年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

雪月花三枚続

2011年10月31日 | 築地市場にて
江戸で生まれた浄瑠璃・清元の番組をみていたら築地河岸と言う言葉があった。東おどりでよく上演されているそうだ。清元のことは殆んど無知に近い知識しかないが五代目菊五郎とか富貴楼のお倉、三井物産横浜支店で馬越恭平の下で働いていた人と関係があるとかの知識しかない。
 下谷根岸の笹の雪という豆腐料理店で榎本武揚と清元のお葉が宴会をした時、地元の芸者を呼んで大騒ぎしたという記録を台東区の図書館で読んでいたこともあった。福神漬の史料はどこから出るかわからないので幅広く調べているのでなかなか進まない。今築地市場周辺で清元を習っている人、特に男の人はどのくらいいるのだろうか。今の魚河岸の人はその様な余裕があるとは思えない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

幕末外国関係文書

2011年10月30日 | 福神漬
大日本古文書 幕末外国関係文書之1東京大学史料編纂所編纂
黒船来航時の史料。
第8号
6月3日 浦賀奉行戸田伊豆守氏栄 書簡
美濃国大垣城主戸田釆女正氏正家来小原二兵衛忠寛へ
異国船渡来の件
○ この文書は私信なれども浦賀当局者の書簡にして、かつ第37号の文書に関係あるのを以ってこれに収む。
異国船4艘蒸気仕掛けにて、只今持ち場に乗り込み候。この段早々御注進申し上げ候。この一件すべからくご助力願い賜り候。急ぎ短文の不備をお許しください。
嘉永6年6月3日 未の中刻
                    伊豆守
二兵衛様(小原鉄心)

第37号
6月4日美濃国大垣城主戸田釆女正氏正 伺い 老中へ
浦賀表へ援兵差し出しの件
私末家戸田定之助分地戸田伊豆守儀、浦賀奉行仰せ付かり候の所、当時彼の地に出張し在任していた所、この度異国船渡来と申し越し御座候 中略
先年、御届け申し上げていた人数のうち鉄砲頭一騎、大目付一騎その他付属の者の
ため援兵を派遣させたくお伺いいたします。
 嘉永6年6月4日 戸田釆女正
牧野備前守より差支えなしと許可が下りた。

この文書のやり取りを見ていると、異国船来航に関して、浦賀では警備の打ち合わせなど、前年にある程度準備していたようである。しかし予測以上の規模の軍備を備えている蒸気船で国書を受け取る様になったようである。
大垣戸田家と戸田氏栄の家族とのこの後も交流があったと思われる。明治自由民権家戸田欽堂は戸田釆女正と側室(高島 嘉右衛門の姉)の子として生まれた。元南町奉行与力原胤昭と戸田欽堂は築地でキリスト教信者となった。福島事件被告人花香恭次郎は戸田氏栄の5男で花香の浮世絵を神田須田町で配布し投獄された原胤昭とこのような縁でつながっている。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

蛮社の獄のすべて 田中弘之著

2011年10月29日 | 福神漬
この本を読んで、やはり「蛮社の獄」のことが世間に知られたのが明治17年に出版された藤田茂吉「文明東漸史」からだということが解った。藤田の本を読み松林伯円が講談で「高野長英渡辺華山開化廼魁(かいかのさきがけ)」講演し、歌舞伎ヘも影響を与えた。
福神漬の創製時期が明治16年から18年末の間と推測しているので、團團珍聞関係者も藤田の本のことも知っていたと思われる。
 この本は後で購入する。
新聞の書評欄で評判の本で幕末史の基本的知識が変更されるに違いない。教科書の中に残る薩長政権の歴史観が一部否定されている。福神漬の史実を追うと結構矛盾した事柄が見つかるがこの本によってある程度修正ができる。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尊敬する人の変遷

2011年10月28日 | 福神漬
今の時代で面接などの応答で尊敬する人は親と答える人が多いようだが今から100年ほど前の大正年間に尊敬する人物に河村瑞賢と言う人物がいた。今では大阪か伊勢の付近の人しか知らないと思われる。この河村瑞賢がどの様な理由か福神漬の元祖と言うメーカーがある。江戸時代の日本海運網を整備した人物がどうして福神漬元祖となったのだろうか。今のところしっかりした文献は見当たらない。
 明治時代、福島県二本松出身の高橋太華と言う人が少年向けに明治25年「河村瑞賢」の伝記を書いた。高橋太華は明治22年に「少年園」と言う雑誌を発行した。この雑誌は日本で初めての少年向けの雑誌と言うべきものでの大正・昭和の青少年に多大な影響を与えた。また高橋太華は下谷根岸に集まった文化人グループに所属していて、酒を飲みながら「福神漬」を食べていたと思われる。また石井研堂とは郷里も同じ友人であった。

 参考
河村瑞賢と福神漬 

江戸時代初期の豪商・河村瑞賢は13歳の時伊勢から江戸に向かい、車力(一般には荷車または手車とも呼ばれる)から身を起こして近世実業家になり、数々の創意工夫により江戸時代の物流の中心となった海運を安全・確実な運搬方法に変えてゆき、産地・消費地の物価を変えたといわれました。彼の人生を変えた漬物は福神漬の元祖とも言われています。
 河村瑞賢は江戸で20歳頃までは仕事も上手くいかず、あきらめて上方(京都)に向かったが、小田原宿で老僧にたしなめられて再び江戸に戻る途中、品川付近の海岸でお盆の精霊送りの瓜や茄子が多数漂流しているのを発見するのです。そして、この海に浮かんでいる瓜や茄子を海岸で遊んでいた子供に拾い集めさせ、塩漬けにしたところ、この漬物が評判となり、莫大な利益をあげたということです。ある言い伝えでは、偶然にも品川の海岸で、誰にも拾われない瓜や茄子を、瑞賢は、これは福の神の仕業によるものと考え、「福神漬」と名付けられたという俗伝があります。
 お盆は精霊棚、棚飾りともいわれ一般的な飾りには、野菜のきゅうりで馬、なすで牛を模して作られます。これは、お盆に、我が家にご先祖さまも里帰りいただけるようにと、馬で早くお迎えし、お帰りはゆっくり牛にゆられて、と言い伝えられています。終わった後、野菜の牛馬は川に流します。
 河村瑞賢は作った漬物を江戸の町を建設している労働者に販売しました。明治の中頃まで都市でも漬物は購入する食品でなく、ほとんど全部といってよいくらい自家製で文献には贈答とか神社仏閣の門前で販売していたことしか記述されていません。つまり、漬物を販売することはとても難しいので誰も売っていなかったのです。彼は江戸市街の建設労働者にどの様にして販売したのでしょうか文献には出ていません。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

朝鮮長屋

2011年10月27日 | キムチ
予定変更で
築地市場の休市日は平日しか調べられない所の調査となるが予定変更で築地の大谷図書館となる。ここは松竹のビル内にあって演劇関係の史料がある。今回は明治16年から18年頃の演劇界の様子を歌舞伎新報と言う情報誌で社会経済と歌舞伎へ影響があったのかを調べる。この時期は松方デフレの時期で不景気のはずだが文面から影響はなかったように思える。少し後の300号では13000部強発行していたという。
 歌舞伎新報・明治15年11月25日第271号に「開花嫌い」と言う言葉と「朝鮮長屋」と言う言葉があった。前後の文章を読むと江戸時代を懐かしむ人の戸惑いがあって風刺されていたようである。明治15年になっても『ちょん髷』を結っている人を悪戯する場面がある。今では歌舞伎は時代劇となるが明治15年当時は現代劇である。
 朝鮮長屋と言う言葉があって、芝居にも出てくる言葉でどの様な使い方をしているのだろうと調べると浅草近辺にあった非合法の岡場所であったようだ。朝鮮通信使の下級官吏が江戸で住んだ仮住居を移築した所の売春宿らしい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

TPP

2011年10月26日 | 築地市場にて
農産物の関税
漬物のような食品も一昔前は海外で塩漬け原料とし日本に輸入していた。ところが日本の政治家や役所・マスコミ・消費者等が不当な原料原産地表示と言うことで騒いだ。最初の加工食品の原料原産地表示は全面的に始まったのは漬物が日本で最初である。他の品目は一部のものしか表示義務が無かった気がする。漬物産地が中国と表記されても消費者の抵抗が消えると安さで中国産の漬物が増えた。この結果漬物関係者の労働人口がかなり減って、以前は5500億円の売り上げが今では3000億円台になったという。
 日本でも韓国でも政治家が漬物に関して、農家を保護しようとする政策をとりがちである。しかし変化の激しい漬物業が政治家の思惑を超える。韓国の政治家やマスコミが韓国農民を保護しようとして中国キムチを不当に攻撃した。しかし、そのとばっちりが日本に輸出している韓国メーカーを直撃し、今でも以前の数字に戻らず、日本の白菜を使用しているキムチが日本で売れている。また韓国芸能人が日本で「キムチ」と日本語風に発音すると批判されているが日本人に伝わらない言葉を発しても日本語で表記しようがない。韓国のキムチも日本で販売するには「キムチ」と表記しなければ表示違反となる。
 農産物は加工する地場産業を保護しなければいづれ世界価格によって消えてゆく。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

防災訓練

2011年10月25日 | 築地市場にて
年に一度の防災訓練が蓋架け駐車場で行われる。休市前のあわただしい築地市場に車両の移転要請の放送がうるさい。震災後の防災訓練でどの様な目新しい行事が加わるのだろうか。後3回で築地での訓練は終わるのだろうか。震災で傷ついた建物は次の震災に耐えられる強度があるのだろうか。
今日は暑かった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ラップ

2011年10月24日 | 築地市場にて
いつからか不明だが築地市場にやってくる荷物がパレットという板にのって運ばれるようになった。そして荷物が崩れないようにサランラップによって荷物がまかれて築地で荷卸されている。最新のトラックは床が動く歩道のようになっていて荷降ろしが楽になっている。今ゴミの分別が築地市場で行われていて生ゴミ、金属、プラスティック、発泡スチロール、PBバンド(荷物を縛っているプラスティックの紐)等に分別し、それぞれのゴミ置き場に搬入することとなっている。もちろん有料の袋に入れて出すこととなっている。
 ラップと発泡、PPバンドは再加工されて植木鉢等になって市場に戻ってくる特に発泡は多く山のように築地にたまる。
 ゴミの中身も量も年々変化して、気がついたときはいつから変化したか気づかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

都の職員が張り切っているので

2011年10月23日 | 築地市場にて
最近東京都築地市場の新市場建設の担当の職員が張り切っているので、中で働いている人達から本当に予定の年度で移転するかもしれないと思いつつある。震災後の不況と電力15%」節約との対応とか少し前と異なる社会情勢と日々対応するだけで手一杯の中で、震災も関係なく、かえって豊洲の汚染除去は放射能の汚染除去より範囲もせまく簡単に終わりそうに思える。築地市場に降り注いだセシウムだってあるはずで営業しながらの汚染除去工事などは考える事は出来ない。豊洲は数センチ削るだけで何とかなりそうである。それだけに都の職員の元気さが目立つ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

リストラ保険

2011年10月22日 | 築地市場にて
暇な午後、職場に生命保険の外交員がやってきた。前任者との引継ぎということだが前任者は在職しているという。事情を聞くとどうも築地に近い東京電力が主な顧客という。ここは今日本の職場で一番厳しいところかもしれない。被災者の気持ちと電力安定供給を確保しつつ、給与が下がり、リストラがあるという。最近は情報漏洩を防ぐ事などからなかなか職場に入ることができないという。世間の情報を収集するので忙しい時間を外せば構わないと伝えるとびっくりしていた。リストラ保険があったらよいのだが。
 ギリシャ危機をみていると、日本の財政健全化を先送りしていると最後に公務員や高齢者が厳しくなるのが必死と思われる。能力のあるギリシャ人がオーストラリア等に移民することが始まっているという。日本でも厳しくなると金持ちや世界で通用する人が逃げるだろう。日本に残るのは弱者、高齢者、病人、公務員となるに違いない。離島などの現状を見ると、老人と警察官、教員等の公務員しかいない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

旬の里ふくい

2011年10月21日 | 築地市場にて
福井県が誇る伝統食文化
定期的に送られてくる冊子に「へしこむ」と言う言葉があった。重石をかけて漬けこむことを『圧し込む(へし込む)』と言ったことからその名が付いたという。福井若狭の伝統食品「へしこ」は秋から冬の新米の糠が出回る頃から漬けこむという。糠が昔からあるのに江戸時代から記録があるのはコメが増産され糠が余ってきた事と圧しに耐える容器(樽)の発達が江戸時代になって揃った事が考えられる。

 江戸時代は日本独自の食文化が完成した時代だった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

べッたら市は雨が付きもの

2011年10月20日 | べったら市
今朝築地市場に雨が降った。やはりべッたら市(10月19・20日)は雨の降る確率の高い日である事を証明した。この雨のため、大根1本の値段が昔から高い。他の市に転用の利かない浅漬け(江戸っ子は浅漬けと呼ぶ。江戸っ子以外はべッたら市と言う)は雨が降ると売れ残りが出るので価格を高く設定してある。
 今では浅漬けと言っても江戸っ子の存在が貴重になった今誰も由来は知らず、白菜の漬物と言うかもしれない。白菜は明治末期に日本で栽培が出来た野菜である。

蛇足だが大阪から朝日新聞が東京にやってきて、べッたら市と記事にした。それ以前の東京の新聞は浅漬けの市とかべったり市とかと書いていた。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

べったら市2011/10/19

2011年10月19日 | べったら市
10月の雨の特異日だがどうやら今年のべッたら市の天気は良さそうである。日本橋界隈のサラリーマンがホームレスの仲間になる日。路上でダンボール等の敷物に座って酒を飲む日。不景気の格差社会で憂さを路上ではきだす日。
 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地警察の講習会

2011年10月18日 | 築地市場にて
10月17日築地市場内の東京都講堂にて築地警察の講習会があった。先年築地市場で働いているひとが薬物使用で逮捕されてからこの手の講習会が始まった。以前の講習会はだいたい交通安全だけだった気がする。
 観光地化した築地市場は以前と違って犯罪を犯しても,新聞紙などに報道されることもなく消えていった。しかし今は興味本位報道によってあたかも全員が同じようなことをしていると思われる記事となっている書かれている気がする。
 3月11日以後、被災地に警察官が多数派遣され犯罪が多発することが予想されたが実際は20%ほど犯罪の件数が減ったという。しかし青少年の万引きだけが増えているという。築地警察の講演者によると万引きは小額でも警察に報告すべしということだった。見つかれば金を払えば良いと考えている少年が増えてきて、万引きから本格的な犯罪者になっているという。昨日も東京駅で万引きを咎めた人を斬りつけた事件があった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

切腹・一命

2011年10月17日 | 福神漬
血塗られた慈悲、笞打つ帝国。-江戸から明治へ、刑罰はいかに権力を変えたのか?
ダニエル・V.ボツマン著から
中央区石川島監獄署のことを調べてゆくうちにこの本と出会った。江戸時代の日本の刑罰事情は西洋各国に残酷な刑罰だと伝わっていて、鎖国をとっていた日本に入国した時残酷な刑罰を受けると報道されていたようである。文明国と自認していた米国は武力によって威嚇し西洋文明国の基準を日本に押し付けた。明治という時代はこの不平等の条約を改正するための歴史でもあった。裁判権と共に犯罪の捜査手段であった拷問、劣悪な衛生状態であった監獄制度が条約改正に関して問題となっていた。
 福神漬の周囲にいた人達も明治政府の様々な活動に影響されていたこと。今「一命」という切腹を問題とした映画がある。この切腹と言う処罰が西洋に野蛮な刑罰と伝わり条約改正が困難だったとこの本には書かれている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする