年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

千宗旦と沢庵

2006年03月10日 | タクワン
千宗旦は、千利休の孫です。利休の切腹時のときには大徳寺(京都・臨斎宗)のもとにあずけられ、禅の修行に励んでいたが、ほどなく千家の再興が許され、父・少庵が利休の茶室不審庵を継いだときに大徳寺から召し返され、本法寺の屋敷へ移りやがて千家三世を継ぐことになった。やがて宗旦は徳川家をはじめ、諸大名から茶頭として招かれたがこれをいっさい断った。したがって宗旦の生活は相当に苦しく、「乞食宗旦」と呼ばれていた。また、貧しいが故にますます侘びに徹し、茶禅一味の心境へ到達した。
 堺の町が大阪夏の陣の後、次第に衰退し、千宗旦は大名家の庇護がなくては茶道の維持さえ困難な時勢を考えて,大徳寺で同時期修行していた沢庵(紫依事件の後の)に仕官の道を依頼しました。沢庵は柳生宗矩をつうじて三男江岑宗左を紀州徳川家に,ついで四男仙叟宗室を加賀前田家に,次男一翁宗守を讃岐松平家にそれぞれ茶道師範として仕えさせます。ここに表千家・裏千家・武者小路千家の世にいう三千家の原型が成立し,宝暦・明和(1751~71)のころから利休流茶道の家元として栄えるようになります。
 この後,三千家流以外にも遠州流・石州流などの諸流派が競い起こり,茶湯は武家・公家・僧侶の社会からあふれて京都・大坂・江戸をはじめ地方都市の富商や豪商らの間にまで普及するようになりました。なお、江戸・東海寺(沢庵和尚が開山)の庭は小堀遠州(武家の茶道・遠州流)の普請でした。
遠州流
大名を中心に武家社会で盛んであった茶道流派。徳川家光の茶道師範。
柳生宗矩
1632年には初代の江戸幕府総目付(大目付)となり、諸大名の監視を任とした。自身が父の菩提を弔うために友人の沢庵宗彭を招いて柳生に開いた奈良市柳生下町の神護山芳徳禅寺に葬られた。柳生十兵衛の父でもある。
つまり、江戸初期の茶道は情報収集の場でも社交の場でもあったといえる。茶会席のとき出される沢庵漬はそれ以前にあった糠大根の百一漬等の名称にとって変わった。
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