年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

不正醤油事件のまとめ

2007年03月31日 | 福神漬
日本醤油醸造事件
日本醤油醸造は旧式醸造の販売業者と対立したため、販売政策として膨大な広告費かけ新聞・雑誌・また当時としては珍しいイルミネーションを応用した広告をするなど宣伝機関を利用した。また販売者には徹底的にご馳走攻略行い買収していった。全国1万5千軒とも言われた当時の醤油業界を極度に刺激し,新旧の販売業者の対立を招いた。
 年産24万石の生産規模で始まった兵庫県尼崎工場での出荷は明治42年5月から始まった。9月からの特売は景品付きで取引高で景品が増える販売意欲を刺激する方法であった。例を挙げると百円以上は大樽一挺、一万円以上大樽130挺となっていて33段階に分かれていた
しかし,急造の尼崎工場の製品は不良品が多く出来たり,醤油を入れるため木樽の製造にうまくいかず未完成の製品が出荷され不評が出ていた。販売不振は日本醤油醸造の社内対立を招き内紛となっていった。
醤油は輸送の便が悪い時代は船運を利用して運搬していた。従って鉄道輸送が普及する前の時代は日本各地に地場の醤油業者があって、古い商慣習で取引していた。明治の終わり頃になると大規模な投資による工場によって、安価な商品が作られ古い産業が淘汰されるの経済の原則であるがあまりにも急ぎすぎ反発を受けたのである。


醤油業者数
大正初めの日本には醤油醸造を業とするもの1万3千件あり、更に農村部では個人醸造があった。今では日本で醤油醸造をする業者はキッコーマンを筆頭として1500業者余となってしまった。
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鈴木三郎翁伝より (味の素創業者)

2007年03月30日 | 福神漬
鈴木三郎翁伝より (味の素創業者)
元来池田博士の発明した「味精(グルタミン酸塩を主要成分とする調味料)」は、最初はしょう油の加味料に供する目的で出発したものであった。
明治41年7月25日
味の素 特許を得る。
 ちょうどその頃、精糖業界において名をなした鈴木藤三郎が日本醤油醸造株式会社を創立し、醤油の新醸造に60日醸造という特許を得て東京小名木川に工場を作り経営した。実験室で成功した醸造法は実際に醸造するとうまくいかなかった。少しずつ改良していった時“味精”が現れたのである。鈴木藤三郎はすでに池田博士と鈴木三郎の共有となっていたグルタミンの特許の高額で譲渡を申し込んだが断わられる。鈴木藤三郎氏の機械式醤油醸造は技術的欠陥があって、旧来の製法の醤油と比べて旨みが少なく味の素で味を付することを考えたのだろう。
明治42年2月25日
 商品としての味の素の製品出荷始まる。
日本醤油醸造には優先的に出荷することになったが翌三月より製品の注文が少なくなり、返品されるようになり、一般消費者に販売する方向となった。

 その後、日本醤油の尼崎工場の製品からサッカリン混入の醤油が発見された。もし池田博士の発明した味精が日本醤油の加味料として報道されていたら、どんな結果となっただろうか。運良く味精は報道されず未使用品が返品され、醤油の加味料と使用する用途から一般調味料として販売に売り出され、明治42年4月22日に商品名「味の素」となリ、5月26日に東京朝日新聞の広告に調味料として広告された。明治41年11月17日 「美人マーク」商標登録 美人のエプロンに味の素のロゴ

明治42年11月 味の素 京橋に移る。

明治42年12月24日 「味の素」商標が登録となる。
出願したのは明治42年11月8日 味を耕す 
味の素80年史より
不正醤油事件が報道されたのは明治42年11月3日
明治42年12月25日東京日日新聞
大阪の松下商店との代理店契約広告 関西から売れ始める。

なお味の素には当時醤油の加味料として『味醤』というものあって、これが福神漬の表示に使われている「アミノ酸液」の始まりかもしれない。
不正醤油事件があった時はまだ「味の素」は商標登録されておらず、運よく難を免れた。

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明治時代の法意識

2007年03月29日 | 福神漬
大阪朝日新聞がなぜスクープ出来たのか?

 梢風名勝負物語 日本金権史 砂糖と醤油 村松梢風著
『旧式醸造の醤油業者が日本醤油醸造の技術者と労働者を買収して、少量サッカリンを添加していたのを、秘密裏に全部の桶に多量いれて、警察に密告し、(大阪朝日)新聞に連絡し、また監督官庁にも連絡をいれた。』と記している。

鈴木藤三郎伝によるとサッカリン購入のいきさつはサッカリンの輸入関税が大幅に上がった時、ある人が大量に見込み輸入し処分に困り、日本醤油醸造が引き受けたという。味の素の創業者鈴木三郎助がグルタミン酸の無害の証明を取っていたのと大きな差がでた。関東はサッカリンの取締情報が良く知れていたと思われる。日本醤油醸造でも東京の製品にはサッカリンが入っていなかった。兵庫県尼崎工場の製品のみサッカリンが使用されていた。

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中野政弘氏が語る日本醤油醸造事件

2007年03月28日 | 福神漬
中野政弘氏が語る日本醤油醸造事件
昔の醤油醸造は大きな桶の中を櫂によってかき混ぜていた。この方法だと醤油を作るのに材料の仕込みから製品になるまで一年以上の年月がかかり、資本の回転率も悪く、広い敷地も必要となる。鈴木藤三郎氏は櫂でかき回す代わりに仕込み桶を回転させ、蒸気で温めるという方法で醗酵を促進させる発明をした。この方法をテストした結果2ヶ月から3ヶ月で製品が出来た。鈴木藤三郎は日本醤油醸造を設立し、その工場の機械の総監督として畠山一清(荏原製作所創始者)があたった。
早造りの醤油は順調に生産されたが海外に輸出したとき、海上で突然醤油樽が破裂するようになった。この原因として未醗酵のまま船に積み込んだため、洋上で醗酵が進み爆発したものであった。また国内の販売において旧式醸造の醤油業者の抵抗にあって、売上が低迷し、日本醤油醸造の会社の内紛が起きた。二人の重役によって鈴木藤三郎は社長を解任されたが鈴木はある公爵から資金援助を受け、社長に復帰し二人の重役を解任した。解任された重役は密かに醤油に添加していたサッカリン混入の事実を詳細に記し、警察に告発したのである。当時の報道の状況を見ると『大阪朝日新聞』にも詳細な事実を密告しているように思われる。

 中野政弘氏は元明治大学教授で味噌等の醗酵に詳しく、伯父の松波直秀は荏原製作所の社長をつとめていた関係でこの事件を知っていたのである。約100年前の事件である。

醤研誌 第16巻5号 財団法人 日本醤油技術センター所蔵より
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不正醤油事件史料①

2007年03月27日 | 福神漬
日本食品衛生史 明治編
明治42年日本醤油㈱が設立され、従来製造過程として18ヶ月かかっていくものを2~3ヶ月に短縮した製品を販売した。ところがその製品にサッカリンが添加されたことが発見された。大阪府知事は内務省に向けて日本醤油㈱について指令伺いを出していたところ,明治42年11月20日、製造業者より危害のない程度に醸造を行うという、自発的に申し出を行うように指導し、その上で然るべき処分をせよ。と内務省指令が出たので、大阪府では同社工場主任を警察本部衛生班に呼び出し、右の旨を伝えた上で、一応倉庫および出張店在庫のサッカリン添加醤油を醸造場へ持ち帰り、サッカリンを検出しない程度まで良品を混和した上で販売するように命令した。
          日本医事週報767号3(明治42年) 
1910年(明治43年5月27日)醤油搾り用の油の染みた麻袋をたくさん積み上げため、気温の上昇によって自然発火により工場は焼失し、会社そのものも同年倒産しました。

最近出版されている『食品添加物は危険』等の論調の本はサッカリンについては殆ど戦後のことで、今から100年まえの不正醤油事件で兵庫県尼崎の海が赤くなったことは記述しているのでしょうか。明治政府は日清・日露の戦争の経費を賄うため砂糖に税金をかけ、砂糖業界は学者や新聞を利用してサッカリン有害説を流布した。明治時代のサッカリンが有害であったのは主に栄養分が無いということで富国強兵に役に立たないものだったからである。今ではダイエットのための甘味料としてしてサッカリンの使用が欧米で見直されている。ただしサッカリンは高校生の実験室程度の設備で出来るので不純物が出来やすく、その不純物に発ガン性があるので注意したほうが良い。
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食道楽 村井弦斎 ②

2007年03月26日 | 福神漬
食道楽 村井弦斎 明治36年 報知新聞連載 
弟77 豆と麦
下等の醤油や上等のニセモノはサッカリンを混ぜて素人をだます。粗悪品の醤油は中国大陸の安い豆を使用して段々醤油の品質が悪くなって醤油本来の味を補うためにサッカリンを添加したのだと記述している。

明治36年には『食道楽』に書かれていたくらい醤油にサッカリンが加えていたのが知られていたということである。色々な商人から醤油を買い、酒をお燗するように醤油をテストして購入すると良いとしている。
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食道楽 村井弦斎 ①

2007年03月25日 | 福神漬
食道楽 村井弦斎 明治36年 報知新聞連載 
第76 醤油検査法
醤油の見分け方 醤油の中身を入れ替えて販売する悪徳商人がいるので中身を調べる方法。
醤油を徳利のようなものに入れ、お湯の中に入れると醤油の中にある蛋白質が固まって来る。白い蛋白質の固まりの量が粗悪品では少ないので前回購入した醤油と比較すると良い。

当時の醤油の上等品は蛋白質8分4厘以上,中等品は蛋白質4分1厘以上,下等品はそれ以下である。蛋白質の量は原料の大豆の良否による。明治時代には醤油は樽ごと販売していたので中身を入れ替えて販売しても解らなかった。食品の同様な行為が明治30年代に報道されていて食の法整備が明治33年頃から行われた。
醤油を加熱すると蛋白質が出てくるので加熱殺菌する福神漬のようなしょうゆ漬の漬物では問題となってくる。
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日本醤油事件 余談①

2007年03月24日 | 福神漬
日本醤油事件 余談①


日本の醤油 川田正夫著のなかに日本醤油醸造の文章があり、巻末に醤研誌 第16巻に載っているので早速醤油の業界団体に電話してFAXにて取り寄せしました。

荏原製作所の創業者畠山一清は明治39年(1906年)に東京帝国大学機械工学科を卒業し、あえて鈴木鉄工所に入社する。経営者の鈴木藤三郎は糖業の事業化で成功後、早造り醤油の事業に着手しており、その醸造工場を作る日本醤油醸造株式会社の技師長に高給で迎えられたが、不正醤油事件とその後の火災で明治43年(1910年)に倒産してしまう。
その頃畠山は、病死した父と長兄にかわって一族を東京に呼び寄せていたため生活を維持するため大会社に再就職を決め、恩師の井口博士を訪ねたところ、ここで、渦巻ポンプの国友製作所を勧められて入社することになる。ところが、国友も舶来品至上主義に負けて、2年を経ずに倒産してしまった。井口博士の遠心力応用の渦巻ポンプは世界が認めていて、当時としては驚異的な揚水成績をあげていた。畠山は自ら実用化を決意し成功し荏原製作所を作った。
 もしこの事件が無かったならポンプの荏原製作所は今と随分違っていただろう。

参考 財団法人日本醤油技術センター所蔵
 醤研誌 第16巻5号 日本醤油醸造株式会社顛末記 中野政弘より
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野田の醤油史より

2007年03月23日 | 福神漬
野田の醤油史 市山盛雄
 明治40年(1907)6月・資本金一千万円で日本醤油醸造株式会社が設立された。創業者であった社長の鈴木藤三郎は特殊な発酵槽と加温によって早期熟成させる方法を案出し、醸造機の特許をとり東京小名木川のほとりに工場を建設した。
 翌明治41年(1908年)尼崎町向島(現尼崎市東向島東之町・同西之町)に敷地約2.8haの第二工場を建設しました。当時日本最大であったキッコーマンの6万石をはるかに凌ぐ、24万石の生産が可能な巨大工場でした。東京小名木川と尼崎の両工場をフル稼働すると年産30万石を生産する規模であった。
 明治42年11月3日の東京・大阪の大新聞に「不正醤油摘発」の見出しで日本醤油醸造㈱の醤油にサッカリンが多量に入っていると摘発をされたと報道された。押収された醤油は船に積まれ海に捨てられ、大阪湾はこのため海上が赤くなったと伝えられている。更に明治43年5月27日に尼崎工場が出火し建物を全焼し、終に同年11月に解散するに至った。
 しかし、この鈴木藤三郎によって作られた醤油は失敗したが旧来の醤油醸造業を近代化するきっかけとなった。

彗星のように急に現れて皆の話題をさらい、直ぐに消えた日本醤油醸造株式会社の事件は今では知る人も少なく醤油業界史にもほんの2~3行の記載となっているが、その影響は現在のJAS規格の『しょうゆ』と『福神漬』に残っている。

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明治42年12月19日東京朝日新聞

2007年03月22日 | 福神漬
明治42年12月19日東京朝日新聞
醤油早醸造について
日本醤油醸造会社が醤油早造りの方法を案出し法で禁止していたサッカリン又はホルマリンを混入し大頓挫を招いたがこれに関して世に醤油王として知られる千葉県葛飾郡野田町茂木啓三郎氏(キッコーマン)の談話によれば同会社の今回のことは斯業発展の例より見るとき、むしろ大いに悲しむべきことなりと言う。由来醤油の早造りは斯業多年の宿題にてこのため幾多の研究を重ね失敗また失敗ついには再起することが出来なかった例が多い。然れどもなお研究を重ねる余地を存することは勿論余等は国家経済上より公衆衛生上より、また斯業進歩の上より常にこの研究を怠らず、而して予は器械よりも製麹(せいきく)及びこれが発酵熟成の原理に向かって研究を進め従来熟成期間3年の気候を一年間に短縮し、一年の温度を一日に短縮し種々の試験をなしたる結果一日の間に春(午前3時より同10時まで)夏(午前11時より午後2時半まで)秋(午後2時半より同8時半まで)冬(午後8時半より翌午前3時まで)の四期あるのを発見しこの間において製麹上におけるバイキンの発生及びその活動作用・もろみの熟成作用を研究せしにバイキンは一昼夜にて発生し、発酵は三ヵ月間にて良く、空気乾燥及び融和作用を完成し得ることを発見せし。而して、その風味は主として製麹は原料及びその限度の如何に因し熟成作用によって五味(酸・甘・渋・辛・苦)を備えて初めて人口に美味を生じせしむるものを発見し、これを従来のゆっくりと熟成してその五味の自然作用を完全するものなるを知れリ。由来世に五穀と称する大豆・米・小麦・大麦・粟の五種はよく上記の五味を備えて醸造に適しているものであるが稗のごときは甘にあらずば腐・小豆・インゲン・エンドウのごときもまた甘と腐との二つを出でず全く五味を欠きて醸造に適せざる物なり。而して麹を養うにはその温度・人体の温度を平温にしてバイキンまた人体より以上の温度を要求せずしてよく発生活動をし炭酸ガスと空気の配分によりよりよく五味を備え熟成の後は圧搾によって苦味を去り火入れによって渋を去ることによって始めて人の口に上るを得るものなれば予はこの方法によって早造りを試み良好なる成績を収めつつあれど尚より以上有益なる発明の出でんことを待ち望むものなり云々。
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明治42年12 月10日東京朝日新聞

2007年03月21日 | 福神漬
明治42年12月10日東京朝日新聞
日本醤油醸造はいよいよ廃棄
大阪兵庫の両警察部長は日本醤油の処分に付き内務省の召還を受け早速東上したるが大阪警察部長池上四郎氏は9日帰東せりにつき内務省の方針如何を問い質したるに甘精(サッカリン)取締規則も飲食取締規則もその適用はすべて知事の権限内にあるとなれば今更内務省が日本醤油の処分についてあれこれ干渉すべきでない、もっとも学術上よりサッカリンを薄める工夫を採用するならばそのまま販売してもよろしい説もある様なるも要するに知事は会社に除外方法を講ずる否かを質問し、その返答を待って規則の命ずるところに従い断固たる処分を施せば良い。しかしながらサッカリンを醤油中より除かんとすればその費用のほうが製造費よりかえって高くつくことになれば営利会社はさような策を採るとも思われず、結局廃棄処分を命ずるに他なし云々と語った。而して大阪府知事は現在差し押さえの600余樽を廃棄させる時期はまだ未定である。

当時でもサッカリンが有害であるという根拠が弱く、大量の醤油を廃棄するのは国にとってはモッタイナイという論調もあった。12月に入ると事件の記事は減り、食品の安全安心とは何かとなってくる。

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明治42年11月27日大阪朝日新聞

2007年03月20日 | 福神漬
明治42年11月27日大阪朝日新聞
○ 日本醤油の払込説
日本醤油醸造株式会社はサッカリン問題に関し、極力(もみけし)運動をとったせいかどうかサッカリンの混入は分量次第にて有害ならずとの珍決定を受けるに至って、一度危機に迫った同社はここに至ってようやくその命脈を取り留めた観がある。一般の消費者の頭に染み込んだ同社製品の不信用は挽回することは到底困難なるを以って、一時的に失敗を取り繕っても損の上塗りをするだけでこの際はむしろ解散するしかないという株主の一部の有力な説としてとなっている。これと共に重役はじめ大株主は継続説を強固に主張すると共に払い込み説を主張している。その理由として『今解散すれば最大の資本を占めている機械代及び鈴木前社長に支払った特許代は無価値となり、土地建物は競売の対象となってわずかばかりのものになるに過ぎず株主は殆ど得るところはない。重役連が継続説を強固に主張するのは大阪某銀行より借用金百二十万円に対し十余名の重役・大株主の連帯保証となっているためで、しかも連帯保証している人で実際弁済能力のない人があるからこの借金を背負わないようにする為でないか。』要するに解散の声を聞いて必然的にこうむる損失を避けようとする方策で同社株主はもっとも注意を要す時である。

日本醤油の払込説とはまだ資本金にあてる株式代金が全額入っていない。会社の継続の様子を見せて残りの株式代金を払い込みさせようとしていたのか。

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明治42年11月25日大阪朝日新聞

2007年03月19日 | 福神漬
明治42年11月25日大阪朝日新聞
○ 飲食物と衛生
▲ 本年一月以来の検査
近頃科学の進歩につれ天然の産物でなく種々なる化合物を配して食う物飲む物を造るようになった。飲食物には滋養を目的にする物と嗜好を目的にするものとの別があるから一概に言うことは出来ないが、例え嗜好を目的に物でも滋養分がないよりは少しでも含んでいたほうがよいということは今更言うことではない。然るに人工化合物の使用がさかんとなるに連れて只その形なり色なり味なりを天然産物に真似るというにすぎない物が多くなった。それも只滋養分がないだけならまだしもだが中には人体にとんでもない害を与えるものがある。これを取り締まるためその筋にて(警察のこと)は絶えず専門の人を派して『有害性着色料』『飲食物器具』『人工甘味質』『清涼飲料水』『氷雪』『飲食物防腐剤』等の検査をやっているが西洋などのように商売人の道徳が発達して居らぬと、需要者の知識が進歩しないので容易に改善しない。試みに府下の本年一月より十月までのこれらの物の検査した統計を調べてみると総件数8794件、人体に危害のある規則に抵触した物と認められて廃棄若しくは改造を命じられた物946件、すなわち総件数の一割がよからぬ物ということになる。中でも例の使用を禁止されている鉛を使った飲食物容器は検査件数の4割を占めている。只割合によくなったのは子供のおもちゃの着色料でこれは案外有害着色料を使っていない。サッカリンを使っているのが多いと思われる菓子類は比較的少なく百中の二(2%)くらいに過ぎないが野菜果実類の製品(缶詰・ジャムの類)には百中六(6%)くらい使っている。清涼飲料水ではラムネが一番成績が悪く第一原料水の選択が悪くしているのが多い。氷は人造が盛んになって今年の検査では一つも出なかった。それから防腐剤を適量以上使用しているのはもちろん清酒で約二割七分はいけないものであったという。とにかく飲食物の取締はいつまでも緩めることは出来ない。

明治末期の食品の取締の状況で今とは時代が違って内容が異なる。明治時代の基本的考えの中に『富国強兵』があって,身体に害があったり栄養を与えないものは嫌われた。

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明治42年11月19日大阪朝日新聞

2007年03月18日 | 福神漬
明治42年11月19日大阪朝日新聞
▲希薄処分で済ます意向
昨紙東京電話により日本醤油の処分に対する内務省の方針は結局危害無き程度に於いて相当処分を命ずることに決定。その旨大阪兵庫の両府県知事に向かって通知したる旨記載して於いたが18日安東防疫事務官が神戸及び高知へペスト予防の用件にて出張の途、大阪警察本部に立ち寄り、内務省における意見が右の如く決定したる詳細を伝えし模様であるが何分結末が結末であるので府当局者は「安東防疫官は所管外の異なれば一向取り止めたる意見も無かった」云々と綺麗に逃げ内務省への思惑をはばかり明白なる答えをなさずされど実際は希薄して販売を許すというに相違ない。当局者の一部には内務省の腰の弱さ憤慨し、今後飲食物の取締は到底理想通りにはいかぬとつぶやいていた。中にこれを解説するものが例え希薄にして販売を許すにしても甘精(サッカリン)が検出せぬ程度まで希薄にせんとすれば純良品十石にサッカリン入り醤油一石より混ぜることできず、会社が押収品は一万石以上あるので今後十万石以上の純良なる醤油を製造する事が出来るのだろうかどうか云々と。かくて喧しかった醤油事件は愈々竜頭蛇尾に終わろうとする。
 このような記事を書いたところ神戸より電報があり、安東防疫事務官は元町旅館に休憩中訪問した記者に向かって「法文上は醤油事件の処分は地方長官に一任しているので中央政府は軽々しく干渉せざる方針である。同社は宜しく自ら公衆に危害を与えぬ方法を講ずべく地方長官はその方法を講ずるや否やを待ってしかる後処分するを穏当と思う。不正であるからといって疾風迅雷の如く急拠に処分すれば法の精神に反するだけでなく、また極めて不親切な行為と信じていて何しろ今回の事件は犬が犬糞にぶつかった感がある」云々とかっかと大笑いして語った。

安東防疫事務官は当時神戸で流行していたペスト対策のために来ていた。神戸の患者は一月以後229名の患者が出ていた。

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明治42年11月18日東京朝日新聞②

2007年03月17日 | 福神漬
ウヤムヤなる内務省
大阪府はこれが処分に関し内務省に向かって指令伺いし中なるは既記のことであるけれど、前記に付き内務省の省内会議の結果を待って16日大阪府宛形式的な通達を発した。しかも、その要旨はすこぶるあいまいなもので単に危害なき範囲に於いて相当処分をなすべきという。さらに兵庫県の処分に於いては更に石数の多さだけでなく安東防疫事務官が高知市にペスト視察に出張の途中に立ち寄り本省の内意を県当局者に伝達することになるようだがその内意なるものが結局上記の通達と同じものにてこれに付加して意見を述べるに過ぎず、即ち省内にては軟風吹きすさみ公衆衛生上の影響を無視してサッカリン検出の操作と同時にエーテルを混入してこれを検出しないようにするか若しくは他の純良なる醤油と混合し試験上サッカリンの痕跡なき程度までに希薄して販売を許すべしとの論があった。塚本参事官が強硬な立法の精神より決してこれを看過すべきでないと内務省指令までもなく規則を励行して廃棄すべきが当然である。ことに良品との混合の結果、試験上これを検出することが出来ないといっても事実はサッカリン混合であるので当局者としてこれを許すべきに非ずと論じていた。何故かついにウヤムヤに右の指令を与えたものに至ったもので尚その文中にては当事者と云々の文字さえあったという至っては甚だ怪しいことである。
輸出計画
聞くところによると山根正次氏は当該醤油の処分に関し会社側となり内務省当局者を説得するにサッカリン取締規則の制定する当時の中央衛生会議における説明その他を見ると立法の精神は直接身体に危害をを及ぼすというにあらずして砂糖消費税の関係上必要であったのをもって必ずしも廃棄を命ずるにも及ばざるべくと同時にその処分としてこれを満漢地方に輸出せば会社のみならず国家もまた損失をまぬがるとして黙認を得ようとして目下運動中ということだ。しかし満漢といえども需要者はわが同胞ばかりでなくすでに不良品であることが知れ渡ると将来他の純良品までも悪影響をきたす懸念あればこの成り行きには注目すべし。

満漢とは今の中国東北部のこと。すでに日本産醤油の中国人へ売込みが始まっていた。

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