年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

タクワンの話2013-11

2013年08月31日 | タクワン
雑記帳

近代数寄者太平記 原田伴彦著
22ページ 明治45年、井上馨の神奈川県興津にある別荘に後の大正天皇が遊びに来た.
井上の自慢の手料理でもてなした。後で大正天皇が宮中の大膳職に『井上の家で出た料理の中で特においしいものがあったがあれをぜひ食べたい』と言い出した。どんな手料理か大膳職が井上家に問い合わせたところなんと『たくわん漬』だった。

宮中の食事の白米は精米過剰でビタミンB1が不足していた。タクワン漬にはビタミンB1が入っていたのでおいしいと感じたのだろう。今のタクワン漬は糠を使用して作っているのは少ない。

耳袋 柳生家の門番のこと
あるとき、柳生但馬守の屋敷へ沢庵が訪れたところ、門番所に一首の謁が掲げられていた。
蒼海魚竜住 山林禽獣家 六十六国 無所入小身
(海には魚が住み、山には獣がすんでいるが日本にはわが身を置くところが無い。)
「なかなか面白い歌だが、末の句には欠点がある。」
 沢庵がひとりつぶやいていると、門番がそれを聞いて言った。
「大げさなことなどという欠点はありません。私の歌です」
 沢庵は驚いた。
「どうしてか?」
 いろいろと話を聞くと、この門番は朝鮮の人であり、本国から日本に脱出してきて但馬守の門番をしているという。
 但馬守が沢庵からこの話を聞き、
「身を入るに所無きことなどない事などない」
 と、二百石を与えて侍に取り立てた。今も柳生家にはその子孫が仕えているという。

根岸の耳袋には沢庵と柳生但馬守の交友に関しての話題が数々ある。沢庵漬の命名の由来は耳袋から広まったと思われる。

耳袋 沢庵の書
沢庵が書いたという書を山村信州が所持していたのを写させてもらった。
ご飯は何のために食べるのか?腹が減るからやむを得ずに食べるのか。腹が減らずば食べずにに済むものを、美味いオカズがなければご飯など食べないと人のいうのは大きな間違い。ただ腹が減ったから食べるに過ぎぬ。オカズがなければ飯が食えぬなどという人は飢えを知らぬ。飢えなければ一生食べる必要などありえない。ひとたび飢えれば、たとえ糠味噌だろうとも喜んで食べる。ご飯であればいうまでもない。なぜオカズがいるなどというのか。
 食を得ること、薬を服する如くせよと仏も言い残しておられる。衣類もまた同様。人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い。
 こんなものは落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたまで。
 
  元和の酉の冬に
沢庵 宗 彭
糠味噌とは今とは違って味噌汁の増量剤として米糠を入れて食していたから、美味しくなかった。糠味噌漬のことを言っているのではない。糠味噌漬は江戸時代中期以後に現れた漬物である。錬金法印とは沢庵の書を売っている人のことを言うのだろうか

成島柳北
読売雑評集 明治14年10月19日
沢庵漬の説
私は質素に育ったゆえ、幼少の時より、沢庵漬を良く食べていた。三食必ずこれを食べていた。家に古い召使がいて私が沢庵を好むのを知っていて、その重石の置き加減を慎重に加減して、新漬は新漬、古漬は古漬と自ら判断して、あるときは重石を軽く。又あるときは重く、重石の加減を良くしていた。四季とも沢庵の味良く、私にして食事に魚がないことを嘆くことはなかったのは美味しい沢庵があったからである。
 然るに近頃、その古い召使が田舎に帰ってしまった。他の召使に代わって沢庵を管理すると、沢庵の重石加減の程度を知らず、ただ押しに押したので沢庵の味はだんだん悪くなった。私が日々ののしりわめいたが、仕方がなかった。程なく田舎より古い召使が戻ってきたので、この状態を話すと次のような答えが召使からかえってきた。
「それ沢庵は押さねば漬からないものである。それ故石の良いものを選び、この石で押し、沢庵の塩加減をよくすればもとより必要なことだが、ただ押せば良いものだと思い込み、その大根の性質を問はず、その糠塩の多少を考えず、むやみに押し付けるのが良いと考えるのは甚だ心違いである。茄子には自ずから茄子の漬け方がある。瓜も自ずから瓜の漬け方がある。茄子も瓜も沢庵も同じ漬け方にすべしと思い、ただ重石のみ強くかけるのは台所を任せられているもの間違いである。重石の軽重は自ずから状態を判断してよきを図ると良い。」といった。
 私はこのことから次のように思った。「ああ妙なことだ。古い召使の言葉だ。世間の道理は往々にしてこのようなものだ。何事も軽重のよろしきをを失うとき必ず悪い結果を招く。なんぞ沢庵漬のみのことではないことだ。」と書いて世間の人に知らせたい。

明治初期の話で今でも十分通用する話である。

花月随筆
飯島花月
はだなと大根 489頁
川柳に扱われると干し大根は老人のしわだらけの姿のように扱われる。はだなは若い婦人に見立てた作が多い。

干大根はだなの側に恥ずかしき

江戸においてははだなうり大根は正月松の内に売りにくるというので正月風景となっていた。冬野菜の不足していく時期だったので重宝されたのだろう。お惣菜に使われたという。

はだなは神奈川県秦野市の産した大根の品種で宝永4年(1704)の富士山の噴火で秦野市は火山灰で覆われたため『はたの大根』は壊滅的打撃を受け、後には練馬大根の干し大根と混同されるようになったと思われる。

沢庵和尚の鎌倉紀行

江戸幕府二代将軍秀忠が死去の後、家光によって赦免された沢庵は江戸に戻ってきたが、約2年間駒込・吉祥寺の堀丹後守直寄の下屋敷や柳生宗矩の世話をうけていた.沢庵は京に戻る事を希望していたが戻れずにいた。その間に鎌倉に旅行している。この旅行の後沢庵は、幕府の庇護の無い寺院の悲惨な状態を知り,後に変心してゆくきっかけとなる。
『天下の五嶽・かくのごとくなり果てる事やあると嘆息止みがたし、またこの日は建長寺に入り仏国禅師を拝み正統庵は夕べに扉を閉じ、人住まざる夜はけだものの住家となるを見たり。いかにしかかる様ぞと問えば所領荘園いささかも無ければ子孫末流ありながら自住の庵さえ守りかねる事になれば本庵をいかにしても維持しようがないと語る。』
 神奈川県鎌倉市・建長寺は江戸時代初期までの度重なる火災や風水害で荒廃していた。後に沢庵和尚の進言で建長寺は徐々に再建し現在残っている伽藍となった。


昭和33年農産物漬物輸出規格

戦後、輸出検査法によって、ある種の漬物は輸出検査を受け合格しないと輸出が出来なかった。中曽根内閣のとき、漬物の輸出検査制度は廃止された。
この輸出検査の目的は粗悪品の輸出を阻止し日本品の名声の維持向上を目的としていた。関東では横浜と芝浦に輸出規格検査所が在った。
漬物の検査規格の一例として
たくわん漬の規格 南北アメリカ以外の地区
調製 新漬沢庵にあっては塩押しが、古漬沢庵にあっては干し揚げが良好であること。ヒゲ根および葉の除去が完全であること。ただ,葉つき沢庵にあっては,枯れ葉、腐れ葉の除去が完全であること。
米糠の重量は正味量の7%以上であること.ただし特殊副原料を用いた沢庵漬にあっては、その香味、肉質、色沢及び保存力が規定量の米糠も用いた沢庵漬と同等以上の場合は、この限りでない.奇形の物または傷の程度の著しい物の混入が本数で5%以下であること。
正味量 正味量が内容積18リットルにつき13・6kgの割合以上であること。ただし、長さ20cm以下の詰め沢庵,充填用大根の葉及び米糠の重量を除く。
注 脱脂した米糠及び破砕された籾殻が一部混入している生米糠は、米糠としてとり扱う。
たくわん漬の規格 南北アメリカ向け
調製 新漬沢庵にあっては塩押しが、古漬沢庵にあっては干し揚げが良好であること。ヒゲ根および葉の除去が完全であること。一本あたり平均重量の上下各々30%をこえるものの混入の本数が5%以下であること。異品種のもの、奇形のもの及び傷物が混入していないこと。
米糠の重量は正味量の7%以上であること.ただし特殊副原料を用いた沢庵漬にあっては、その香味、肉質、色沢及び保存力が規定量の米糠も用いた沢庵漬と同等以上の場合は、この限りでない.
正味量 南北アメリカ以外の地区の規格と同じ

注 脱脂した米糠及び破砕された籾殻が一部混入している生米糠は、米糠としてとり扱う。
色沢、形状の著しく異なるものは、品種として取り扱う。

アメリカ向けの方が不揃いの規格がうるさい。
南北アメリカ以外の地区向け
たくわん漬の包装条件
樽を用いる場合は、次の基準に適合すること。
イ 樽材は清潔で死節、虫食い,割れ等の欠点により樽漏れしない物であり、樽の内容積が72リットル未満であるときは厚さ7ミリメートル以上。樽の内容積が72リットル以上の場合は厚さ14ミリメートル以上あること。
ロ 鏡ふたは、はぎ4枚以内とし、たくわん漬用いたたるで内容積が36リットル以上のものには中ふたを用いること。
ハ 上さんは二本で、その厚さは7ミリメートル以上とし、底さんはたるの内容積72リットル以上の樽にあっては二本で,その厚さは20ミリメートル以上であること。
ニ 樽漏れする場合は、清潔な資材を用いて目打ちを完全に行うこと。
ホ くぎ打ち,縄掛けその他荷造りが堅固であること。
抜き取り方法
合格または不合格の判定は次の表により荷口の大きさに応じて抜き取った数量について行う。
20こおり以下は2こおり
21こおり以上50こおりは3こおり
51こおり以上150こおりは5こおり
151こおり以上300こおりは7こおり
301こおり以上10こおり
合格の表示は PASSEDとする
南北アメリカ向けの規格
たくわん漬の包装条件
樽を用いる場合は、次の基準に適合すること。
イ 樽材は杉またはさわらの割り材で死節、虫食い,割れ等の欠点がなく、樽の内容積が72リットル未満であるときは厚さ7ミリメートル以上。樽の内容積が72リットル以上の場合は厚さ14ミリメートル以上あること。
ロ 鏡ふた 南北アメリカ以外の地区向けと同じ
ハ 上さん 南北アメリカ以外の地区向けと同じ
ニ 樽漏れする場合は、清潔な和紙を用いて目打ちを完全に行うこと。
ホ 縄は,稲縄,あし縄、マラオン縄.麻縄またはまこも縄を用いること。
へ くぎ打ち,縄掛けその他荷造りが堅固であること。
抜き取り方法
南北アメリカ以外の地区向けと同じ
合格の表示は PASSED FOR N&S AMERICAとする。

芝浦にあった、農林水産省輸出検査所にアメリカ向けの渥美タクワンの輸出をしていたときの話。当時は寿司ブームが始まったときで、塩辛い渥美たくわんが寿司まき沢庵用として輸出していた。9時30分頃に検査所について、検査をお願いして、検査するたくわんを検査室の前に並べる。検査員が抜き取り検査の商品を指定して、検査が始まる。たくわんを容器から抜き出し、糠をしごいて、目方を量り、傷を検査する。合格するとまた元のように容器に詰める。これが難かしい。きっちりと入っていたので元に入らなかったのもある。その間に書類が出来、商品に検査合格印のスタンプを押してもらう。時計は10時半ごろになっている。指定された倉庫会社は大体11時が午前の搬入書類作成の打ち切り時間なので急ぐ。遅れると1時までどこかで待機しなければならない。
輸出検査のおかげで、戦後塩分の低下した国内産の漬物は特別に旧規格の商品をつくらないと不合格になっていた。特になら漬は酒粕が重量の50%なければ不合格、ラッキョウの糖分不足が目立った。
今は輸出検査がなくなり、どうかと思う商品も海外に出ている、国内の価格の3倍になってしまう事を考えるとやむを得ないかも知れない。ただ、海外にいて日本の人たちの活力を与える漬物なので、良い漬物を安価に供給したいと思う。
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タクワンの話2013-10

2013年08月30日 | タクワン

日本各地のタクワン
山川漬
今から40年以上も前、山川漬の漬け込み風景を見ました。干した大根を杵でたたき、海水を降りかけ、また干していました。これを何度か繰り返し、人が入って漬けることが出来る大きな甕(壷)に海の塩味つき干し大根を漬けていました。重石を掛けない大根の漬物です。真っ黒で完璧に干され漬けた大根は薄く切って三杯酢で食べるとおいしい。
山川漬の由来
 山川漬は豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、薩摩武士が地元を船出する時、この地方の農家から兵食用として徴発されたのがこの山川漬であった。山川漬はこの地方に朝鮮出兵の以前から製造されていて、当時の名前は「唐漬(からつけ)」といわれていた。山川港は島津藩から正式に貿易港と指定する以前より密貿易港として栄えていた。その頃、明の国(今の中国)から貿易商人として山川に渡来して一画の街をなしていた。また唐商人の手を経て輸入されたのが山川漬になくてはならぬ容器(土器甕)であった。
 山川地方の土壌は火山灰地で大根の栽培に最も適しており、その上(大根の収穫期には東シナ海から吹き上げて来る季節風に干した大根を海水に浸し漬けこみ土器に密閉して仕上げたのがそもそも山川漬である。
 こうした 風土 季節風 土器 の三拍子揃って始めて山川漬としての風味がつくもので、この地方以外は真似ることができない漬物である。 
 この唐漬も時代の変遷と共に昭和の時代に山川漬あるいはツボ漬と呼ぶようになった。現在では唐漬と言う人は稀で、山川漬と言う人が多い。現在、山川町はカツオ節製造として全国一をうたわれ、山川町役場の人や町の人、生産者は異口同音にツボ漬でなく山川漬として一本に絞り全国に広めたいとおもっている。
9月下旬、鹿児島県山川町の畑に、練馬大根の種がまかれます。肥えた火山土壌が大根を育てます。1反(10R)あたり1.6Lの種をまきます。2回の間引きの後、種まき後65日から75日で収穫します。
秋から冬に育った大根を、一番寒い12~1月に畑にヤグラを組んで干し、寒風にさらし,乾燥期間20日から25日をかけます。1本の干し大根の重量が100Gから120Gとなるようにします。東シナ海の季節風が冷たいほど美味しい漬物ができるといわれます。干された大根を、今度は塩水をかけながらキネで一本一本つきます。海水が最高だったそうです。これは大根の旨みを引き出すための大切な工程で大根の品質を均一にし、汚れを落とす作業で、こうしてクタクタになった大根を再び日干しし大根の水分が切れるまで乾燥します.つぎに大根自体に充分塩がつくように,手で一本一本に塩をまぶします。現在使用中の甕は焼酎製造されていた甕で500KG入りの甕で大人も楽に甕の中で漬けこみ作業ができます。大きな壺に塩モミのできた大根を底のほうからきちんと隙間なく,さらに塩を均一に振り掛け重ねて生きます.重石をしないので,ふたは空気が入らぬようビニール等で密封します.甕を置くところは,比較的温度変化の少ない床下が良い。漬け込み、半年ほど自然発酵させると「山川漬」の出来上がりです。
 酸化によって黒茶色に変色した大根になり独特の香りが出てきます。
江戸時代には、都市住民がタクワン漬を作る場合は、干し大根を購入して加工していました。都市から少し離れた農村では、大根を干すことによって保存性が高くなり運搬が容易になる上、販売時期を選んで付加価値を高くして売れるという利点もあったからです。
 また、乾燥することにとって、大根自体が持つうま味成分が凝縮され、米糠、食塩で漬け込むことにより乳酸発酵が進み、独特のうま味が加わり美味しく食べられるようになります。
 現在でも、干しだいこんは全国各地で作られており、主に漬物の原材料として販売されています。
 生大根は、水分が90%以上あることから、そのまま漬け込むと貯蔵性が劣り、調味成分の浸透も悪くなることから、干してから漬け込んだ方がよいといわれています。アミノ酸の一種のプロリンは大根の乾燥度が増すほど増えます。東京タクワンには100g中5mg、渥美タクワンには20mg、鹿児島の干しタクワンには50mgですが山川漬には500mgにもなります。 
新つけもの考 前田安彦著 岩波新書
プロリンは、 皮膚などの組織を構成するコラーゲンの原料となるアミノ酸で、天然保湿成分(NMF) としても使われております。

伊勢たくわん
江戸時代末期に三重県の伊勢路を中心に農村で生産するようになりました。大きく発展したのは明治以後です。
 三重県の水利豊かな地で育った大根(御薗大根)が伊勢市付近にある漬物業者で漬けられています。師走に入り、伊勢平野が寒風に吹きさらされる頃、「伊勢たくあん」の大根干しが始まる。葉のついた大根がハザに掛けられズラリと並ぶのは師走の伊勢路ならではの光景である。10日から14日前後、干して大根が”の”の字になるように曲がるまで干すと、米ぬかや塩、乾燥したカキの皮、唐辛子などと一緒に漬け込む。昔風の造り方で造られた、しわが多くてパリパリとした歯ごたえの沢庵-。伊勢タクワンは伝統の味です。主に大阪や京都方面に出荷されていました。

伊勢タクワンの危機
昭和18年 読売新聞より
年産25万樽(1樽70kg入り)も生産されている・三重県の伊勢タクワンの糠不足の悩み。戦争で、伊勢タクワンの糠が不足しタクワンの生産がなくなるか心配したが、このたび陸軍糧秣廠が研究したワラと籾殻で漬け込み、新製法を試みたところ、味も香気も遜色ないことが実証され、名物伊勢タクワンは今後この方法でどしどしと生産できるようになった。

戦後、物不足の時、練馬のタクワンも同じ籾殻とワラでタクワンを作っていた。

阿波たくわん
徳島県のタクワンは阿波タクワンと呼ばれ、大正から昭和初期にかけて、全国一の生産量を誇った大根の漬物です。

 明治中期、化学染料の登場で衰退し始めた藍にかわり吉野川下流域の畑作地で漬物用の大根が作られるようになります。大正時代の徳島市民の食生活は麦飯にタクワンが主流でした。徳島県は米が幕府時代から不足していたためです。大根を天日に干して10日ほどつけ込んだタクワンは阪神市場に出荷され、その品質の良さからやがて全国へ広まりました。昭和の始めには、東京市場にも鉄道輸送で入ってきました。
 大正12年にはおよそ28万樽(1樽70kg)が徳島で作られ、全国のタクワン生産高の2割を占めていました。台湾や朝鮮にも輸出されていました。昭和20年代まで徳島は全国一のタクワン産地だったのです。
 阿波晩生。
この大根が阿波たくあんの人気を支えました。たくあん用に品種改良された大根です。昭和の始めに県の農業試験場で生まれた阿波晩生は当時、「たくあんに最適の大根」として高い評価を受けました。品種改良の成功で阿波たくあんの人気はゆるぎないものになったかに思われました。しかし、阿波晩生には重大な弱点があったのです。
昭和25年、大根のウイルス病が発生し阿波晩生に大きな被害がでました。
阿波たくあんの生産量はこの年、激減。漬物業界は大打撃を受けます。あわてて県は品種改良に取り組みました。県は病気に強い新しい品種「阿波新晩生」を作り挽回をはかりました。しかし、出荷の減った時期に他の産地に市場を奪われたことなどが原因で阿波たくあんが再び全国一の座につくことはありませんでした。このあと徳島のタクワン作りは衰退の一途をたどります。現在、徳島でタクワンを出荷している漬物業者は数少なくなりました。消費者が浅漬けを好むようになったこともタクワン離れに拍車をかけました。徳島県の漬物業界は冬は野沢菜の産地となっています。数少ない国産漬物原料の産地です。
 明治から昭和初期にかけて全国の人々が支持した「阿波たくあん」の名声は時代や食生活の変化とともに忘れ去られようとしています。
ねじり干し大根
タクワンの漬け込みのとき,樽に入りきれなくて.ハザに春まで掛け干して置いてシワだらけになり,固く茶色になった大根をはりはり漬、味噌漬,五分漬にして食べていました。
昭和40年代でしたか、阿波タクワンを見ました。もちろん4斗樽です。中身と樽の重量を入れると80kgを超えます。もちろん自分の体重より重く、運ぶのに難儀しました。更に、あまり傾けて運ぶと樽のふた(かがみ蓋という)と樽との隙間から、タクワンの漬け汁が漏れてきます。もちろん、着色料使用しているので、うっかり黄色い汁をシャツに付けると大変です。運ぶコツは手前に傾けないで、前倒しにして、汁をこぼし、ひざを利用して,テコの原理で持ち上げます。関東の大根よりかなり太かった記憶があります。まるで黄色い大根足が漬かっていたみたいでした。
 阿波タクワンの着色の色は赤黄色で関西では赤フスマと呼んでいた。関東タクワンの黄色はクリーム色に近く、阿波タクワンはオレンジ色に近い。タクワンの黄色といっても日本全国同一の色ではない。

こんこ
徳島県のタクワンは阿波タクワンですが“こんこ”とも呼ばれています。
こんこの造り方(地域・気温により変わります)
大根をハザに掛けて、干し。“の”字の形に大根が曲がるまで干します。塩2升糠3升を混ぜあわせ,樽のそこに ぬか塩をしき、葉を落とした大根をつめ、ぬか塩を振るという作業を交互に繰り返し、最後に乾燥した大根葉をふたにしてきちっと詰め、塩をいっぱい振り、重石を掛ける。

渥美たくわん
昭和40年代に全国一の生産量を誇った愛知県の「渥美沢庵」は、当時4斗樽に(70kg)で60万から70万タル生産され、日本の漬物業界を席巻した。
 愛知県の渥美半島で生産されていた最高級の「一丁漬」は人気も抜群で、漬物専門店をはじめ、高級料亭、寿司屋向けに良く売れたものである。現在ではその高級沢庵の一丁漬などの渥美沢庵を生産するメーカーもわずか2社程度となってしまった。かつては40社余りあった事を考えると、時代の移り変わりに愕然とする思いである。
 一丁漬は幻の渥美沢庵といっても過言ではない。手間暇かけて漬け込み、乳酸発酵した半年後にようやく製品になって販売される。 
 干し大根原料は前年12月初め頃から漬け込みが始まる。一丁漬の下漬は昔からの方法で、米ぬか、塩、茄子の葉、柿の皮、唐辛子を入れて漬ける。この他、ウコン(黄色く着色する)を混ぜた物も注文で生産している。
 現在、干燥は2週間。生大根を干すと歩留まりは27~28%になる。大根の品種は「漬け誉」を使用しており、大根の長さも揃うので、昔の阿波晩生と違い生産性も良い。製品も今日では消費者の低塩嗜好にマッチさせ塩分は4~4.5%、風味もよくミネラル分豊富なヘルシー漬物に仕上げている。
 大根の干し場は、潮風が吹く最高の場所として昔から知られる田原市・伊川津から江比間海岸に面した地区でハザ掛けしている。なお、漬け込みは1月いっぱいで終了する。
渥美沢庵の歴史
 昭和30年代から沢庵の生産が本格化し、伊勢沢庵につぐ干燥大根の加工産地となり、渥美沢庵ブランドが全国に広まった。生産された沢庵はふすま漬沢庵、昆布沢庵、うめず沢庵、一丁漬沢庵など。タル詰の時代から包装沢庵の時代に移った。昭和50年頃になり、九州本干沢庵が全盛を迎え、それと同時に渥美沢庵が急速に落ち込み廃業が続出した。
 大根産地だった渥美半島は、収入の良いキャベツ、白菜、メロン、電照菊などに転作していったことも産地崩壊につながった。
 また原料大根も九州の干燥大根原料の3倍の価格でも農家は作らなくなった。その理由は競合作物の方が割が良いことが一番の原因である。また近隣にトヨタ自動車工場が出来たことも大いに影響がある。

練馬漬物親睦会
毎年1月終り頃の週に池袋西武百貨店で漬物の物産展がある。会場:西武食品館地下1階(南B11)=特設会場
 今の練馬区では消えてしまった練馬大根を特別栽培し、昔ながらの作り方で数千本販売します。会期:1月26日(水)~2月1日(火)
 練馬区は都市農業を支援していて、練馬大根で町おこしを企画しているようです。昔は練馬というとかなり辺鄙な印象がありましたが地価の安さに芸術家が引き寄せられ、今ではマンガの聖地となったようです。毎年開催されていますが本物の練馬大根で造った沢庵漬は幻の商品となりました。
 市販の沢庵漬は製造方法が簡略化されて作っている。

番外 魚のヌカズケ
福井県若狭地方の伝統食に「へしこ」という名の食べ物がある。へしことは魚の糠漬けのことで、その語源は、重石をかけて漬け込む「圧し込む(へしこむ)」という言葉がなまったからといわれている。
 北陸地方ではその昔、魚の腐敗を防ぎ、長期保存するための糠を使った保存食として作られていた。その歴史は長く、江戸時代の中ごろにはすでにへしこ作りが始まっていたといわれている。最も有名で生産量も多いのが鯖のへしこである。糠が江戸時代以前からあるにも関わらず、江戸時代中頃以後の歴史となるのは米糠の歴史が関わって来る。つまり米糠が保存食に利用されるようになってきたのは江戸時代中期以後の話となる。
 沢庵漬も沢庵禅師の創作ではないが沢庵が活躍していた時代に普及した。米糠が比較的早くから手に入った地域で活躍していたからと思われる。戦国時代は米はモミの形で流通していたようで食する寸前に精米し、その時発生する米糠も汁の増量剤として食べていたようである。またおいしくない米糠は主に肥料として使われていたようである。応仁の乱の前後に、日本に台カンナという道具が大陸から渡来した。この道具によって、大きな樽が製造する事ができた。この事が酒造の発展を招き、精米が増え、米糠の発生が増えた。ウルチ米の系統の米糠は漬物に適していて、様々な糠を利用した漬物が江戸時代に現れたのはこの様な歴史の背景がある。
 またモチ米由来の糠は漬物に適さなかったこともある。この考えからみると戦国時代以前には日本で栽培されている米が厳密にウルチ米と餅米とが分けて栽培されていなかったと思われる。この種の文献はまだない。
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タクワンの話2013-9

2013年08月29日 | タクワン
今日本で人工甘味料として制限使用許可となっているサッカリンというものがあります。このサッカリンというは戦後砂糖不足の時全部の日本国民がサッカリンの入った食べ物を食べていました。このサッカリンというものは日清戦争後日本政府によって販売する飲食物に添加することを禁止されました。しかし医薬用で使用する時と個人が自己使用の場合は違反ではありませんでした。
 日清・日露の戦費を賄うため、明治政府は砂糖消費税を創りました。この税収を減少させる人工甘味料サッカリンをあらゆる手段をとり、国民にサッカリンは危険な食品添加物と宣伝しました。その当時でもサッカリンの有害性は完全には証明されていませんでした。
 日露戦争後、日本は戦後のデフレ経済になっていました。その時、東京の帝国商業銀行内部で浅田正文と馬越恭平との経営をめぐる内紛がありました。明治末期の東京財界で帝国商業銀行の救済処置をめぐって渋沢栄一を中心として頻繁に相談をしていました。帝国商業銀行は株券を担保として投資家に融資する投機性の強い銀行でした。この内紛のあった時、日本醤油醸造株式会社という会社が当時としては巨大な資本金1千万円と発足し、投資家に新株をしきりに販売していました。日本醤油醸造は新式促成醸造と派手な宣伝で旧来の醤油醸造家と販売先で激突しました。
明治43年11月、日本醤油醸造の内部から警察に告発があって、尼崎の工場からサッカリン入りの醤油が発見されました。数か月の検討の結果醤油は瀬戸内海に廃棄処分となったようですが海は醤油で変色したと言われます。
翌年日本醤油醸造は廃棄物の保管不備より出火し、倒産しました。この結果株券を担保として融資していた東京では帝国商業銀行、関西では岩下清周の北浜銀行が経営危機となりました。勿論サッカリンが日本醤油醸造の倒産の単一の原因ではありませんが「ラクダの背骨を折った最後の一本のワラ」でした。戦前は今の保健所の役割を警察が行っていました。

昭和10年11月18日朝日新聞
たくわんとサッカリン
今の程度なら食べても心配なく、ただし業者から目を離すな
前述したのは急性中毒を起こす極量を定めるため作為的に行った実験であるが、これに反して希釈溶液による慢性中毒の方はどうのと言えば、家兎に毎日0.12g与えたのはかえって好影響を示すのではないかと疑う位であって、試験中では生活状態はなんら通常と異なるところなく、91日目に解剖したところ内臓の臓器に全く異常がなかった。
 つまりサッカリンは前記程度の濃度で連日与えても慢性中毒を起こす懸念がない訳である。
 またサッカリンは消化酵素に抑圧的に作用する説を確かめるために、ジアステーゼ・ペプシン・パンクレアチン等の消化器官中に存する諸種の酵素に対して実験してみたところが0.1%以下の濃度では全く影響は認められていないのである。
 以上の諸種の結果は、これを要するにサッカリンはその毒性が弱いものであっても,濃厚液の場合においても局所を刺激する性を現すものであるから、その使用濃度を注意さえすればよいと言う結論に達するのである。
 それは今日各家庭における実際問題として市場で販売されている沢庵漬や奈良漬は果たして毎日食用に供していても慢性中毒を起こす恐れがないのかというのかどうか、これは我々の日常生活と切り離すことの出来ない重大事であって、この点を明確にしておかねば気苦労で消化器系に及ぼす精神作用からして確かに悪影響を与える恐れがある。
 ところで我々の舌はサッカリンに対してどの位の判別があるか先ず試験してみることにする。
 これを試験するには食塩とサッカリンと色々な割合の濃度に調合してなめてみてその甘味濃度と実際沢庵を絞って出た液の甘味と比較してみるのである。
 この実験は我々が心配するほど不正確なものでなく実際定量分析した結果と照合してもまずたいした誤りがないのである。例えば食塩1%の溶液に一万分の一のサッカリンを混和しても舌頭試験をしてみると即時には甘味を感じないがしばらくするとこれを感じるのである。それ故これと同じ舌感覚が沢庵漬の搾り汁にあれば一万分の一程度のサッカリンが含まれていると見てよい。
 ところで我々が食膳のだす沢庵漬の輪切り一片は一体どのくらいかをいうと重量が約14g大きさは直径5.1cm厚さ0.4cm。しかもこれを上記の味覚試験で試してみると製造所によって多少は違うが大体五千分の一程度に含まれているのがわかる。
 この事実から逆に勘定すると4斗樽一本中に(大根が20貫目入っているとして・約75kg)サッカリンは15g(4匁)である計算となる。それ故我々が毎日前記の大きさの沢庵漬を五片食用に供すると毎日服用されるサッカリンの量は0.21gとなる。
 これを人体1kgに対する値に換算すると0.0042g。ところが家兎の致死量は前にも述べた如く1kg当たり8gであるから勿論急性中毒は問題ではない。また慢性中毒の方といえば家兎の体重は大抵2kgないし2.5kgであってそれが前の実験では毎日12gのサッカリンを与えても慢性中毒を起こさなかった。つまりkgあたり0.05g与えても大丈夫だというのであるから人間の0.004gは先ず心配ない。仮に一日15片食膳にのせたところで0.012gなるに過ぎないのでのだから沢庵漬も製造者が現在程度にサッカリンを使用しているとすれば口を大きくしてこれを食用に供しても、決して心配無用ということになる。但し、内務省令は依然として設けておかねばならぬ。それはある製造者の如く往々多量のサッカリンを使用するものがある恐れのある場合、十分に怠ってはならないのである。


解説
なぜ、小量のサッカリン(0.2%)を使用するのかといえば急に生大根を製品にすると浸透力の具合でサッカリンの濃い部分がかたより違反となるのだろう。
 戦前はサッカリンの危険性は慢性中毒を心配していたようで消化器系統を検査していた。戦後は膀胱ガンの疑いで一時禁止され、今では使用制限して食品に用いられるのが世界の流れである。それは糖分を制限している人に適当な人工甘味料がないためと思われる。
『たくわんとサッカリン 今の程度なら食べても心配なく、ただし業者から目を離すな』いまでも新聞の人たちは色眼鏡で漬物業者を見ている気がする。ふるさとの味・おふくろの味という先入観で業者の作ったものは添加物だらけという考えが感じられる。砂糖が高価でまた当時は家庭でのサッカリン使用は合法使用であった。戦前のサッカリン禁止は食品業者の営業使用を禁止していたのであって、医薬用使用とか個人使用は禁止されていなかった。ただ日清・日露戦争の戦費を賄う目的だった砂糖税の税収問題から取締は厳しかった。
現在ではサッカリンの発ガン性は粗悪品のサッカリンが原因とされて、高校生レベルの実験室でもサッカリンを作ることが出来るので危険性は残っている。消費者には純粋なサッカリン使用か粗悪なサッカリン使用かは解らないので規制は必要と思われる。

サッカリンナトリウムの現在の使用基準
こうじ漬、酢漬及びたくあん漬の漬物 2.0g/kg
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タクワンの話2013-8

2013年08月28日 | タクワン
東京たくわん 練馬大根
明治10年 第一回内国産業博覧会
明治維新直後、江戸は東京と変わったが人口は減り、茶桑栽培が都心で奨励され寂れていった、
 特に上野戦争で荒れた寛永寺は明治6年上野公園に指名され整備されていった。
明治10年第一回内国勧業博覧会が上野公園で始まる。約3ヶ月間(一日平均2000名の見物客)
明治11年 明治天皇 上野公園の桜花観覧 文明開化のファッションを見るため見物人が集まった。
明治14年第2回内国勧業博覧会
明治15年博物館 上野動物園開業
上野寛永寺門前町から文明開化・欧化思想の先駆地となる。
内国勧業博覧会はさらに第3回(明治23年)は東京、第4回(明治28年)は京都、第5回(明治36年)は大阪で開催されました。

練馬区石神井図書館にある郷土資料館に明治10年(1877)に、明治政府が殖産興業政策の一環として開催した内国勧業博覧会に、上練馬村の相原房次が沢庵漬を出品した折に受けた褒状があります。
 発行は「内務卿従三位大久保利通」である。第一回の博覧会で練馬大根沢庵漬が公に表彰されたことを示す資料である。

内国勧業博覧会は、産業や技芸の発展に主眼が置かれ、珍しいだけの動植物や鉱物、古いだけのものは排除され、後々に価値が出るもの、継続的に商売になるもの、技を極めたものを出品するように要求されました。一大イベントだったのです。明治11年には東京上野公園で開催された第1回内国勧業博覧会の出品物を販売処分した勧工場(かんこうば)といわれる施設ができました。これは今のデパートの前身といわれ、上野広小路やべったら市の開かれる中央区大伝馬町界隈にもありました

明治時代の沢庵需要の増大によって農家製造は増大し沢庵工場化していた。その影響か次のような記事が現れてきた。
明治34年10月15日 朝日新聞記事より

東京府にては昨年12月発布、本年4月より実施の府令を以って、従来東京府郡部営業税、雑種税科目中工業(製造業、印刷業、写真業)年税営業収入高千分の六となりしを単に工業と改めるために、これまで農業の片手間に種々の工夫をなし製出せる農産物、たとえば沢庵漬のごとき人工を加えたる工業製作品の一なりと収入高の千分の六の年税を課せられることなりたるは、甚だしく酷なりと一昨日府下6郡の農会の代表者が会して協議会を開き,結局参事会の賛助を求むることに決し、昨日の参事会は右工業の解釈を狭義に解することに決議したりによって、本月(東京)府会の議に附するべしと言う。
参考
農会とは
1899年(明治32年)の農会法では、政府助成による農業・農民の保護育成のため行政区画毎に農会(後の農業協同組合)が設置され、中央農業団体としての大日本農会も出現して農業発展に尽力した
参事会とは
郡には議決機関として郡会と郡参事会が設けられ、郡参事会は郡長と府県知事が任命する郡参事会員により構成された。
大化の改新(645年)後に律令制度が制定され、地方は国、郡、里の単位に分けられて支配されます。その後、郡制度は衰退しますが、近代明治に入り、郡区町村編成法(明治11年)が公布され、古来よりある郡が行政単位として復活することになります。大正15年に郡制度は廃止され、現在は住所を表す意味しかありません。

練馬大根 練馬区教育委員会発行より
明治も20年代に入ると世情も落ち着き、東京の人口も増大し、練馬が再び大根の産地となった。維新のあとで奨励された茶、桑、藍の採算が取れなくなったためもある。東京に出来た工場の寮、学生の宿舎、軍隊の糧食の需要があらたに生じた。
明治30年3月刊の(日本園芸雑誌第80号)によると当時の沢庵漬・一反歩(10アール)の収支
支出の部 合計22円75銭
内訳 種子代 80銭・ 整地人夫代 60銭・播種及び施肥人夫代 45銭・ 肥料代 8円55銭・間引及び1番作人夫代 45銭・補肥及び2番作人夫代 30銭・収納人夫代 75銭・干燥人夫代 1円50銭・沢庵漬人夫代 60銭・塩及び糠代 5円・干し葉取人夫代 45銭・運送費 1円50銭・その他・樽代? 1円25銭・公費 60銭
収入の部 合計 26円
沢庵漬 24円 干し葉 2円
差し引き利益 3円25銭
収支をみると肥料代が収入の3割を占めている。各種人件費を加えると利益は少なかった。
この時代の沢庵漬の原価を分析すると、次のような対策が考えられる。
①大根栽培の中で肥料がコストの中で多いので削減する。化学肥料の導入
②塩及び糠代がかさむので、製造方法の革新。干し大根を漬け込むことから生大根を塩蔵し、仕上げに糠漬け(沢庵漬)にする。技術革新
③運送費・荷車から鉄道を利用し遠隔地に得意先を確保する。量的拡大政策
④品質を安定させるため、大根の品種、製造方法の確立によって、ブランドの確立。安定大量消費の軍隊・寄宿舎等の得意先の確保。
⑤自家製造の沢庵漬と明らかに品質の差が出る商品の製造。製品の差別化。
以上のような理由で練馬の農家の干し大根販売から野間稼ぎとしての沢庵製造が明治の半ば以後、沢庵工場化していく。

練馬大根碑 練馬区の愛染院にある記念碑。昭和15年東京練馬漬物組合員149名が大根碑の建立を計画し、これに賛助の有志の町会が加わり、亦六翁の菩提寺の愛染院に立てる事となった。組合員の持ちよった『たくわん石』を基壇にあてた。

   練馬大根碑に碑文がある。

練馬大根碑   題字 東京府知事 川西実三
                             柴田 常恵撰
蔬菜は、人生一日も欠き難き必須の食品たり。特に大根は滋味芳醇にして、栄養に秀で、久しきに保ちて替る所なく、煮沸乾燥或いは生食して、各種の調理に適す。若し夫れ、沢庵漬に到りては、通歳尽くるを知らず、効用の甚大なる蔬菜の首位を占む。
 今や声誉内外に高き我が練馬大根は、由来甚だしく、徳川将軍綱吉が舘林城主右馬頭たりし時、宮重の種子を尾張に取り、練馬の百姓亦六(今の鹿島姓の旧家)へ与えて栽培せしむるに起こると伝ふ。
 文献散逸して拠るべきもの乏しと雖も、寛文中綱吉再次練馬に来遊せしは、史蹟に載せられ、当時の御殿跡なるも今に存するを思えば、伝説が基く所ありて、直ちに斥くべきにあらず、爾来、地味に適して、栽培に務めしより久しからずして、優秀な品種を作り、練馬大根の称を得て、重要物産となり、疾く寛政の頃には、宮重を凌ぎ日本一の推賞を蒙るに至れり。
 抑も練馬の地たる鎌倉時代の末葉に当たり、豪族豊島景村来住せしより、文明中太田道灌の攻略に遭い亡ぶるまで、世々其の一族の守る所として知られしも其の名は大根に依り始めて広く著はる。而して輓近国運の伸長は歳と共に其の需用を増し、加ふるに沢庵漬として、遥かに海外に輸出さるるより、競うて之が栽培を計り、傍近数里殊に盛たるものありと雖も、尚且つ足らざるを感ぜしむ。昭和7年10月東京市に編入の事あり、都市計画の進程に伴ひ、耕転の地籍徐に減退を告げ、其の栽培の中心は傍近の地に移るを余儀なきを覚えしむ。現時沢庵漬の年産8万樽に達せるは最高潮と称すべきか。茲に光栄輝く皇紀二千六百年に当たり、奉賛の赤誠を捧げて、崇高なる感激に浸ると共に、東京練馬漬物組合員一同相胥り、地を相して、各自圧石を供出して基壇に充て、其の旨を石に刻して、後昆に遺さんと欲す。偶々其の記を予に嘱せらるるも、不文敢て当らず。予は尾張の出にして、居を此の地に営み、大根の由来と稍々相似たるものあるは、多少の遠因なきにあらず、奇と云ふべきか、辞するに由なきより、乃ち筆を呵して、其の梗概を記す。
昭和15年11月
                 (練月山 亮通 書)

東京都葛飾区の「葛飾区郷土と天文の博物館」
特別展『肥やしのチカラ』
「黄金列車」「しもごえ鉄道」っていうのは、いまの東武日光線と西武池袋線の糞尿輸送の列車が昔そう呼ばれていました。太平洋戦争の末期、日本の敗色が濃くなり、肥料のために糞尿を輸送することが困難になっていた。そこで東京都は西武鉄道と東武鉄道の協力を得て、糞尿の貨車輸送を計画した。また、河川を利用した輸送も江戸時代と同じようにありました。主に海洋投棄に使用されました。
西武鉄道
 西武鉄道の前身である武蔵野鉄道と練馬農業との関係は深い。同鉄道の歴史は大正4年(1915)池袋-飯能間の開業にはじまるが、開業当時、沿線のほとんどは農村。輸送も練馬大根など沿線の農産物の輸送が中心で、人員輸送はごくわずかなものであった。
 第二次大戦による 食料不足の時代を迎えると、江戸時代から有名な川越芋の産地を擁した西武鉄道は殺人的な混雑ぶりを誇るまでになったのである。糞尿輸送は、旅客輸送終了後の深夜から早朝にかけて行い、復路はタンク貨車で野菜を輸送した。
東武鉄道
東武鉄道も貨車を使って糞尿輸送を開始した。昭和19年都心方面から隅田川を遡上してきた下肥船から糞尿を千住駅で貨車に積み替えて武里駅・大沢駅・杉戸駅など埼玉方面に肥料として運ぶ糞尿輸送を開始しました。
愛知県では名古屋鉄道が名古屋市、愛知県に頼まれて、食糧増産のためにということで近隣市町村へ糞尿列車を走らせた。
 「清戸道(きよとみち)」またの名を「おわい街道」(下肥のこと)が、練馬から江戸に通じる道だった。農家は朝の3時頃には、練馬大根を大八車に乗せて町へ出発。市場で大根を出荷したあと、町内をまわって下肥を運んだ。大八車に肥桶(こえおけ)を積んだ。また,戦後・甲州街道の新宿も同様な肥桶を積んだ車で混雑していて、進駐軍の軍人は(ハニーカー又はハニー・バスケット・パレード)と呼んで侮蔑した。
 世間がふたたび下肥という有機肥料の良さに気づくのは1990年代になってからになる。
※清戸道:いまの江戸橋、目白坂、目白駅通り、二又、円光院前、道楽橋、宮田橋、谷原交差点、大泉小、中島橋、四面塔稲荷へと続いていた道。
肥料を運んだ鉄道輸送はまた大根や沢庵漬を消費地に運ぶ手段となりました。そして、ほとんど同時に地方から東京へ野菜や沢庵漬を運ぶ鉄道輸送路ともなりました。
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タクワンの話2013-7

2013年08月27日 | タクワン
沢庵漬が黄色のは
沢庵漬が黄色くなるのは大根を塩漬けにすると自然に変化し黄色くなるものである。人為的に着色した理由はあまり知られていなくて、添加物を使用することを批判するする人から儲かるために黄色くしたとあるが『なぜ黄色くしたほうが儲かるか』が知られていない。着色したのが明治20年代から30年代の頃だろうか中野の沢庵業者が陸軍納めの沢庵を着色したことに始まる。なぜ陸軍納めの沢庵から着色が始まったか調べることにする。当時は軍隊とか寄宿舎だけで沢庵漬が自家製造でなく購入していた。色鮮やかな沢庵漬は粗末な食事に変化を与えただろう。同様にシソ梅酢で赤く着色した梅干も江戸時代からあった。

2007年10月29日 日本経済新聞朝刊より
朝刊のコラム「春秋」で「明治の半ばで、大勢の人間が白い飯を食べている場所は軍隊ぐらいであった。」と書いてあった。やっと探していた記事で沢庵漬が黄色くなった原因の根拠が文献によって確かめることが出来そうだ。
 明治初期の徴兵制はかなりの人達が徴兵忌避出来て、例えば長男は行かなくてよいなどあって、何か軍隊に魅力的なものが必要であった。白いご飯が食べられるのが軍隊であって、軍隊で脚気がはやったのも頷ける。
 森鴎外が日本兵食論を書いた事情も研究されていることと異なる事情があるように見える。結局日本人には欧米人と異なる風土に生きているので肉食を中心とした食事にすることは出来なかったのだろう。
明治時代、ドイツから輸入されたタール系色素は石炭を原料とする着色料で、安価なうえ、着色力も強いところから、食品加工に盛んに使用されていました。しかし、このタール系色素を含んだ食品を長期間摂取すると肝臓、腎臓障害を起すという毒性があるため、欧米では徐々に使用を規制し、米国で現在使用が認められているのはほんの少しだけです。日本でもかってタクワンやバターを黄色く色付けするのに使われていたバターイエローやオーラミンなどのタール系色素に発がん性が確認されて使用を禁止されたこともあり、科学的な研究が進むにつれて、食品の人工的な着色は制限されつつあるのが世界的傾向です。

主婦連 
戦後、昭和25年にたくわんの黄色は安全か(有害なオーラミンでした)、暮らしの不安や疑問などが多く寄せられたくあんの着色料オーラミンの使用禁止運動に取り組みました。
1953年(昭和28)6月有害着色剤オーラミンの使用禁止について要望し、人工着色料オーラミン使用禁止になりました。オーラミンはなくなっても人工着色した食品は依然として存在しています。

昭和30年10月10日 読売新聞 編集手帳より
市場や百貨店に並んでいる新しい沢庵、オーラミンの黄色い色で着色されうまそうに見える。タクワンをうまそうに見せるため有害オーラミンを使ったのを取締当局がいくら取締ってもオーラミンを使ったタクワンは市場から姿を消していない。
 なぜ有毒着色のタクワンを売るのかといえば、あれに色つけないと買い手がいないと言う。そういう如何にも買い手のほうに罪があるいいかただ。
 一時は売れなくなっても、消費者の方でまもなく毒のない安全なタクワンとわかったら売り上げは間もなく回復することは必定だ。
 (コメント)この記事の筆者は当時のタクワンのことを知らなかった。昭和30年当時、すでに”オーラミン“は食品に使用禁止になっていて、市場には出回っていなかった。従って、業者の反論の投書を載せざるをえなかった。
昭和30年10月14日の読売新聞への投書
去る10月10日、は本誌・読売新聞(編集手帳)に市場や百貨店に並ぶ黄色いタクワンは、有害なオーラミンを使用したので食べると中毒を起こすとあたかも、黄色いタクワンが有害であるかのように印象を与えたことは誠に遺憾で、この様な誤解を訂正するため、全国タクワン業者を代表して、事実を基礎として反論する。
 現在、市場に出回っている早漬け沢庵や一般のタクワンに使っている黄色染料は、すべて国家が食用着色料として許可したもので、すなわち食品衛生法第6条に基づく省令3号に明確に黄色タートラジンを許可する旨明記してあります。
(コメント)タクワン業者の意見は新聞の記事の反論になっていない。要はタクワンにどうして黄色く着色するのか?ということに説明がなっていない。着色許可されても使用しなくても良いはず。事実、江戸時代は人工着色料がなかった。
 今でも、添加物使用を騒ぐ本は危険性を説くだけでその使用の歴史をただ(食品を売らんがため)と結論している。単にそうだろうか?

タクワンに着色した[タクワン王]の話
京都中野区鷺宮は幕府時代から,水田以外あらゆる畑に藍草を植え付けた産地でしたがドイツ製の優良なる化学染料が輸入されて、日本産の染料(藍)を圧倒しみるみる価格が暴落しました。練馬の隣なので藍草の代わりに大根を栽培することが藍草暴落のあと盛んになりました.我も我もと真似して栽培したので大根が生産過剰になり困り果てていました。明治27年、日清両国の談判が決裂し戦争が始まりました。朝鮮で戦争している時、日本は大根どころのさわぎでありませんでした。農民は大根に土をかぶせ、腐らせて肥料にするしかないと考えていました。そこに、藍草の暴落で破産寸前までになった大野家の青年・又蔵の耳に大根の状況の話が入りました。
「ただ捨てるようなゴミでさえ利用の仕方でいくらでもある世の中だのに、半年以上の労力と金をつぎ込んで美しく育てた大根をムザムザと腐らせてしまうのはもったいない話だ。何とかこれを利用してやる工夫はあるまいか。あるとすれば、村全体の利益になるし自分にも利益となる」と考えた。彼は藍草暴落で失った土地を買い戻すため、コツコツ貯めた金で農家から大根を安く買い占めました。そして、東京に行き酒屋から空の酒樽を買い集め、買い取った大根を洗い日干しにして、酒樽に漬け込みました。これがタクワン王の始まりでした。明治の中頃まで東京市内でも郡部でも、家庭用の漬物は青物(野菜)を買い入れて各家庭で漬けていました。わずかな料理店で漬物を少量購入するだけで商品として販売されていませんでした。このことに目をつけた又蔵は塩や糠の加減を調整しうんと味の良い沢庵を作り東京の漬物問屋に販売しました。又、彼は軍隊に納入し、日清戦争に出征中の兵士に提供したところ、好評でたちまち数百樽売りつくしました。この評判が全国に伝わり横浜・大阪方面から大量の注文が入りました。また、中国大陸に販路を広げ、日露戦争時に軍需の沢庵漬の利益で藍草の暴落で失った財産を取り戻しました。
昭和12年、又蔵の沢庵漬は海外(中国・台湾)に2万樽(4斗樽・70kg入り)輸出されていました。つまり、140万kg輸出していました。ちなみに、昭和36年の1月から8月の期間に日本の税関の統計によると、32万5千kgで、その輸出先は当時アメリカの占領下の琉球(沖縄)でした。また、彼の沢庵は国内にも輸出と同じくらい販売されていました。又蔵の沢庵輸出量の多さがわかります。
 又蔵の沢庵漬の工夫とは甘味をつけ、着色したことでした。日本で沢庵漬を販売のために始めてウコンで黄色く着色したことでした

昭和40年代、まだ寿司ブームの前、日本食品の輸出のことを業界用語で(たくわん貿易)と言っていました。彼が沢庵漬を海外に広めた人で、韓国語でも沢庵漬を“タックワン”と言うそうです。
参考
化学藍
1880年(明治13年)ドイツで合成に成功し世界に広がった。化学藍はインディゴピュアが代表的な物だが他に、ヒアインディゴ、ニアインディゴなど色調が異なる化学染料もある。
同様にアニリン系の赤色染料の大量流入により、明治10年に紅花栽培は急速に衰退しました。ドイツから化学染料は衣類の着色だけでなく、食品にも使用されました。そのため、明治11年、わが国の食品衛生に関する最初の法規として、『アニリン其ノ他鉱属物性ノ絵具染料ヲ以テ食物ニ着色スルモノノ取締方』が施行されました。これは、食品に有害な着色料の禁止についての規則です
シナ事変が始まり、又蔵が昭和15年亡くなった時には海外輸出は割り当てになり物資の統制が始まり、働き手は戦場に取られ経済が窒息状態になった。
戦後,悪性インフレと農地改革,財産税というもので苦労し、大野家の所有する20万坪の大根原料産地を農地改革で失った。また。大根を栽培していた東京都中野区鷺宮付近の農地は宅地化し大根原料産地を他のところに求めねばならなかった。また、大口需要だった得意先の軍隊は消滅し、空襲で破壊された都市には工場や学生の寮は消えた。又蔵の息子たちは戦後の混乱をやっとのことで切り抜けたが土地の値上がりと相続税でどどめをさされた。今は都内の沢庵製造業者は皆無に等しい。
沢庵漬に関する調査 農林省農務局 昭和2年
沿革と概況
沢庵漬は各種漬物中の第一位を占め、都鄙(都会や田舎)を論ぜず貴賎を問はず、本邦人は日常生活上に必需副食物たり。その起源については詳に知ることあたわずといえども、一般に、昔・江戸品川東海寺の住職沢庵禅師の発明により、その名称・またこれに起こりしものなりと称せらる。然れども一説には、沢庵禅師は単にこの製造方法を広く宣伝普及したるにして、その名称は(貯え漬)の転じたものと称せらる。
従来・沢庵の製造は一般家庭に於いて行われ都会に於いても購入するもの僅かにして,従ってこの製造販売は比較的少量にしたり、明治中頃にしても、わが国における沢庵漬の最大の消費地・京阪市場においてすら、卸問屋の看板を掛けたるものは稀でにして小売業者もまた少数にすぎない状態なり、然るに戦争後にいたり、大いに需要増加し、特に元来沢庵漬けは丸乾大根単に糠と塩とに漬けたるものなりしが、近年、麹・砂糖・甘草・酒粕・昆布・煮干等の調味料、蕃椒(とうがらし)その他の香料・オーラミン等の着色料を用いて・品質・香味・色素等を佳良ならしむるもの多きにいたり。尚一方においては、沢庵漬を原料として粕漬その他加工品を製する等、幾多の改良製品を見るにいたりし結果、都市においては従来家庭にて漬け込みたるものが、次第に販売品を購入するに到り、今後ますます需要増加の傾向にあり、而してその供給は沢庵漬専門に多量製造するもの少なからず。農家の副業生産品もまた多い。

干し大根栽培農家 7000戸
沢庵製造農家   1000戸 20万樽 1樽約70kg入
非副業(専業)   200戸 40万樽

オーラミンとは人工着色料で戦後まもなく使用が禁止された。

タクワンが自然と黄色くなる理由
大根を塩蔵しておくとその辛味成分が分解し、長く漬けておくと黄色になります。この自然変色は、大根の辛味成分4-メチルチオ-3プテニル芥子油が漬け込み中に分解し,そこに生成した硫黄が大根のタンニンと結びついて黄色色素をつくることによって起こる。従って辛味の多い部分が早く黄色になる。この黄変がうまくいけば着色なしで黄色い沢庵が出来る。しかし、自然に出来た黄変は小売店の蛍光灯の光線に弱く、すぐに色あせてしまう。光に当たる部分は白く、うらは黄色いタクワンとなる。冷蔵庫など低温で漬けると黄色が抑えられて白く仕上がります。また、沢庵の匂いを嫌がる人が増えていますが、これも大根の辛み成分が化学変化して起きるものです。熟成中に出来た独特のこの香り、近年は消費者のニーズに応え、除去が研究されています。
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タクワンの話2013-6

2013年08月26日 | タクワン
タクワンの話
文献
『茶道と天下統一』ヘルベルト・プルチョウ著という本が2010年4月に出版された。この著者は純粋な日本人でないため新鮮な視点で芸術と政治の関係を記述している。沢庵漬の名称の由来は徳川三代将軍家光の政治に関係していると思っているのでこの本は非常に参考となる。
 近代以前の国家は宗教と結びついた儀礼のシステムがあって、儀礼の内容が江戸時代初めには『公的な地位にあるものがその立場にふさわしい茶の作法を学ぶ』ことが必要だったという。システム化された儀礼を教える職業が発生するようになる。各大名はその儀礼を習うため雇用するようになる。武道師範と茶道師範は各大名の内部情報を幕府にもたらすようになる。また各大名は間接的に師範を通じて幕府の方針を探る場でもあった。沢庵禅師の大名好きという言葉は各大名が接近したことを現している。このような腹の探りあいのようなことを揶揄して、京都大徳寺で同時代修行した柳生宗矩・沢庵禅師・千宗旦の三人の関係から『沢庵漬』の名称が後の時代に付けられたと思う。

柳生宗矩は、徳川家康に見出される。徳川の敵を倒すため幕府成立初期に大名統治政策作った。親族や門弟を諸国の大名のもとへ剣術指南として送り込み、内部情報を収集することを宗矩がしていて世間一般には悪役として描かれている。同様に大徳寺で面識のあったと思われる千宗旦(せんのそうたん)は、千利休の孫で、宗旦の子供が現代まで続く表千家、裏千家、武者小路千家の祖である。当時は茶道師範も各大名の内部情報を収集するための手段の一つにになったと思われる。柳生宗矩は、京都大徳寺の禅僧・沢庵と交流があり三代将軍家光の政策顧問として活躍した。そして、徳川政権成立後も続いた豊臣恩顧の大名との統治策はいわゆる問題を起こした大名が沢庵禅師に接近するきっかけを作ったと思われる。沢庵の『大名好き』と当時から言われたのはこの辺から出てきたのかもしれない。沢庵漬と言う漬物は沢庵禅師の創始と言われるがその名前が今も残っているのは柳生宗矩・千宗旦・沢庵禅師との交流と徳川幕府の大名制御政策とそれに対する諸大名の情報収集ために沢庵禅師に近づき沢庵漬が普及したと思われる。沢庵が生存中は沢庵漬という名称はなく、文献に現れるのはもう少し後の時代である。
 
結論 沢庵漬は外様大名等のゴマスリの結果今でも名前が残っているのであって、もし柳生宗矩・千宗旦・沢庵禅師の交流がなければ沢庵漬と言う名でなく単なる干し大根の糠漬となっていたでしょう。


本朝食鑑 人見必大 1697年(元禄10)刊行
百本漬というものあり、大根百本を洗浄し、数日干して、水分が乾いて曲がりやすい状態になれば,粉糠一斗・麹4升・白塩3升半を混ぜ合わせ、干し大根と混ぜ合わせた糠と交互に一重重ねに漬けていく。やはり、30日余で出来上がる。これはあるいは沢庵漬ともいう。大徳禅寺にて始めて造られ、各家に伝わってこう名づけられているのである。
この当時、京坂の方では香香とか百本漬と呼ばれていたらしい。元禄時代の関東では沢庵漬と言う名称ついていた。

 漬物の名称のほとんどは野菜の名称(白菜+漬)、生産地の地名に漬の字と加えたもの(野沢+菜+漬)野菜の形(千枚+漬)等で、人の名前が付いて長い歴史があり、今も呼ばれているのは沢庵漬だけであり、法律に定義されている。農林水産物規格法(JAS法)

農業全書 宮崎安貞 1697(元禄10)年刊
干し大根10月の末、いまだ寒気の甚だしいくない時に(大根を)抜き洗って,ヒゲ根を取り去り、2把をくくり合わせ、軒下あるいは樹木のまたに掛け干し,又は竹木をわたし掛けて干すも良い。シシビに干たる時もみなやしもとの如く干し、二三度各の如くしてその後よく干しそこないようにして、コモに包み、湿気なきところにおさめ置き,折々出し干棚にて干してカビのはえないようにすべし。または極めて良く干してつぼに入れ、口を封じ置き,梅雨前に取出し、少し干してまえの如く壷に入れ置くべし。また,良き程干したるとき,盤の上に置き、横槌にてしっかりと打ち付けておくも味が良い。打つときは(大根)頭より尾の方へ打つ方が良い。(大根の)甘味が尾まで行き渡ることになる。初めまず揉み上げ和らげその後打っても良い。
 又漬物にする事、糠に漬け、味噌に漬け、其の他漬け様色々ありてどれもおいしく家事を助け利益多いものなり。
 また、中国(地方の人)は国によっては多く作って、根葉も漬け置き、冬中これのみ菜(野菜の代用)に用いて朝晩のおかずとしている。最も飢えを助けるものと言う。このように山野の植物の中で大根に勝るものは少ない。土地があるときは必ず余分に作るべし。
 一種小大根あり,野生の大根で正月に掘って漬物とする。伊吹菜またはねずみ大根と云う。その大根はねずみの如く細い。近江・伊吹山にあり、そこの名物である。干し(ねずみ)大根の方法は良い大根を寒中30日の間木または枝の間に縄を引いてそれに掛け干し、その後は前と同じ方法で干し置く。とっても味が良い。
参考
シシビ 干し肉を刻み、麹(こうじ)と塩に漬け込んだもの。
小大根とは西国にての呼び方、はだの大根は小大根より少し大なり。
 宮崎安貞1623~1697(元和9~元禄10)近世の三大農学者の一人
九州・山陽道・畿内などの農業事情を見聞する旅を行い,先進地域の農業技術を実地に移すべく農書の刊行を行った。

当時、西日本はまだ大根の糠漬・沢庵漬を知らなかったとも言えるので記述がなかったと思う。今の鹿児島県山川漬・山口県寒漬の製法と農業全書の漬け方と似ている。

耳袋 根岸鎮衛(やすもり)著 天明(1781年より)から30年間に書かれた本。
江戸時代の町のウワサ話などを集めたものです。沢庵漬の由来の話では大抵"耳袋”の話が引用されている。

沢庵漬 
公事に寄りて品川東海寺へ至り、老僧の案内にて沢庵禅師の墳墓を徘徊せしに、彼老僧禅師の事物語りの序に、世に沢庵漬といふ事は、東海寺にては貯漬と唱へ来り候趣、大猷院様品川御成之節、東海寺にて御膳被召上候節、「何ぞ珍敷物献じ候様」御好みの折から、「禅刹何も珍舗もの無之、たくわへ漬の香の物あり」とて、香の物を沢庵より献じければ、「貯漬にてはなし。沢庵漬也」との上意にて、殊之外御称美有りし故、当時東海寺の代官役をなしける橋本安左衛門が先祖、日々御城御台所へ香の物を青貝にて麁末なる塗の重箱に入て持参相納けるよし。今に安左衛門が家に右重箱は重宝として所持せしと、彼老僧の語りはべる。

仕事のついでに品川の東海寺に寄り、老僧の案内で沢庵禅師の墓を訪ねた。老僧が禅師の逸話を語った。
「世間で沢庵漬と漬物は、当寺では(貯え漬)と呼んでおります。大猷院様(徳川家光)が品川にお成りの際、東海寺で食事を召し上がられたことがございました。『何か珍しいものはないのか』とのお申し付けに『禅寺ゆえ何も珍しいものはございませんが保存食(貯え漬)の漬物がございます』と沢庵が献じましたところ、「貯え漬ではなかろう。沢庵漬じゃ」と、ことのほか褒めて頂きました。
 現在東海寺の代官役橋本安左衛門の先祖が青貝細工の粗末な塗りの重箱に納めた沢庵漬を御城の御台所へ日々持参したということでございます。この重箱は安左衛門の家に家宝として伝わっております
品川区歴史博物館の学芸員の話では今でも東海寺ではタクワンの漬物を「貯え漬」と言っているそうだ。
物類称呼 (ぶつるいしょうこ) 越谷吾山著。1775年刊
日本最初の方言辞書。天地・人倫・草木・言語などに分け約4,000語の俚言(土地のことば)を解説している。
 大根漬
京にて唐(から)漬と云う
九州にて百本漬と云う
関東にて沢庵漬と云う
今、按に武州品川東海寺開山 沢庵禅師制し始めたまう。
依って沢庵漬と称すと言ひつたふ。
貯漬という説、これを取らず。又彼の寺には沢庵漬と唱えず。百本漬と呼ぶなり。

 疑問 九州にて百本漬と言うのに沢庵禅師は経歴から九州に行っていない。東海寺は沢庵禅師が開山している。
沢庵漬の名前は文献から、沢庵和尚の死後約40年経った元禄時代には江戸では大根の糠漬が沢庵漬とよばれていた。しかし、農村部では”こんこ”などと呼ばれていた。沢庵漬は江戸時代末期に出版された「守貞慢稿」に書かれているように、関東付近と武士階級のみの呼び方であったかもしれない。そして、全国的に沢庵漬になったのは明治時代になってからで“伊勢沢庵・阿波沢庵・東京沢庵”等は明治時代に発展した。

守貞慢稿 天保8年頃より
塩糠にて乾大根を漬けたる、京坂にて専ら香の物あるいは香々とのみ云ふ。江戸にては沢庵漬と云ふなり。沢庵禅師に始まる故なり。

江戸砂子(えどすなご)  菊岡沾涼著 
江戸時代の日常生活に必要なガイドブック。享保17年(1732)に『江戸砂子温故名跡志』で近世地誌の形式を確立する。紀行・案内記・史跡名称案内
沢庵漬
今、江戸にて漬かる香の物、沢庵和尚の漬け始められしもの也

ある人 梅干を沢庵和尚に送りにけりに
 むかし見し 花すがたは 散りうせて
  しわ(皺)うちよれる  梅ぼうしかな(梅干かな)
又、にごり酒に十里酒と銘を書きて送る。同じく沢庵和尚の返歌
 十里とは 二五里(にごり)といえる 心かや
   すみかたき世に 身を絞り酒

享保の頃には「沢庵漬」の名称が少なくとも関東・江戸では定着していた。
耳袋 沢庵の書
沢庵が書いたという書を山村信州が所持していたのを写させてもらった。
ご飯は何のために食べるのか?腹が減るからやむを得ずに食べるのか。腹が減らずば食べずにに済むものを、美味いオカズがなければご飯など食べないと人のいうのは大きな間違い。ただ腹が減ったから食べるに過ぎぬ。オカズがなければ飯が食えぬなどという人は飢えを知らぬ。飢えなければ一生食べる必要などありえない。ひとたび飢えれば、たとえ糠味噌だろうとも喜んで食べる。ご飯であればいうまでもない。なぜオカズがいるなどというのか。
 食を得ること、薬を服する如くせよと仏も言い残しておられる。衣類もまた同様。人は衣食住の三つに一生を苦しむ。だが、このことを知っているが故に我は三苦が薄い。
 こんなものは落書きに過ぎない。錬金法印が書けというので書いたまで。
 
  元和の酉の冬に
沢庵 宗 彭

糠味噌とは今とは違って味噌汁の増量剤として米糠を入れて食していたから、美味しくなかった。糠味噌漬のことを言っているのではない。糠味噌漬は江戸時代中期以後に現れた漬物である。錬金法印とは沢庵の書を売っている人のことを言うのだろうか

耳袋 柳生家の門番のこと
あるとき、柳生但馬守の屋敷へ沢庵が訪れたところ、門番所に一首の謁が掲げられていた。
蒼海魚竜住 山林禽獣家 六十六国 無所入小身
(海には魚が住み、山には獣がすんでいるが日本にはわが身を置くところが無い。)
「なかなか面白い歌だが、末の句には欠点がある。」
 沢庵がひとりつぶやいていると、門番がそれを聞いて言った。
「大げさなことなどという欠点はありません。私の歌です」
 沢庵は驚いた。
「どうしてか?」
 いろいろと話を聞くと、この門番は朝鮮の人であり、本国から日本に脱出してきて但馬守の門番をしているという。
 但馬守が沢庵からこの話を聞き、
「身を入るに所無きことなどない事などない」
 と、二百石を与えて侍に取り立てた。今も柳生家にはその子孫が仕えているという。

根岸の耳袋には沢庵と柳生但馬守の交友に関しての話題が数々ある。沢庵漬の命名の由来は耳袋から広まったと思われる。

和歌や狂歌でも知られていた沢庵
沢庵の和歌の師は細川幽斎であり、三斎・忠利・光尚と四代にわたって親交があった。沢庵の和歌を細川幽斎がほめたそうです。
品川・東海寺を訪れた家光公が、船に乗ろうとして見送りの沢庵和尚とで禅問答を交わしたとされます。『海近くして如何か是東海寺(遠海寺)』、沢庵答えて『大軍を指揮して将軍(小軍)というが如し』
沢庵の歌
後撰夷曲集(寛文十二年刊)近世文学資料類従 狂歌編3 404頁 
香物 
大こうのもとはきけど糠みそに打ちつけられてしおしおとなる
大こう とは豊臣秀吉のことと大根を掛けている
糠とは康の字が入っており家康を意味する
大根(秀吉)が糠みそ(家康)に漬けられて、しおしおとなる(屈服する)。
大根の糠漬を知っていた証拠である。

家光と老臣会議の後、沢庵と二人で夜、遅くまで話しこんだと、沢庵和尚が故郷に宛てた手紙に書いてあります。



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フジヤマ&ゲイシャ

2013年08月25日 | 福神漬

探しているものが違っているのに、福神漬関係の人脈と重なっている人を調べていることに気がつく。こちらは下谷根岸に住んでいた人達が明治16年から18年頃に何をしていたかを中心として調べている。この時期は下谷池之端酒悦主人が新しい商品に名前をつけることを戯作者梅亭金鵞に依頼していた時期と重なる。この人脈がどうなっているかはまだ解らないが、うっすらと気がついたのはべったりと明治政府に寄り添っていた人達ではなく、反政府、反権力志向の人達が多い。さらに新しい商業関係の人達も登場してきて明治日本の混沌とした時代を感じる。缶詰にしたため高価となった福神漬が下谷芸者さんの口コミ宣伝で世間に普及していった様子が伺える。
フジヤマ&ゲイシャを解説した本がないことに気が付く。外国人から見た明治のゲイシャと今の京都などを観光している外国人はどのようなイメージなのだろうか。
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森山多吉朗の資料の件

2013年08月24日 | 宅老のグチ
森山多吉朗の件
文政3年6月1日(1820年7月10 日) - 明治4年3月15日(1871年5月4日))は、江戸時代に活躍した日本の通詞

明治維新後の森山多吉朗の資料
高島嘉右衛門 横浜政商の実業史 松田裕之著 東京 日本経済評論社
福地桜痴 柳田泉著 東京 吉川弘文館
呑象高嶋嘉右衛門翁伝 植村澄三郎著
『海の祭礼』吉村昭著などがあります。

慶応4年1月大垣戸田藩は鳥羽伏見の戦いの時、幕府軍についいていたため、戸田藩重臣だった小原鉄心の説得で急遽西軍(朝廷軍)の先鋒となりました。東征軍は大垣で長期滞在し、ここで岩倉家と戸田家の関係ができました。中山道を東上し、関東の地までは快進撃だったようです。しかし関東での戦闘が始まると大垣藩の戦費が不足し、横浜の豪商高島嘉右衛門に頼み、オランダ人タッグから借りることなった。この時の通訳がオランダ語の出来る森山多吉朗でした。森山が維新後明治政府の通訳や語学の教官となることの誘いを断った理由ははっきりとした史料はないようですが維新後攘夷を唱えていた人たちの変節に対する反抗心とみることができます。
維新前後の横浜はすでに中国語、英語、フランス語の世界でした。長崎の貿易独占から開港した都市が繁栄するようになります。森山の仕事も横浜か函館しか選択の余地は無かったと思われます。
史料は見つかりませんが森山と高島を結びつける接点は浦賀奉行だった戸田伊豆守氏栄と想像できます。弘化4年2月浦賀奉行となった戸田はペリー来航後迄(嘉永7年)まで浦賀奉行でした。この間長崎通詞だった森山も浦賀詰めを何回か勤めていました。ペリー初来航時、森山は長崎にいて急遽江戸に戻りましたが間に合いませんでした。大垣藩小原鉄心はペリー来航時浦賀で待機していました。(野次馬整理)
高島嘉右衛門の姉は大垣戸田藩の戸田氏共の側室となった関係でした。高島嘉右衛門が幕府の禁制を犯したとき、戸田家は形だけの離縁をして難を逃れたようです。高島が石川島人足寄場(東京都中央区佃)に投獄されていたとき、蘭医三瀬周三も投獄されていました。三瀬は幕府が再来日していたシーボルトの通訳をしていた関係で情報漏えいを防ぐ目的でした。
石川島の獄中で高島は三瀬から世界情勢を学びます、また大垣戸田藩より隠れた支援が獄中の高島にあったようです。石川島出獄後、高島嘉衛門が横浜で活躍するようになります。異国人との商売のコツを得ていた高島に異人の注文が殺到しました。
また高島は異国人から情報を得ていて、欧米で成功している事業に次々と手を出してゆきます。鉄道、海運、学校、ガス事業など史料として残っています。明治3年4月25日(3月25日)から新橋横浜間の鉄道建設が始まりました。この時期に戸田氏栄3男の長井昌言(元神奈川奉行・堺町奉行・明治6年死去)も工部省鉄道局の仕事をしていました。また氏栄5男の花香恭次郎(福島事件被告人)も明治5年頃横浜で働いていたようです。全ては大垣戸田家と高島家とつながりが感じられます。高島が岩倉具視と関係することは岩倉具視3女極子が戸田家に嫁いだことと関係があると想像できます。

森山多吉朗が明治4年に死去したとき、残された娘を福地桜痴が養女としました。これは森山が福地を幕臣に推薦した恩でした。明治23年長井昌言の長男であった鶯亭金升は池の端の福地桜痴のところに住んでいました。後にみやこ新聞では福地の下で文芸部の記者として働いていました。ペリー来航時、浦賀で応接した中島三郎助は戊辰戦争最後の戦いであった函館千代ヶ岳で戦死しました。この時千葉行徳の漬物商人喜兵衛が戦死しています。(出典明治事物起源石井研堂著・缶詰の始まり)喜兵衛の子孫の名前が日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑にあります。山田箕之助。大正12年、日本缶詰協会の会合で福神漬の話をしたのが毎日新聞記者であった鶯亭金升でした。この話が缶詰時報2巻に載っています。

福神漬の色々なエピソードは裏日本史とも言える。
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タクワンの話 2013-5

2013年08月23日 | タクワン


戦後、樽を使っていた食品(醤油、酒等)がプラスチックの容器に変わると、桶樽の職人は仕事を変えねばなりませんでした。一部の高齢の樽職人は高度成長経済の中で人手不足の漬物業界で樽の修理をしつつ、生活していました。重石をのせるため、漬物に向く強度のあるプラスチックの漬物用の樽はすぐには出来ませんでした。生産量が少なく、価格が高かったためです。

漬物と樽の歴史
普通、杉材の板を合わせて竹のタガ(輪)で締めたもので、正式名称を「結樽(ゆいだる)」といいます。15~16世紀に急速に普及した結桶・結樽は、その優れた特性から、産業や生活のさまざまな分野に取り入れられていきます。特に、醸造業や液体の輸送業(酒・醤油等)の分野でその有効性が発揮され、江戸時代の諸産業の発展の基盤を担っていました。また日本の食文化の独自性をもたらしました。樽は繰り返し何度も使え、資源を大切にするリサイクル容器だったわけで、不要になればバラすのも簡単で便利でした。使用後の空き樽も回収され流通していました。また、樽は適当に壊れ、樽製造の需用が創出され、スギの林業経営が成り立ちました。
結樽の歴史
杉は日本固有の樹種で、かつては生活に欠かせないものだった。建築から暮らしの道具まで、あらゆるものに使われてきた。16世紀前後にスギの割り板を丸く並べ、竹の細くしたタガで結った円筒を作り、竹の合い釘で継ぎあわせた底板をはめ,桶(結桶)という軽くて丈夫で、液漏れのない液体を入れる容器で作られた。日本のスギと竹で出来た結桶は酒や醤油等の高価な商品を製造したり、輸送したりするため、漏れてはいけなかった。更に野菜等の肥料の輸送に使われた下肥用の桶は軽くて、かつ漏れてはいけなかった。桶の発達は近世日本の発展に対して役割は大きい。つまり,都市の衛生の維持、農業の発展、醸造業の企業化、林業に対する貢献等がある。
 奈良県吉野のスギの樽丸(樽の側板用の用材)に適し、山でよく干し軽くして泉州堺へ運んだ。杉の樽丸を得たところに醸造業は発展した。杉の植林の歴史は古く、室町時代中期に大和三輪と春日山の杉を移植して始まり。枝打ち・間伐などの手入れがゆきとどいた節のない良材は、江戸時代には上方からの酒樽用材の需要も多かった。堺は摂泉12郷といわれた酒造の地であり、醤油の醸造では江戸時代有数の産地であった。醸造業の企業化、大型化は、輸送用の樽(4斗樽)製造用の桶、特に大型の桶の発達が大きい。更に、桶、樽の製造業の発達は、従来、酒等の容器であった壷やカメは醸造するため容器から、茶道の普及によって茶器や日用の雑器、食器の製造に向かった。
酒及び醤油の空いた結樽は漬物用の容器として使われた。沢庵の製造に使われた樽は酒樽の発達の後である。

 スギ花粉症で嫌われている杉は日本でどのような歴史があったのだろうか。
スギは今から200万年前には日本に出現し、縄文・弥生時代には既に全国に広く分布。登呂遺跡の古い時代から、スギのお世話となり、大切に植林・管理・保護・活用してきた。 スギは日本固有の植物で、北海道以外、全国で見ることができる。優秀な材木として日常生活に大いに役立つだけではなく、世界に誇れる日本独自の歴史的な文化財とも言える。
杉のきた道 遠山道太郎著より
古代における大和平野付近の度重なる都京の移転の原動力の一つとして建築用の木材が容易であったことが挙げられる。平安京が永続したのは西北部の広い森林地域からの木材供給が保津川流送によって、ある程度円滑に続いたからと思われる。
しかし、12世紀、東大寺の再建の用材が山口県の山中で調達したことは近畿周辺の山林の荒廃がかなり進んだと思われる。そして、17世紀になると、平和の定着と工具の進歩によって、近世の建築ブームが全国的に広まった。

 日本が独自の木の文化を誇ってきたというなら、それは「杉の文化」であったらというべきだろう。スギは日本人の始まりの時には存在し,登呂遺跡に出土しているくらい、日本人の生活に貢献し、少々の伐採利用には耐え,後には植栽である程度の資源存続出来るような特性をスギは持っていた。スギは樹木から木材へ、木材から棒、板に変わり、板をつなぐ技術を開発したことが大きい。小さくし、薄く割ったコケラ板を規則正しく重ねて広げていくだけで、大きな面積の屋根が出来る。適当な大きさ厚さに割って円筒形に並べ、竹のタガによって締めて、桶樽はできる。軽くて丈夫な液体容器の容れ物である。日本の箱舟,高瀬舟(平田舟)はスギ板を釘でつなぐことで成り立った。
 日本の川は雨の多い国であるが流量の差も変動も大きい。このような川を利用するには底の浅い舟でなければ役に立たない。その高瀬舟(平田舟)によって河川輸送が発達し、下肥等の肥料が運ばれると農村の開発も進んだ。もし、杉の木の樽が江戸時代に発達しなかったならば、中国、朝鮮の壷・甕の食文化になっていて、今とはかなり変わった日本の食文化になっていただろ。重石を掛ける沢庵漬は杉の樽がなければ存在しなかったといえる。
結桶(結桶に蓋をつけたのが結樽)の歴史
 日本では11世紀後半の北部九州地域に発掘調査で井戸枠として作られた底のない結桶が出土してます。13世紀後半から14世紀になると瀬戸内以東の地域でも少しずつ出土例が確認できるようになります。絵巻物などの絵画資料や文献資料でも13世紀末から14世紀初頭にかけての時期から結桶の存在が確認できるようになります。15世紀から16世紀にかけての時期になると各地で結桶の出土が目立つようになります。結桶はゆっくりと各地に広がりました。
 15世紀以降結桶(結樽)が急速に普及してくる原因として結桶(結樽)製作技術の革新があったことが思われます。草戸千軒町遺跡で14世紀代に井戸枠として作られた桶の側板の側面に (やりがんな)と呼ばれる工具の痕跡が確認できます。やりがんな というのは、日本に古くからある大工道具で荒削りです。しかし15世紀の井戸材を観察すると、台鉋のような工具で一気に加工されていることが確認できます。台鉋は、製材用の縦挽鋸である大鋸などとともに室町時代に中国から渡来して日本に定着したといわれる工具ですが、 やりがんな に比べて正確で効率的な加工が可能になったと考えられます。隙間の出来ない木材加工が出来るようになりました。杉の木材の特性を生かした樽が誕生しました。壷や甕より軽く液体の漏れない容器が樽です。
 
桶と樽  脇役の日本史 小泉和子/編より

中世において、日記等の資料によると果物・野菜等の贈答には曲物や結物に、酒などの液体は錫製の瓶子や陶製の壷にと容器が使い分けされていた。容器の機能を見ると運搬用と生産貯蔵用とに分けられる。結物は早くから運搬容器として利用されている。壷・甕が酒の醸造・貯蔵容器として地位を占めていた。
 室町時代、酒造業が発展し、幕府は酒税(酒壷銭)を掛け始まった。酒壷一つを単位としていた。その課税状況は、壷の大小を問わず、醸造中であれ空き壷であれすべて課税されていた。当時の脱税手段として、壷の検査に際し人に預けたり,売ったり、他人に譲ると約束したり、人の預かり物と偽って言い逃れすることを禁じている。酒の小売屋・味噌屋は課税されないが土倉を構えて多くの壷を所持するものは課税の対象となっていた。醸造業を営むものは多くの壷を所有していたが、空き壷の数が醸造中の壷の数を上回ることが多く、すべての壷が活用されてはいなかった。
樽は解体保存できることから,樽による酒つくりが非醸造期間中は節税手段として有効であったかもしれない。醸造用の壷・甕から10石から20石入りの木樽できるようになると、急速に樽に変わった。壷の大小に変わらず課税されていたので大型化し、かつ醸造技術の進歩によって少量生産によるリスク分散を図る必要性が減ったと思われる。近世初期の上方において、四斗樽が出現することによって酒を江戸に運ぶことが可能となり、輸送業が発達した。四斗樽は吉野杉が尊重され、杉の木香が酒に移り、芳醇な清酒なった。このため摂泉12郷の酒造の発展は吉野林業の発展をもたらした。と同時に日本の木材加工技術を発展させた。沢庵漬の容器の樽は酒の輸送に使われた空き樽の再利用である。
結樽が室町時代に急速に発達した原因について
桶と樽  脇役の日本史 小泉和子/編より推理すれば
室町幕府が京都にあり、米の集荷が順調なときは、米と同様な扱いをされている酒つくりが盛んになった。さらに、室町幕府は経済基盤が弱く、貨幣経済の進展とともに麹座・酒座等からの上納金に頼らざるをえなかった。酒屋に対し初めての酒壷賎(酒税)が課され、不当な上納金は税金とも云えて、節税、脱税のため、結樽が輸送容器から、醸造容器に向かったと思われる。不法な手段は証拠隠しのため文献に残らない。従って。権力者によって作られた法律を裏読みするしかない。食品の歴史の中で、意図して作ったものと偶然の工夫により出来たもの,天災等や事件・宗教・法律によってやむを得ず、生きるため,糧飯のように工夫されたものが多い。従って、食品が豊富になったり、嗜好が変わったりして消滅した食品も多い。よく引用される930年に刊行された「延喜式」には当時までの野菜漬物の詳細な製造方法がいくつか記載されているが消えた漬物も多く、推測するしかない。
信長・秀吉時代は、まだ結樽の製作技術が発展途上の状態で、かつ結樽を使い醸造する技術は未完成のため、備前甕は大型化し、より高品質のものになったと思われる。しかし、江戸時代に大型の桶樽製造技術と寒仕込み等の醸造技術の安定によって大型の醸造用の備前甕は消えた
樽と司馬遼太郎氏の考え
樽と鉋(かんな)
紹興酒の醸造・・日本酒の場合のように樽や桶をつかうことをしないですべて、硬質の陶器・磁器であった。
中国には、馬桶(まーとん)」という樽のようなおまるを室内に置き、そこで用をたす桶がふるくからあるが、日本のように巨大な桶・樽はない・江戸期の経済に大きな活力をあたえた大型桶・樽が日本酒の歴史にも重要なかかわりをもつのだが、ただ桶・樽の製造を可能にしたのは、鉋の出現である。
 上代以来、材木を手斧(ちょうな)や槍鉋(やりかんな)といわれるもので面を平らかにした。鉋(台鉋)が出現してはじめて面を鏡のようにすることができ、かつ幾何学的な細工をも可能にしたのである。台鉋は、室町時代に中国から伝来したといわれる。
江戸初期は、桶・樽の職人は鉋なしに一寸のしごともできなかった。紹興の酒造工場の構内を歩いていて、酒そのものよりも、酒を醸したり貯蔵したりする容器のほうに中国と日本の文化のちがいをかんじたり、さらには文化というものの交流がとほうもなく玄妙な働きをすることにおかしみを感じた。
(「街道をゆく―中国・江南のみち」全集58)
韓国ドラマ チャングムの誓いより 
16世紀初頭の朝鮮王朝時代を舞台に、実在の医女チャングム(長今)をモデルにして描かれた韓国の時代劇。料理の時に甕・壷しか出てきません。今韓国に行くと、昔より随分減りましたがキムチを漬けたカメが屋上等の日陰にあるのが見えます。日本では常滑焼の陶器がヌカ味噌漬けの容器として売られているくらいです。
中国・朝鮮は甕・壷の食文化で日本はスギの木の樽の食文化と言ってよい。
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タクワンの話2013-4

2013年08月22日 | タクワン
タクワンの話 2013-4

酒税制度と沢庵漬
柳田国男著 木綿以前のこと の自序に「女と俳諧、この二つは何の関係も無いもののように、今までは考えておりました。」と始まっている。沢庵漬の歴史を調べると、日本の税制の問題が知識として必要になってくる。江戸時代以前は石高制によって、米の生産、流通、消費の知識が必要となり、その途中に発生する米糠は、文献にはほとんど無く,想像で推測するしかない。漬物についても、江戸時代の金銭消費の文献にも、酒、塩、味噌、醤油等の購入記録はあるが、漬物を金銭で購入した文献は無いといってよい。ただ贈答品のときに出てくるくらいである。奈良漬は奈良の酒造りから出来た漬物です。山科家礼記に「明応元年(1492年)11月3日宇治からの土産に「奈良漬」を持って来」とある。

沢庵和尚とコメ事情

日本酒は、神に供える最も重要なものとして、造られてきました(神饌)。その神々に捧げた同じお酒を、神事に集まった人々が飲むことによって連帯感を生んでいきました。(直会)古代中国の歴史書 魏志倭人伝によると当時の日本人の習俗として葬儀の時,喪主は泣いているが他の人は酒を飲んでいる。風俗として父子男女の区別なく酒をたしなんでいる。古代の酒は神に捧げるものとして、朝廷が製造していました。(造酒司)これが鎌倉時代になり、朝廷の力が衰えてくると、寺院や神社が強い力を持ち始め、大きな収入元となる酒造りを始めるようになりました。これは「僧坊酒(そうぼうしゅ)」と呼ばれ、各地で始まった「僧坊酒」によって、酒造りの技術は格段の向上を見せます。その後、麹米と蒸米、水を一度に仕込んで発酵させる、「諸白酒(もろはくしゅ)」というお酒が主流になります。諸白とは、麹米と掛米すべてに精米をした白米を使うことです。「諸白酒」の中でも「南都(=奈良)諸白酒」と呼ばれるお酒は非常に高品質でした。このときの諸白にした精米の過程で米糠が大量に発生したと思われます。

室町時代に入って、1371年に、酒造業者に対し、酒つぼ当たり二百文を課していたのが、酒税制度化の第一歩とされています.これ以後も、朝廷や室町幕府からたびたび臨時の賦課を負わされた酒屋は、室町幕府財政の基盤となった。こうした賦課の見返りとして、貴族や社寺に保護された「座」という組織が生まれ、その庇護によって商権を独占、業域を拡大していきます。

京都の戦国時代の酒
鎌倉時代末期から室町初期にかけて一世を風靡した「柳酒」を頂点に、京都周辺に多くのの造り酒屋が現れたのには二つの理由がありました。
  京都には各地から年貢米が集まり、米の市場があって、酒の原料米が容易に手に入りました。また、酒造りには欠かせない米麹の製造と販売の権利を北野神社が持っていたので、この神社の周辺に麹製造業者が多数ありました(麹座)。その頃の酒造りは、壷に酒の素になる麹と蒸した米を入れて、その中で醸造するのです。壷を地面に埋めて、その中で酒を造る非常に原始的な造り方です。その為、アルコール分のうすい酒しか出来ませんでした。そうしてつくられた酒はいわゆる濁り酒でした。戦国時代末期の話ですが、当時日本にやってきたポルトガルの宣教師ルイス・フロイスが、日本酒を買ってきたら、すぐに飲まないと酢になっていたという話が残っています。(『日本史』)また、フロイスは米を籾の状態で購入しており、酒の製造方法等考えると、当時の京都では大量の糠の発生は無かったと思われます。信長や秀吉が賞味した酒は京都の「柳酒」でなく、河内の「天野酒」や奈良の正暦寺で造られた「菩提泉」といわれます。
 樽は戦国時代後期に京都周辺において広まっていき、江戸時代には日本国中へ普及しました。輸送性に優れ、作りやすい結樽が大いに発展し、清酒製造は樽が主役の座を占めることになりました。
 沢庵漬に必要な米糠、塩、ダイコン、木の樽は丁度、沢庵和尚が堺にいた時期に揃ったのです。塩は瀬戸内海の製塩技術の進歩と海運によって堺に運ばれ、ダイコンの掛け干しが始まり、吉野からスギの木樽が堺に運ばれました。奈良から僧坊酒のための精米によって大量の米糠が発生したと思われます。沢庵は壷に漬けていた糠みそ(モチ米糠)から酒造りための精米によって発生した糠(ウルチ米糠)を使い、干し大根と瀬戸内の塩で木の樽に漬けた漬物を知り、沢庵和尚が堺や兵庫県出石で工夫したと思われる。

堺と沢庵の関係
1601年 29歳 沢庵、京都より堺に向かう。
1602年 30歳 細川幽斎に和歌百首を見てもらう。
1604年 32歳 沢庵の号を授かる。
 31歳の時、堺の南宗寺陽春院の一凍紹滴に師事し、沢庵の称号を受けました。やがて住持を兼ねるようになります。沢庵が糠で漬けた大根の塩漬けを知ったのは堺にいたときだろう。
兵庫は中世前期まで淀の外港としての国内最大の湊町で、ここに出入りした船舶はほぼ瀬戸内一帯から来航していました。京都に物資を送る者はここで川舟に荷物を移す必要があり、港には東大寺の北関、興福寺の南関と関銭徴収のための関所がありました。
 堺の地は中国と日本の交易の中心地で京都や大和川によって奈良(東大寺、興福寺)とも結ばれていた。応仁の乱以後は新興の騒乱から離れていた堺が物資集産地の地位を兵庫から奪った。堺が繁栄した戦国動乱の時代。堺の商人たちは鉄砲や軍需品の生産と売り込みの「死の商人」たちでもあった。一時の安堵も得られない世の中。彼等はせめて安心立命と子どもの将来をおもんばかって、京都の本山復興だけでなく堺の市内各所に私財をなげうって寺院を建立した。
 大徳寺は「茶づら」と呼ばれ、これをもっても茶の湯との関係が深いことがわかる。
大徳寺が茶の湯と緊密な関係をもち、繁栄したのは一休が応仁の戦乱を避けて堺に逃れ、村田珠光が堺の地で焼失した大徳寺伽藍の復興資金を信徒から集めて以来のことである。堺衆と大徳寺といった関係が生じた。珠光の弟子宗悟は古岳宗亘に参禅したといわれ、武野紹鴎も同じく古岳に禅を学んだ。また、千利休もしばしば参禅した。
 そして、紹鴎の師である古岳が堺に南宗庵を開き、三好長慶が父の菩提を弔うためにこれを南宗寺と改めてから、堺の豪商はその本山大徳寺との緊密な関係が構築され、財政的にも多大な支援がなされた。とくに南宗寺一世、大林宗套に対する堺の豪商たちの帰依は厚く、紹鴎門下の今井宗久、津田宗達、その息子宗及らは競って参禅した。こうして大徳寺を中心として、しだいに茶禅一味の思想が起こり、大徳寺と茶の関係が深化していくのである。戦国動乱の世の中を厭い。たとえ成功した豪商たちといえども、心の不安定は拭いようがなく、宗教の世界に救いを求めたといえる。
 沢庵が49歳のとき、郷里の出石に帰り、荒廃していた宗鏡寺を再興し、後山に投淵軒を立てる。投淵軒という名は時勢を憂いて汨羅の淵に身を投じた、詩人屈原の故事からとった。すでに当時、富貴に近づき、媚び、仏法を売って渡世を営む坊さんがいた。沢庵は世間の名利から離れ、麻衣を一枚まとい、小鍋ひとつだけで野菜根を煮、米をとぎ、粥を作り、ただ自己の探求を深めた。出石で沢庵によって糠漬けダイコンが沢庵漬になった。

一般に歴史学者は日本人が精白米を食べるようになったのは、元禄時代頃(17世紀末から18世紀初頭)からで、沢庵和尚の生存していた時代の少し後である。従って、沢庵和尚の時代の糠はどこから得られたのだろうか?沢庵和尚の経歴を見てみよう。
沢庵漬と沢庵和尚の経歴は密接に関係している。とにかく不思議な漬物である。
沢庵漬の発案者とも重用者とも言われる沢庵和尚は、天正元年(1573)兵庫県出石町に生まれました。父は出石城主・山名祐豊(やまなすけとよ)の重臣・秋庭能登守綱典(あきばのとのかみつなのり)です。沢庵和尚は10歳で出家、14歳にして出石藩主菩提寺・宗鏡寺(すきょうじ)に入りました。彼が20歳の時、京都の大徳寺から薫甫宗忠(とうほそうちゅう)が住職に任じました。宗忠は大徳寺住持の春屋宗園(しゅんおくそうえん)の弟子で、この時以来、沢庵と大徳寺との関係が生まれました。
京都 大徳寺とは
大燈国師宗峰妙超禅師が開創。
後醍醐天皇の勅願所となり庇護を受けたが対立した室町幕府足利義満により格下げされた。以後在野的立場を取る。
応仁の乱で荒廃したが、一休宗純が復興。
一休禅師に学んだ茶礼を堺の村田珠光・武野紹鴎・千利休へと伝えられ、茶の湯の完成へと到る。
大徳寺は茶道の高級サロン化し、権力者の情報交換の場となる。
沢庵との関係者 
一休宗純 一休さんとして有名な一休禅師、大徳寺出身
千利休 茶の湯・大徳寺山門に置かれた利休の木像のため秀吉に切腹を命じられる。
 明智光秀 沢庵が三条河原で処刑された光秀を大徳寺に埋葬する。
柳生 宗矩 大徳寺で知り合う、紫衣事件の後、赦免に尽力
千宗旦 千利休死後、茶道再興・沢庵と同期で大徳寺にて修行


沢庵が堺・南宗寺に住んでいた時代に江戸幕府は寺院法度制度を作った。慶長年間、家康は全国の寺院を政治的、経済的に規制して、中世寺院が持っていた特権を剥奪することだった。寺院法度制度によって、僧侶に階級が生まれ、本山末寺関係が生まれ、民衆はすべていずれの寺の檀家になることを強制され、檀家制度が生まれた。葬式仏教化が始まった。
天皇の帰依によって設立された大徳寺、妙心寺の二寺は日本でも純粋禅の道場であった。宗風は権門高貴にこびることなく、純粋禅の復興であった。二寺は皇室ゆかりの寺で江戸幕府の管理する五山とは別格であり、出世入寺は紫依出世といい、天皇の綸旨が必要だった。
紫衣(しえ)事件
 寛永4年(1627)、紫衣事件が起こりました。大徳寺・妙心寺の住持は天皇の綸旨で決まっていましたが、今後は幕府が許可を与え天皇の権威をそぎ、命令に服さない者の紫衣の着用を禁止したのです。紫衣は僧侶最高位のもののみが着用できる。この紫衣着用許可の勅許を、収入目当てに乱発したことが、いわゆる紫衣事件の引き金となる。
 沢庵は兵庫県出石の投淵軒から怒って上京、大徳寺反対派をまとめて反対運動の先頭に立ち、その不当性を説明した。幕府に対する抗弁書は沢庵自らが書いた。幕府は中心人物である沢庵を山形県上ノ山に流罪にしました。ついには後水尾天皇の退位をみるにいたった。(明正天皇―860年ぶりの女性天皇が誕生し、天皇は上皇となり、天皇の生母の和子は東福門院と呼ばれる)沢庵と皇室との関係が生まれる。
 上山藩主 土岐頼行は歓迎し、沢庵が上の山に到着すると沢庵の庵を営んで住まわせいたれりつくせりの厚遇をした。沢庵はこの庵に「春雨庵」と名づけた。
寛永9年に2代将軍秀忠が54歳で他界した。柳生宗矩等の尽力で7月に沢庵は赦免されて江戸に帰る事になった。

沢庵和尚の経歴から、沢庵漬を知ったのは出石の投淵軒に来る以前だろう。大徳寺で修行中は貧乏で筆耕にて生計し、堺についても着るものがなく、汗臭いので洗濯したら乾かないので居留守を使ったといわれている。大徳寺時代は糠の出る米を食したと思われない。堺の地に滞在していたとき、何処で沢庵漬となるものに出会ったのだろうか。茶道と大徳寺派南宗寺の関係から、裕福な堺の町人との関係が生じ、酒造時の精米の糠、酒の空き樽、瀬戸内の塩、干し大根等が揃い、禅寺の大根の塩漬から貧乏性の糠の貯え漬があったのを知った、もしくは工夫したと思う。木の樽に大根の糠漬を直接漬けたのは酒造りの税金を逃れるためかも知れない。この場合、沢庵漬けの発祥地は奈良か河内長野の天野山金剛寺付近になるだろう。
 堺の茶の湯には振舞がつきものでした。振舞は美味しい料理(会席料理)、美味しい酒が必要となります。最後に香の物(漬物)が出ます。このために工夫したかも知れません。
 前田安彦氏の研究より
戦国時代に連掛け,高架はぜ掛けに干し大根の掛け干しが始まりました。
大根を生のまま漬けたのでは、糠床が大根から出る水分でだめになり、塩がたくさん入ります。干して水分を抜いた大根は、糠床からうま味を吸収しやすくなります。また、干すことで大根がしんなりして、漬ける時に曲がり樽に漬けやすくなります。漬け上がりの歯ごたえも良くなり、甘味が増します。秋口に収穫した大根を冬に漬けて、1年間食べていたため、保存期間を長くするためにも、大根を干して漬けるようになりました。堺と奈良の間の生駒山から干し大根のために良い風が吹いていました。
紫衣事件によって山形県上山に流罪になった沢庵に藩主・土岐頼行が崇敬している沢庵のために小さくも豪華な一庵を建立した。沢庵は春雨にけむる閑静な庵をこよなく愛し、「春雨庵」と名づけた。沢庵は流罪の身であったが、その名声を慕って教えを乞う者も多く、上山藩の相談役になっていた。時に沢庵和尚57歳
 また頼行は歌人としても知られていた沢庵を慰めるために、領内はもちろん、山形領をはじめ松島まで歌枕をたずねる遊覧の旅を取り計らったりもした。流罪の身であっても何これと気遣ってくれるために、何不自由のない日々であった。ちなみに上山市に現存する春雨庵は昭和二十八年に沢庵の草庵を復元したものです。当時の春雨庵は後に品川・東海寺に移築されます。春雨庵を見学すると抹茶が出ます。案内の人のお茶の手前が良いので驚きました。茶道の文化が沢庵和尚によって、普及したのでしょう。当時の農民が持ってきた野菜で沢庵漬を教えてもらったという話もあります。
 二代将軍秀忠が死ぬと、柳生宗矩らの尽力によって赦免されました(沢庵60歳)。そのときの沢庵の狂歌
御意なれば参りタク庵おもえどもむさしきたなし江戸はいやいや
と詠んだと伝えられている。
山形県の漬物組合は沢庵の遺徳をしのんで香の物まつり(たくわん祭り)開いている。

沢庵の人生で紫衣事件までと赦免された後と評価が分かれる。前者は権力に対抗する人であったが赦免の後は幕府権力の中枢に入り、江戸幕府の宗教政策の相談役となっていった。特に島原の乱の後の対キリスト教政策・紫衣事件によってこじれた朝廷との関係の修復が三代将軍家光の政策として重要になっていった。柳生 宗矩は将軍に沢庵を推薦した。沢庵は赦免後故郷に隠居する予定であったが家光によって江戸に来ることになった。その理由として紫衣事件の抗弁書を直接・将軍に説明し・誤解を解くことと上山から江戸に来て滞在した折・鎌倉の禅寺の荒廃をみて、京都・大徳寺の行く末を案じたのかもしれない。
柳生宗矩(やぎゅう むねのり(1571年) - 1646年)、剣術の面では将軍家師範としての地位を確立した剣豪政治家である。宗矩が沢庵と交友が始まるのは慶長5年(1600)の関ヶ原の戦以前で大徳寺にて参禅した折、知り会ったと思われる。室町時代の末期に至ると、剣術の主たる流派は臨済禅宗の真理と結び付いた。江戸時代初期の臨済禅僧沢庵は「剣禅一如(真理は一体)を説いた。茶道においても茶禅一味(茶の湯は禅宗より出でたり、珠光、紹鴎、皆な禅宗なり)という言葉もある。特に印可という言葉が示すように師がその道に熟達した弟子に与える許可のことは禅宗・武道(剣術・槍術・柔道など)・茶道において使われていて、そして作成される書面は印可状と呼ばれる。
宗矩と沢庵の交流に茶道の三千家の父・千宗旦が加わった。
 大徳寺の長老が、宗旦をひきたてる。沢庵が宗旦を柳生但馬守宗矩にひきあわせる。特に沢庵は千宗旦の子供たちの茶道師匠の地位を宗矩に頼んで世話してもらった。
 寛永11年8月沢庵、京都にて後水尾上皇と仙洞御所にて歓談する。紫衣事件で退位した後の、後水尾上皇は、京都左京区に修学院離宮を創建し、幕府との交渉を絶つことになる。上皇となった後水尾は、以後51年間、院政をしくことになるが、文化人として茶道、立花、建築、造園、詩歌、連句等の分野で力を発揮した。
 幕府・朝廷・禅宗・茶道等と沢庵漬の不思議な関係が生じるようになった。漬物のタクワンだよ!!

東海寺(とうかいじ)
 臨済宗大徳寺派、万松山。臨済宗京都紫野大徳寺の末寺。開創、寛永15年(1638)。開山、澤庵宗彭。開基、徳川家光。明治維新後は、将軍家や大名家の支援が無くなり東海寺の財政基盤が破綻し、瞬く間に衰微した。江戸時代は寛永寺、増上寺とともに三大寺といわれていた。

 ★所在地:東京都品川区北品川3-11-9
 ★交 通:京浜急行・新馬場駅下車徒歩5分
 三代将軍家光は沢庵のために品川に東海寺を建立し、徳川実記によると短い期間に70回以上来訪し茶会も開かれていた。寛永17年(1640)9月16日、御殿山の大茶会の後、家光は沢庵を招いて酒を振舞う。寛永の末期より家光は茶会の席で老臣会議を開いていた。
ある日のこと。三代将軍家光は「余は近頃なにを食べてもおいしくない。美味なものはないか」と問うた。沢庵は「それは簡単なことです。明日お出ましください。ただ準備に時間がかかります」と話した。
 翌日、家光はやってきた。茶室へ案内すると、禅師は引きさがってしまう。どんなご馳走が出るかと、しばらく庭の景色など楽しんでいたが、一向に姿を現さない。次第にいらだってきたが、禅師に約束したので動けない。もう我慢も限界だと思ったとき、沢庵が現れ、お膳を出した。
 お膳を見ると、黄色いものが二三切れ皿に載せられてあるだけで、あとは飯椀が添えられているだけであった。家光は空腹であったので「ご馳走になるぞ」と言うや、お椀を取って飯を食べ、その黄色いものを恐る恐る口に運んだ。ところが食べてみると、ほどよい塩加減で味はよく、こりこり実に歯ごたえがよい。顔の相好をくずして、「これはまことによい味じゃが、一体なんであるのか」と聞く。沢庵は「それは大根のぬか漬けでございます」と答えた。
 沢庵はこの漬物はとても保存性があるので、「貯え漬け」と名づけ、日ごろから常食にしていたのである。そう説明すると、家光は「そうか、それなら貯え漬ではのうて、沢庵漬けがよいぞ。さすが和尚じゃ」と褒め称えたという。
 東京都漬物事業協同組合の年史によると、このとき大根の糠漬が沢庵漬となったとされている。明治・大正期の東京の名産品は浅草のりと練馬の沢庵漬であった。A
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タクワンの話2013-3

2013年08月21日 | タクワン
米ぬかの用途
現在の糠の用途
稲の籾を脱穀し、さらに籾殻を除いたものを玄米といいます
玄米で精米することによって発生する米糠の主な用途は米糠油が33%、飼料12%、キノコの苗床11%、漬物5%で残る39%は廃棄されていると思われます。米糠油を取った後の脱脂糠は配合飼料としての利用価値が非常に高く、実際に、この分野において最も多く利用されています。
酒造りの精米時発生する糠
酒の原料となる米は、「うるち米」と呼ばれる種類のものです。
米の表面や胚芽には、タンパク質や脂質・灰分・無機質など多く含まれています。これらが必要以上に多いと清酒の味、香り、色に悪い影響を与え、酒質を劣化させることから精米により十分に取り除かねばなりません。
 糠の種類は赤糠、中糠、白糠、上白糠の4種類あります。赤糠とは、玄米の表面を飯米と同じくらい削って出てきた糠のことです。飯米の玄米を精米したとき出る糠と同じ。赤糠→中糠→白糠→上白糠の順にデンプンの割合が多くなります。
赤糠は家畜の飼料、米糠油を製造している工場に引き取ってもらい米油、漬物用に、中糠は、飼料に白糠と極上糠は菓子原料、友禅用のり、 インスタントラーメン、 せんべいなどに使用されています。米糠は、その「臭さ」が敬遠されていたのか、今までは積極的に利用されてきたとは言えません。ほとんどが、飼料や肥料に利用されてきたのです.

江戸時代の練馬の沢庵漬は石高制社会『米の生産、流通、加工、消費を中心とした社会』の中で不思議な地位を占めていた。米は現在の通貨のような地位をしめていた。
 江戸の郊外となった、練馬の地から江戸市民や武士のために練馬大根(沢庵)を供給することが必要となった。3年に一度ほど大火がある江戸は重石を乗せ保存する食品は避難の妨げになるので、自らの排泄物(ウンコ及びオシッコ)と交換して練馬の農家とタクワン漬を取引していた。また、農村部でも塩、米糠、肥料(下肥)桶樽等を商人や消費者から購入せざるを得なかった。農村部において、自給自足という制度が崩れていった。大根を加工して沢庵漬にすることは農村部貨幣経済の進展の象徴である。
 沢庵漬は単なる漬物でなく、米の歴史とそれを大切にする文化と、塩の文化,杉の木による樽の文化、宗教―禅宗・茶の湯、大根をめぐるリサイクル文化、日本食の発酵文化等が語る事ができる。そして中国や朝鮮に材料的にはあっても不思議でない沢庵漬は大陸にはなく日本独自の漬物である。朝鮮半島にタクワン漬が浸透したのは明治以降のことである。

東アジアの糠(ぬか)漬
糠味噌の始まりは‘じんだ‘と呼ばれ古くから存在していて,今で言う糠味噌床のようなもので,麹や大豆、米糠のようなものを水と塩で練ったもので、これ自体調味料(江戸時代)になっていて,魚,肉類や野菜を漬けて食べたり、じんだ床に漬けておけば漬物になりました。糠に塩を混ぜて漬ける糠漬けは、庶民が作るようになったのが江戸時代中期。米の生産の増加と精米技術の発達で糠が手に入るようになってからです。
 米糠を塩水で練っただけの糠味噌床は米食民族ならどこでも作っていそうですが,中国や東南アジアでも聞かれません。日本の漬物のほとんどは中国や朝鮮からですが糠漬けはありません。米糠を利用した漬物として「沢庵漬」がありますが中国や朝鮮(江戸時代の)に全くなく、日本の食文化が生んだ独自の漬物です。2005年韓国において沢庵製造の余り野菜のごみで作った餃子の腐敗事件がありました。韓国でも沢庵漬は(タックワン)といわれ,戦前,日本が朝鮮を植民地支配していた時、日本から輸出して,現地に普及した名残です。
 中国や朝鮮に沢庵漬(糠漬大根)の漬物がない理由として、
1 気温 中国南部の米作地方は気温が高く、米糠は腐敗しやすく,気温の低い中国北部は粉食(小麦の産地)で米糠が出ない。
2 中国や朝鮮の容器として,甕や壷で一般に使われていて,重石をかけて漬ける沢庵漬は樽か桶の容器でなければ漬からない。キムチ等のつけ方をみると重石は無いかあっても軽い。日本の鹿児島県のつぼ漬はほとんど重石をかけていないので甕や壷に漬けています。
3 大根の品種が沢庵漬に適していない。
4 沢庵を必要とする食文化がない(茶の湯等によって始まった会席料理)
中国における食文化
中国に「南粒北粉」という言葉がある。「南稲北麦」とも言われる。長江流域以南の湿潤地帯では稲が栽培され、それ以北の乾燥地帯では麦・雑穀の栽培がおこなわれる。これに応じて、南での主食は米飯(粒食)であり、北では粉食が主流となる。
米は杵、小麦は碾き臼の技術が必要となる。
江戸市中の沢庵漬
江戸の庶民は自分では沢庵漬を漬けない人もあった。江東区 深川江戸資料館に江戸時代の八百屋(当時は青物屋と呼ばれていた)が再現されている。店頭には大樽に入れられた沢庵漬がおかれ、干した大根が売られていた.今と違って冷蔵庫もなく,舟運と牛馬・荷車による輸送では旬の野菜しか売られていなかった。
江戸の庶民の長屋で木樽を据えて、沢庵を何樽も漬けこむのは難しかった。頻発する火事などの火災に遭遇した場合、重石をのせてびくともしない漬物樽は、逃げ場を塞ぐ障害物になる危険もあったのである。
明暦3年(1657)、死者10余万人を出す江戸史上最大の火災となった。俗に明暦の大火とも呼ばれるこの大火は、江戸の人々に多くの教訓をもたらした。幕府は災害後の新たな対策として多様な都市改造を実施した。町人達の間でも災害対策の意識は浸透した。明暦の大火の以後は火事の際に荷物を持って逃げる者は少なくなった。しかし、江戸はこの後もたびたび大きな火事にみまわれた。
守貞謾稿より
京坂(京都・大阪)は、毎冬毎戸、味噌と香々は自家にこれを制す。香々、江戸に云う沢庵なり。江戸は各居塁地なきが故にか,自家これを制すこと稀なり。専ら味噌、巨戸は一、二樽を買ひ、中以下は百文二百文と大小戸とも毎時これを買ふ。また、沢庵は年用を計りて、城北練馬村の農家にこれを買う。毎冬、練馬農人、江戸得意の家に来たり、明年所用の沢庵を樽数を問ひ、また価を取りて、その戸の人数を計り、毎時馬をもつて沢庵を送る。

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タクワンの話2013-2

2013年08月20日 | タクワン
タクワンの話 2013-2
糠 普通は米の糠 小麦の糠はフスマ糠という
 糠とは玄米を精米した時に出る胚芽や種子の粉。
ビタミンB1、B2、ナイアシンなどが豊富に含まれており、食用や肥料 として利用されてきました。
糠の発生の歴史は大きく分けて①江戸時代以前、②江戸時代から昭和40年以前まで、③昭和40年以後現在までと分けることが出来る。江戸時代以前の米糠の利用の詳しい記録は今のところ見当たらない。
沢庵漬の糠(ぬか)江戸時代
戦国時代から江戸時代に変わるころ,用水土木技術が非常に発達し、新田開発の年貢が優遇されることによってますます土木工事が盛んになった。江戸時代の農業は、地域の資源を大事に集め、狭い地域で循環を完結させる農業だった。草を刈って畑にすき込んで肥料となし、人や牛馬の糞尿は堆肥にして畑にまく。林では小枝だけでなく落ち葉を集めて使う。室町時代には草地や林地は水田や畑の面積の2倍を占めていた。しかし、ゆき過ぎた新田の開発は洪水の多発を招いた。1666年頃に「諸国山川掟」という法令が出来て、新田開発が環境破壊をもたらすので抑制された。この後すでにできていた田畑をていねいに耕作することによって収穫をふやそうという政策に変わった。この政策は日本の基本的農業政策となり昭和30年代半ばに米が恒常的に余るまで続けられた。
 室町時代の水田の面積より江戸時代初めには1.5倍の面積になり,元禄時代には3倍になっていたといわれている。水田の面積の拡大と農業技術の発達と共に米の生産量が増え,江戸市中の武士や都市の町民は精白米を常食することが可能になった。
 江戸時代の農民は慶安のお触書〔なかったと言う説もある〕に書いてあるように米はなかなか食べられなかった。したがって米糠の発生量も少なかったとおもわれる。しかし,都市において米の価格が低下すると白米を常食するようになり、かなりの量の糠が発生したと思われる。江戸時代の都市において米糠の利用方法として,野菜の肥料、糠袋による入浴用洗剤、家の掃除、沢庵漬、糠味噌漬等に利用された。新河岸川の舟運の歴史を見ると、江戸からの下りの荷物に、糠、灰、塩等の荷物がある。
 糠を使用した大根の漬物は江戸時代以前から存在していたと思われるが広く江戸市民まで食するようになったのは米糠が大量、安価に手に入った江戸時代中期以後のことである。

三河島稲荷 (宮地稲荷) 荒川区荒川3丁目65  JR三河島駅より徒歩5分
三河島の総鎮守。脚気(かっけ)に霊験があり、成就した際に草鞋(わらじ)を奉納した。
江戸時代において、白米は贅沢品で、日常的に食べていたのは将軍や武士や、江戸・大阪など都会の一部の人間だけだった。白米を偏重した食事による脚気は「江戸わずらい」「大阪ばれ」とも呼ばれたのである。江戸から離れ地方に戻り精米していない米(玄米・ビタミンB1が豊富に入っている)を食べるので自然と直るのでそう呼ばれた。精米技術の未発達=未普及ということで脚気が日本全国に広まらなかった一因でもあった。八代将軍吉宗の頃より米価が下がり都市の庶民も白米を食べるようになり大衆病になりました。今では脚気はビタミンB1の不足で栄養障害とわかっているのですが、江戸時代には得体の知れない難病で死に至る病気で宮地稲荷に参拝するのが流行っていました。稲荷のそばに茶屋があり、玄米の食事を出していたので治療になっていたと言われていました。
 沢庵和尚は三代将軍家光の頃活躍していたので、和尚の使用した糠は別の用途で発生した糠と思われます。江戸時代の米糠流通の研究の文献がほとんど無く、糠問屋、糠仲間が存在するのだが糠がどこから発生し、どこにいくらで行ったか不明である。埼玉川越から江戸へ流れる新河岸川の舟運の歴史によると、大阪糠、尾張糠等がある。大阪糠は酒米の精米によって、発生した赤糠と思われ、尾張糠も同様と思われる。尾張(主として知多半島)地方は当時として、摂泉十二郷についでの酒の産地であった。
 ルイスフロイスの日本史によると彼が京都に滞在してとき(1565年ころ)籾殻つきの米を購入していました。
 ㈱サタケ 技術情報紙 TASTY 2000年vol.13より
今から500年ほど前までは米を白くするという意識はありませんでした。収穫した穂から籾をこぎ取り、その後臼に入れて杵で搗くことで籾を磨り,その過程で糠も無意識に剥がれていました。すなわち、モミ磨りと精米は同時に行われていたわけです。ですから白米といっても半搗き米でした。

日本兵食史 下巻 陸軍糧秣本廠編
 精白米が真に一般化されたのは町人文化爛漫と咲き乱れた徳川中期に於いてである。去れば、徳川中期における白米礼賛を見た原因はすでに戦国時代に白米への愛着が一般武士の間に発生しつつあったからだといい得る。しかし、戦国時代の当時は今日のごとく精白された米でなく、戦場にての兵食の米は黒米が用いられほんの少し杵があったったくらいの白米であった。戦国時代の朝鮮では白米が普及していて、(文禄慶長の役)秀吉の軍は非常に驚いたと伝えられている。
 家康は麦飯を愛用して白米を贅沢と戒めていた。
江戸時代初めの頃はまだ精米して食べるのが一般的でなく、糠の発生は都市でもまれにあっただけと思われる。
糠の用途
江戸時代の農書 往来物のひとつ「米徳糠藁籾用法教訓童子道知辺」(米の徳、糠・藁・籾の用い方を、子どもらに教えるための道しるべ)より
「玄米を搗くと、糠ができる。この糠も用途が多い。まず、人の素肌を洗い、ものについた油をこれで洗うと油気がよく落ちる。また、大根を糠と塩を混ぜて漬ける。これを沢庵の香の物という。紺屋 小紋糠と言い、細かくした糠を火で炒り、これを糊と混ぜて染物のうら、白くする所や紋所の上につけて置くと,そこに染料の藍が染み込めない。また、糠とまぐさとを混ぜて馬のえさとして与える。糠を火で炒って、小鳥のえさにする。畑の肥やしにもなるだろう。板屋根の竹釘や指物細工木釘を糠と混ぜて炒ると、糠の油が染み込んでどちらも丈夫になる」
 往来物(江戸の教科書)とは、平安後期から明治初期にかけての初等教科書の総称で、当初は貴族や武士の子弟教育のためだったが、江戸時代に、寺子屋等の教育制度が発達し庶民層にも教育が普及してくると、職業教育、道徳教育、一般教養等、庶民を対象とした様々な往来物が数多く作られた。いずれも日常生活に必要な知識や作法を身に付けることを目的として編纂され、各地域の文化、習慣に即した内容となっている。

あくまでも寺小屋の教科書であって、実際、糠が出るくらい精白した米を食べたのは都市部のみで、農村部は仮に糠が出ても肥料に回されたか、沢庵加工の糠として使われたと思われる。
徒然草 98段
一後世を思はむものは、糂汰(じんだ)〔糠味噌〕瓶一つも持つまじきことなり。
芭蕉
  庵に掛けんとて、句空が書かせける兼好の絵に
秋の色糠味噌壷もなかりけり  (柞原集)
松尾芭蕉 元禄4年、48歳の作。
 詞書にあるように、句空が『徒然草』を題材にした絵を持参し、それに讃を入れた。絵には、質素を旨とする兼好法師の庵が描かれ、それに糠味噌壷も描かれてはいなかったのであろう。徒然草では、「糂汰瓶<じんだがめ>」と書いているのを俗語で「糠味噌壷」と表現している。江戸時代の芭蕉の時代も糠味噌は壷ないし瓶に入っていたと思われる。兼好法師の時代の糠味噌は今で言う貧乏人の食事のときの万能の調味料であって,それさえ持ってはいけないということ。
常滑焼の糠味噌かめの久松(キュウマツ)さんの意見では、漬物の場合は塩を使用するために「塩こし」(容器から塩分がしみ出る)の問題がある。貫入とは、長期間使用することで生地に水分が含まれ、膨張収縮が繰り返されると釉薬にヒビが入り、ひどい場合は生地にまでヒビが入ってしまう現象です。貫入が入ると「塩こし」の原因となってしまいます。
沢庵漬の容器に壷や瓶を使用しなかったのは重石をかける必要があり、木の樽しか適当な容器がなかったためであると思います。
じんだ煮
小倉(北九州市)ではイワシやサバ、ちりめんを糠みそで炊いたものを「じんだ煮」とよんでいます。「じんだ」とは「ぬかみそ」の意味で、江戸時代に小倉城主・小笠原忠真が、じんだ煮が「陣を建てる」に通じるところから、縁起物として好んで食べたそうです。全国でも珍しい郷土料理です。
徒然草 98段
一後世を思はむものは、糂汰(じんだ)〔糠味噌〕瓶一つも持つまじきことなり。
芭蕉
  庵に掛けんとて、句空が書かせける兼好の絵に
秋の色糠味噌壷もなかりけり  (柞原集)
松尾芭蕉 元禄4年、48歳の作。
 詞書にあるように、句空が『徒然草』を題材にした絵を持参し、それに讃を入れた。絵には、質素を旨とする兼好法師の庵が描かれ、それに糠味噌壷も描かれてはいなかったのであろう。徒然草では、「糂汰瓶<じんだがめ>」と書いているのを俗語で「糠味噌壷」と表現している。江戸時代の芭蕉の時代も糠味噌は壷ないし瓶に入っていたと思われる。兼好法師の時代の糠味噌は今で言う貧乏人の食事のときの万能の調味料であって,それさえ持ってはいけないということ。
 常滑焼の糠味噌かめの久松(キュウマツ)さんの意見では、漬物の場合は塩を使用するために「塩こし」(容器から塩分がしみ出る)の問題がある。貫入とは、長期間使用することで生地に水分が含まれ、膨張収縮が繰り返されると釉薬にヒビが入り、ひどい場合は生地にまでヒビが入ってしまう現象です。貫入が入ると「塩こし」の原因となってしまいます。
沢庵漬の容器に壷や瓶を使用しなかったのは重石をかける必要があり、木の樽しか適当な容器がなかったためであると思います。
じんだ煮
小倉(北九州市)ではイワシやサバ、ちりめんを糠みそで炊いたものを「じんだ煮」とよんでいます。「じんだ」とは「ぬかみそ」の意味で、江戸時代初期に小倉城主・小笠原忠真が、じんだ煮が「陣を建てる」に通じるところから、縁起物として好んで食べたそうです。全国でも珍しい郷土料理です。
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木下街道

2013年08月18日 | 福神漬

千葉香取市万歳からの帰り道、時間が余ってカーナビで距離優先の選択をして東京に帰ることにした。ナビが選んだ道は香取神社から佐原駅を通り、利根川左岸沿いで木下(キオロシ)まで行き、そこから木下街道を行くこととなる。
 江戸時代市川行徳河岸から利根川河岸の木下まで行くのが最短距離かもしれない。わりと平坦な道である。今の交通事情から佐倉を回って成田に行く道を選択するだろうが意外と上り下りがあって、さらに印旛沼などがあって大変だったかもしれない。[佐倉義民伝]で雪の印旛の別れという場面がある。佐倉から当時の常識だと印旛の渡しを通り、木下街道に出て、行徳まで歩き、小名木川水運で日本橋の河岸まで行ったのだろう。当時の日本橋界隈には江戸での訴訟宿があって便利であった。
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不忍池の中にある弁天堂後ろ

2013年08月17日 | 福神漬
不忍池の中にある弁天堂後ろ
江戸末期に人情本作家の松亭金水は弁天堂の後ろに住んでいた。そこにたむろしていた戯作者関連の人達が集まっていた。このときの様子が梅亭金鵞『妙竹林話七偏人』の中にある。
 明治の20年代に梅亭金鵞の弟子ともいえる鶯亭金升が新婚生活を始めた池之端の借家が金水の旧居付近だった。池之端御前といわれた福地源一郎(桜痴)が借家の持ち主だった。自由民権運動の福島事件では福島自由党と対決した会津帝政党は福地源一郎の政党であった。鶯亭金升の叔父が福島事件被告人(東京士族)花香恭次郎だった。鶯亭が投書していた團團珍聞は風刺を売り物としていた雑誌なので、落ち目になっていたとはいえ政府よりの福地のところに鶯亭金升なぜ住んでいたか不可解である。
 福地源一郎は長崎で森山栄之助(多吉郎)から英語を習っていた。森山はペリーが浦賀に初来航したときは長崎にいて、米国国書の受領の場にはいなかったが浦賀奉行戸田氏栄とは通詞として浦賀に詰めていた時もあり知っていた。
 明治になって森山は高島嘉右衛門のところで一時通訳として働いていたようだが明治4年に死去した。残された森山の子孫の面倒を見たのが福地であったという。大垣戸田藩が戊辰戦争の軍資金が枯渇し、軍資金を横浜の外国人から借りる事となり、高島嘉右衛門の下で通訳として働いていた森山の力があったという。明治の4年から5年頃花香恭次郎は横浜にいた。また鶯亭金升の父長井昌言(明治6年死去)は工部省鉄道局に関係していた。多分就職には高島の力添えがあったと思われる。高島嘉右衛門の姉は大垣藩戸田氏正の側室で戸田欽堂を産んでいる。長井昌言は戸田伊豆守氏栄の3男である。
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盆休み終り

2013年08月16日 | 築地市場にて

築地市場は盆休みのため休市。ところが場内の金融機関は営業していて、客もいない。旧暦新暦のずれは明治5年から始まるのだが農家の都合で市場は旧暦と新暦との折衷となる。
内田五観(弥太郎)の指導の下福田理軒等と協力して明治の改暦を行った。この改暦で旧暦を配布していた伊勢暦の力が衰え、新暦の印刷需要で活版印刷が生き返った。
 明治の改暦の余波は今でも残っている。お歳暮は東京と地方は同時期だがお中元は東京と地方は異なる。世田谷のボロ市は始まりが正月の道具を揃える市だったガ改暦で急に新年になってしまってクレームが出て1月にも市があるようになった。
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