年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

掘丹後守直寄と沢庵

2006年04月30日 | タクワン
掘丹後守直寄の経歴
堀秀政の従兄弟・堀直政の次男(実は庶兄)。尾張(愛知県)1577年に生まれる。豊臣秀吉に仕える。秀吉に仕えていた時代の逸話として、あの千利休の亡霊を退治したという事です。
秀吉は慶長3年4月、越後春日山城主であった上杉景勝を会津へ転封させ、代わりに活躍目覚しい堀家一族を越前からこの越後へ移封させるのです。秀吉が没すると、越後の年貢処理の問題で堀氏と会津の上杉氏と対立が深まりました。堀氏は問題を有利になるように徳川家康に接近しました。
関が原の戦いでは1600(慶長5)年3月4・5日 には
会津上杉家は越後に峠を越えて進入し、旧領主だった上杉景勝に扇動され堀氏に不満を持つ、神官・僧侶たちが中核となって各地で農民一揆をおこしました。いわゆる、上杉遺民一揆である。堀氏は異変をいち早く徳川家康に報告した。
1600年8月2日
この日、堀直寄は上杉氏の武将・松本伊豆守等が指揮する一揆軍を破っています。一揆は堀家の団結と関が原の家康の勝利によって終息した。

慶長15年(西暦1610年)2月2日、駿府城において裁判が行われました。堀家の御家騒動
堀家は秀治の弟の親良が、直政や直次と仲が悪くなって家を出て徳川家に仕えるなど、混乱していた。そんな時に直寄と直次の家来同士の紛争が直接の原因で対立が表面化し、1609年に直寄が堀家から追い出される。しかし1610年に直寄が徳川家に直次が浄土宗の僧を殺したことを訴え、これが認められ(家康の菩提寺が浄土宗だったためと言われている)、堀家の当主・忠俊と直次は改易され、直寄は信濃飯山4万石の大名に復帰した。同じ年に駿府城の火災で消火に努め財宝を救ったので、その功で美濃国内1万石を加増される
家康から夏の陣での活躍を買われたのか、家康が死に臨み「もし徳川家に反逆を企てるものがあれば、一番は藤堂高虎、二番は井伊直孝、直寄はその間で横槍を入れるべし」と言われたそうです。
大坂冬の陣では家康本陣の先陣を務め、夏の陣では道明寺の戦い、天王寺・岡山での最終決戦で活躍した。すこぶる家康の信任を得、1616年に越後蔵王堂8万石に移封される。1618年には越後村上10万石に移封された。直寄は、村上城の更なる拡張や城下町の整備、領内の産業育成に務めたが、寛永11年正月、家光上洛の供奉,同13年、江戸城普請おいて実力以上の過大な手伝いなどで財政を圧迫した。将軍家から脇備えを命じられていたこともあり、過大な常備兵力を維持する必要に迫られていた。そのため、領内には苛酷な検地を実施し、幕府に対しては、10万石の内高を17万石であると過大申告している。1639年6月29日死亡。東京都渋谷区長泉寺に葬られた。
堀直寄がなぜ沢庵和尚と付き合っていたか今のところ解らない。想像だが京都か、大阪の陣の時知り合ったのかもしれない。
御家騒動
江戸幕府も成立し,乱世が平和な時代に変わると戦国時代の流動的な主従関係を固定し安定した秩序をいかに作るかが課題となった。寛永期の半ば以後(大阪・夏の陣後)は大名の御家騒動の裁定において主従双方に厳罰を下すようになった。
その後御家騒動は延宝九年1681年)の越後騒動から幕府の処理方針が変わり,幕府裁定に持ち込まれた時から改易に処する重罪となった。その後は幕府の裁定に持ち込まれるのはほとんど稀になった。ただ,裁定に持ち込まれたのは後継者の調整ができなかった場合が多い。

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堀丹後守直寄と沢庵の関係

2006年04月29日 | タクワン
 紫衣事件の時
寛永6年・2月、江戸に於いて沢庵らの詮議が始まった。(細川家実記)によると、藤堂高虎、金地院嵩伝,天海らを交えて評議していた。
 このとき、江戸神田の大徳寺派広徳寺に滞在していた沢庵ために、柳生宗矩、堀直寄は沢庵らの処分を軽くするよう奔走していた。
寛永13年,故郷の人への沢庵の書簡によると、多くの人が紫依事件へのかかわりを避けていて,柳生宗矩と堀直寄だけは違って、ある時は沢庵と芳春院玉室を篭に乗せ、自分たちは馬に乗って、天海や年寄衆へ取り成しのために奔走したと記述している。
 出羽の国、上山に流罪になってのち、堀直寄への書簡には沢庵の当時の心境が述べられている。
「この度、宗門のことについて、真っ正直なことを言ったために幕府のご機嫌を損じ、出羽の国まで流罪になったことは二代三代の後まで、人々の語り草になるでしょう。世間での評判とはいえ来世にあっても話題と残れば満足です。心にやましいことがなければ、体の苦しみは何とも思いません。心をむなしくして、身の安心を計ることは自分の望まないことです。」
 柳生宗矩と沢庵の関係は宗矩が若き日京都大徳寺参禅のおり知り合ったとされている。とにかく沢庵が紫衣事件の時には前後7年にわたって江戸に滞在している時も、上山にても,赦免の後も筆舌に尽くしがたい直寄の世話を受けたと故郷の人への書状に書かれている

堀直寄とはどんな人だろう?
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物類称呼から大根の方言

2006年04月28日 | 趣味としての漬物
物類称呼 日本最初の方言辞書
大根
はだの大根 相州(神奈川県)波多野(秦野)の名産也
江戸にてハダナと言う
京にて長根大根と云う
大阪天満にて 細根大根と云う、又宮ノ前大根と云う
 河州(大阪南部)守口にはこれを粕漬とす。
西国にて小大根と云う。 はだの大根は小大根より少し大也。
又、畿内にて
なか抜き(間引き)大根というのを江戸にて をろ(おろ)抜き大根と言う。

物類称呼では記述されていないが地方によっては虚拔大根, うろぬき大根と呼んでいるところもある。
練馬大根の品種としての歴史は"練馬大根”練馬教育委員会発行によると、17世紀終わりごろに今の練馬大根ができたらしい。波多野大根などの歴史から見るとそれ以前の大根は細長い大根を干して、保存食としていたらしい。
 又、江戸時代に発展した蕎麦の薬味としての辛味大根も普及した。
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沢庵漬の名称と文献5

2006年04月27日 | タクワン
江戸砂子(えどすなご)  菊岡沾涼著 
江戸時代の日常生活に必要なガイドブック。享保17年(1732)に『江戸砂子温故名跡志』で近世地誌の形式を確立する。紀行・案内記・史跡名称案内
沢庵漬
今、江戸にて漬かる香の物、沢庵和尚の漬け始められしもの也

ある人 梅干を沢庵和尚に送りにけりに
 むかし見し 花すがたは 散りうせて
  しわ(皺)うちよれる  梅ぼうしかな(梅干かな)
又、にごり酒に十里酒と銘を書きて送る。同じく沢庵和尚の返歌
 十里とは 二五里(にごり)といえる 心かや
   すみかたき世に 身を絞り酒

享保の頃には「沢庵漬」の名称が少なくとも関東・江戸では定着していた。
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沢庵漬の名称と文献4

2006年04月26日 | タクワン
物類称呼 (ぶつるいしょうこ) 越谷吾山著。1775年刊
日本最初の方言辞書。天地・人倫・草木・言語などに分け約4,000語の俚言(土地のことば)を解説している。
 大根漬
京にて唐(から)漬と云う
九州にて百本漬と云う
関東にて沢庵漬と云う
今、按に武州品川東海寺開山 沢庵禅師制し始めたまう。
依って沢庵漬と称すと言ひつたふ。
貯漬という説、これを取らず。又彼の寺には沢庵漬と唱えず。百本漬と呼ぶなり。

 疑問 九州にて百本漬と言うのに沢庵禅師は経歴から九州に行っていない。東海寺は沢庵禅師が開山している。
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沢庵漬の名称と文献3

2006年04月25日 | タクワン
耳袋 根岸鎮衛(やすもり)著
江戸時代の町のウワサ話などを集めたものです。沢庵漬の由来の話では大抵"耳袋”の話が引用されている。
沢庵漬 
公事に寄りて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧禅師の事物語りの序に、世に沢庵漬といふ事は、東海寺にては貯漬と唱へ来り候趣、大猷院様品川御成之節、東海寺にて御膳被召上候節、「何ぞ珍敷物献じ候様」御好みの折から、「禅刹何も珍舗もの無之、たくわへ漬の香の物あり」とて、香の物を沢庵より献じければ、「貯漬にてはなし。沢庵漬也」との上意にて、殊之外御称美有りし故、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を青貝にて麁末なる塗の重箱に入て持参相納けるよし。今に安左衛門が家に右重箱は重宝として所持せしと、彼老僧の語りはべる。

仕事のついでに品川の東海寺に寄り、老僧の案内で沢庵禅師の墓を訪ねた。老僧が禅師の逸話を語った。
「世間で沢庵漬と漬物は、当寺では(貯え漬)と呼んでおります。大猷院様(徳川家光)が品川にお成りの際、東海寺で食事を召し上がられたことがございました。『何か珍しいものはないのか』とのお申し付けに『禅寺ゆえ何も珍しいものはございませんが保存食(貯え漬)の漬物がございます』と沢庵が献じましたところ、「貯え漬ではなかろう。沢庵漬じゃ」と、ことのほか褒めて頂きました。
 現在東海寺の代官役橋本安左衛門の先祖が青貝細工の粗末な塗りの重箱に納めた沢庵漬を御城の御台所へ日々持参したということでございます。この重箱は安左衛門の家に家宝として伝わっております
品川区歴史博物館の学芸員の話では今でも東海寺ではタクワンの漬物を「貯え漬」と言っているそうだ。
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沢庵漬の名称と文献2

2006年04月24日 | タクワン
農業全書 宮崎安貞 1697(元禄10)年刊
干し大根10月の末、いまだ寒気の甚だしいくない時に(大根を)抜き洗って,ヒゲ根を取り去り、2把をくくり合わせ、軒下あるいは樹木のまたに掛け干し,又は竹木をわたし掛けて干すも良い。シシビに干たる時もみなやしもとの如く干し、二三度各の如くしてその後よく干しそこないようにして、コモに包み、湿気なきところにおさめ置き,折々出し干棚にて干してカビのはえないようにすべし。または極めて良く干してつぼに入れ、口を封じ置き,梅雨前に取出し、少し干してまえの如く壷に入れ置くべし。また,良き程干したるとき,盤の上に置き、横槌にてしっかりと打ち付けておくも味が良い。打つときは(大根)頭より尾の方へ打つ方が良い。(大根の)甘味が尾まで行き渡ることになる。初めまず揉み上げ和らげその後打っても良い。
 又漬物にする事、糠に漬け、味噌に漬け、其の他漬け様色々ありてどれもおいしく家事を助け利益多いものなり。
 また、中国(地方の人)は国によっては多く作って、根葉も漬け置き、冬中これのみ菜(野菜の代用)に用いて朝晩のおかずとしている。最も飢えを助けるものと言う。このように山野の植物の中で大根に勝るものは少ない。土地があるときは必ず余分に作るべし。
 一種小大根あり,野生の大根で正月に掘って漬物とする。伊吹菜またはねずみ大根と云う。その大根はねずみの如く細い。近江・伊吹山にあり、そこの名物である。干し(ねずみ)大根の方法は良い大根を寒中30日の間木または枝の間に縄を引いてそれに掛け干し、その後は前と同じ方法で干し置く。とっても味が良い。
参考
シシビ 干し肉を刻み、麹(こうじ)と塩に漬け込んだもの。
小大根とは西国にての呼び方、はだの大根は小大根より少し大なり。
 宮崎安貞1623~1697(元和9~元禄10)近世の三大農学者の一人
九州・山陽道・畿内などの農業事情を見聞する旅を行い,先進地域の農業技術を実地に移すべく農書の刊行を行った。

当時、西日本はまだ大根の糠漬・沢庵漬を知らなかったとも言えるので記述がなかったと思う。今の鹿児島県山川漬・山口県寒漬の製法と農業全書の漬け方と似ている。


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沢庵漬の名称と文献1

2006年04月23日 | タクワン
本朝食鑑 人見必大 1697年(元禄10)刊行
百本漬というものあり、大根百本を洗浄し、数日干して、水分が乾いて曲がりやすい状態になれば,粉糠一斗・麹4升・白塩3升半を混ぜ合わせ、干し大根と混ぜ合わせた糠と交互に一重重ねに漬けていく。やはり、30日余で出来上がる。これはあるいは沢庵漬ともいう。大徳禅寺にて始めて造られ、各家に伝わってこう名づけられているのである。
この当時、京坂の方では香香とか百本漬と呼ばれていたらしい。元禄時代の関東では沢庵漬と言う名称ついていた。

 漬物の名称のほとんどは野菜の名称(白菜+漬)、生産地の地名に漬の字と加えたもの(野沢+菜+漬)野菜の形(千枚+漬)等で、人の名前が付いて長い歴史があり、今も呼ばれているのは沢庵漬だけであり、法律に定義されている。農林水産物規格法(JAS法)

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山川漬はコラーゲンを増やす?

2006年04月22日 | タクワン
江戸時代には、都市住民がタクワン漬を作る場合は、干し大根を購入して加工していました。都市から少し離れた農村では、大根を干すことによって保存性が高くなり運搬が容易になる上、販売時期を選んで付加価値を高くして売れるという利点もあったからです。
 また、乾燥することにとって、大根自体が持つうま味成分が凝縮され、米糠、食塩で漬け込むことにより乳酸発酵が進み、独特のうま味が加わり美味しく食べられるようになります。
 現在でも、干しだいこんは全国各地で作られており、主に漬物の原材料として販売されています。
 生大根は、水分が90%以上あることから、そのまま漬け込むと貯蔵性が劣り、調味成分の浸透も悪くなることから、干してから漬け込んだ方がよいといわれています。アミノ酸の一種のプロリンは大根の乾燥度が増すほど増えます。東京タクワンには100g中5mg、渥美タクワンには20mg、鹿児島の干しタクワンには50mgですが山川漬には500mgにもなります。 
新つけもの考 前田安彦著 岩波新書
プロリンは、 皮膚などの組織を構成するコラーゲンの原料となるアミノ酸で、天然保湿成分(NMF) としても使われております。
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山川漬の作り方

2006年04月21日 | タクワン
9月下旬、鹿児島県山川町の畑に、練馬大根の種がまかれます。肥えた火山土壌が大根を育てます。1反(10R)あたり1.6Lの種をまきます。2回の間引きの後、種まき後65日から75日で収穫します。
秋から冬に育った大根を、一番寒い12~1月に畑にヤグラを組んで干し、寒風にさらし,乾燥期間20日から25日をかけます。1本の干し大根の重量が100Gから120Gとなるようにします。東シナ海の季節風が冷たいほど美味しい漬物ができるといわれます。干された大根を、今度は塩水をかけながらキネで一本一本つきます。海水が最高だったそうです。これは大根の旨みを引き出すための大切な工程で大根の品質を均一にし、汚れを落とす作業で、こうしてクタクタになった大根を再び日干しし大根の水分が切れるまで乾燥します.つぎに大根自体に充分塩がつくように,手で一本一本に塩をまぶします。現在使用中の甕は焼酎製造されていた甕で500KG入りの甕で大人も楽に甕の中で漬けこみ作業ができます。大きな壺に塩モミのできた大根を底のほうからきちんと隙間なく,さらに塩を均一に振り掛け重ねて生きます.重石をしないので,ふたは空気が入らぬようビニール等で密封します.甕を置くところは,比較的温度変化の少ない床下が良い。漬け込み、半年ほど自然発酵させると「山川漬」の出来上がりです。
 酸化によって黒茶色に変色した大根になり独特の香りが出てきます。

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山川漬の由来

2006年04月20日 | タクワン
今から30年以上も前、山川漬の漬け込み風景を見ました。干した大根を杵で搗き、海水をまぶし、また干していました。何度か繰り返した大根を人が入って漬けることが出来る大きな甕(壷)に漬けていました。重石を掛けない大根の漬物です。真っ黒で完璧に干された大根は薄く切って三杯酢で食べるとおいしい。
山川漬の由来
 山川漬は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、薩摩武士が地元を船出する時、この地方の農家から兵食用として徴発されたのがこの山川漬であった。山川漬はこの地方に朝鮮出兵の以前から製造されていて、当時の名前は「唐漬(からつけ)」といわれていた。山川港は島津藩から正式に貿易港と指定する以前より密貿易港として栄えていた。その頃、明の国(今の中国)から貿易商人として山川に渡来して一画の街をなしていた。また唐商人の手を経て輸入されたのが山川漬になくてはならぬ容器(土器甕)であった。
 山川地方の土壌は火山灰地で大根の栽培に最も適しており、その上(大根の収穫期には東シナ海から吹き上げて来る季節風に干した大根を海水に浸し漬けこみ土器に密閉して仕上げたのがそもそも山川漬である。
 こうした 風土 季節風 土器 の三拍子揃って始めて山川漬としての風味がつくもので、この地方以外は真似ることができない漬物である。 
 この唐漬も時代の変遷と共に昭和の時代に山川漬あるいはツボ漬と呼ぶようになった。現在では唐漬と言う人は稀で、山川漬と言う人が多い。現在、山川町はカツオ節製造として全国一をうたわれ、山川町役場の人や町の人、生産者は異口同音にツボ漬でなく山川漬として一本に絞り全国に広めたいとおもっている。
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伊勢たくわん

2006年04月19日 | タクワン
江戸時代末期に三重県の伊勢路を中心に農村で生産するようになりました。大きく発展したのは明治以後です。
 三重県の水利豊かな地で育った大根(御薗大根)が伊勢市付近にある漬物業者で漬けられています。師走に入り、伊勢平野が寒風に吹きさらされる頃、「伊勢たくあん」の大根干しが始まる。葉のついた大根がハザに掛けられズラリと並ぶのは師走の伊勢路ならではの光景である。10日から14日前後、干して大根が”の”の字になるように曲がるまで干すと、米ぬかや塩、乾燥したカキの皮、唐辛子などと一緒に漬け込む。昔風の造り方で造られた、しわが多くてパリパリとした歯ごたえの沢庵-。伊勢タクワンは伝統の味です。主に大阪や京都方面に出荷されていました。

伊勢タクワンの危機
昭和18年 読売新聞より
年産25万樽(1樽70kg入り)も生産されている・三重県の伊勢タクワンの糠不足の悩み。戦争で、伊勢タクワンの糠が不足しタクワンの生産がなくなるか心配したが、このたび陸軍糧秣廠が研究したワラと籾殻で漬け込み、新製法を試みたところ、味も香気も遜色ないことが実証され、名物伊勢タクワンは今後この方法でどしどしと生産できるようになった。

戦後、物不足の時、練馬のタクワンも同じ籾殻とワラでタクワンを作っていた。
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阿波タクワン2

2006年04月18日 | タクワン
昭和40年代でしたか、阿波タクワンを見ました。もちろん4斗樽です。中身と樽の重量を入れると80kgを超えます。もちろん自分の体重より重く、運ぶのに難儀しました。更に、あまり傾けて運ぶと樽のふた(かがみ蓋という)と樽との隙間から、タクワンの漬け汁が漏れてきます。もちろん、着色料使用しているので、うっかり黄色い汁をシャツに付けると大変です。運ぶコツは手前に傾けないで、前倒しにして、汁をこぼし、ひざを利用して,テコの原理で持ち上げます。関東の大根よりかなり太かった記憶があります。まるで黄色い大根足が漬かっていたみたいでした。
 阿波タクワンの着色の色は赤黄色で関西では赤フスマと呼んでいた。関東タクワンの黄色はクリーム色に近く、阿波タクワンはオレンジ色に近い。タクワンの黄色といっても日本全国同一の色ではない。

こんこ
徳島県のタクワンは阿波タクワンですが“こんこ”とも呼ばれています。
こんこの造り方(地域・気温により変わります)
大根をハザに掛けて、干し。“の”字の形に大根が曲がるまで干します。塩2升糠3升を混ぜあわせ,樽のそこに ぬか塩をしき、葉を落とした大根をつめ、ぬか塩を振るという作業を交互に繰り返し、最後に乾燥した大根葉をふたにしてきちっと詰め、塩をいっぱい振り、重石を掛ける。

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阿波たくわん

2006年04月17日 | タクワン
徳島県のタクワンは阿波タクワンと呼ばれ、大正から昭和初期にかけて、全国一の生産量を誇った大根の漬物です。

 明治中期、化学染料の登場で衰退し始めた藍にかわり吉野川下流域の畑作地で漬物用の大根が作られるようになります。大正時代の徳島市民の食生活は麦飯にタクワンが主流でした。徳島県は米が幕府時代から不足していたためです。大根を天日に干して10日ほどつけ込んだタクワンは阪神市場に出荷され、その品質の良さからやがて全国へ広まりました。昭和の始めには、東京市場にも鉄道輸送で入ってきました。
 大正12年にはおよそ28万樽(1樽70kg)が徳島で作られ、全国のタクワン生産高の2割を占めていました。台湾や朝鮮にも輸出されていました。昭和20年代まで徳島は全国一のタクワン産地だったのです。
 阿波晩生。
この大根が阿波たくあんの人気を支えました。たくあん用に品種改良された大根です。昭和の始めに県の農業試験場で生まれた阿波晩生は当時、「たくあんに最適の大根」として高い評価を受けました。品種改良の成功で阿波たくあんの人気はゆるぎないものになったかに思われました。しかし、阿波晩生には重大な弱点があったのです。
昭和25年、大根のウイルス病が発生し阿波晩生に大きな被害がでました。
阿波たくあんの生産量はこの年、激減。漬物業界は大打撃を受けます。あわてて県は品種改良に取り組みました。県は病気に強い新しい品種「阿波新晩生」を作り挽回をはかりました。しかし、出荷の減った時期に他の産地に市場を奪われたことなどが原因で阿波たくあんが再び全国一の座につくことはありませんでした。このあと徳島のタクワン作りは衰退の一途をたどります。現在、徳島でタクワンを出荷している漬物業者は数少なくなりました。消費者が浅漬けを好むようになったこともタクワン離れに拍車をかけました。徳島県の漬物業界は冬は野沢菜の産地となっています。数少ない国産漬物原料の産地です。
 明治から昭和初期にかけて全国の人々が支持した「阿波たくあん」の名声は時代や食生活の変化とともに忘れ去られようとしています。
ねじり干し大根
タクワンの漬け込みのとき,樽に入りきれなくて.ハザに春まで掛け干して置いてシワだらけになり,固く茶色になった大根をはりはり漬、味噌漬,五分漬にして食べてました。
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歌人としての沢庵

2006年04月16日 | タクワン
和歌や狂歌でも知られていた沢庵
沢庵の和歌の師は細川幽斎であり、三斎・忠利・光尚と四代にわたって親交があった。沢庵の和歌を細川幽斎がほめたそうです。
品川・東海寺を訪れた家光公が、船に乗ろうとして見送りの沢庵和尚とで禅問答を交わしたとされます。『海近くして如何か是東海寺(遠海寺)』、沢庵答えて『大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し』
沢庵の歌
後撰夷曲集(寛文十二年刊)近世文学資料類従 狂歌編3 404頁 
香物 
大こうのもとはきけど糠みそに打ちつけられてしおしおとなる
大こう とは豊臣秀吉のことと大根を掛けている
糠とは康の字が入っており家康を意味する
大根(秀吉)が糠みそ(家康)に漬けられて、しおしおとなる(屈服する)。
大根の糠漬を知っていた証拠である。

家光と老臣会議の後、沢庵と二人で夜、遅くまで話しこんだと、沢庵和尚が故郷に宛てた手紙に書いてあります。

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