年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

脚気(江戸患い)と精米技術

2006年03月08日 | タクワン
江戸時代の都市における脚気(ビタミンB1の欠乏)の拡大は、精米法の技術的進歩にともなう白米食の普及を原因としたものであった。白米は、玄米の(余計な部分=糠)を取り去ってきれいにしたもの(精米したもの)であるが、その精米過程で玄米の胚芽などの部分に含まれるビタミンB1も取り除かれてしまったのである。しかし、糠には白米に無い栄養素を豊富に含んでいたのである。
 江戸時代中期あたりまではどこでも足踏精米をしていましたが、兵庫県の酒造業者は六甲山系から多くの川が流れているので、この川の流れを利用して水車精米を始めました。足踏みだとせいぜい8分搗(づ)き(精米率92%)でしたが、水車精米だと2割5分(精米率75%)から3割5分(精米率65%)搗(つ)けるようになったので酒質が一段とよくなりました。江戸では玉川上水の流れを利用して精米が発達しました。

 江戸時代において、白米はちょっとした贅沢品で、日常的に食べていたのは将軍や武士や、江戸・大阪など都会の一部の人間だけだった。そのため脚気は「江戸患い」とも呼ばれたのである。精米技術の未発達=未普及ということで脚気が日本全国に広まらなかった一因でもあった。
 ところが、明治時代になり精米法の技術的改良の結果として白米が安くなり、庶民の米食も白米になったために脚気が日本全国に蔓延した。とりわけ寮生や軍隊の兵士らは白米食中心の食生活を取ったために罹患率が高くなった。

練馬の沢庵伝説として徳川綱吉が、時々脚気症を患ひ、医療効を奏せず、占い師に占ってもらったところ、城の西北に方り、馬の字を附する地を選び、転養するに若かずと。依て地を下練馬村に卜して、殿舎を建て、療養せしに、脚気症が癒え、大根の種子を尾張に求め、試みに練馬の地に栽培させた。結果良好にして、量三貫匁、長さ四尺余の大根を得た。病癒えて帰城すると、練馬大根を献上させた。以来練馬大根が幕府御用の大根となったといわれる。

沢庵漬は糠を利用した大根の漬物なので多少は脚気の病に役に立った食品であったかもしれない。
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