年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸 野菜の輸送

2006年03月11日 | 趣味としての漬物
江戸の東の地区は舟運によって野菜は運ばれたが、西山と呼ばれた江戸城西方の野菜の輸送手段は牛車と大八車・馬による輸送だった。
江戸の牛(都史紀要32)より
西欧社会と比べて、車両交通の未発達は江戸時代の特色である。
国史大事典4 943頁 吉川弘文館出版
江戸は徳川家康の入国以来、大津牛を招いて荷車に使い、建築資材を中心として輸送にあてたが,大八車の普及につれて、地名としてその面影を残すにすぎなかった。
 江戸市中に大八車が使用され始めたのは明暦の大火以後、江戸の復興工事のときで、寛文2年刊の“江戸名所記”には
このころ地車といふ物を始めて、牛をかけず、車に荷物をのせて人八人してこれを引く。江戸市中我も我もとこしらえて、その車の名を代八と名づけて用ゆ。牛に変わりて八人して引かすれば、江戸市中の馬借馬子は、地車を嫌がり憎みて、代八を引くものを、人畜生と罵るとかや。
また、守貞漫稿によると
(世事談)に曰く、寛文年中、江戸にてこれを造る。人8人の代をするを持って代八と名づく。今は大八と書く。その頃、宮中にて讒言して云う、人をして牛(午)のごとくならしむ、云々。

代八車は飼料代もかからず、車引き,車力の賃金も安く、狭い道路も自由のいけた。急速に増え、伝馬町の助馬制度を脅かす存在になった。後に大八車に極印し口銭を掛けた。
元禄時代に極印賃徴収が中止されると、荷物の区分を提案し伝馬町役人は馬持ちの荷物の確保を図った。
伝馬役所 伝馬助役に影響あるもの
   牛荷車を抑える 馬持ちの人を減らさないため
   牛荷車の方が積載量が多い。
   牛の購入代金と飼料代が半額と安い。
   放置すると馬持ちが減り、伝馬の公儀御用に支障をきたす。
   伝馬制度を維持するため幕府は馬持の保護政策となる。
現代の築地市場には大八車はないけれど小車が水産仲卸の狭い場所で活躍しています。その理由の一つとして、大八車の便利さ同じ理由です。駐車が楽、ガソリンがいらない、一方通行逆行できる、免許がいらない等です。

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