年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

だんだん解かってきた来た福神漬の謎

2019年09月30日 | 宅老のグチ

福神漬は単なる漬物の一種にすぎず、さらに創製年代も明治の18年から19年と解かっていても、文献が漬物に関して文献が多く調べる魅力がある。

 戸田伊豆守氏栄は昌平坂学問所で江戸幕府の史書を編纂していた。しかし編纂の業績を戸田にとられ、史書の編纂が終わって失業した中里新十郎仲舒によって暗殺されかかった。中里によって殺害されたのは父の氏共だった。父の氏共は長崎奉行の在任中に死去した戸田出雲守氏猛の娘と結婚し養子となった。ここでやっと戸田家の子孫の言い伝えの重みが理解できた。10年以上前、戸田家の親族の子孫にブログをパクられた。このようなマイナ-な人物は日本史の幕末関係の研究者でほとんど理解されていなかった。最近ようやくネット上で経歴が記載されているがまだ不十分である気がする。

 さてパクられたブログの書き手の中をのぞくと、親族の会話で大坂町奉行在任中に死去した戸田伊豆守氏栄は毒殺等によって死去したと信じているようだ。この件は歴史学者では病死となっている。死去した時期の大坂町奉行の仕事がどうしよもない仕事があったようだ。どちらかというと積極開国の戸田と攘夷と鎖国を維持しようとする京都との間で板挟みとなっていた気がする。明治になって戸田氏栄の子孫たちは没落したが長井家だけが何とか記録に残った。

 大日本維新史史料 井伊家史料七 昭和46年刊行

 井伊家による戸田伊豆守氏栄の評価。

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天保の印旛沼開削工事で3

2019年09月29日 | 福神漬

江戸文化 昭和5年8月発行 大田区立馬込図書館 貴重書

清親画伯の自画像 原胤昭文

おにさくま かねをとらぬが とりゐかな (南町奉行鳥居甲斐守のこと)

 天保時代の狂句

おにさくまはは私の実父佐久間健三郎で鬼とあだ名されましたのはことごとく緻密厳格な気質で、江戸町方与力吟味役として当時すこぶる名を博した人でした。南町奉行所の広い敷地内から、白洲で審理の時の大声が奉行所の外まで聞こえ、江戸市民が恐れ、鬼と言われた。天保の改革の急先鋒に立った南町奉行鳥居甲斐守の首力幕僚だった。(鳥居が失脚すると佐久間は謹慎となった)

 戸田欽堂・戸川残花などの名前が出る。

 今のテレビの時代劇物は費用の掛かる割に視聴率の取れない番組が消える。時代考証のいるものは嫌われるようだ。それでも鎖国ということで異国の情勢を気にせず、スト-リ-を進めることができる。陸続きの国ではそのようなことは無理だろう。それでも天保からは異国の情勢対応で政策が動いた。ただ旧習に馴染んだ人たちがしらなかった。危機感のある人とない人と天災が幕末の情勢を複雑にしている。

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10歳までに読ませたい日本の名作

2019年09月28日 | 福神漬

図書館検索で南総里見八犬伝を検索していたら、10歳までに読ませたい日本の名作に入っていた。漬物の福神漬の命名の話などを調べていると、水滸伝と八犬伝が気になる。明治初期の庶民の共通知識に八犬伝が入っていると思う。馬琴はこれで生活の糧を得ることになった人である。馬琴以前は、職業としての小説家は無く、武士の片手間仕事であった。従って武士の仕事を上回る制限があった。

 日本文学とは受験以外で知ることはなく、福神漬の史料でも出てくることもなく、知ることは無いと思っていたが鶯亭金升の愛読書が八犬伝でほとんど長編小説を暗記していると知り、明治の文化人の基礎教養かもしれないと思い読み始めたが、何せ時代背景がわからず、現代風にわかりやすくした本で少し知る。

 剪刀という言葉があった。前は武具などに入れている箱に書いてあるという。これはせんとうと読む。今のハサミのことで金属の刃が前に進むことを意味する。八犬伝で偶然持っていたハサミで前に進むことを決断したという。なお鋏という漢字があるがこれもハサミと読む。「なた豆」は剣・刃物に例えられている例が多い。

 

 

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千葉県停電情報の最後の富山(とみやま

2019年09月27日 | 宅老のグチ

先の台風15号で千葉県の東の地域が停電となった。最後の800世帯の停電情報を見ていたら、南房総市富山地域だった。何か気になる地名だなと思っていたら、最近読んでいる曲亭馬琴の南総里見八犬伝の始まりともいえる伏姫が籠った洞窟があるところだった。馬琴の小説でも奥深い山と書いてあったが台風の後の復旧状況から、千葉は高い山がないが奥深いところがあることを確認した。現在でも倒木があって、ハイキングができるには来年になりそうだ。でも観光が命な地域で観光が減ると希望も減る。この地域は地球温暖化の先を見たところかもしれない。風が強く、旧来の二階建ては風の被害が多くなるだろう。これからは沖縄とか鹿児島のような石垣で守る必要があるかもしれない。

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台風後の千葉長柄町へ

2019年09月26日 | 宅老のグチ

千葉長柄町から日にち指定で呼び出されていたので行くこととなった。行かないと他の関係者に迷惑がかかるのでと地籍調査の現状とはどのようなものかを知るためだった。結果として大変な作業であることを知った。長柄町では戦後の農地解放の後の測量以来だという。測量後長柄町に寄付すかもしれないと言ったら多分町は受けないと言われた。町としても役に立たない、管理費用の掛かるものはいらないという。結局国に寄贈しかないのだろうか。この制度はあるのだろうか。立ち合いという管理費用が発生していた。

 途中市原市辺りから屋根にブル-̪シートが目立ち始めったが部分的で報道とは異なり全部が屋根を飛ばされているところでなく、地域によって異なると知る。長柄町は小山が多く、倒木被害が多かったようだ。町役場の人達と雑談すると多くの杉は間引きされず、さらに種から生えた杉でなく接ぎ木で促成された杉のため空洞化がある。材木として役立つのが30年くらいの杉で、もう手遅れの状態で誰も杉林の手入れをしていないという。管理費用倒れで誰も住まないろ古民家と同じという。解体する費用のためそのまま放置している。

 このまま現地は管理費用のため原始林に向かうのだろうか。これでは当分スギ花粉で悩むだろう。羽田空港に着陸するとき房総半島のイモムシを見る。ゴルフ場が多い。ここも倒木が多いようだ。これからゴルフ場のネット問題が全国で大変となる。

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台風停電ゼロ

2019年09月25日 | 宅老のグチ

千葉のこれほどの台風被害が出るとは。停電情報では朝の数字が9時になると増え、工事が始まったことを知る。ようやくゼロになったがゴルフ練習場周辺の家々はこれから台風が来るたび寝ることができないだろう。 

 この頃の自然災害は規模が大きい。油断があるようだ。何か広域の連携不足が目立つ。過疎地の人の住んでいない所はこれで空き家へ移住決断となるのか。

 今日千葉へ行く。行政からの呼び出し。倒木がないと良いのだが。

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東洋文庫の和漢三才図会のあとがきで

2019年09月24日 | タクワン

東洋文庫の和漢三才図会と言う本のあとがきでモチ米とウルチ米のことが書いてあった。さらに赤い米のこともある。この米の日本への渡来の歴史は歴史の教科書では単に米の渡来で済ましているようだが今のモチ米とウルチ米が分離したのは何時ごろかはまだわからないようだ。遺伝子分析でも今のところ不明のようだ。しかし漬物ことから調べると糠の問題からどこかで分離の意識が無いと今のぬかみそ漬けが出来ないことになる。モチ米の精製の過程で生じるモチ糠は様々な理由でぬかみそ漬けの糠として適さない。モチコメの糠は肥料しか用途が無いようだ。

 江戸時代の終わり頃、肥料米ぬか仲間というのが文献に見える。今の知多半島が米ぬかの集散地だったらしい。

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文献の時差

2019年09月22日 | 宅老のグチ

明治の15年頃から23年頃までの下谷根岸の様子を調べているが、記録に残る時と実際の差がどう解釈するか悩むときがある。・正岡子規の俳句に八石教会のことが出るのは子規の人生の終わりとも言える明治34年であるが八石教会は明治の14年頃には根岸で活動をしていた。八石教会は明治40年代に衰退し消えてしまった。今は子規の句でその存在を知られている。

 子規の俳句の師ともいえる天田愚庵は福神漬の資料を調べていると、直接出ないのだが周囲の人たちの行動から、文献を支える。

今のところ、八石教会と旧幕臣との関係が鶯亭金升にはなさそうだ。明治という急速に変化した時に、真面目な習慣に馴染んだ人が時代に遅れて消えてゆく風景を見た。明治の20年代ともなれば鉄道が馴染む時期に人力車も乗らず駕籠や歩きで移動し、ちょんまげでは若い人が付いてゆけない。

 現金が今度の消費税で少なくなるのだろうか。高速のETCが普及し、料金所の混雑が消えた。何が起こるか時代は進む。

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陸軍特別攻撃隊 高木俊郎著

2019年09月21日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

 

陸軍特別攻撃隊1~3 高木 俊朗/著 文春学藝ライブラリー  
歴史  31 2018年12月から2019年2月

図書館で連休用の読む本として借り出したのだが新しいので思わず出版日を見たら少し前の再刊行であった。海軍の特攻について戦後から間も無く種々の出版があって,〔カミカゼ〕が特攻の用語となった。今でもテロリストの自爆攻撃でカミカゼといわれている。陸軍特別攻撃隊の著者高木は海軍の特攻に対して記録の少ない陸軍の特攻を調べて本にした。

 内容の事実が正しければ陸軍の航空作戦を計画した上層部の無責任にあきれる。これでは国や家族を思って特攻した遺族は無念だろう。戦後の混乱期で生き残った人たちは日々の食を確保するに追われ戦死した人を思うのは親族のみだった。昭和25年に朝鮮戦争が勃発し、日本に軍事物資補給基地となり、食の確保の問題が軽減された。

 この時期からどうやら元軍人たちの記憶の記録活動が始まり平成の半ば頃に戦友会の活動が休眠になった。出典(新潮45 2013年12月 通巻380号)

 令和になって、遺族会の会合仕舞いの報道が目立つ。戦後75年となる2020は節目となるが子孫の記憶は残っている。記録を残さないと、存在が消える。 

 

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隠語辞典 東京堂出版昭和31年

2019年09月20日 | 福神漬

今では消えてしまったと思われる(なた豆)の意味を隠語辞典(昭和31年出版)で調べると記載されていない。すでに女衒が遊女の価値を図るためのなた豆を食させるということが消えていたようだ。明治に入って西洋医学から癲癇(てんかん)を見分ける方法がナタマメで無くなったようだ。

 今の医学だと人間の体には、神経が張りめぐらされ、その神経の中を弱い電気信号が通ることによっていろいろな情報が伝達されます。脳には神経細胞が集合し、さまざまな情報を処理しています。しかし例外的に過剰な電気信号で体の制御ができない状態になったとき、テンカンと言われるようです。今でも完全にテンカンは解明できていないようで当然ナタマメを食してテンカンの発症の可能性を探ることはできません。この遊里の隠語が消えたのも明治の本草学の衰退と同じである。つまり薬効の証明ができなかった。

 ということは江戸時代の初め1600年台。記録から1604年の文献がある。中国から日本にやってきたナタマメはどのような薬効を期待されていたのだろうか。

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天保の印旛沼開削工事で2

2019年09月19日 | 福神漬

天保の改革のとばっちりで南町奉行の与力の家はズタズタにされた。明治期の原胤昭の関係本から佐久間長敬の略歴をここに記す。

江戸時代犯罪・刑罰事例集 佐久間長敬〔ほか著〕 原胤昭〔編集〕・ 尾佐竹猛〔編集

 佐久間長敬の略歴 小山松吉文

佐久間家は代々江戸南町奉行組与力だった。長敬は長興の長男にして天保10年に生まれた。嘉永3年4月継承を許され、祖父彦太夫の勤功により、与力見習いとなった。年は11歳であった。かねて奉行から(南町奉行遠山景元か?)15歳と心得べしとの達しがあった。15歳と勤務し、19歳の時吟味方に昇進した。吟味方は与力の中の重要な役目で青年にしてはこのごとく栄進したのは、長敬の才能が非凡であったと思われるが、長敬の背後に実父長興がおって、彼を指導したことがあった。

 実父長興は佐久間彦太夫の養子となって文政13年11月に南町奉行与力見習いとなり、天保15年禄高150石となったが弘化2年鳥居甲斐守の事件に連座し、お暇を仰せ付けられた。この時より別家と偽り別居していたのに嘉永5年7月、本家相続人長敬が幼年につき、後見のため、同居を許され,安政2年おとがめは赦免となった。実父長興は鬼佐久間と言われるほどの一部の人に恐れられていた。佐久間長敬の実弟である原胤昭が目撃したのは兄が町奉行から帰ると吟味の内容を父に尋ね、その教えを得ることが度々あった。吟味に関することがあると家人を遠ざけ、近親にもこれを聞かさなかった。佐久間長敬の書いた(吟味の口伝)は父長興からの口伝を書き綴ったといえる。

 印旛沼開削工事で鳥居甲斐守が南町奉行であったため、配下である与力たちは不評な工事現場に行かざるを得なかった。嘉永5年名奉行として今に聞こえる遠山の金さんこと遠山景元 は南町奉行を引退した。佐久間長興の同居の件は置き土産かもしれない。

福神漬のからみで色々人間関係を調べていると、南町奉行関係者が度々出てくる。少ない人数で江戸の治安を維持しているので二足の草鞋の人達を利用しなければならないと考える。弱体した江戸幕府が対外政策に追われ、資金もなく治安維持となれば、節操のない人物を配下として使うしかない。新選組などはその一例かもしれない。

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現金が最強

2019年09月18日 | 宅老のグチ

新紙幣が計画されているが紙幣廃止の流れで日本がアングラマネ-の受け皿の国になるかもしれない。ある日本の食品会社が中国の人に買収された。その資金は来日のたび、ひそかに持ち込んだ日本円の紙幣で買収したという。中国からの資金持ち出しは難しく、様々な手段で持ち出すことが研究されている。紙幣は金属探知機に反応しないし、持ち出しに成功すれば日本では紙幣を持ち歩くことは不自然ではない。金の取引や市場の取引にはまだ現金が多い。

今度の消費税の軽減で現金不使用だと割引がある。ただ年寄りはこれに追従するのだろうか。OKストアのチラシは現金の方が明らかに安い。

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天保の印旛沼開削工事で

2019年09月17日 | 福神漬

天保の印旛沼開削工事で全体を監督する南町奉行鳥居 耀蔵(とりい ようぞう)でその配下の記録を見つけた。

天保期の印旛沼堀割普請 (千葉市史編纂委員会/編集)

その中の名前に佐久間健三郎・原善左衛門という名前を見つけた。佐久間健三郎長興は佐久間長敬・原胤昭の父であった。原善左衛門胤輝の娘と結婚したのが胤昭であった。この印旛沼開削工事の目付が戸田寛十郎氏栄(のちの戸田伊豆守氏栄・ぺリ-来航時浦賀奉行)だった。

 花見川の横戸という地名のところが小高くなっていてさらに印旛沼方向の土地が軟弱で掘っても掘っても湧き出る水が泥と共に出るため工事が進まなかったようです。

 印旛沼は佐倉宗五郎伝説もあって、福神漬の史料検索でも度々出ていたの気にはしていたが南町奉行配下の与力が参加していたとは想像もしていませんでした。与力家族の内輪の話は記録もなく、天保の改革で南町奉行の与力は結果として家の断絶まで行った与力もありました。また歌舞伎の七代目市川団十郎が幕府の奢侈禁止で成田山で謹慎していたのもこの時期でした。

 下谷の文化人集団の根岸党は九代目団十郎の時期の歌舞伎の評論家でした。つまり天保の時期から一代後の世代が福神漬の創成期の下谷の人達でした。この関連を見落とす所でした。千葉は江戸時代は町奉行与力や幕臣の知行地が多く細分化されていたため、個別の歴史を調べる人も少ないようです。

                 

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千葉花見川花島観音にて

2019年09月16日 | 福神漬

天保11年頃から水野忠邦は印旛沼開削工事を想定し、情報収集を始めた。二宮尊徳を幕臣にして、工事計画を立てさせたが尊徳の仕法では15年から20年ほどかかる計画だった。貧しい農民等に金銭を貸付、その返済を農閑期に印旛沼開削工事の労働で返済させる仕法だった。

 江戸時代印旛沼の工事計画は3回試みすべて失敗した。昭和21年に食料増産と利根川治水ということで計画が立てられ、昭和41年にやっと完成した。今年の台風15号の被害でも水害はこの工事で千葉は救われた。印旛沼・新川・花見川は日本でも変わっている川で時期によって潮の干満と違う流れ生じる。利根川が増水すると、印旛沼に流れ、新川で5M近く揚水し、花見川へ流し込む。

 京成電車勝田台駅から大和田排水機場へ行き、新川沿いの遊歩道を歩く。弁天橋から川が花見川となり、海までのサイクリング道路が始まる。弁天橋から花島観音まで徒歩3KM45分。花島観音内に月山神社・湯殿山神社・羽黒山神社の碑が建っている。ここの開削は天保の時の分担は庄内藩だったのだろうか。深山幽谷の景色とも思える弁天橋下流は当時の難工事を思い起こす。さらに地形デ-タからM字形だったため、くぼ地の土地の開削は難航し、土砂をとっても一日で流れ込んだ水で元に戻ってしまったようだ。この難工事の風評が江戸にも伝わり、領地替えなど数々の水野忠邦の政策不満が秋になって水野の失脚で終わった。江戸へ工事の難航を報告していた戸田氏栄は夏に駿府町奉行へ転進していたので不評の責任を免れた。お手伝い普請は地域の物価の上昇があった。また夏が工事期間であったため、病死した人も多く、不満だけが残った。

 今となっては二宮尊徳の仕法を使わなかったのだろうか疑問が残る。

 

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幕府歴史書編纂者中里新十郎呪い

2019年09月15日 | 福神漬

 

長井家の墓を訪問。墓碑にある長井昌言の死亡時期の確認。明治6年11月22日だろう。はっきり見えなかったが暇なときに住職に確認すればよいだろう。これで二つの問題が解消された。幕臣伝説 氏家幹人著で幕府の歴史書(干城録)を共同で編纂していた中里新十郎が乱心し戸田勘十郎氏栄宅に忍び込み氏栄を暗殺しようとした。しかし返り討ちにあい、中里は死去した。氏家氏の見解だと戸田氏栄によるパワハラと業績(アカハラ)奪ったという。この後ひねくれものの幕臣大八木醇堂の因縁話で戸田氏栄が大坂町奉行の時死去したが7月21日(届け出は8月21日)で中里が死去した日と同じだった。さらに長男が狂死したのも次男の大久保雄之助・三男長井五右衛門昌言も7月21日に死去したという。五反田・本立寺の長井家の墓碑を確認すると11月がはっきりと見えた。これは新暦か旧暦とかは関係ない月である。さらに花香恭次郎が長井昌言の生存中に横浜の商家(明治5年5月)に勤める。この時期新橋-横浜の鉄道開業がある。明治5年秋。明治6年4月に横浜の商社を退職し、茨城県の鳥栖村へ行ったのも長井家の影響だろう。鳥栖村は蛮社の獄の始まりである小笠原渡航計画の無量寿寺が付近にある。さらに長井家の知行地の近くである。花香家でこの手配は無理と感じる。明治3から4年頃南茅場町の商家に勤めていた時、三菱の会社とどのような関係があったのだろうか。三菱は明治の初め南茅場町18番地に拠点を設けた。ほぼ花香恭次郎がいたころ、三菱が南茅場町で始まった。まだ資料が見つからない。

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