築地のことが世間と異なる構造を持っていることを感じる。普通の日本の社会は縦社会で築地は横社会である。上意下達の世界では違う。それぞれの企業が築地で存在を示しているので意思疎通に時間がかかる。
豊洲移転のゴタゴタも個別の意見は正論で全体として結論が出ず、時間が経過する。まだ移転がキャンセル可能性はゼロではない。だから今でも移転反対派は活動している。4月が終わる。
築地のことが世間と異なる構造を持っていることを感じる。普通の日本の社会は縦社会で築地は横社会である。上意下達の世界では違う。それぞれの企業が築地で存在を示しているので意思疎通に時間がかかる。
豊洲移転のゴタゴタも個別の意見は正論で全体として結論が出ず、時間が経過する。まだ移転がキャンセル可能性はゼロではない。だから今でも移転反対派は活動している。4月が終わる。
芳子聞書・覚書より 中島芳子
西浦賀の塩取り扱いについて
庶民生活の必需品として米・塩・油あり。禁制品として自由な売買は許されなかった。米は浦賀で集散・塩・油は浦賀を素通り。江戸が在庫が豊富なら暴落。産地品がすくなければ暴騰する。この均衡をとるため海関にて統制する。下田より浦賀に移転当時東浦賀では干鰯肥料の専売を行い房総一円からの出荷を集め大干鰯倉庫として二町余の大倉庫を建て、肥料配給の全権を握って莫大な利益を、全町が大いに富んでいた。然るに西浦賀はこの恩恵にあずからず、疲弊していたため東西合併を願い訴訟沙汰になったこともあった。塩を西浦賀扱いとなれば全町潤うとして大田又四郎・白井儀兵衛より中島三郎助へ懇請した。三郎助が水戸公の知遇を受けていることで水戸公に願い出て、幕府の許可を受けた。
白井儀兵衛はこれより西浦賀にて塩専売を扱うようになった。安房・上総・伊豆・相模・鈴鹿より甲州までの塩を集散、問屋十五軒共同扱い、船に水戸御用お台所塩の旗を立て積み出す。扱い高一日二千俵になったという。これにより西浦賀の民生が潤った。これは三郎助の恩義として感謝していた。明治24年、三郎助親子二十三回忌を記して浦賀愛宕山に忠魂碑建設のことがあり、全町民こぞって賛同し、金品労力の寄進を惜しまなかった。
これが今京急浦賀駅前の残っている浦賀ドックの発祥の前段階の経緯である。
本来ならば昨日夜から築地は混むのだが昔の大混雑を知っているとイマイチ混み方がゆるく順調に仕事が終わる。混まない築地市場。混む築地場外市場。交通情報では混雑。ガソリン高騰。休みなし。世間では4月終り。
高野長英の逃亡生活の中で死去した嘉永3年秋の前に千葉万歳村(現在の旭市万歳)に一時立ち寄った。これは関流和算家の花香家が内田弥太郎の弟子であったためである。養子になった人に恭の名前をつけたのはよほど内田恭(弥太郎)を尊敬していたのだろう。江戸時代の和算は今の茶道とか華道のような趣味的なもので能力があれば認められる世界であった。
明治6年か7年に花香恭次郎が親族の言い伝えでは茨城県鳥栖村にいったことなっている。しかし地元の歴史研究者は鳥栖ではなく息栖だろうとしていた。東国三社で一番知られていない息栖神社だがこれは研究者の間違いではないかの疑いで鉾田市図書館で鳥栖村を調べたところ、鳥栖村(とりのす)には蛮社の獄の始まりとも言うべき無量寿寺があった。長英死亡後に花香家に幕府側から長英を匿ったかどうかの調査があった言い伝えがある。
鉾田市の市史に安塚村の知行に長井五郎右衛門という名前を見つけて、船橋市史近世の本で確認すると長井家の知行地だった。花香恭次郎の研究している人は少なく史料も少ない。多くの幕末研究家も幕府崩壊時の目付長井昌言の出自を不明としている。福神漬の言い伝えからたどっているから幕臣長井昌言は戸田伊豆守氏栄の三男で妻は長井家の人で筒井政憲の斡旋で養子となった。
鉾田市の安塚に今でも漬物業者があるし、鳥栖村にも漬物業者がある。不思議な縁である。横浜の地で少し暮らした花香恭次郎が今でも寂しい鉾田市の生活に馴染めなかったのは当然だろう。銀座にあった公益問答社に就職したのも長井家・戸田欽堂・高島嘉右衛門のつてだろう。
高野長英伝・高野長運著が届く。アマゾンで注文していた本が届いた。100+347円。図書館へいく交通費を考えると激安。
早速無人島一件のところと千葉万歳村の花香家との交流関係を読む。今は原本が花香家から行方不明となった高野長英の借用書の画像が長英記念館にあるようだ。。この本で花香恭次郎のことが書かれている。やはり東北の人は福島事件を重く見ていたのだろうか。
25日が豊洲市場の観光施設の判断の回答日となっていたがまた先送りとなり施設はオリンピック直前まで完成しないだろう。値引きか具体的な再開発の思惑で断念できないようだ。談合のおおい日本ではガチの仕事をしていることが多いのが築地の人たちと思う。食の世界は言葉で騙しても舌を騙すことは出来ないし、努力を怠るとまもなく結果が出る。いつか来るかもしれないその時までガチの仕事をするしかない。
茨城県鉾田町鳥栖無量寿寺和書分類目録・海老原 清編著から
鉾田市の図書館郷土史料で無量寿寺内の保管されていた江戸時代の書籍の文献目録を読んだ。寺院だから仏教関係の本しかないと思っていたが地域の需要からか医書まであってまるで寺院を中心とした図書館・集会所のようなところかもしれない。
鉾田市鳥栖は水戸から江戸への交通の要所であったようでこのような書籍とか異国の情報もあったと思われる。
小笠原の島へ渡航計画を立てるなどは普通の僧侶とは思えない。蛮社の獄と歴史に残る事件は始まりは小笠原無人島渡航計画という名目の事件捏造から始まる。
高野長英が脱獄し、嘉永3年秋に死去する少し前千葉県万歳村の花香家を訪問していた。この件で記憶が鳥栖村になったのだろうか。花香家の名前は関流和算家内田恭(弥太郎・五観・観斎)から来たと思われる。
鉾田市や笠間市の図書館郷土史料の中で天狗党や加波山事件の本が目立つ。幕末に筑波山で蜂起した武士たちは山の頂上で旗を立てたようだが(山で旗を立てる)とはどの様な意味があるのだろうか。加波山事件のわざわざ山に登って蜂起している。
山に登って蜂起したため簡単に降りることも出来ず、過激になってしまった気がする。他の事例があるのだろうか。富士山に登って蜂起したことは聞いてもいない。平安時代末期に比叡山の僧侶が強訴に近い行動で百姓町人から資金として金銭を強請ったようだ。明治に入って加波山事件があるのだがやはり強盗的な行動で金銭を確保している。一般人にとって納得できない理由で行動をおこし、テロリストとみなされてため、福神漬に入っている(なた豆)の寓意とか見立てが消えてしまったように思える。もっとも三島通庸による言論弾圧が厳しかったときだったので簡単に理解できる寓意は弾圧される。
今強権で言論弾圧をしているところで人々は様々な表現方法で政府批判をしている。また個人情報漏えいの問題も想像力を超える方法で収集しているようだ。
はっきりとした言論弾圧より、はっきりしない言論自粛のほうが政治的には良策であることは歴史が示している。ただはっきりしない世論の風向きの見定めができず、安易な言論弾圧に為政者は向かってしまう。
福神漬に入っている(なた豆)は他の日本の漬物には今のところ入っていない。コストのかかるなた豆は今でも福神漬に入っている理由が不明である。過去の福神漬の歴史を知らない業者と安い福神漬にはなた豆は入っていないことが多い。
季節の先取りの暑さとなった日曜日。この暑さで報道が過熱し、熱中症注意で梅干の出る量が多い気がする。想定していたので連休中の荷物の準備では間に合わなかったようだ。今年の紀州の産地情報では不作続きで心配していたが量品質もよさそうで後は季節はずれの台風だけ。全般的に人手不足の声が聞こえる。無理な過剰生産による特売計画が消えたようだ。夏になれば作柄の見通しもつき梅の季節となりそう。年々減っていると感じる自家製梅酒は同じ傾向だろうか。気温のブレが激しく今日は寒い。
幕末に中央区石川島付近に水戸藩の造船所があった。ペリ-来航後大規模の造船が解禁となり、浦賀・薩摩と石川島で大きな船が造られた。石川島では嘉永6年暮れに竣工となり、この日が今のIHIの開業記念日となっている。水戸藩の異国に対する危機意識は他藩と違って一時水戸藩の漁民と異国の捕鯨船と海上交流があったり、上陸して水や食料補給の交流も無断で行われたこともあった(大津浜事件)。攘夷の危機意識は他藩と違って具体的だった。
水戸から江戸への物資運搬の手段は北浦から水運で利根川の木下河岸で降りるか上流へ向かってから江戸川回りこみ・行徳河岸・中川船番所を通り・小名木川から江戸に向かった。水戸藩の旗は船番所の通過は検査は無かったのだろうか。
水戸藩は静岡県戸田で建造したロシア船造船をした舟大工を石川島に招いた。このとき浦賀奉行所の中島三郎助の尽力があり、水戸藩のお礼として塩輸送に旗の使用を黙認したようだ。行徳の漬物商人が中島と共に戊辰戦争最後の戦闘で戦死したのはこのような経緯と推測できる。この文献があればよいのだが。
鉾田市の図書館で郷土資料室の中で(鉾田の文化)という本を見ていたら(ごさい漬け)という漬物があった。内容を読むと昔は鰯(今は秋刀魚)と大根と塩で漬けて醗酵させた漬物のようだ。自家製が殆どで一般には流通しない食品のようだ。これは冬季の気温の低いときに作らなければならないし、醗酵の様子や塩加減の好みもあるので低塩の漬物が好まれる今は商品として販売管理の難しい漬物かもしれない。さらに魚が使用されているので食中毒の問題も予想される。
鉾田周辺しか知られていないのはこのような理由があるのだろう。
レシピ
秋刀魚48kg 大根150k塩7kで漬け込み、醗酵期間は3週から5週で食べごろ。
ポイントは秋刀魚の内臓の血を良く洗い出すこと。押し蓋で空気に触れないようにする。
前から記憶にあったが茨城県鉾田市は関東の優良な漬物原料産地で鉾田市にはかなり多くの漬物原料業者がある。安塚に行って偶然漬物の原料桶を見て漬物工場と知った。井川漬物らしい。桶には先般廃業したタクワン漬業者名があった。どうしてこの地に漬物業者が集まったのかはまだ知らない。40名近くの漬物組合には取引先もあって、機会があったら鉾田がなぜ漬物産地となったのか聞いてみたい。
鉾田市鳥栖の無量寿寺に何かがある気がしていってきました。明治の7年頃だと思うが花香恭次郎が親族の勧めで鳥栖村にいったと親族に伝わっていた。そこで馴染めずまた東京に戻りどの様な伝手があったのだろうか今の銀座8丁目にあたる南金六町の公益問答新聞社に勤めた。
花香家の子孫でも鳥栖村行きは自信が無いようで花香の研究者も息栖ではないかと鳥栖村行きは否定していた。息栖村には無量寿寺という寺院があった。この寺院の住職は蛮社の獄の事件で投獄されていた。花香家は蛮社の獄に関係していて誤って無量寿寺のことと花香恭次郎の鳥栖村行きが同じく今の鉾田市安塚行きと混同していたのだろうか。江戸時代末期に鳥栖村は坪内主馬で安塚村は長井五郎右衛門となっている。(鉾田の文化8号)
この頃市場の休みの日が雨模様で露天同様の設備の下であと少しがんばるしかない。今日の日本経済新聞ではまた江東区が豊洲の観光施設の進行が止まっていることにクレ-ムを出しているようだ。そもそも東京都に江東区がだまされたので今後の展開は開業後の問題となる。
気になるのはまだ仕事で豊洲へ行く人は別として観光客や新しい食材を探す人にとって築地の敷居は低かったが豊洲は食の安全安心が強調され、簡単には入れないような説明がある。実際無理と思われるが事故が起きれば規制が強化される。
食材のカッパ橋道具街のような施設のほうが長続きはするだろうが華やかさが無いのでどうなるのだろうか。
小林清親の娘(五女哥津)の小文(清親考)で日露戦争後小林のところに近所(浅草山の宿52番地)に住んでいた老人が訪れた。漏れ聞いた話から福島事件の被告人の一人だという。哥津は花香恭次郎と書いているが花香は明治23年にコレラで死去している。さらに田母野秀顕は石川島の未決犯収容所で死去している。福島事件の浮世絵で神田須田町にて原胤昭が無料配布したものは3枚で残りは平島松尾となる。
ただ哥津さんの文で原胤昭の花香恭次郎への添え書きは次のように書いてあった。
『君は東京深川伊勢崎町の士族花香恭法の次男にて、自由の説を主張、福島にあって河野君等と共に縛につき、福島警察にて数日間靴を持って衝き倒される等の苛きめに逢い、東京に護送され、高等法院の裁庭に活々発の雄弁に無罪の状を陳述られたれども有罪逸れがたく、軽禁錮六年。齢二十六歳』
一般に花香恭次郎の経歴はこの程度しか知られていない。後は平島松尾へ書いた原の添え書きが知りたい。
明治の浮世絵師の小林清親の娘の(清親考)の文から色々な疑問が解けてきた。明治14年に小林清親は団団珍聞という風刺漫画雑誌社へ入った。小林34歳。鶯亭金升(長井昌太郎)の紹介という。長井は明治元年生まれなので14歳となる。。(この当時は数え年なので文献では少し異なるかもしれない)年の離れた二人を誰が結びつけたのだろうか。鶯亭金升は明治23年頃小林清親が仲人となって花柳流の縁者と結婚した。
明治6年に前年秋に開業したばかりの鉄道寮の官員であった父長井昌言が死去したため、金升の母とともに下谷根岸で生活をした。下谷の親子二人の生活を支援した人の記録は無いが横浜の豪商で今でも地名として残っている高島嘉右衛門と思われる。
高島が江戸時代横浜で法を犯した行為で石川島の犯罪者収容所に収監された。地獄の沙汰も金次第と言葉がある。監獄の中の生活も金の力で快適に生活できることを意味していた。収監中の高島を支えたのは高島の姉で大垣藩主に行儀見習いで勤めていた時、藩主の子を宿した。後の戸田欽堂である。石川島の事情を知っているのは江戸町奉行の人達である。旗本長井家は火付盗賊改の職に文化年間勤めた御先手弓組の家柄だった。長井昌言はペリ-が浦賀に来たとき米国国書を久里浜で受け取った戸田氏栄の3男である。大垣戸田家と縁があり、戸田伊豆守は黒船来航時、事前に大垣藩小原鉄心に野次馬整理のため出動要請を依頼していた。(維新史綱要)
鶯亭金升が団団珍聞をどこから手に入れたのだろうか。銀座で十字屋というキリスト教関係の書籍を販売していた原胤昭・戸田欽堂からと思われる。14歳の鶯亭金升で団団珍聞に小林清親を入社させる力がどこにあったのだろうか。
このことを理解できたとき、福島事件の浮世絵配布事件が別の意味を持っていること思われる。福島事件被告人花香恭次郎は鶯亭金升の叔父で戸田氏栄の5男である。
大正12年7月に鶯亭金升が福神漬を語り始めたのは何があったのだろうか。