年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

気分は梅雨

2007年06月30日 | 福神漬
気分は梅雨
福神漬の歴史を書き始めてもう6ヶ月を終わろうとしている。しかし文献はないし。あったとしても山のような大量の文の中のほんの一行、しかもそれぞれ正確とは限らない。明治19年に創製されたと言う記事すら正しくない気がする。日本缶詰協会の権威ある本に明治19年となっているため、皆19年説になってしまっている。上野で開かれた第一回水産博覧会は明治16年3月であるから、明治16年説もあっても良いはずだがこれはない。戯作者としていられている梅亭金鵞が命名したのは明治18年という。また本の山から資料探しが始まる。
 山岡鉄舟・五代目菊五郎・山形有朋・三遊亭円朝等次々と福神漬に関係ないと思われる人物が現れてくる。まだまだ続く福神漬の調査。
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高層マンションの底で

2007年06月29日 | 築地市場にて
高層マンションの底で
築地市場から見える『ザ・東京タワーズ』マンションの建設工事のクレーンが6本あったのが次第に減って遂に1本になって近日中にはなくなるでしょう。見慣れた風景もクレーンが消えれば人が住んでいない建物となる。減り続けていた中央区の住人も高層マンションの林立で増加し、人口が増えてきた。築地市場の移転でも中央区は人口が増えるだろう。汐留で集中的に立った高層の建物の建設工事がももうじき終わりそうで最後の環状2号線の地下工事が日本テレビの下で進行中でこれが終われば汐サイトの開発が終わる。
 そんな思いで市場橋にいくと新大橋通りの車道の舗装テストで熱反射のテストとか。観光バスの客が生鮮食品を買っていって、自宅に着くまで温度管理できるのか心配。
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日露戦争末期は陸軍は福神漬のみ

2007年06月28日 | 福神漬
海軍料理おもしろ事典 高森直史
121頁
日露戦争時に奉天の野戦病院の食事のメニュー朝・昼・晩の三食の漬物はすべて福神漬であった。明治38年の二月から三月にかけての奉天大会戦に於いて煙を出すことが出来ず食事は木炭で暖めた缶詰で福神漬は厳寒のときに役に立った漬物であった。
福神漬は初期の宣伝にあるように他のものが何も無くても食事が進む便利な漬物であった。
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また火事?

2007年06月27日 | 築地市場にて
休市前の夕方
26日午後4時半、築地市場旧時計台通りに、消防自動車が3台とワゴン型消防車が1台、赤ランプを着けたまま止まっていた。何事かと見に行くと『ぎっくり腰』で動けなくなった人が救急車を呼んだらしい。場内には消防自動車が入ると緊張する。
 思わず笑ってしまいました。上空にはツバメとカラスが舞っていました。27日は休市でとにかく静かな夕方です。 
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『石の缶詰事件』エピローグ

2007年06月26日 | 福神漬
『石の缶詰事件』エピローグ
今から110年以上前に起きた事件だが、平成の今でも牛肉偽装事件があり、歴史上のことではない。サンヨー堂85年史を借りた際に広報の方と返却の方法について電話した際に、日清戦争で缶詰とすり替えられた『石』は今でもあるのかを尋ねたら、中央区堀留のサンヨー堂本社に『永福石』と命名され置いてあるという。機会があったら触って見たいものである。クレーム処理は余りやりたくない仕事ではあるが文字通り『他山の石』ではないのだろうか。
 福神漬は日清戦争時に本当に兵食として食べられたのだろうか。まだ文献は見つからない。
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明治28年1月3日読売新聞

2007年06月25日 | 福神漬
明治28年1月3日読売新聞
石塊入缶詰取調始末 〈要約〉
大本営掲示
昨年末の新聞報道にて,大連行きの名古屋丸に搭載の缶詰入り箱に過半に大石で埋めていることを発見した記事があるより、名古屋丸事務長は大本営に召還し事実か否かを問いただされた。名古屋丸の事務長の話では同船は12月20日宇品に於いて某部隊とその糧食品を積み,25日に大連に於いて本船より艀に積み替えの際に誤って3個取り落とし破壊した内一箱に上段に大石を詰下段に缶詰を入れてあった。その箱には東京大伝馬町1丁目山陽堂逸見勝誠と張り札があった。  云々とありその後の記事で宇品にある商品を調査して、途中ですり替えられたかどうか調査しているので結果が出るまで山陽堂の商品は購入の停止をしたことになった。

 後の調査で積み替え時に人夫によってすり替えが判明し、再度山陽堂の缶詰が陸軍に納入されることになった。当然調査の段階で入念なる検査をしたので信用は前より上がったという。この記事からどうして大倉喜八郎の「石入り牛肉缶詰」に風評が変わるのだろうか。悪質な意図があって、露骨に事実を捻じ曲げ記事を作っていったような気がする。戦前は大新聞と小新聞という言葉があってあって、小新聞はとにかく売れる記事を書かねばならないのである。明治時代の記事は今ではとても載らないような記事がたくさんあって販売部数競争をしていた。
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誤解の始まり

2007年06月24日 | 福神漬
明治27年12月31日読売新聞
商人の奸計
御用商人徒、軍事に託して思いがけない利益を得ようとする者がしきりに不正の行動をする由を聞いていたが、さきの名古屋丸にて戦地に送りたる缶詰の箱に過半大石を埋め合わせありと言えり。これを上納せし商人はまだ詳細は知るらねども製造元は東京○○町某であると聞いている。嗚呼姦商。

これだけの記事が年末に出た。田中正造全集第7巻によると陸軍に牛肉缶詰納入業者は明治27年10月では東京の業者のなかには大倉組があり、逸見勝誠(サンヨー堂創始者)の名は東京には無く広島にある。東京○○町某と報道され大倉組が大倉喜八郎と思われてしまったかも知れない。年明けに詳細の記事が出るのだが「姦商」の印象は消えなかったのであろう。
サンヨー堂85年史より

世間の風評で大倉喜八郎が日清戦争が終わった年の秋に福神漬の「缶入り」でなく「樽入り」を献納したのではないのだろうか。
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牛ミンチ事件と自衛隊の汚職

2007年06月23日 | 福神漬
昔も今も変わらない
石入り缶詰事件の顛末を調べていると,事件から100年以上も経過しているのに,平成の今にも同様な事件が起こっているとは、それは北海道の牛ミンチ偽装:豚肉混入事件だったり,自衛隊の後方支援の入札で陸上自衛隊の幹部自衛官が装備品の調達に絡み、納入業者から現金を受け取っていた事件だったりあまり進歩していない。
 奸商と購買の癒着は日清戦争時からあって,『死の商人』とわれた大倉喜八郎は弁解することなく、風評に対して黙していて,かえって自伝で『上野戦争』のときに彰義隊に監禁され、幕府方に鉄砲を売らないことを理由にしたものだったが、喜八郎は「前に銃を納めたときの代金が未納だ。横浜のガイジン相手に現金商売をやっている者の立場も考えてくれ。」と物怖じせず主張し、開放された逸話のみ強調されていたので、『石の缶詰』事件も何時の間に大倉組の仕業になってしまっても彼は言い訳していない。『サンヨー堂85年史』より
 しかし、石の缶詰事件はどうして大倉喜八郎と結びついたのだろうか。その答えは田中正造全集第7巻529頁に答えが書いてある。それは日清戦争時(明治27年10月)に合名会社大倉組が東京・大阪支店・広島支店で販売者になっている。40匁牛肉缶詰は297万個陸軍が買い上げているが、その内大倉組は約28万3千個、240匁牛肉缶詰は総数約100万個のうち大倉組(東京・大阪・広島)全体で9万個納入している。田中正造の演説と大倉組の陸軍への納入額が多いから風評が立ったのだろう。なお海軍は別の統計と思えわれるから輸入缶詰は更に大倉組から納入されていたかも知れない。
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日清戦争時の食品業界 3

2007年06月22日 | 福神漬
日清戦争時の食品業界 3

 明治28年2月の田中正造の国会質問『牛肉缶詰買い上げに関する件』に対しての政府答弁は日清戦争当時の食品業界が良くわかる。田中正造全集第7巻513頁
『軍隊用牛肉缶詰買上等に関する質問に対する答弁書』 明治28年3月2日

第三 陸軍省が牛肉缶詰を買い上げを為すにあたり、その取捨選択する方法は協議会に参加し、陸軍省が指定する方法に従い誠実堅固に製造するものを選んでいて、今後もし粗製濫造に流れるかもしくは不正の行為あるものは拒絶するは勿論である。また納品された缶詰は製缶・精肉より荷造りに至るまで陸軍省の指定の方法に適しているか否かを点検し、かつ若干開缶実検品する手続きである。こうしてその製造能力を検定し製品の良否を判別するがごときはみな委員の任せ、その需要を各供給者に分割注文するごときはすべて購入責任者に与える。もし不良の品が発見された時は委員より検査の状況を購買主任者に通知し、事情軽きものは倉庫官吏によって処分し、事情重きものは購買主任者の指揮を待たせ、、即ち取捨選択の処分は委員と購買責任者とを待って初めて実行する者であって一人二人の吏員によって左右されるべきことではない。
 終わりに一言すべきことは陸軍省は常に弊害の起こるところに注意しており、弊害を防ぐ方策を採っており当初の方針を変更して一方に利のあるように製造の方法・検査の規定を設ける等の事実は無いことを断言する。

田中正造は足尾鉱毒事件の告発で知られているが「牛肉缶詰購入」の件でも国会にて何回も質問している。しかし当時の衆議院の議事録からは「石の缶詰」の件には触れていない。むしろ消えた2600頭余の馬肉を問題としている。当時は乗り合い馬車が人力車と共に普及していて、馬に対して虐待ともいえるくらい酷使していて、弱った馬が馬肉となって缶詰に入っても判らない状況であった。このことは田中の演説で明治27年の頃は東京には二箇所の屠畜場があった。浅草と芝にあり半年で浅草では4~500頭の馬を処理していた。日清戦争が始まると2600頭余の馬が処理されたが、馬肉販売業者が増えず、何処に消えたかうわさになっていたのだろう。


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日清戦争時の食品業界2

2007年06月21日 | 福神漬
日清戦争時の食品業界2
明治28年2月の田中正造の国会質問『牛肉缶詰買い上げに関する件』に対しての政府答弁は日清戦争当時の食品業界が良くわかる。田中正造全集第7巻513頁
『軍隊用牛肉缶詰買上等に関する質問に対する答弁書』 明治28年3月2日

第二 陸軍省が缶詰の買い上げを為すにはこれを従来の経験のある営業者から求めず専ら新設の業者から求めたことは無い。その供給者の中には間々新設創業の者、廃業再興の者無きにしも非ずといえども、これらの業者は皆適当な技術者を有する者にして,専ら新設の業者から購入するのでなく,資力・技術力の適否を問わず購入することは断じて無い。
 また質問者(田中正造)は製靴商・タバコ商が缶詰商となって缶詰を製造するごときといえども,陸軍省の指定した供給者はいろいろな業を営むといえど必ず適当な缶詰製造技術者を有し,製造の指揮・監督に欠けるところは一つもない。往々缶詰業のごときは資本家にして技術者を兼ねる者は稀で資本家は技術者を雇用するか共同経営となる者である。陸軍省は常に資本と技術の欠けることなきを調査していて、この点において資本家の専業者か兼業者かを問うことは無い。

 新規参入の業者がふえて、不正行為のウワサが出ていた。この年(明治28年)5月に陸軍省経理局員は広島への出張の途中自殺している。
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日清・日露戦争での悪徳商人

2007年06月20日 | 福神漬
日清・日露戦争での不埒な商人
日清戦争で急に軍食の供給業者が増えたが、日露戦争時にも不埒な人が現れている。

明治37年12月23日読売新聞
重役の狼狽
神田区須田町の万世銀行重役xxxは去る7月戦地行きの福神漬を引き受け青泥窪(チンニーワ・大連)へ着したるに腐敗しておるとかにて(軍隊に)採用せられざりしがこの資金は万世銀行の金30万円も引き出して居るので、自分の所有地を売却してその穴埋めをなさんと奔走するも市街宅地は戦時税を見越して相場が下落しておるから、値段が折り合わず大狼狽の有様にて各銀行は万世銀行との取引を差し控えるとの風説を伝えるものあり。真偽知らず。
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日清戦争時の食品業界

2007年06月19日 | 福神漬
日清戦争時の食品業界
明治時代の食べ物の文献で西洋から始めて入った食物とか肉食のように
急に政府が奨励したことなどの文献は多いが漬物のように江戸時代も明治時代もあまり変わらない物は記述されることも無く,中々見つからない。
 明治28年2月の田中正造の国会質問『牛肉缶詰買い上げに関する件』に対しての政府答弁は日清戦争当時の食品業界が良くわかる。田中正造全集第7巻513頁
『軍隊用牛肉缶詰買上等に関する質問に対する答弁書』 明治28年3月2日
第一陸軍は牛肉缶詰を購買する場所は東京の外に仙台・名古屋・京都・和歌山・大阪・神戸・広島・長崎等あって,質問者の言うように決して専ら東京のみに限ってはいない。
 昨年(明治27年)6月朝鮮のこと(日清戦争)起こり,兵食用として牛肉缶詰の需用を生じるや,当時営業者中資力確実・製法完全と認める者が甚だ少なく,とっさの間この需用に応じる者なきを以って、舶来品を普通の商人から在庫品を購入していたが,(輸入品から)8・9月に至ると東京その他各地において缶詰製造に従事する者が続々と出,需用に緩急に応じて,これらを営業者より供給させていた。内地の製造額は次第に増加し,ついに外国品の供給を必要としないようになったが然るに内地の製造品はなお幼稚にして完全なる物でなく、酷暑に際し往々腐敗する缶詰があると聞き、一時製造所を官設にする議論があったけれど、民間業者がようやく缶詰製造業を興さんとするとき、官設工場によって,需用を途絶することは缶詰製造業の発展を妨げることになるので、むしろ缶詰製造業に従事する者を奨励誘導することによって改良を計るほうが良いとの議論が決まった。
 よって本業に従事する者を集めて協議せんと,10月15日を期してこれ(缶詰営業者)を本省に集めたが当日来会する者40名に達し,この際本省において専門の官吏を以って委員を組織し,営業者に指示する製造の方法,監督の範囲,検査の順序及び価格の如何等を調査し,さらに11月10日を期して見本缶詰を提出することを要請した。また東京府下を始め日本各地に委員を派遣して工場に就いて具体的に検査して製法の良く無い者は,懇切丁寧に指導した結果、今日あるように各地の製造者がその製造能力に応じて,軍需をまかなうようになった。今その製造所を述べると、東京は18,仙台3、名古屋1、京都3、和歌山1、大阪神戸岡山各4、広島6、長崎1を合わせて全国45箇所。
 而して,陸軍省が供給を独り関西地方に頼らないのは協議の結果で、牛肉缶詰の製法がよく、価格の適正なものであるならばどの地方でも購入しても良いとしている。

日清戦争時は軍用食料の確保まで準備が十分でなかった。輸入の缶詰から国産に替えたのは表向き国内産業の育成と述べているが、当時においては外貨が軍艦購入に費やされ食料購入に外貨を使うことは嫌われていた。これは綿花の輸入と砂糖の輸入と同じ状況である。綿花は綿布となって外貨を稼ぐが砂糖は専ら国内消費で嗜好品で無駄と思われ、戦費をまかなうため酒税と共に課税された。
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馬肉の禁忌 明治の軍人

2007年06月18日 | 宅老のグチ
明治28年2月10日都新聞
第八期帝国議会 衆院(2月9日)
 改進党の栃木鎮台田中正造は開会第一に壇上に現れて虎の吼ゆる如きの大声を放ちて缶詰買い上げに関して政府に質問の要旨を述べた。例の木綿の黒紋付を着た大男の壇上に現れたのは(今国会に)始めてである。
 途中略
征清の軍隊が凱旋の暁には(不正な行為をした)姦商の首が飛ぶかも知れないと罵り、原稿用紙を巻き演壇を叩きて、満面を赤くして意に任せて怒鳴ったのは田正君(田中正造)近来の痛快なる演説なりき。

 挙国一致でなければならない状況で日清戦争の勝利の目途も見え、世間でささやかれている軍用缶詰購入に関しての不正行為を糾弾していた。しかし、この時点では「石の缶詰」の話は出ていない。田中の演説では軍人は馬を尊ぶので消えた2600頭余の馬肉を軍人に食べさせたのは許さないと締めくくっている。この後政府の答弁が出てくる。
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海軍は輸入缶詰、陸軍は購入

2007年06月17日 | 福神漬
海軍は輸入缶詰、陸軍は購入 田中正造全集第7巻522頁
明治29年1月24日田中正造の質問書に対しての明治政府の答弁書
 缶詰肉について海軍省は東京市の営業者買い上げをぜず、これに反して陸軍省は東京市民より買い上げをしているのは、即ち海軍糧食は現品給与なるがゆえに平時に於いて航海のために缶詰肉を使用しており,航海日数が長きわたるし、また熱帯地方を通過する場合は従来内地製造品は到底保存に耐えず、常に舶来品を購入せざるを得ず、また貯蔵品もある。ただ僅かに試験用として内地製造品を買い入れたのみである。要するに海軍において需用の缶詰肉は主として外国品を購入していて、陸軍と比較することは出来ない。

 この答弁から、日清戦争時には福神漬の缶詰が海軍船には積まれていないことがわかる。もしこの当時から海軍カレーがあったとしても福神漬が添付されていなくて沢庵が付いていただろう。なお海軍省経理学校は今の築地市場の場所にあった。
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軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する演説

2007年06月16日 | 福神漬
田中正造全集第7巻)
軍隊用牛肉缶詰に買い上げに関する演説 要約2
 昨年(明治27年)6月、朝鮮に兵を出すと俄かに東京にて牛肉缶詰の投機的業者が増えている。東京は神戸の牛肉より二割高く、更に品が悪いから、実際は3~4割悪いことになる。(日清戦争)開戦以来7月より10月まで東京も何処も評判が悪く、特に東京の評判が悪いので改革を行なったが、改革することに気が付いたのは良かったのだけれど、しかし改革する前より悪くなった。それは陸軍経理局が缶詰の評判が悪いからと言って、日本中の缶詰営業者を東京に集めた。参加資格を設けて、資格に応ずるものが東京に出て来いというものであった。ところがこの資格調査をするのに、東京の缶詰屋が60人以上あったので、経理局で調べるといつの間に消えてしまったのである。消えてしまったので関西の熟練した業者の御用を命じれば良い筈であるがところがそうでないのである。田舎も東京も御用を仰せつかったのである。
 缶詰製造の方法を一定にして11月10日までに納入せよと決まったのである。缶詰を検査する技師が1人いて11月一ヶ月かかって東京を検分し関西へは12月一ヶ月かかって検分終え、1月20日にまた東京に全国の缶詰営業者を呼び出したのであります。度々東京に呼び出されるのも東京の業者は近いから良いけれど全国の業者を東京に呼んで御用を命じているのである。また東京のほうが一ヶ月検分が早いから御用の規格が知れており対応が出来ているので買い上げの量が多いのであります。
 缶詰の肉は正しい物でもないものがあるある。牛肉の中に馬の肉や臓物を混ぜても判らないのである。軍人は馬を尊ぶので馬を食べると言うことは好まないので、政府にあえて忠告するのである。今は政府と国民が一体となって敵国と当っているので,姦商の御用商人をけん制し、制裁しなければならないのであります。政府や軍人のため4割も安い神戸の立派な牛肉缶詰業者があるのになぜ頼まないのか。神戸は輸送に便利な港があるのに御用の8~9割を東京の業者に任せると言うことは当局に何か悪い考えがあるのではないだろうか。東京より安く出来る神戸に缶詰の製造所を設け自ら官吏を派遣し監督すれば安く出来るのではないか。

田中正造の考えが後に陸軍に於いて牛肉缶詰を製造する端緒となったのだろうか。この時点ではまだ「石入り牛肉缶詰」の風評は出ていない。後の陸軍糧秣廠において福神漬缶詰を製造している。
田中正造の国会での追及は東京の俄かに増えた牛肉缶詰業者に御用のほとんど注文が行き、不正・不良品が出回っていることを政府に向かって注意している。
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