年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

平成終わりの日に

2019年04月30日 | 宅老のグチ

人手不足の豊洲へ行く。いま高齢者が自動車事故を起こすとマスコミ沙汰となる。同様に豊住で事故を起こすと記事となる。5月の連休は10連休だがこれがまた豊洲の人手不足を招く。

 輸送技術の進歩で海外から消費者までのコストが減る時代で市場を通し経費をかけることの優位性が消えつつある。法も変わらないといけない。週ごとに旧築地市場が更地化し,青果部本館跡にプレハブの工事事務所が出来たようだ。アスベストのある建物を除くと5月中には更地となりそうな勢い。

 築地場外は一応混んでいるがまだまだ豊洲との連携が良くないようだ。築地と豊洲との間に無料バスが増便と言う。

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10連休中に特攻の本を読む

2019年04月29日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

特操一期生史と言う本を調べていると旧日本軍関係の本を販売している古書店もあるようだ。いわゆる反戦・非戦論をかざしている左派は平成のたびたびの災害出動している自衛隊批判の根拠が薄れているようだ。昔と言っても戦後長く続いた次の戦争論が兵器の進歩と戦争のやり方が変わってイマイチ自衛隊批判は難しくなったようだ。特にアフガンの戦闘が無人機で偵察し、さらに画像を見てアメリカ本土で爆弾を搭載しているロケットを発射する操作をする。テレビゲ-ムのような戦争で誤爆が多発している。ユーチュ-ブの画像を見ていると右派の画像が多く、左派の画像が少ないようだ。どの様な表現操作が行われているのだろうか。多分人によって現れる画像が操作されている気がする。パソコンを何台か持っていてそれぞれの検索するものを別にしているので現れる画像も少し異なる。特にウイルスの多いサイトを検索するパソコンに現れるもが目立つ。(いかがわしいサイトにはクレジットカ-ドも偽りの番号を登録・メ-ルアドも偽りアドを登録して乗っ取り対策。後は踏み台にならないようにするだけ)

 図書館で特攻関連の本を検索すると昭和45年前後に出版された本が目立つ。連休前に届いた特操一期生史の出版にいたる経緯を読むと先の戦争での経験を伝えようとする気持ちと薄れ行く記憶が現れている。

 いま戦後に出版された戦争の思い出は当事の検閲による戦争礼賛の部分を削除しているので思いを語ることの出来なかった人は全員戦争を批判しているように思われるが実際は運命に任せて生きていた人が多いようだ。もし戦争反対の意思があるならどう戦争推進へ向かったか調べないといけない気がする。

 師範学校(教師を養成する学校)に入った叔父はなぜ親族に相談することも無く、陸軍特別操縦1期生に応募したのだろうか。15年戦争といわれている先の戦争に率先して参加しているのは何故だろうか。これを解明しないと戦後の親族の法事等の会合で父の代理で参加していた少年だった自分が感じていた犬死論を超えることが出来ない。特攻と言う問題を考えることを今まで避けていた理由である。

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平成の終わりで紙の紙質を考える

2019年04月28日 | 宅老のグチ

本の紙質に気がついたのは中央区の図書館で昭和40年代以前の本が急に借り出し出来なくなった。紙が酸性化してボロボロになっているので絵パリパリになって保存がきかないという。借り出して周囲の目を気にせず調べることが出来るのは便利だが同じ本を数年にわたって借り出すと劣化の進み具合が目に見えて解る。しかし明治大正の本はそれほど傷んでないようだ。もう平成も終わる。本の劣化が少ない紙は増えたのだろうか。

 もうじき5000回となる記録をどう保存するか考える時期が来たようだ。くだらないことが多いが当時の気持ちがどうだったか今は思い出せないのあるだろう。

 何か年末に様な気がする。街が静かでそれでもス-パ-のチラシに正月食品が無いので仕事は楽だろう。

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準備中 都立中央図書館にて

2019年04月27日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

特操一期生会/編纂 -- 特操一期生会 -- 1989.10 --

 

 この本は靖国神社の図書館で既に見ていた。しかしゆっくり見たいことと他の資料を見ることもあって広尾へ向かった。特操一期生会の人たちによって自費出版した本であった。従って価格は無い。

 古書を購入することに決め、手配する。

 この本は志願兵の生き残り人たちによって編纂された本で中身の解釈は多様に出来る。昭和18年の頃と戦後の様々な想いの中で生き残った人たちの編纂である。あとがきに用紙の選択で後々まで残る用紙を選択したようだ。100年後でも記録と記憶に残る本となるだろう。

 靖国神社では写真集が別にあったが広尾には無いようだ。

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学徒出陣

2019年04月26日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

先の大戦で学徒出陣の情景の映画記録を良く見る。雨の神宮で観客席の女子大生の日の丸の旗の中、男子学生が整列行進をしている風景である。昭和18年も終わりの頃で、すでに日本は勝つ見込みの無い状況になっていたが一億総動員と言うことで学業を中途でやめさせ、繰上げ卒業させ軍隊に入らせた。これは強制なので多くの学生は止む得ずという気持ちがあっただろう。戦後になって指導者になった人たちの記憶に残る。当時は死を覚悟したと思われる。運不運の神様により分けられ生き残った人の記録で学徒出陣の風景を選ばせたのだろう。その学徒出陣は強制だったが希望して軍隊の入る制度が昭和18年7月に出来た。陸軍特別操縦見習士官という制度だった。全国からの応募者は1万人を超えた。同様の制度も海軍が作り同じく応募者は5万人を越えたという。

 通常パイロットの養成には3年から3年半かかるが時局の要請で即席養成となった。募集時には1年半となっていたようだが実際には10ヶ月程で実戦部隊に配属され、19年10月1日少尉となった。叔父はビルマ戦線からレイテ戦線末期に参戦し日本へ19年末に一時帰国した。陸軍特別操縦1期生は約1800名のなか700名(40%)が戦死している。

 無茶なパイロット養成の無念さを京都霊山護国神社境内にある(特操の碑)の碑文に現れている。

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英雄論と犬死論の間で

2019年04月25日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和30年暮れ、父が死去した。一家を支えるため母は父の代わりとなって働いた。同業者も父への友情から過度の競争を仕掛けてくることも無く昭和44年春になった。この年父を生んだ老母が無くなった。多分90歳を超えていた。大学の卒業試験も終わり、後は漬物修行を求めて関西に行く予定だった。出発まで2から3日前、埼玉の田舎(今は東京の通勤圏)から危篤と言う電話があった。関西に行ってしまうのでとりあえず状況把握するため田舎へ向かった。今は春日部市になっているが当時は春日部から先は単線の野田線だった。この野田線は野田の醤油産業を支えている電車である。駅から歩いて20分ほどの畑の中にある父の実家へ行った。

 寝ている老母の様子を伺うと。医者の見立てでは処置は出来ないという。どうしてと尋ねると(老衰)と言う。今なら点滴で生かすだろうが何故だか親族の意見はあきらめの方が強く、唇に水を含ませ、さらに少し飲ませるしかなかった。電気毛布で体を温め、自然死を待った。2月初めに寝込みおよそ二十日後死去した。最後の呼吸は20日間の中ですぐ気がつくほど大きな呼吸だった。その後静かになったのでチリ紙を鼻先に垂らしたが揺れなかった。あわてて家族を呼び確認し、医者を呼んだ。何も食べなくとも20日は生きた。

 葬儀の席で死んだ老母の話が次々と出て、特攻で死んだ3男の話しが出ていた。詳しくは私は知らなかった。ただ親族が私に話さなかったのはある理由があったと今では確信している。戦後から多分今に至るまで親族の中で一番健康で師範学校に入った知能優秀な3男が特攻で死去し、なお戦後に特攻の状況を知るに従って(犬死)という気持ちが強かったのだろう。先の戦争で多くの兵士は上官の不当な命令で死去し、命令を下した上官が生き残っている。むなしさが親族の中で共有されていたので多くを語ることなく通夜の席で真実を知った。その後もまだ犬死論は心の中で生きていて10年ほど前まで他の人に特攻した叔父がいるということを語ることなく今日に至る。

 個人としてはまだ犬死論と英雄論との間は整理されていないが最近出版された井上義和著(未来の戦死に向き合うためのノ-ト)と言う本は共感するところが多く、前に向かう方向が見える気がする。

 

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昭和20年2月17日(大安

2019年04月23日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

昭和20年2月17日(大安)父(当時36歳)の弟(当時22歳)が多分茨城の基地から南方へ飛び立った。一式戦闘機で訓練と飛行機の受け取りで19年末に日本に帰っていた。父と弟が横須賀の海軍基地で面会したのは2月1日に入隊したあと2月16日までのごく短い期間だったの一日と思われる。父自身が徴兵されるとは思っていなかったが実際周囲の状況から弟との面会が最後の別れという感じだったと思われる。戦闘機乗りの少尉と言うことで横須賀で新兵いじめにあっていた父は年若い陸軍少尉が面会に来ていたことから新兵いじめが緩和されたという。

 結局この横須賀での面会が最後の別れとなった。2月17日に茨城の基地を飛び立った戦闘機は埼玉県北葛飾郡川辺村の上空を旋回し、南方へ向かったという。川辺村の小学校で学んでいた親族が何事かと思って上空を見上げていたという。弟は故郷の記憶を残すため上空を旋回し戦地に向かった。

 弟は大正13年生まれなので関東大震災の後に生まれた。

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海軍入隊が20年2月1日

2019年04月22日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

父の海軍への召集令状が来たのは戦争も末期になっていた昭和20年1月だった。軍歴を取り寄せると2月1日に横須賀の海軍へ入隊したことになっている。横須賀での軍隊生活はもっぱら基地へ物資を運搬するトラックの整備だった。35才位で召集となったのは最初の徴兵検査で偏平足で不合格だった。このことから行軍が少ない無い海軍となったかもしれない。

 断片的な父の記憶は全て母より聞いた話しですべては昭和30年末に死去したため父より直接聞いたことではなく、断片的に伝わる話が少年時の記憶と青年になって知った戦争の記録と合成され今に思い出と残る。どこに真実があるかどうか解らないが記憶の再構築を今からしてみたいと思う。

 今は戦争も終わって70年経って過去の様子の記憶も直接経験した人も年寄りとなり、間接的に聞いた人が今記録を残す。昭和の20年は本当に戦争だらけであった。戦時と次の戦争の準備だった時間かもしれない。今も表向きには日本は平和かもしれないが次の戦争のための休みとなっているかは判らない。島原の乱以降、割りと平穏だったがペリ-が着てから内乱が続き、その明治の内乱を消息させる意図から国民の目を外地に求めた。そして昭和20年8月で一応終わった。

 社会の傾向に個人はどう対応したか記録に残さないといけない気がする。

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思い話が始まるが

2019年04月18日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

5月3日に慰霊祭に参加する。先送りしていたので築地のことが終わり、豊洲も終わりになったら先送りは止めようと思っていた。どうせ健康寿命的には後数年かもしれない。いけるときに行かないとふと思った。それは昭和30年末に死去した父の謎解きの話となる。母に話した父の話として聞いている特攻で死んだ叔父の話である。何を子供たちに伝えようとしていたのだろうか。その当時は犬死論が多かったようだ。世間の論調と違って父は父なりに実弟の死についいて何か言いたかったこともあったのだろう。薄々感じていたが深く考えると生活が遅滞するのでまた先送りしていた。人生の時間も少なくなり遅滞しても誰にも迷惑をかけないようになったきた。調べて記録を残すようにあの世から言われている気がする。

 学徒出陣の本を読んで当時の状況は少しわかったきた。どうして死を予定する陸軍特別操縦見習士官へ応募したのだろうか。全国で陸軍は1万人、海軍は5万人と言う。陸軍の一期合格者は1800名であった。そのうち特攻で死んだ特操1期生は300名以上であった。靖国神社の遊就館に特操1期生の像があり、台座の下にある名簿に名前があり、特攻で死去した印があった。

 記録によると5名が台湾から沖縄嘉手納沖の米軍艦隊に特攻したのだが誘導した飛行機に搭乗したパイロット1名も帰還しなかった。この人は特攻の記録に残っていない。何か不可解。

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平成の築地の思い出。

2019年04月18日 | 宅老のグチ

外国人観光客を除くと年寄りの多い築地は人出が5月連休に多いとは思えない。ただ昔と言っても20年ほど前、xjapanのヒデの築地本願寺の5月連休中の葬儀は今でも記憶に残る。喪服の若い人たちが整然として行列し本願寺へ向かった。後の情報では勝どき橋から佃大橋まで行列が続いたという。さらに霊柩車が汐留の高速にのると言うことで本願寺から築地市場を超え様々な赤く・黄色く・まだらに髪を染めた喪服のロングドレスを身にまとった若い女性が新大橋通りの歩道に並んだ。今でもこの光景は鮮やかによみがえる。あの時10代後半の人たちも40歳前後となりどうなったのだろう。もう一度築地本願寺で年回忌をやらないだろうか。あの喪服のファンがどう変化したのだろうか。平成の築地の思い出がもうじき歴史となる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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誰も経験の無い10連休

2019年04月17日 | 宅老のグチ

もし築地にいたなら今度の10連休は対処できなかっただろう。どの様な天気でも5月は何回かの雨がある。そこでブル-シ-トの出番だが正月と違ってシ-ト下は蒸れて過剰な在庫は出来ない。さらに運送会社の休みで4月末は2週間分の在庫となる。

 豊洲ではこのような問題は誰も考えない。既に正月の経験があるので心配無用。10連休が終われば豊洲から安心して去ることが出来る。

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駄菓子の漬物 みやま食品工業の廃業

2019年04月15日 | 宅老のグチ

先日神戸の老舗奈良漬会社が倒産したが同日の食品情報誌に駄菓子屋のスモモちゃんで知られている我孫子のみやま食品工業が設備の老朽化と後継者不在で5月末で廃業となると報道されていた。早速この件の事情を尋ねると一応目標としているが原料があるので売り切って廃業するらしい。どこかマスコミで騒げば予定通り終わるが普通ならば10月までは原料が残りそうだ。包装資材は追加が無さそうで残りは縁日等でバラ売りで供給するようだ。子供向きの駄菓子と言うことで近々の経費増は販売価格に転嫁することも出来ず大変だっただろう。

 昭和30年代の古い漬物史料は残してほしいと頼んだ。

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記憶の糸を繋げるために

2019年04月15日 | 陸軍特別操縦見習士官1期

もう生きている残り時間が少ないと感じる。60年以上前の記憶をたどり、思いを伝える時期が来たようだ。戦後の話は個人情報とか時代感覚の異なる時期で今の表現だと不適切なことも多々ある。それでも今につながる時期を書き記していないといきなり現状を把握することが出来ないだろう。過去のしがらみはしつこく纏わり付き判断をあやませる。いずれ時代遅れになった制度や仕組みは都合のいいように解釈され記述される。その都合のまま記述されることも時代の変化で勝手に改変される。

 でも子孫は何時までも子孫であり続け、薄れ行く記憶を時代状況の変化から思いを伝えないと最新の状況に上書きされ記憶を消し去る。

今から65年ほど前、夏になると埼玉の父の実家に一月ほど単独ですごすことになった。いまだにこの父の仕業は納得の出来る説明は受けていない。父が亡くなるまでの数年間毎年夏になると埼玉の田舎に行き、一月ほどしたら母が迎えにやって来て東京に戻った。今の山村留学のようだった。もちろん最初はなれなかったが何回か行った後では田舎の楽しみ方も覚え、今では都会に通う人たちの家々並んでも当時の感覚がよみがえり住居表示に頼らないでも何とかたどり着くことが出来る。戦前の住居表示では埼玉県北葛飾郡川辺村と言う。

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検索技術の向上

2019年04月14日 | 宅老のグチ

10年ほど前に長井昌言とパソコンに打ち込んで検索した。殆んど何も出なかったが北海道大学の論文がPDFで出てきた改革派の幕臣の一人で出自は不明とあった。

グ-グルブックの検索で原田清著作集(幕末政局の動向)と日本史研究476巻103ペ-ジ(2002年)と文献に出てくる。どうやら徳川家茂が京都滞在時期、小栗・京極・長井昌言が京都でクーデ-タ-を計画し、それが幕府内部から漏れ攘夷派浪人の暗殺情報が在ったようで長井らは退職願いを出したようだ。彼ら3人は積極改革派で小栗のように幕府を見放し、徳川の家臣として行動するより日本を守る意識があったという。国内の勅許を得ず条約締結は攘夷による外国との戦争は日本の破綻となることを避けることだった。

 これで長井昌言が堺町奉行から京都町奉行に異動しても赴任しなかった理由が判明した。さらに維新後旧幕臣が大部分静岡に行ったが、長井は明治政府に仕事を得た。鉄道寮で明治5年新橋・横浜間の鉄道開業時に役人として官員名簿に載っている。

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神戸の老舗奈良漬メーカ-の倒産3

2019年04月13日 | 宅老のグチ

神戸の老舗奈良漬メーカ-の倒産は表向き販売した商品の残留農薬が基準以上であったことから廃業となったように弁護士からの案内文があった。まえから食品事故の保険としてPL保険というのがあるがあくまで商品販売に伴って消費者の健康を害したとき、回収費用とか告知費用を補填する保険であるがPL保険の販売者の説明不十分と実際保険を利用したことが無いので内容不十分で契約した会社が多いようだ。暇なときPL保険の再契約のとき起こりうる事例を言って保険が使えるかどうかを問い合わせた。

1 賞味期限の誤りで販売した。回収に伴う費用 告知費用と廃棄費用はどの様にすれば良いか。

 答え PL保険は使えない。賞味期限の誤りは健康被害を起こすことは基本的に無いので保険の対象外。

2 健康に害するほどではない添加物の表示または使用基準の誤り。

 答えPL保険は使えない。

色々聞いたがPL保険は食中毒を起こしたような事故しか保険の支払い対象外となるようだ。今は取引の契約上でPL保険加入が必要なので入っているが実際漬物販売でPL保険が必要な事例は数例しかない。たとえば北海道の白菜浅漬けでO157が検出され、高齢者が多数無くなった。記憶ではこれしか思い出せない。

なぜPL保険の変わりの保険が無いかと言うと特に多品種少量生産の漬物は賞味期限の誤記の確立が高く、保険の設計が出来ないことからあるのだろう。小企業のリスクを解消できる保険は安くは出来なく高くなるため加入者が見込めない。

 食品事故の全国共通のHPに告知すれば告知義務がなくなる制度があり、十年ほどで表示が消えるのがあるといいのだが。今の制度だと100年経っても違反の事実は時効も無く残っている。記憶は消えるが検索では残っている。

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