ちるため、むしろ塩分不足、低ナトリウム血症のほうが心配という。それより塩分が欲しいと欲求することを抑える意識がストレスとなるという。80にもなれば若い時とは異なるようだ。体の要求はどこかに異常があるということになるという。諸説ありますかの世界である。自分的には80にもなれば健康法しても過去の不節制からどうしようもない事を知っている。                                                                
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

どうやって証明できるのか カレ―ライスと福神漬

2025年01月22日 | 福神漬
あるテレビ局のデイレクターから、カレ―ライスに福神漬が付けられていることの話を聞かれた。意外とこの回答は難しい。普通は上場会社の日本郵船のコラムを引用するが、この引用自体の根拠らしきものが郵船欧州航路の記録で、(ドライ)カレ―にチャツネ(インドの漬物のようなもの)を付けていたが欠品したため、福神漬を添えたことが好評となって記録に残ったようだ。
 はっきりとした記録では第一次大戦の欧州航路で三菱の長崎造船所で初めて竣工した客船が常陸丸だった。同名の日本郵船のイギリス造船所で建造された初代常陸丸は日露戦争の開戦後に九州から朝鮮に出港後、玄界灘でロシア戦艦と遭遇し、沈没した。この沈没は歌にもなり、さらに極東ロシア戦隊を壊滅か封鎖しないといけないとなり、日本の戦費を圧迫した。それゆえ靖国神社の大鳥居の右横に巨大な常陸丸殉難碑がある。
 第一次大戦中でドイツ軍が無制限海上攻撃で、日本の商船が数隻ほど戦争の被害を受けた。この時に日本政府は戦時海上保険法を制定し、普通の海上保険に加えて国による戦争被害の補填を行うようになった。インド洋で行方不明となった常陸丸二世は日本政府が天災で行方不明となったか戦争の被害を受けたかの確認のため捜索船を出し、インド洋で明治屋の練乳と酒悦の福神漬の木箱を発見し、戦争で行方不明と思われるようになった。
 福神漬が一般庶民にも食するようになったのは、日露戦争が終わり、軍隊で備蓄していた福神漬缶詰の安価な放出があって、大陸での記憶に残る食べ物と知られた。国内では缶詰入りから樽詰めで流通していて、高級な漬物として提供された。
 大正時代の食で輸入カレ―粉の缶詰が出回り、そこから国産カレ―粉が出てきて、カレ―ライスが普及した。カレ―ライスと福神漬の取り合わせの文献で根拠のあるのは日本郵船の物しかなく、多くの付け合わせは普通の漬物だったと思われる。また福神漬の付け合わせの話では阪急百貨店の開業時のデパ-ト大食堂の話題がある。阪急電車に乗って、百貨店の商品を眺め、いつかは買えると思い、デパ-トの大衆食堂でご飯だけ注文し、付け合わせの福神漬とソ-スをかけて腹を満たしていた。そこで阪急の社員はご飯だけの注文はお断りと張り紙した。そこで顧客が反発した。
 阪急の小林一三はご飯だけの顧客でも将来の顧客の夢を提供していると言い、福神漬とソ-スの提供を続けた。これは昭和初期の話である。従ってカレ―ライスと福神漬が付いたのは大正時代と思われる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

言刃・ことば

2024年10月06日 | 福神漬
 福神漬の材料でナタマメがある。漢字にすると鉈豆/刀豆と書く。

学校でのいじめが原因とみられる自殺に「ことば」が絡まないことは、まずなかろう。「命」の文字は「令」と「口」の組み合わせで、「令」はひざまずく人を表し、「口」は神にささげる文、祝詞を入れる器だという。いま、その器にどんな言葉を注げばいいのだろう。
 明治文学を研究していた前田愛先生の著作を読んでいて、妙に納得したのが婦女子の識字率が江戸時代の日本で高かった。明治の10年代に少年向けの読者による投書雑誌があった。『穎才新誌』は、明治10年に陽其二が発行した日本初の活版印刷による子ども向けの投書雑誌で,性別は明示されていないが明らかに少女の投書があって、見事な論説でさらに今から思うと明治漢文の素養が現れている。この穎才新誌の内容を分析している学者によると、徐々に女性の投書が明治10年から徐々に少なくなっているという。明治の初めは文明開化で開放の時代と立身出世の時代だった。制度が固まるにつれて、女性は家に縛られる様子が見える。その原因は女性が働いて金銭を売る仕事が今の仕事の分類では風俗系と髪結いの仕事しかないように見える。
 武士の時代が終わると、武士の象徴の刀の意味が変わってくる。そこに懐旧の情から刀という象徴に意味が加わる。福神漬の命名時期は一応明治18年説があるが根拠となる文献はまだ見つからない。しかし明治18年以前には福神漬という漬物が出てこない。
 福神漬の材料でナタマメ・刃豆は重要な材料で低価格品の福神漬には刀豆の割合が少ないか全く入っていない福神漬もある。日本農林規格JAS法の福神漬の材料として7種以上の野菜となっていて、ダイコンが殆どの漬物に福神漬という表示は好ましくない。
 でも味を求めない客が多いカレ―ショップには低価格のカレ―ライスにはタダで付けられる福神漬に上品質の福神漬は出せない。人工着色し、サッカリンで甘味を出し、大量生産となる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

南千住の回向院

2024年09月23日 | 福神漬
荒川区中央図書館郷土資料の所で、南千住の回向院の本を読んでいた。
 この寺院は検索すると普通は上位に出て来る回向院は両国にあるところが出る。この両国回向院は10万人の死者を出した振袖火事という名で知られている明暦の大火の犠牲者を埋葬する地となり、後に江戸市中の無縁の人を埋葬する地となり、両国周辺がにぎわったという。南千住の回向院は過去は両国の回向院の別院だったが慶安4年小塚原刑場での刑死者を供養するための寺院となった。1771年に蘭学者たちが刑死者の人体解剖に立ちあった記念碑がある。近代医学の始まり。

 嘉永3年10月末に逃亡者高野長英が南町奉行配下の与力たちによって、捕縛時に急死した。撲殺と思われるが記録上では逮捕時に抵抗し、自死となってい記録の一部が不明で、多分と思って南千住の回向院に記録があると思うがネットでは20万人という。そこで下記の本を読んだ。
小塚原刑場史  -その成立から刑場大供養まで 著者名 黄木 土也
 この本のあとがきで、江戸時代でも死刑判決はか出しにくい判決で、流罪とする幕府上層部の人がいたようだ。今の時代でも在任中の死刑執行を決断する法務大臣が少ないと感じる。そうなると上川氏はすごい人でもある。オウムの死刑囚の執行を決断した。
 徳川家斉の時代で死刑が300名牢内死が1000名以上、行き倒れ人が1000人以上といおう記録がある。つまり南千住の回向院の20万人の刑死者の割合は意外と少ない気がする。もしかすると所在不明の長英逃亡を助けた松下家の3人の行方が判るかもしれない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

明治憲法発布までは国家儀礼の場は上野であった

2024年09月18日 | 福神漬
公園の誕生 小野良平著
上野公園の歴史を調べていて、明治の憲法発布までは上野の地が公園から博覧会等の国家行事のハレの場所であった。明治憲法発布後は宮城前広場が整備され、日比谷公園・鹿鳴館等が出来て、国家行事の場が上野から移っていった。明治国家は旧幕府の亡霊が上野から復活することは無いと思い始めたようだ。この頃だと思うが天保の老人という言葉が出てきたと思われる。
 上野は幕府の公認の行楽地で、心情的に旧幕府に恩顧がある人が下谷周辺では多数を占めていた。さらに維新後の諸外国との交易では恩恵が少ないし、さらに新しい物から仕事を奪われることにもなっていた。
 今の浅草での人力車の流行が明治の時に江戸時代の駕籠という人を乗せ運ぶ仕事を一掃した。明治に入って人力車の発明があって許可が下りたのが明治3年からで、普及に従い江戸時代の乗り物の辻駕籠が消えた。人力車稼業は失業した旧幕臣の奉公人等が従事した下層民の仕事となった。下層民の仕事は流しのタクシ―の様で貧民の仕事であって、明治東京の三大貧民窟の下谷万年町は今の東上野付近にあった。浅草近辺では地下鉄銀座線の車庫の付近にあった。欧米では馬が車を引くが日本は人が車を引くと言われた。
 上野の公園が出来て、江戸時代からの行楽地として復活してきた。その時の博覧会に出品されていた缶詰を見て、酒悦主人が漬物を缶詰に入れ、持ち帰る食品としたようだ。そこに工夫があって、当時は醤油は贅沢品で漬物には醤油を使うのは無かったようだ。缶に入れ醤油で漬け、さらに味りんで甘味を付けて売り出したが、高価となって売れ行きは良くなかったと思われる。

 彰義隊の戦争から上野の戦後復活の過程がどうなっていたのだろうか。文献探しの日になりそう。河鍋暁斎の改名の騒動となった、明治3年の不忍池の料亭での書画会はどんな雰囲気だったのだろうか。何か梅亭金駕の捏造文章のような気がする。
 福神漬の周囲には多くの比喩が隠れていて、時間が経って記憶の検証から忘れ去られている感がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

フィラデルフィア万博 /米国建国100年祭

2024年08月14日 | 福神漬
石井研堂の明治事物起源 缶詰の始まり に次のような文章がある。
明治8年1875年米国費府(フィラデルフィア)に、大博覧会あり、事務官関沢明清出張し、閣竜(コロンビア)州において、缶詰法を学べり。本邦すでに缶詰法行われたれど、その排気法等なほ不十分にて、久しき貯蔵に堪えざりしによる。
関沢明清
フィラデルフィア万国博覧会に参加。欧米の進んだ水産技術に衝撃を受け、日本にとっても水産業振興策は重要施策と考え、アメリカ式近代捕鯨やサケ・マスの人工ふ化、缶詰製造法を習得し、日本に導入した。
日暮里諏訪台の浄光寺にある、福神漬顕彰碑の揮毫者は大日本水産会の村田保。関沢明清と共に水産伝習所(今の東京海洋大学の前身)の充実に力を入れました。福神漬缶詰は普通は農業と関連があると思われますが缶詰の事業には水産系が輸出産業として必要だったのです。水産業は季節によって漁獲できず、缶詰工場の稼働率が維持できないことがあります。その点漬物の福神漬は軍の需要のため安定していました。ロシアとの戦争後に軍用の福神漬缶詰が激安で払い下げられ缶詰が日本人に副食として普及していきます。
 フィラデルフィア万国博覧会はアメリカ独立戦争開始百周年記念の博覧会で、アメリカ独立は翌年の1776年の事でした。フランスのナポレオンの長期に食料が保存でき、持ち運びできる食品の懸賞が缶詰の始まりで、そこからドイツ・イギリス・アメリカで缶詰が普及改良されていきました。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天草騒動・軍記物

2024年08月11日 | 福神漬
都立中央図書館で天草騒動の本を読みに行く。
明治事物起源 石井研堂著の缶詰のはじまりの文章が島原の乱から言及していて、その文章の違和感があった。

 明治7年,前記米人の缶詰法によりて、この紋別漬を改良し、他の野菜類を用いたるこそ、邦人の手にて缶詰を作りたる起源なれ。同年三井物産会社より、下谷池之端某店に託し、紋別漬200個を布哇(ハワイ)及び米国に輸出したるをもって、缶詰輸出の初めとす。

 この文章は多くの誤りと疑念点があって、日本缶詰協会の歴史ではコラム扱いとなっていて、引用される郷土史は少ない。それでも魚類缶詰の生産の多い、銚子市史はこの文献が引用されている。

 千葉行徳の山田箕之助の先祖が家記によって、島原の乱に参加した、北条阿波守で軍中の副食物の乏しきより、小握り飯には一切黄な粉塩を用い、後品切れにて胡麻塩に改めるも、これまた不足を告げ、よんどころなく大根を細かに切りて味噌溜まり漬けて、溜漬と称し、軍用に供した。

 島原の乱の文献を調べてゆくと、北条阿波守と言う文献が10年前には見当たらなかった。コロナ明けで再度文献をネットで調べると、軍記物の天草騒動というのが見つかり、内容を読むと架空の人物の可能性がある。ドラマは実在の人物に架空の人物を入れ、物語を膨らます。石井研堂の缶詰の始まりは、北条阿波守の引用も歴史を盛り上げるために入れた気がする。
 紋別漬の件で北海道紋別市の歴史資料館へ問い合わせたところ、紋別という地名は北海道ではアイヌ語で何か所かあるという。そこで近藤重蔵の紋別漬では紋別市と関係ないという。
 また三井物産がハワイに溜漬の缶詰を輸出したという文が誤りで、三井広報委員会によって、旧三井物産は明治9年1876年7月に発足した。従って漬物缶詰の明治7年の輸出はあり得ない。ちなみに今の三井物産は旧三井物産と異なるという。同様な事例は国分で今の上場会社国分は戦前の国分と異なり、戦後の進駐軍によって、日本橋本社が占拠されていて、止む得ず国分漬物株式会社を作って、日本橋の地を守った。GHQの占領が終わると、国分漬物株式会社が国分株式会社となり今に至る。そのため福神漬ブランドの日本橋漬はご当地漬物として、国分のブランドの中で重要視されている。なお福神漬の登録商標として一番古いブランドは国分の日本橋漬である。酒悦の福神漬の商標登録は遅れていて、それも酒悦の福神漬と登録されている。今は福神漬は普通名詞となっていて、法律用語となっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

7月29日 しちふく 福神漬の日

2024年07月30日 | 福神漬
数年前に日本での福神漬最大出荷数の製造者 新進が申請し、7月29日が福神漬の日となった。このことはカレ―ライスの夏場需要に合わせて制定された経緯がある。
 福神漬の命名由来には七種類の野菜とあって、一番最初の時は3種類から始まり、上野・谷中界隈の七福神巡りから、七種類の野菜となり、福神漬となった。ここの野菜の内容は時代によって異なり、今では貴重なマツタケも入っていた時代があった。特にその中でナタマメという野菜は、これが入っていない福神漬は偽物と見なしても適切である。
 ナタマメは江戸時代初めに中国から日本に来た野菜である。見た目は野菜とは思えない。一応薬用の用途で入ったのだが今でもその効用ははっきりしない。牧野博士の薬用植物で効能が書かれているが、漢方薬として使われている様子が見えない。何か口臭予防の効能をうたっているものがあって、使って見たが値段の割に口臭が消えた感が無く、二度と買わなかった。でも今でも口臭予防の効能を出している歯磨きがある。
 さて福神漬には公式と言うべき、国の定義がある。日本農林規格 JASで今のネット検索で出て来る規格は二回目の規格改定時である。
 ふくじん漬け 農産物しょうゆ漬け類のうち、だいこん、なす、うり、きゅうり、しょうが、 なたまめ、れんこん、しそ、たけのこ、しいたけ若しくはとうがらしを細刻し たもの又はしその実若しくはごまのうち5種類以上の原材料を主原料とし漬け たものをいう。

 ふくじん漬けは大分類上では農産物しょうゆ漬け類に含まれ、特に生産量が多いためと、中に入る野菜の規格がまちまちだったため、特に制定され、関東の業者の意向が反映されていた。しかし時代の変化で野菜の生産量の変化で、改定時に最初に材料として含まれなかった、キュウリが入ってしまった。これは江戸時代に徳川の家紋に似ているキュウリの切り口が嫌われていて、下品の野菜と嫌われていて、幕府の初物規制を逃れ、幕末には多く品種改良と栽培普及があった。しかし福神漬の由来から、徳川幕府の上野寛永寺絡みで、酒悦の福神漬にはキュウリは入っていないし、関東の福神漬生産者はこの故事を知っていて、普通はキュウリを入れない。今の表示規定で量の多い上位の数種の野菜なので、キュウリを表示しているのが少なくなった感がある。やはりカレ―ライスの付け合わせで、刀豆ほど目立たない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

hint-potの福神漬

2024年07月24日 | 福神漬
グ-グルアラ-トに福神漬を登録した。するとメ―ルが来てhint-potの情報で神田のカレ-店巡りの異国人が何か気になるものがあるという。その記事は福神漬と言うことで、ライタ―さんが短くまとめたものだった。多くのカレ―本に福神漬が書かれている。しかしあくまでもカレ―の記事が主体であるために、本格的に踏み込めない。調べると調べるほどその事実関係の背景確認が必要となる。一番基本の文献は池之端の酒悦さんのHPだがこれにも検証できない事実があって、書くことのが出来ない部分がある。しかし検証できないからと言って、記事にしないと読者が納得できないと思うだろう。多くの読者は漬物のような食は事実関係の検証まで要求していないので今までの通説で、最後に一言加えて逃れる。その言葉は 諸説ありますが 。この言葉が乱発しているテレビ番組がある。NHKのチコちゃんに叱られる という言い訳過多の放送である。多くの食の世界で検証できるものが少ない。特に年代は味や意匠等の変化、改良が激しく、日々変わってそこ。そこでブランド名を変えて行くときもある。この時は記録があって検証しやすい。酒悦の福神漬でも多くの食の辞典で明治18年創製説が出ている。しかしこの原本と言うべき出典がまだ見つからない。言い伝えでは明治10年頃から上野の地が公園化し、徐々に行楽客が増えてきて、商材の工夫で生き残った酒悦主人が香煎茶屋から他の商材開発をしていたという。香煎とは茶懐石の飲み物で、この商材をひと工夫し、高級感のある漬物を提供していった様子が見える。最初は3種類の野菜から始まって行った。所が持ち帰りを要求されても当時の液体の洩れない容器は樽か陶器しかなく、重くて不便だった。
 そこで上野公園で開催されていた水産博覧会に出品されていた缶詰を見て、漬物を缶詰に入れることを思いついたようだ。ここから池之端の酒悦の店舗には缶詰入りの福神漬が店頭で今でも販売されている。
 しかし缶詰に入れたことで高価となり、販売には苦労したようだ。このあたりの販売苦心の話はカレ―本に書かれていない。少し考えればわかるのに戦後生まれのライタ―達はプラスチック容器しか福神漬は見ていない気がする。びん詰は比較的残っていている。それでもプラ容器に比べると高い。びん詰の利点は賞味期限が長いので海外需要がある。

また多くのライタ―さんが書き漏れていることがあって、このことを記事にしないと福神漬という漬物が法律用語となっていることの説明が出来ない。酒悦主人は福神漬を普及させるためあえて商標登録をしていない。酒説の福神漬という名称で今は登録されている。ちなみに今の日本で福神漬の最古の商標登録は日本橋の国分の日本橋漬で大正の初めの登録となる。多くの福神漬の缶詰ブランドが日本缶詰協会の缶詰時報の広告欄で見ることが出来る。
 福神漬の由来とかの記事で缶詰を書いていないのはライタ―の手抜き記事と言うことになる。ちなみにhint-potの福神漬 この記事の文献として野菜および園芸 第86巻9号を読むため都立中央図書館で借り出し読んだが、これは香煎のというものの文献で、ネットで調べると京都祇園にある原了郭いう香煎の老舗しか日本には存在しない絶滅寸前の味ともいえる。酒悦は今は香煎は扱っていなく漬物佃煮の店となっている。
京都東山区祇園の原了郭は「祇園香煎」の名で知られる香煎の老舗で創業の由来が赤穂の討ち入り関係者と言うことになっているが、野菜および園芸の記事では、もっと古い時代にさかのぼれるという。多くの食の老舗は普通は創業時を古く書くことが多い。所が原了郭の店は忠臣蔵の方をとっていたようだ。多分多くの同業者があって、ブランドとして忠臣蔵のほうが良いと思ったのだろう。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

死の商人・日本の大倉喜八郎  東京名産福神漬の献納

2024年07月09日 | 福神漬

 世界の歴史では死の商人と言われる人は数多い。日本では死の商人と言われる人は明治の戊辰戦争・上野戦争(彰義隊)での逸話が残る大倉喜八郎しか見当たらない。日本史では武器商人という概念が無いのだろうか。
アメリカ南北戦争を描いた風と共に去りぬという小説で武器商人だった富豪(レッドバトラ―)の話がある。この南北戦争後に不要となった武器が日本の戊辰戦争で使われた話がある。文献は何処にあるのだろうか。死の商人の歴史を見ると否定的な話が割と少ないと感じる。これは日本人の感覚と異なっていて、パレスチナの問題が日本人に理解しにくい問題は死の商人の概念が普通に馴染みがないことから来ている。金さえあれば紛争の当事者へ売る行為を恥じない。
 大倉喜八郎が死の商人と名が残るのが、彰義隊の戦争で武器の調達の時、金払いの悪い彰義隊に現金で無いと横浜の外国人相手には武器商売は通用しないと初心な彰義隊員をだました。長崎のグラバ-と坂本竜馬の武器商売も現金で無かったと思う。同時に竜馬が武器の商売をする死の商人と見なされてはいないが薩長同盟は武器が同盟の証であって、西洋流の定義では竜馬が武器商人、もしくはそこで元手を作って明治維新後に海洋商社を目指していて、暗殺後にその意思を継いだのが岩崎弥太郎となった気がする。
 明治28年10月の日付のある、大倉組支配人からの遼東半島に駐屯している野戦師団.将校以下一般へ東京名産福神漬300樽献納の義 
 この願いは明治28年9月30日に陸軍大臣大山巌に出されている。まだ9月30日の段階では台湾征討戦で北白川宮の病状報告は出ていないし、台湾北部・中部の制圧報道しか日本には届いていなかった。そこから台南に向かう時、日本軍は台湾住民と中国人との連合で侵攻が遅れるようになり、風土病にも悩まされるようになった。この時期に一時的に陸軍軍医だった森鴎外が台湾にいたことになっている。
 大倉組は大倉喜八郎の会社で明治28年1月までは元第四師団長が北白川宮(上野戦争の時の輪王寺宮)
と知っていて、台湾制圧後に面会の口実を狙ったと思われる。
 この文献から明治28年の時で、大阪でも福神漬は東京名産と知れ渡っていたということになる。なお300樽と言うことで、樽の大きさだが1斗や2斗の樽でなく4斗の樽だろう。おおよそ1樽80KG位になる。この辺の気配りが死の商人と言われる喜八郎の面目躍如だろう。
 福神漬の酒悦は言い伝えで、店名を輪王寺宮から頂いたと言う。大阪の阪急デパ-トの開業時に、デパ-ト食堂での福神漬食べ放題を許した小林一三はタクワンの食べ放題でなく、高級感のある福神漬だから許したと思う。大阪商人の朝ご飯はおかずが漬物しかなく、浅漬かタクワンでデパ-トで福神漬の食べ放題は見るだけの庶民のデパ-ト体験の唯一の楽しみで、今でも文献に残る。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする