年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

江戸時代の大根河岸はどこ?銀座の隣り!

2024年08月30日 | 築地市場にて
京橋の西側の橋は、紺屋橋(別称中橋)と言い、その先に城辺橋(旧称比丘尼橋)あたりは大根河岸と呼ばれていた。昭和10年まで、青果市場があったからである。京橋川の堤防には、その付近だけ階段がついていて水運を利用して運ばれてくる青果物を運び上げるためであった。 早朝から、野菜を積んでくる舟、地上を走り回る大八車が忙しく行き交い、京橋、銀座一丁目周辺には、青果業者たちの大声が響いていた。
 このように、銀座のすぐ隣で野菜が取引されていたことはあまり知られていない。しかし築地市場が、今なお銀座の隣町にあることを思えば、銀座は、日常生活にもっとも近い街でもあることがわかる。そして、大根河岸と築地市場、築地と移転が予定されている豊洲とは同じ位の距離にある。

東京市史 市街編 第58 758頁から763頁
明治9年河岸地に命名     河岸地を若干命名す
中央区は大根河岸、竹河岸(大根河岸のとなり)等が命名された
明治10年8月3日 
 京橋より以西 比丘尼橋までの河岸地、自今大根河岸とす。 この命名の後
明治10年 京橋大根河青物市場設立認可 問屋37人、仲卸17人
 
京橋区史より
大根河岸は京橋川に沿ふた河岸地で比丘尼橋の北詰めより起こりて東のほう京橋に至る一帯の区域を言うのである。大根河岸というと公称のようであるが実は里俗名で、江戸町鑑によると(西白魚屋敷川岸通、里俗大根河岸と唱う)とある。これは当時から青物市場がここで開かれていたからかく称されていたのである。
 この大根河岸の青物市場は明治32年4月14日から16日に至る三日間創立235年記念祝祭を催した。此れによりて推定すれば延宝3年四代将軍家綱の時に当たるが,古老の話によると寛文2年創設されたと言い伝えられていて、其の創始年代については正確な記録が残っていないから不明であるがこの市場は元々数寄屋橋付近にあったのが火災にあって大根河岸に移転したと伝えられている。その移転の時期も不明である。







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豊洲市場はすでにev時代

2023年10月30日 | 築地市場にて
もう築地市場移転騒動が忘れ去られ、気まぐれな食のライタ―が場外市場しか書くことが無くなったようだ。今ビッグサイトで「モビリティショー」 の展示会があるがライタ―達はそのすぐそばの豊洲市場では電動自動車しか使えないことを知らないようだ。1800台を超えるタ-レーと電動フォ―クリフトが稼働している。そしてその充電には200ボルトのコンセントがあって、毎日とか一日おきに充電している。築地にいた時はコンセントが不足していて、ターレ-の保守をしている場内の自動車整備業者が充電器の付け替えを行っていたが今はほぼ全車が駐車位置の柱にコンセントがあって点けっぱなしで放置している。東京都の方針から都内の全市場のタ―レ-等電動化されていると思われる。ターレ-の価格は今現在の価格は知らないが豊洲移転直前には250万から300万円していて、東京都の補助金があって購入する。電動なので一番高いのが電池でうまく使えば10年以上は持つ。車検はないが東京都は点検記録が無いと、場内走行のスッテカ-の更新を認めない。
市場での電動化の問題は市場のセリ場が室内のため、排気ガス汚染の問題から始まる。2000年代の初めに汚染空気のひどさは中国の人民日報で揶揄されたこともある。その当時の築地市場の水産仲卸売場の空気の汚染具合はタ―レ-の排気ガスで環七大和町より汚染がひどかった。そこで東京都がガソリンタ―レ-の更新を認めず、電動タレ-に補助金を出して更新を計った。しかしバブル後の青果と水産市場経済の低迷で更新が進まなかった。しかしタ―レ-の製造メ-カ-が徐々に市場人の要求にこたえることの出来るタ―レ-が開発された。そこにはテレビで報道されることもあったようだ。市場祭りで子供が乗りたがっていることを知っている。違法だけど。
 電動タレ-の問題点
今のタ-レ-電池は鉛系で適切な管理をしないと水素爆発の可能性があった。今はどんな電池か知らないが。
 電池は使えば使うほど劣化し、充電しても距離が維持できない。従って中古というものの価値が無いに等しい。
 ガソリンフォ―クで驚いたのがバブル前に購入し、買い替えした時の下取り価格が最初に買った時の価格以上だった。その理由で知ったのだが日本のガソリン規格が新しくなって古いフォ-クリフトの方がかえって高く、日本製とガソリン規格が現地にあっているということで輸出に高価で取引されているという。日本の文字が車体に入っていると消さないで使っているのでミャンマ-で驚いた。
電動自動車の問題は歴史が浅く、廃車の環境問題の行方がまだ不明である。しかし充電器があればガソリンスタンドへ行く手間と時間が節約となる。音も静かで排気ガスも出ない。ターレ-の電源と電気自動車の電源のコンセントの規格は異なると思うが少なくとも豊洲には200ボルトの電気設備がある。それも数百台を超える。
 マンションの電源はどうなるのだろうか。機械式の駐車場の電源の位置が気になる。電気自動車は電池のために重い。
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高輪の物流博物館へ

2023年10月29日 | 築地市場にて
高輪の物流博物館が展示物の交代で閉まっていて、10月27日から汐留の駅の変遷の展示に変わった。築地にいた時は新橋駅銀座口から汐留駅の外周を回り、浜離宮の交差点で築地市場へ向かった。バス便もあるのだがずっと歩いた。最低でも15分は電車を降りてもかかる。外周の万年塀に沿って広い歩道が今でもあるがそこを歩く人は三井造船の人と築地市場へ通う人だけと思われる。従って土日はほぼ人のいない歩道となる。そこに銀座の夜に出没する磯辺焼きの屋台が放置、もしくは違法で置いてあって張り紙が違法と示している。それほど人のいない歩道でも管理する港区は年度末に自転車通行帯の工事をしていた。この先は浜離宮で人も住んでいない。
 汐留の貨物駅には一度九州大牟田駅からの荷物をプラットフォ―ムに取りに行ったことがある。近所であっても広い所で探すのは大変である時に汐留で行方不明となって探しに行った。商品は白いダンボ-ルですぐに解かったが人の少ない所ではだめだなと思い荷主にお願いしトラック便に代えてもらった。スト権ストという国鉄時代のストライキがあった。後で打撃を受けたのは貨物輸送だろう。この時から小口の遠隔地の荷物は貨車便から高いけどトラック便となった。コンテナ便は北海道の新漬沢庵が一日で最高5コンテナほど来ていて、置き場がなく苦労した。今でもよくできたなと思う時がある。バブル前の時でもある。1コンテナでも狭いし大変だった。
 汐留駅に見る貨物鉄道と通運のあゆみという企画展は昔の記憶を復活させる。汐留駅からの築地市場への引き込み線の写真もあった。あの築地市場内の踏切は横断に難儀していて、今でもバスに乗って踏切を横切る時の揺れが築地を思い出す。
 築地市場の移転直前に場内を歩いていると水産部の所がアスファルトが欠けていて、昔の線路が見えていた。汐留駅は汐サイトというビル街になって、今は電通の不祥事とによって空洞化が目立つという。栄枯盛衰は世の習い。来年には築地市場の後の計画が始まる。あれほど騒いでいた築地市場場外市場が復活のようだ。食べ歩きが黙認という不思議な世界。日本では例外というのが不思議な形で生まれる。肉を公式食べ始めたのが150年程の歴史しかない。しかし非公式の肉食は病気治療という名目で許されていた。
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二つの東武線浅草駅

2023年10月17日 | 築地市場にて
昭和6年の東京朝日新聞を読んでいた時、日本橋魚河岸の不動産的権利の板舟権で東京市会議員の汚職問題があって、逮捕され、同時期に東武鉄道浅草駅の隅田川越えの問題でも市会議員が逮捕され、市会の定足数が不足となり、市議会が解散となった。日本橋から築地の地に移る時に、色々な問題が発生し、普通には関東大震災で築地に移転したと言われているが関東大震災は大正12年9月1日で日本橋魚河岸が築地に移転したのが昭和10年2月11日で12年ほど間がある。この間の中に市会を解散させた事件があった。同時期の東武鉄道の浅草駅乗り入れ事件もあって、何故昭和6年に今の浅草駅乗り入れなのか不思議であった。
 東武線東向島駅の高架の下に東武鉄道博物館があって、はじめて路線の拡大変化を理解した。最初は今の東武スカイツリ―駅が浅草駅と称していて、昭和に入って隅田川を乗り越え今の位置に浅草駅と改名し、それまでの駅は吾妻橋駅となったようだ。東武伊勢崎線の明治大正の人の浅草駅は今のスカイツリ―駅の位置となる。
 野田市の野田中央小学校の教育資料館という施設が年に何回か土曜日に公開されていて、予約しないで入れそうで天気の良い日に向かった。そこに明治の後半時期に小学校の修学旅行の行程と金銭消費の様子が解かる展示物があった。野田の小学校から東武線越ケ谷駅まで歩き、そこから吾妻橋まで列車に乗り、上野公園で遊び、神田三崎町で宿泊し、靖国遊就館 を見学し、両国橋付近の所から汽船に乘って、小名木川を通り、東京湾に入り、江戸川をさかのぼり2泊三日の野田市の河岸までの修学旅行だった(一泊は船中泊)。やはり汽車と外輪船の船の体験は文明開化の経験だろう。当時の野田のあたりの小学生で終わっていて、そこから口減らしの仕事となる。
 今の小学生の体力で野田から越ケ谷まで歩いたとは思えない。途中の江戸川越えは多分橋が無かった時代で船と思われる。
 これで日本橋から築地に移転した時の混乱の詳細が知れた。豊洲移転では一年延びたし、大義名分となったオリンピック開催もコロナで無観客で汚職もあって協賛企業の悲鳴が聞けそう。大阪の2回目の万博も物価高と観光迷惑で盛り下げるように向かっている気がする。そしてホテルの高額部屋の稼働率と従業員不足から量販志向の企業の業績が見劣りするという。高額にIPHONE15の売れ行きは想定以上の様で、スマホも見せびらかしの道具の仲間入りとなった。ブランドバッグを下げている人がアンドロイドの中華スマホではバランスが取れない。2個持ちのスマホはアップルは手持ちで中華はバックの中か。
 都営の浅草線で電車待ちの時、ふとこのように思っていた。それにしても東武線はカタカナが好きになって変換に苦労する。アーバンパ-クラインが野田線だったことを忘れる。まだ単線区間があることを普通の都民は知らない。

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豊洲移転の5年で想う

2023年10月09日 | 築地市場にて
5年前の10月6日に築地市場の営業が終わった。最後の築地市場の水産部の店舗移動はいつだったか忘れたくらい昔と頭の中に記憶が残る。店舗移動は水産仲卸だけの行事で4年に一度あった。豊洲は築地市場と違って形が整っていて予想だが一斉の店舗交換は無いと思う。
 水産仲卸の店舗移動は自分がいた時に2回ほど記憶がある。移動日は5月の3連休で新店舗開業日は5月6日となる。買い出し人が地図を手にして今までの仕入れ先を巡る。店舗一斉移動のテレビ番組を見たがこれで落ちぶれる仲卸もあれば復活する仲卸もある。それによって従業員の店舗移動もあったと思われるが語られることはない。雇い主にとっては不祥事だろう。
この店舗移動の大義名分は店舗の場所による不公平を無くすという理由だった。バブル前に1600ほどあった水産部仲卸は最後は600程となり今では460と言う。神田にあった青果仲卸が大田市場に移転した時に、自分と神田の漬物業者と雑談した時、神田の業者は期待していたが自分は大手は大八車的運搬からフォ―クリフト使用で時間が減り、今まで営業できない所に手を出すからますます大きくなると言った。なんだか納得がいかないような顔をしていたが一番影響があったのが築地市場の青果部だった。東京の南の地区の八百屋の大口顧客が渋滞の無い大田市場に仕入れ先を変更した。東京都の統計デ―タを見ていて大田に移転するまで神田が3で築地が2の割合だった。ところが今では2対1の割合となって大手量販店の青果は大田市場になってしまった。それゆえ豊洲移転については青果部は表向きは移転に難色を示していたが、実際問題として築地の設備では、産地で予冷したレタスが築地で冷気がない所に置かれ、大田経由のレタスと痛みが一日以上の差があった。
結果は豊洲市場を営業している生命保険の女性から、水産と青果の差が激しいと言われた。どうも青果部の要望は無茶な設備要求以外は東京都からすべて認められた気がする。水産仲卸は移転反対派が多く、設備の要望を東京都の人が来ても、移転設備構想を考えてなく、使い勝手の悪い設計のようだ。素人が考えてもマグロの業者、活魚の業者、貝類、佃煮、かまぼこ等々の必要な設備が異なる。そこに衛生と問題があって、閉店後に閉めるいう世間の常識が加わる。さらに銃刀法も出るとは。だれも築地と同じと思っていたのが個別に今の法律と条令が来る。マグロをさばく包丁は長さが2mもあって、それを研ぐ業者が1ケ所に纏められて揉めていたと聞く。どうなったのだろうか。
 もう5年経った。そこでさらに中国の汚染水禁忌で香港中国が消えた。ただ世間の協力で通過するしかない。東京の水産部の困難な歴史は聞くに堪えがたい。明治の10年代のコレラでは夏場の水産部は休業状況だったようだ。衛生知識が入って対応策が取られたが戦後でもコレラはあったし、放射能もあった。原爆マグロも築地で廃棄して、引き取るところが無く築地市場に埋めた記録があって、掘り出しても放射能は検出されなかった。
 もう5年まだ5年。この5年でコロナもあったし、中国のいやがらせもあった。それも間も無く終わる。次は戦争の予感がする。それとも豊洲不動産バブルか?来年の温浴施設で観光客混雑か?だれも予期せぬことがおこりそう。現役でないので不祥事でお詫び会見もしないで引退した。不祥事でジャ二ーズのタレントが謝罪会見するとは今年の6月まで誰も思っていなかっただろう。
 東京都のいつもの言い草で(都民の貴重な税金で中央卸売市場を運営し、安価な賃料であるので日本国民の信頼を得る仕事をするように)と年頭の市場長の定番の挨拶がある。この時は都民でなく国民となる。これが築地人の天狗意識の元となる。世界の常識は築地・豊洲を超えている。世界の常識の無知が豊洲移転の厚生官僚の危機感だった。温度管理は国際公約だった。このことに言及していたライタ―は見かけない。多くはノスタルジ-であるが魚河岸の不祥事の歴史は衛生の部分が目立つ。
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築地市場解体工事記録の本を読む

2023年10月04日 | 築地市場にて
中央区京橋図書館が移転して、本のもり中央となった。この地は水没の危険性ががない。前の中央区役所の地下と言う所よりましな位置となった。武蔵小杉の水没事件の時、川崎市と大学の図書館が水没した。後の検証で水没の危険があるところだった。
築地市場解体工事記録
[東京] [豊洲市場・銀鱗文庫]
[2022]
 都営浅草線宝町駅で降りて、歩く。図書館はJRと日比谷線八丁堀駅の隣にある。この地は戦後まで堀が多かった地域で、中央区の施設も堀の埋め立て地となる。
 図書館の二階に郷土資料室があって、いつものように築地市場の本棚に行く。今は豊洲へ移転後4年も経って、新規の本はあるのだろうかと眺めていて、あるのはコロナ以前の築地場外飲食店物しかないなと思っていたら、背表紙がしっかりしていた本があった。
 廃線マニアが喜びしそうな、築地市場解体物の本。読んでいると水産仲卸の大通りの通路の天井に穴が開いていて、人気のない時に舗装通路に水玉のような光の円がある。もうこの風景は忘れていた。いつもは仕事で天井の穴を気にすることはなかった。
 水産仲卸の店舗の下の石畳は水産部の人はピンコロ石と言っていたようだ。今は次の再開発まで埋まっている。著者が言うには2020東京オリンピック開催という名分で十分な地下調査をしないで壊した部分もある。当然だが何万もいると言われたネズミの住処の調査はない。次の解体は浜離宮との間に築地川上の仮設道路撤去だろう。この川と言う名前の付いている場は銀座ヨットクラブと言ういかがわしいこともあった。大型ヨットには十仁病院と言う美容整形の広告があった。ここが奇麗になると江戸の昔に戻る。後は江戸城再建は難しいが浜離宮の施設は木造で再建できるかもしれない。今はバリアフリーということで昔のままの再建は難しい。
 2024年の春に旧築地市場再開発の企業が決まる。築地場外市場はほっとするだろう。それにしても図書館の築地市場のコ-ナ-にある豊洲地下汚染本は寂しそうだ。今でも汚染水が出ているのに誰も気にしないで豊洲直送と言って魚を売っている。この騒動で無駄な金が数兆円消えた。当然このことで利益を得た人もいる。

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関東大震災時の新聞縮刷本を読みに

2023年06月06日 | 築地市場にて
今年は関東大震災100年と言うことで色々な行事や本が出ると思う。築地市場が出来た理由に関東大震災があって、豊洲移転時に何か違和感があって、もう一度中央区の図書館が新しくなったので調べてみようと思った。
 震災後の移転の遅れは良く板舟権の問題と言われていて、検索すると出て来る。でも実際の報道経過はどうなんだろうと疑問に思っていた。
 やはり大正のコメ騒動とシベリア出兵の影響があるように見える。

中央卸売市場法(大正12年3月30日法律第32号)

大正12年3月30日
中央卸売市場法案
第46回帝国議会
提出者
政府 
提出年月日
大正12年2月12日
成立年月日
大正12年3月19日
この法案が成立したのは関東大震災の半年前である。
最初に法案に沿った中央卸売市場が京都市で昭和2年12月11日,京都市場は全国注目の中で最初の中央卸売市場として誕生したのです。関東では横浜市が昭和6年2月に全国で3番目の中央卸売市場が開設された。
 ちなみに全国で2番目が高知中央卸売市場で昭和5年2月 、大阪市は昭和6年11月開設となっている。東京の中央卸売市場の開設が昭和10年2月11日になったのは板舟権の処理問題と種々の取引ル-ルの設定で東京市と魚市場業界の混乱からきていて、一時は東京市議会が汚職で議員出席定数が足りず、議会が解散されたこともあった。

 都立中央図書館で朝日新聞の大正12年の新聞縮刷版を読むが最初に関東大震災当日の新聞を見ると、9月1日朝刊では中央市場の候補地があって、築地と芝浦埋立地が候補となっていた様だ。夕刊から東京朝日新聞はない。その後の東京の状況は判らないが縮刷版の様子から大阪朝日新聞で9月12日の朝刊から東京朝日新聞となっている。さらに気が付くのだがこの9月の縮刷版は他の月より分厚い。その理由は多くの人が利用し、さらに紙質が悪く、焼きのりの様で触れると紙が割れる。そして補修となり分厚くなる。この時期はデジタル版で印刷するしかない。
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板船権の文献捜索

2023年05月26日 | 築地市場にて
天気の良い日に中央区の本の森図書館へいった。平日の午前ということで閑散。定期的に築地から豊洲へ行った時の文献とか本を探しているが変化はない。もう需要が消えたのだろうか。今年の暮はまた以前のように築地場外グルメ本が出るのだろうか。傾向としては食べ歩き用のくし刺し食品が増えて、さらにスマホの画像に見栄えの良いのが増えていると感じる。
 グ-グるの検索にAIが加わった。BARDというようだ。早速(板船権)を調べる。
板舟権(板船権)の始まりは江戸時代の日本橋魚河岸で認められた権利で今の感覚だと不動産の権利ような性格を持っていた。この権利の問題が関東大震災直後の治安維持の強権で魚河岸の路上販売が禁止されて、震災の復興時に魚河岸の移転で板船権が消えることを恐れ震災の翌年から騒動が続いていた。
   中央区の本のもり図書館郷土資料の所の魚河岸用語の本で今でも水産部仲卸の権利【鑑札】は板船権の名残という記述がある。AIのBARDは日本橋から築地に移転した時、この板船権は消滅したという記述となっている。玉虫色の東京市の解決法は築地市場の伝統の知恵の出し方の歴史でもある。
 豊洲市場の地下から汚染水が今でも出ているが食材に汚染物質が付き、人に影響があった話はまだ出ない。あの論拠を出した責任者はどう思っているのだろうか。これから福島の汚染水が海に出るが健康被害の証明が出来るのだろうか。

 豊洲地下の空洞工事が無くても地上の空気は汚染されていなかった。無駄工事は東京都の税金。ゼネコンの豊洲の三重取り。地下汚染除去工事、市場施設工事、地下の空洞工事。 
 今の状況から地下の汚染除去工事も不要だった気がする。その原因は物流の変化で、空気を遮断する発砲スチロ-ルの役目が大きい。
 
福島漁連に汚染水排出慰謝料を出して終わる気がする。やはり豊洲の魚関係者へ汚染水問題で丁寧な説明と文書配布が必要と考える。
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(東京都中央区図書館)郷土資料室で豊洲移転の本を読む 群盲巨象を評す

2022年12月24日 | 築地市場にて
2022年12月に東京都中央区区役所の地下というべき所に京橋図書館があって、区役所移転計画に伴って図書館が移転した。この郷土資料室は地下の地下にあって、京橋(銀座地区の商人)の記憶の霊安室と思いながら、司書さんに質問しつつ、本を出してもらっていた。たいがい無人で声を出して会話しても大丈夫だった。ただ閉架で気になる本に検索と会話では出ないもどかしさがあった。こんどの本の森ちゅうおうは郷土資料の大部分が開架で探しやすい。
 そこで時間が経ったので、都営浅草線宝町駅から歩いて十数分で着いた。前は慣れないのでもう少し時間がかかった。今回は一応2時間の滞在でテーマは築地移転問題のその後の検証ということで本を探した。
 結論から言うと、群盲巨象を評す状態だった。《多くの盲人が象をなでて、自分の手に触れた部分だけで象について意見を言う意から》凡人は大人物・大事業の一部しか理解できないというたとえ。
 多くのテレビの豊洲移転報道を見ていると、何かピントがずれていて、結局一部は正しいが移転反対派が考えた築地ブランドの棄損ということにはならなかった。移転費用の高騰をもたらしたのは移転懸念派の功績で、利益を上げたのは東京ガスとゼネコンだった。一回の工事であわよくば世界中に汚染土壌除去工事の実績宣伝となるはずだった。ところが3種類の汚染土壌クリ-ン化方法は失敗した。3種類の方法によって、工事区分がなされ、談合のようにゼネコンが落札した。さらに地下空間を騒いで、また工事ということでおいしかっただろう。移転の遅れで不要な工事の発生と費用が発生した。これらは築地移転 反対派の意見だけ重視し、共産党の失敗でもある。時代の流れで江戸時代の仕組みを続けようとする人たちの支援を誤った。結局移転を促進するおとりとして、東京オリンピック招致となり、2兆円近く東京都の資産が消えた。豊洲移転費用を加えると3兆は超えるだろう。その結果コロナでオリンピックはほぼ無観客で協賛した業者の広告効果がゼロ以下となってしまい、さらに談合疑惑もあって、今では誰も東京オリンピックの経済効果を語る人はいないと思われる。そんな宴の後の評論はまだ中央区の郷土資料室にないように思える。
 


徹底追及築地市場の豊洲移転   -崩された「食の安全・安心」-  
赤旗編集局著   日本共産党東京都議団監修

赤旗編集局の丹念な取材でいかに東京都が築地を移転させたい気持ちの変遷が良く見える。ただ取材先が築地市場の労働者の声が偏っていて、400億円捨てた築地の再開発工事の中断を分析せず、ただ業者間の工程折衝が困難ということで逃げている。
またTVのコメて―タ-がJRの工事のようにできるといっていたが、一斉移転しかできないことを誰も書かなかった。一部ずつの工事で再建するということは引っ越しが何回もあるということで、慣れた得意先が消えるということもある。それは水産仲卸の基盤の弱い業者は移転には賛成できないだろう。大手の仲卸は場外に拠点を設けていて、移転しようがしまいがどちらでもよかった気がする。
 結局今でも豊洲市場から汚染物質が出ているが都内の消費者が影響を受けた話が出ていない。それよりは移転間際のネズミ報道の方が驚いた。築地市場内で働いている人でネズミの大きさと多さは常識でそれを報道されて驚かれるとまた驚く。この件で赤旗編集局の扱いは少ない。ネズミ報道をすると移転促進すると思っているのだろうか。豊洲移転後に渋谷のネズミ報道があった。どうも渋谷のネズミは常識だったようだ。

 取材者の結論から出た取材加工報道で豊洲移転後に汚染があるのに市場経由の汚染食品は被害者はまだ見つからない。どうして豊洲市場で働く人の健康問題を問題を赤旗は報道目的にしなかったのだろうか。地下の汚染が出れば毎日10時間以上市場の空気を吸っている人の健康を害する方が先に発生すると赤旗編集局人は思わないのだろうか。
 今のコロナの初期は中国で武漢の市場が封鎖された。細菌汚染の方が市場の一番重要な問題である。そこに群盲巨象を評すという言葉を思い出す。一部は正しいが全体が正しいとならなかった。まだこの築地移転騒動の分析の本が出ていないようだ。 
 






















監修  
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老柴犬のため新聞再購読の決断

2022年12月09日 | 築地市場にて
7月に転居し、家計費節減ということで、新聞購読を止めた。同時にテレビも家が狭いのでこれも無くし、すでに5か月たった。ようやく転居した家の大きさが半分になり、毎日不用品を整理し、ようやくすっきりしてきた。転居によって、盲目となっている老柴犬が家の位置関係が理解できないようで、毎日のように粗相をする。一応粗相の前にしぐさで催促の合図(外で用を足したい)を見落とすと濡れていたり、排泄物の塊が落ちている。この対策としておしっこシ-トをホ―ムセンタ-で買った養生テ-プで、巨大なトイレを造るのだが、二回に一回ほどシ-ト外の所で用を足す。また寝るときに旋回して寝るのでおしっこシ-トが乱れ、シート外に粗相する。この対策として新聞紙を敷いたらということで新聞購読 を再開決断となった。ネットで来年1月からの購読を申し込んだら、すぐに電子版の新聞が読めるようになった。今時法人以外で新規新聞購読があるのだろうか。前に住んでいたところの新聞配達店はお宝屋という不用品買い取り業者の店に変わった。新聞購読が減ればチラシ広告も減り販売店経営の魅力も消える。

 築地の大谷図書館へ行くのに大回りして新橋駅から旧築地市場へ歩いてゆく。新大橋通りの築地浜離宮ビルの前の交差点名が旧青果門前となっている。18日からどう変わるのだろうか。築地市場の正門前から朝日新聞東京本社を見ると薄汚れて見える。その後ろにあの電通ビルが見える。築地場外市場周辺は工事だらけで、多分宿泊施設だろう。銀座で買い物で築地で食事。

 ちょとコロナ前の店舗がどうなったか記憶が戻せない。 何年後に築地に立っているホテル街の名称がxxx東銀座インとなっている気がする。もちろん朝食は築地場外市場で、さらに24時間営業のすし屋もある。これならホテルの中に食堂はいらない。あの巨大な旧築地市場がドンドン更地になってゆき、古いものが消えて、朝日新聞の後ろに夕日が沈む。
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旧築地市場水産部の案内地図と田園調布の地図が似ている

2022年11月17日 | 築地市場にて
大田区田園調布の住宅地図が旧築地市場水産部の店舗位置地図と似ていて、田園調布の駅から阿弥陀様の後光のような放射状の道が多摩川に向けて通っている。2019年台風19号 の武蔵小杉の大水害時に田園調布付近も水没し、どのような復旧の様子となったかその年の11月くらいに見に行った記憶がある。水没地区の古家は上げ底で最近建てた家は平らで被害のような筋が見えた。
阿弥陀くじ歩き
二点間の最短距離は直線で普通に歩くことで最短距離を選択する。しかし通勤時は歩行者同士の衝突を避けるため階段前などを分離している。
 今は体力維持のために歩いているので目的地まで行くのはボケ防止とか感覚維持(方向の)同じ道を行き帰りに選択するのを避けている。歩数確保と急いで家に帰る理由がない時はバス等の込み具合で感染を恐れ歩く。ワザワザの丘超えの選択もある。タダ雨天の時は一択で用が終わればすぐに帰る。
 歩道と車道が分離していない道は考えながら下向いて歩いているので、車の量の少ない道を選択する。転居して間も無く半年となるが地域の空間位置が判ってきた。考えながら歩いているので時々信号に気が付かない時もある。
阿弥陀(あみだ)の背後に描かれている後光のように放射線状に線を引き、その線の端に金額を書き、それを隠してくじを引いたことから阿弥陀くじという言葉の由来だが今は垂直に線を当たりの数だけ引き横棒を適当に引いてくじを造る。

 旧築地市場水産部は貨車の引き込み線プラットフォームが湾曲していて、さらに買い出し人の荷物預かり所との位置関係で碁盤の目のような通路で無かった。放射状の通路を後光のような通路がくし刺ししていた。買い出し人はどの様な歩き方をしていたか書いている築地本は無かった記憶がある。店舗移動で位置が変わると繁盛店も落ち込むこともある。豊洲移転の直前の十年以上は店舗移動と再建の経費が掛かるため店舗移動決議は無かった。築地市場の現地再建でも豊洲移転でも経費は掛かる。それなのに築地と豊洲を生かすという小池知事の口車に簡単に移転反対派が乗ってしまうとは今でも驚く。とても今でも豊洲から築地に戻ることなない。あってももっと湾岸道路の向こう側だろう。
 次の豊洲市場の問題は千住市場の吸収問題と予想する。魚商が減り、千住市場の整備問題から再編成の問題が生じる。跡地は多分どこかの量販店の物流センタ-だろう。

 リニアの新幹線の開通が遅れているが完成した時には品川駅の隣という感覚距離の芝浦食肉市場の移転問題が表面化するだろう。その時に豊洲市場周辺に移動させるか、さらに遠い埋立地になるかは揉めるはず。日本の近未来を表示するリニアの駅の隣で生きた牛が殺され肉となる市場の存在を許すとは思えない。明治の欧化政策時に当時の繁華街の銀座の隣に日本橋の魚河岸があって、不衛生とかで移転話が出ていた。明治10年代からである。
 大都市の市場の移転は大きな問題を引き起こす。コロナの最初の発生地の疑いは中国武漢の市場だった。これもまだわからないし証拠も薄い。


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築地市場から隣の朝日新聞を見上げていたが

2022年11月08日 | 築地市場にて
東京都中央区築地5-2-1は旧築地市場で、隣というか数寄屋橋から昭和55年(1980)引っ越してきた朝日新聞東京本社(築地5-3-2)を見上げていた。

朝日新聞政治部 鮫島 浩著 2022年
 今この本を読んでいたが、道一つ離れていたところの騒動が別世界であることを知ったと同時に隣でありながら築地市場の移転問題がどうして本質が判っていない理由がおぼろげに気が付いた。この朝日新聞政治部という本は日本の停滞している状況下で過去の新聞読者数は人口低迷という現実から長期低迷という予測を知りつつ日本の狭い世界で朝日新聞は社内の出世競争の中で動いていた。今から思うと記事を取ったり取られたりしても世界は関係なく進み、さらに新聞発行部数の水増しで、広告主をだましていることも今では明白になっている。まだ新聞が個別配達になっている都市部から郊外の所は値上げで部数が急に減る。NHKもテレビ離れの危機感があるがまだ過去の成功の余韻に浸っていてスマホ世代は高給取りの上から目線の貧困報道に欺瞞の感覚を持っている。
 情報の偏りの怖さをウクライナで知った。どうやらロシアは侵攻すればウクライナの政権支持率低迷からあっという間に制圧すると思っていたようだ。これは過去のクリミア侵攻の成功体験から来ていて、ロシアの政権支持率はロシア国民の忖度の数字で誰も疑問を持っていないことの証明となる。統計の数字の加工は慣れると数字の一人歩きとなって、そこから出た数字を基準に物事が進む。先の戦争で大本営発表の戦果が過大で、減らない米軍戦力で無駄な戦死を多数出し、さらに原爆投下まで行ってしまった。
 情報の偏りが新聞の発行部数の維持のよりどころとなっていた報道合戦は自己満足で今では幻想であることを知った。自分でも中国の百度を自動翻訳で見ていて、日本の記事と異なる観点で見ている。西側報道の都合の悪い部分が何かというのが中国報道でそれとなく知れる。韓国のハロ-ウインの事故も中国の報道は抑え気味だがどうやら中国でも圧死した事故は頻発しているようだ(多すぎて報道管制しているようだ)。楽しみの少ない国では娯楽に出る人も多いし、さらに列を並ぶ習慣がない中国で上海空港で出国審査前の行列で驚いた。割り込みが酷く、急いでいても飛行機が出ないのを知らないのだろうかと思った。
  
 築地市場の記事で朝日新聞報道に驚いたのが毎年1月5日のマグロの初セリで異常な高価格で競り落とされた時、朝日新聞だけが報道しない年があった。無視したように思える。5日はまだ始業したばかりだし、1月5日の夕刊には洩れてはいけないと思うのだが。社内ではいろいろあるんだなという思いがこの本を読んで残った。
 二回目の東京オリンピック招致のカギは築地市場の移転でこの分析が無いと何のための東京オリンピックとなるのが後世に問われるだろう。まだ誰も書いていないし、行政の方から一冊出ているが、紛糾した水産関係の人の記録が見えない。水産仲卸という制度が朝日新聞と同様に衰退していた。需要が減っている時、対処の仕方は大変だ。まして頭の良い人たちを退職させるのは先行きを暗示させねばならない。築地市場のリストラは簡単で優秀な人は引き抜かれる。だから酒が入ると危険だ。(得意先も消える)
 築地のことを深く知らない人に説明する時、わかりやすく例え話をする。
 銀座のバ-のホステスが顧客をもって、独立するのでなく他の店に引き抜かれる行為と似ている。店の主人としては敵対行為と見るだろう。しかしホステスは生活があるので給与が下がれば良い条件の方に移る。従って築地市場の移転問題は一斉の移動しかなかった。400億円捨てた工事が中断したのは部分的工事が完成し、次の工事の工程問題でとん挫した。工事現場と分離したところに店舗が移れば売り上げが減り、盛況となった店舗に顧客を連れて、場内転職となる。築地市場の盛況時に店舗移動があった。本当に店舗の位置で何年間も売り上げ不振となっている水産仲卸の事例を聞く。青果は店舗移動はなかった。
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築地市場でのネズミ駆除の経験が

2022年07月25日 | 築地市場にて
長い間空き家だった一時転居先で、隣地との通路に小豆のようなフンが落ちていた。これは築地で駆除していたネズミと同じと考え、さっそくホ―ムセンタ-でシート式のネズミ捕りを購入し、晴天時の夕方に仕掛けてほぼ一日おきに3匹ほど逮捕した。自分の経験ではあと数匹いると想定していて、もう少し仕掛ければ地域から逃げると思われる。良く例えで沈没する船から最初に逃げるのはネズミという。干支のネズミが最初なのはこの例えから来ているかもしれない。干支の話では足の遅い牛の背中に乗って飛び降り一位となったという。
 築地では市場の衛生情報でネズミのフン害から「サルモネラ症」等の 病気が発生していることを知っていたが移転反対派は黙殺していた。豊洲移転寸前にシート式のネズミ捕獲で数匹捕まえ、危険地区と知らせ他の地域に出没した様だ。あの大きな築地市場の夕方をウロウロしていたネズミはどこに消えたのだろうか。この駆除の経験が今役に立っている。
 築地の経験からシ-トは3から4枚連続で仕掛け、ネズミのジャンプしても捕まるようにしていた。後は足跡を見つけ仕掛ける。多分今は油断しているので捕まるが間も無くどこかに移動すると予想する。
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エアコンの記憶 昭和60年頃の築地市場内で

2022年06月26日 | 築地市場にて
暑さは今は学校でもエアコンが入って夏でも苦ではないところも増えている。昔と言っても昭和の終わりの築地市場の卸売り場には温度調節のエアコンが入っていなかった。当然のように夏は売れ残ったスイカが腐ってゴミ置き場に積まれていた。平成元年5月6日 大田市場青果部が開場すると、大田青果卸売場はエアコンが入っていて、産地で冷蔵した気温で青果売場に届き、そのまま冷えた状態で量販店に前取りで販売され、店舗に並んだ。ところが築地は狭く、さらに温度管理できないので急速に青果部の売り上げが落ちた。理由は簡単で市場内の物流が整備され、荷物の時間が読めることと、大田市場の青果物の日持ちが冷えていて築地市場より長い。豊洲移転騒動の時、青果部が移転に仲卸を含めすべてが豊洲移転に団結していたのは温度管理が出来なければ天下の築地の気風が江戸時代の名残となってしまうという共通の想いがあった。
 エアコンが築地市場に普及しなかった原因は移転または再開発の問題があって、電力の増設の見込みが立たず、先送りされていた。冷蔵庫用の電力に余裕が出来たのが大田市場が開業してからと思う。さらに事務所にエアコンを入れようとして陳情した時もあった。200Vの電力はなかなか確保できず、ガソリンタ―レ-の普及が遅れたのも充電設備と場所の確保が難しかった。電動タ―レ-が普及すると、築地市場内を爆走するガソリンタレ-が減り、静かになった。そしてガソリンタ―レ-が東京都の規制で新規購入は補助金が出て普及していった。それでも初期の電動タ―レ-は漬物のような重いものには一日の走行に無理と思い豊洲移転の3年ほど前にガソリンタ―レ-の部品が無くなり、仕方なく電動タ―レ-に替えた。電動タ―レ-が普及するとガソリンスタンドが1軒廃業した。地下の石油貯蔵タンクの改修が出来ないとか書いてあった。
電動車の進歩はすごく、一日の走行に耐えるようになった。それでも1回電池切れがあって、押して戻ったこともあったようだ。豊洲では市場内走行のみなので問題はない。築地では早朝には銀座方面で動いていたのを見かけた。もう築地移転して風景が変わったが、市場前の歩道に杭が置いてあったのは、車道を避け歩道走行するタ―レ-を阻止するためだった。歩く人がほとんどいないのに朝日新聞前の歩道の幅が広いのは昭和の名残で買い出し人の車が歩道に縦列駐車していた。大田市場開業後に築地の混雑が減ると東京都は姑息な手を使い、市場外の駐車空間を減らす策を出した。歩道に植木を植え、緑化した。最初は柳だった。銀座の柳で、今は少なくなった。さらに杭とフェンスで歩道を守った。築地市場の最後の新大橋通りは普通の駐車風景となった。長い間築地にいたので知っている人もこれから減るだろう。まだ豊洲へ移転して3年ほどなのにコロナで10年も前の話のように思える。
 
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賃貸住宅の付帯する火災保険

2022年06月04日 | 築地市場にて
今度の仮住まいとなる木造の古い家には、借家火災保険を付けるという条件が付いている。その条件のことで不動産の契約担当者から説明があって、補償内容が物足りないので、家財の保険を増額してもらった。過去の火災保険の経験で、火事だけでない損害があることを知っていた。
 築地に勤めていた時、一時的に都内に倉庫を借りることがあった。東京都に申請を出し、許可をもらった。そんな半年から一年程度借りる予定の倉庫でも火災が出れば重大な経営問題になるので火災保険をかけた。損害保険料は5000円程度だった。半年ほど経って、電車が豪雨で止まるくらいの梅雨末期の雷雨があった。その雷雨で業務用冷蔵庫が落雷で破損した。そこで保険会社に連絡し、被害の状況の写真を撮ってもらい修理をした。あとで無事に数万円の保険金を給付された。会社では一時的な倉庫で損害保険をかけると最初は馬鹿にされたがあとでは(保険金予知者)と思われたようだ。保険は事故の予想で、事故が起きた時どのような仕事上の不都合を考えるべきだろう。多くの火災保険料は無駄な掛け捨てと思うが、苦しい時にケチるといざ事故が起きると悲惨な目に合う。今まで運のよい人生とは思えないが保険金ではずいぶん助かった。
 不動産会社の担当者が言うには契約者が保険を増額した例が無い様だった。でも支払うのだから十分吟味しないといけないし、二年間の火災保険であっても一日の保険料の増額は10円にも足りない金額で安心を買える。心に余裕があれば顔は穏やかになる。
 豊洲へ移転する時、東京都から倉庫の申請があって、廃止の申請がないと指摘され、終了届を出した。これは苦い思い出である。多くの役所の仕事は丁寧であって、クレ-ム報道だけが目立っているが世間が平穏なのは第一線の公務員の功績と思っている。タダいつも公務員が暇そうに見えるのが不憫である。築地の食事故は報道されると日本中の食を不安にさせる。先輩が天下の築地と言っていたことを思い出す。衣食足りて礼節を知る。
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