年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

べったら市 大正10年

2006年09月30日 | べったら市
大正10年10月16日東京毎日新聞
浅漬は高い
べったら市と言えば江戸以来の年中行事になっている日本橋小伝馬町の市で来る19日例年の通り浅漬を売り始めるのである。翌20日に恵比寿講をする店がなくなったため前夜の市で供え物を買う人もなく、只浅漬を買いに行く市かと思う人も多い。本年は天候不順で大根の出来が良くなかったところから昨年より2割高であるとのこと。個々の浅漬屋で聞くと小30~40銭、大70~80銭見当だという。

大正10年10月19日都新聞
今日べったら市
19日は日本橋大伝馬町の恵比寿の宮。杉森神社でも福守と福財布を授与する。なお、べったら市の名物の浅漬大根は今年は出来が悪く昨年より1~2割高いという。

大正10年10月22日都新聞
人生相談
梅干が腐敗する
田舎からもらった梅干が腐敗したのを母が案じてます。何か不吉なことあるのでしょうか?
答え 梅干の作り方が悪かったためで梅干の腐敗は人生の吉凶に関係ありません。

第一次世界大戦後の不況でべったら市にも影響があった。日本橋の繊維問屋街にある商人で恵比寿講を行うことが少なくなっていたこともある。
大正10年の農作物は天候不良のため不作で、特に沢庵漬は他の日用商品が下落していく中で反比例して暴騰していった。不景気の中でこの年の漬物組合員数は636名となっている。
 高騰した漬物の価格は翌年の漬物製造業者・大根生産農家の増加を招き乱売となる。採算の取れない業者は消えてゆき、肥料代も出ない大根価格となり農家は作付けを止め乱売が終息する。
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大正9年 漬物の市況

2006年09月29日 | 築地市場にて
大正9年の漬物業界

大正8年欧州大戦の休戦時に日本の工業生産額は全体の56%を占め(農業生産額は35%)、戦争が始まる前は農業生産額が工業生産額より多かった農業国が新興工業国となっていった。明治の日清・日露の両戦争の負債(国債)も大正の第一次大戦による好景気で消えた。戦争が終わると好景気の反動で欧州の生産が回復しアジアに商品がまわり、過剰生産となった日本製品とぶつかり、不況となった。

大正9年3月、株式市場の大暴落が起こり、第一次世界大戦後恐慌が突発した。企業倒産が続発し、街に失業者があふれ、労働組合運動は次第に過激になり、社会不安が一挙に高まった。
 組合史によると年前半は混乱的物価上昇であって思惑買いが更に物価上昇を招くという状態のとき、株価が暴落した。後半期に移ると、生糸・木綿・雑穀・米・麦・砂糖・醤油その他つるべ落としに物価が下落し、株式市場にも不況風が吹き銀行は取り付け騒ぎとなり大恐慌となっていった。べったら市を開いている日本橋大伝馬町・小伝馬町辺りは繊維製品の問屋街であって、不況の影響は当然受けた。

日本橋の魚河岸が大正7年まで元日だけ休日であったが大正7年4月22日から月一回の定休日となって行った。戦後、築地市場では昭和24年には魚類部が毎月2のつく日、青果部は5の日と休市日が定められた。その後、週休となり、現在は基本的には日曜と月2回の水曜日が休市となっている。当時・漬物組合は大正8年10月21日から12月を除く21日を休日としている。
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 米騒動と公設市場

2006年09月28日 | 築地市場にて
公設市場は、第1次世界大戦後の生活物資の高騰により、応急策として東京、大阪を始め全国各地で日用品廉売所を官民合同で開設したのが始まりだった。この公設市場は後に中央卸売市場制度の発足の基となった。
米騒動―公設市場—中央市場と歴史は動いたが日本橋魚河岸と京橋大根河岸から移転して今の築地中央卸売市場となるには関東大震災という自然災害によって移転が促進された。
 今度平成24年に移転が予定されている豊洲市場は何によって、移転が促進されるのだろうか。すでに戦後、築地市場は大田市場移転案(今の野鳥公園あたり)、建替え案(汐留に仮市場を作り建替え・営業しつつ建替え)等があった。すでに移転計画の歴史は20年をゆうに超えている。明治政府が明治22年の内務省「市区改正条例」により東京の都市計画を作成した。日本橋等の市場を昭和10年なってやっと動かしたのに50年の年月がかかっている。フランスのパリの市場でも、アメリカのニューヨークの市場でも計画が作られてから移転の実現には50年の年月がかかっていると言う。
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べったら市 大正8年

2006年09月27日 | べったら市
大正8年10月19日万朝報
べったら市が来た
19日は日本橋通油町、大伝馬町、小伝馬町、鉄砲町、田所町は18日夜から露店商人は地割りに忙しい。浅漬店は600、植木120、宮師130、雑品130等出店し総数1000余の露店となる。堀留署には応援を依頼して警戒するという。

明治42年1月13日万朝報によると
東京の路面電車と人の事故は年間1000人の死傷者が出ている。

大正8年の漬物組合の状況
前年の米騒動と大阪における「公設小売市場」の発足により、東京も始まり反対運動が始まった。
10月27日 公設市場全廃を決議
11月13・14・15日 内務省・東京府市・憲政会・大蔵省・農商務省・税務監督局・商業会議所・鉄道院・政友会・国民党などを訪問し、陳情書を提出した
11月19日薪炭商組合・白米商組合等で組織された「日用品商連合会」より送付された趣意書・陳情書に同意した。
11月24日 公設市場の取引しないと役員会で決議


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 大正7年 漬物の市況

2006年09月26日 | 築地市場にて
大正7年
漬物組合の報告書
 「わが国がシベリアへ軍を進めるの時に際して、陸軍糧秣廠の御用が出る等のことがあって、漬物業界は更に一段の活況を示した。」とある。前年・大正6年9月末の台風被害で漬物原料野菜類の逼迫が影響していて、一般消費者には供給不足で、漬物類は高騰を続けたが売れ行きは良好であった。11月に至り、長く続いた欧州での第一次世界大戦が終わる日が来た。しかし、戦争によって好景気だった日本の経済界に動揺を起こし、軍需用品の業者の倒産がしばしば報道された。漬物は軍需用もあるが,日用食品であるので安定した売れ行きで好況の中、大正7年は終わった。
陸軍糧秣廠の御用とは
兵士のための漬物(沢庵漬・福神漬等)で安定した需要であった。当時はまだ都市でも家庭で漬けている人が多く野菜高騰時は漬物を購入するが野菜が安くなると自家製造するので漬物業者は前年の高騰した原料野菜で作った漬物が売れず苦労したので軍隊需要は貴重な安定販売先であった。

米騒動  
1918(大正7)年7月~9月の全国的暴動を指す
 
新米が市場に出まわる直前のいわゆる端境期に起った。米が自由販売であった時期には、端境期の若干の米価上昇は普通であるが、この年は新米の不作が予想されていたことと、7月23日、富山県でシベリア出兵のための米を移送阻止が暴動の発端となり、暴動は全国にひろがる。シベリア出兵(海外派兵は米の海外持ち出し、したがって国内の米不足、米価上昇が予想された)とが重なり、米価上昇を見こした米商の米買占めによって米価は一挙に高騰した。労働者・サラリーマンであろうと、農民・漁民であろうと、物価上昇に収入が追いつかず、生活に苦しんでいた人達は米価高騰でたちまち困窮に陥り、ついに米騒動となって爆発した。
政府は米屋に米を廉売させ、新聞報道を禁止し、鎮圧に警官のほか軍隊も出動させ鎮圧した。
卸売市場法の制定
大正12年制定された中央卸売市場法は,大正時代に起こった,物価騰貴,売り惜しみから発生した,米騒動を契機として,日本の農民,漁民の保護と一般消費者の生命維持のための食品安定供給を目的としていた。昭和10年2月に卸売市場法に基づいて築地中央卸売市場ができた。
この卸売制度の根本理念の現在も全く変わっていない.食品に対する,安心,安全,正しい価格形成,速やかな代金の決済,安定供給の確保が求められている。



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べったら市 大根の品種改良⑤まとめ

2006年09月25日 | 趣味としての漬物
練馬大根の品種
代表 練馬尻尖り大根(練馬の百姓・亦六が作ったという)
沢庵用として最適である。その特徴として葉は緑色、本葉十枚ほどまでは地表に伏し、生育が進むにつれて次第にたち、盃状形になる。成熟すると再び伏し状となる。根の長さは75センチくらい、首は地上に上がり、細く次第に太くなる中ほどは太さを増し大根の尻、つまり先っぽは尖がっている。八月中旬ごろに種をまくと百日ほどで収穫できる。
秋早生大根
練馬産の早生栽培の品種。播種してから75日位で収穫でき、葉は濃緑色、先葉はやや大きく、おかめ状となり根は全般に粗く、肉質は硬い。種苗研究者の説によると板橋区志村の板橋権右衛門が明治の末頃早生みの九日大根と練馬和田種の自然雑から選んで作り上げたものである。
黒葉理想大根
昭和8年の大旱魃の後,対暑性があって作り出された。
練馬秋止まり大根(小石川村で作られたという)
早生づまり・晩づまりの二種類があり、根は円筒形で首から下まで殆ど同じ太さで,煮食用(おでん・風呂吹き大根)に優れ、食味がよく、糠漬に適していた。
みの早生大根
北豊島郡岩淵町袋村付近で古くから栽培され、練馬でもかなり栽培されていた。この大根は生大根として出荷するもので早・中・晩の三系統があり、圃場期間も短く春まき大根として優れていた。
 天保年間に板橋区の志村の百姓巳之助が同一畑で(九日大根と亀戸大根)を作っていったところ、自然交雑によって作られた早生の品種が出来た。巳之さんの畑から出来た早生の品種なので「みの早生大根」と呼ばれた。美濃の字を当てるのは間違いである。

参考
「玉川長太の練馬に大根がなくなった日」 玉川長太著
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べったら市 大正6年

2006年09月24日 | べったら市
大正6年
大正6年(1917)9月30日に東日本を襲った台風は駿河湾から上陸した大型台風で列島を縦断し、東京にも高潮が襲うなどして、死者・行方不明1300人以上出した。
 この水害で東京の日用品の物価が騰貴し、警視庁の物価に対する干渉が厳しかった。漬物組合は「小売標準値段表」を印刷し組合員に配布した。
 一方、社会情勢は欧州における戦争「第一次大戦」がいつ終わるか見通しがつかず、わが国の商工業は益々発展し、諸物価は高騰していった。食品業界は品不足のため騰貴し、また交戦国に向けて輸出される物品の価格は甚だしい暴騰であった
  漬物類は他の商品に比べて騰貴率は低かったが、夏期雨量が少なく原料が不作のところへ、9月末の台風で野菜類が皆無となり、前代未聞の暴騰相場となり、数年来の不良在庫となっていた漬物まで売り切れ、業界の黄金時代となった。

大正6年10月20日都新聞
べったら市
浅漬は不出来
もう今年もべったら市となった。昨日は夕方から小伝馬町あたりの店の地割が出来電車の警戒もでき、その筋の警戒も厳重に出来行き届いていた。しかし、日が暮れて8時頃になっても人出は少なく9時になってようやく電車通りは込み合ってきた。それでも電車を止めるということにはならず、横町は梅花亭の切山椒が人の山を築いている位でこれでもたいしたことではない。祖師堂にはいつもの見世物小屋もなく高野堂にわずかに小人形の芝居ごっこをやっているのに子守が立って見ている位なものだった。
名物の浅漬は人形町通りにことに並んで客を呼んでいるが売れ行きは思いのほか少ない。浅漬大根は嵐のためか一向に太いのが少ない、値段は大きいのが2本縛り35銭が言い値で20銭位で手打ちしていたらしい。べったら市の売物としてなくてはならない戎棚の見世はチラホラ見えたがまるで買っている人は見かけない。しかし夜12時頃までザワついていた。

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大正5年漬物の市況と魚河岸

2006年09月23日 | 築地市場にて
大正5年10月18日から21日都新聞の論説
市民とサカナ
コレラから受けた魚商の打撃
コレラの発生によって最も打撃を受けたのは漁業者及び魚商人である。最初は船舶に発生し、ついで漁師,海運業者に感染し病毒が河海に浮いているというので沿海漁業が禁止されたため,海魚は病気を媒介すると言うウワサが市民の神経を過敏にし、魚市場を閑散にし、魚業はさびれ、魚商人は寂れた。
 また、漁業者は衛生と言うことに頓着せず、漁場から市場へ搬入する方法や設備が不衛生で、また小売商が乱暴な取扱いがあったといえる。
これらを打破するためには従来の慣習を改め設備を改善することである。

平成の豊洲市場へ移転の大儀名分は食の安心安全で。今でも大正と同じ問題抱えている。

大正5年の漬物の状況 「炎よ永遠に」東京都漬物事業協同組合より

欧州戦乱(第一次世界大戦)の継続の見通しにより非常に経済の活況を示し、十年来見ざる盛況を呈している。このような状況の中で、漬物業界を見ると一月より三月、即ち閑散期に於いても缶詰類は製造材料の騰貴による先高を見越しと品不足のゆえに、売れ行き好調だったが四月に至って、反対の現象を表した感がある。漬物類は一般に平凡な売れ行きだったが梅干は大不作につき夏期より秋期に向かっての時期にコレラの流行に遭遇し、非常なる売れ行きを示した、価格変動が激しく、短期間に平年の倍価格となった。このようなことは殆どの商売をしている漬物業者の経験にないという。なお続いて雑穀類及び調味料は暴騰し、年末に及んで漬物類まで品薄の状況にて,益々高値を現し一般営業者でも原料高製品安を嘆きに至っている。世間一般の好景気に反比例した結果で年末に至るのは誠に遺憾である。
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べったら市 大正5年

2006年09月22日 | べったら市
大正5年10月18日万朝報
大根は美濃種
べったら市近づく
19日のべったら市は大江戸の名残を留める年中行事の一つで、また年末の市の皮切りである、その市の開かれる日本橋大伝馬町、小伝馬町を中心として通油町、通旅篭町等にでる名物の浅漬,菊の鉢の露店はその数2000を越える。所轄の堀留署では、今年は例年より混雑するだろうと言うので非番巡査の招集はもちろん、久松・新馬場橋の両署より50名の応援を乞うて警戒し取り締まりを行うとはずである。
 小伝馬町の四方商店主曰く「浅漬大根は美濃種で値段は大(2尺位)20銭より小(1尺)10銭位まであるが11月頃できる九日大根の浅漬が一番良いとしている、今年は地面が冷えているので大根の生育は悪い」云々。

大根は美濃種というが東京の百姓「みの吉」が改良した品種である。露店商の数が2000という数字はベッタラ市の歴史の中で最大の数である。

大正5年10月20日都新聞
大根の相場が決まると称されるべったら市。
19日は朝からの雨に例年の景気は無く、小伝馬町の電車の交差点付近と通油町の前側に桐油屋根の浅漬屋や縁起物屋が淋しく並んでいて客を呼ぶ声も甚だ貧弱に聞こえた。しかし、小伝馬町横町に陣取った植木屋の菊は街の両側にぎっちりと並んで雨にぬれた菊の葉も花も袷衣(あわせころも)の気合をはっきりと現し、買い手も大分込み合って蛇の目の上へ大文字の番傘が重なって植木屋との押し問答賑やかに市らしい味があっていずれも雨を怖がって買う人も稀に肩に乗せ手のひらに重そうな鉢を載せて行くのはホンの近所の人らしい人ばかり。この調子だから浅漬の売り上げも思わしくなく、いつもなら本石町から乗る夜9時頃の電車は細長い新聞紙状の包みにみなぎらせた大根が、今年は極めて少ない。若いかみさんが子供を背負って土産にしている姿を一つ二つ見ただけだった。


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べったら市 大正4年

2006年09月21日 | べったら市
大正4年10月20日都新聞
べったら市(昨夜)
昨日はべったら市です。人形町界隈は例のごとくすばらしい浅漬の店が出来て江戸伝来の食気を大いにそそる。今年は大根の出来が悪いと言う評判でしたが実際はウワサも苦にならず景気よく夕方よりポツポツと客足が出始めたが早宵の内は往来の者に手を擦り付け、娘たちは「キャッツキャッ」と言ってました。が麹も何もついていない手でやっているので言わば麹をつけた昔の型を見せるようなものです。7時~8時には盛んな人出となり、威勢良く売ったり買ったりしていました。不作のわりに安いのは商人が見切りよく捌いているので売れ行きはよい方です。

大正4年は年の中頃までは野菜は平年作であって漬物の諸原料の野菜確保は容易であったが、秋になって天候不順のためある種の原料の一時的に騰貴した。そこに第一次世界大戦の影響が日本に及び雑穀を収穫期から輸出し、高価格となっていた一方,欧州からの輸入の不足によってビン、缶、合成染料等は非常に暴騰し購入することは出来ず、その上高価格によって商品が売れず販売に困難を極めていた。・
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べったら市 大根の品種改良④大蔵大根

2006年09月20日 | 趣味としての漬物
大蔵大根(東京・世田谷)
東京.世田谷で戦前広く作られていた大蔵産の大根は、「秋つまり大根」別名「大蔵大根」などと呼ばれていました。
 大蔵大根はやわらかく、煮ものに適しているといわれます。最近、世田谷区の地場野菜として復活して栽培がなされています。先端部分が丸みをおびた、尻ずまり型の代表種。肉質はきめ細かく、みずみずしさと甘味に富む。
世田谷区は平成13年7月に商標登録(No.4487715、487716) しました。
 明治5年の東京府誌料によると、世田谷の全体の干し大根の産額は400円(ちなみに北豊島郡下練馬村一村だけで干し大根625円)だった。
 世田谷郷土資料館「ボロ市の歴史」によると明治末期から大正にかけてボロ市の商材にムシロの店が目立つようになった。これは練馬や世田谷などで大根を栽培する村々で沢庵の加工がさかんとなり、大根をそのまま出荷するより付加価値の高いので干し大根にするため,ムシロが必要となったと書かれている。(この記述は少しおかしい、練馬では大根を干すのはハザかけ)ムシロの用途は何だっただろうか。大蔵大根が有名になったのは大正以後ではないだろうか。昭和10年に「大蔵大根」と命名されたという。東京の市民の増加による蔬菜需要の増大は世田谷の農民に大根栽培を勧めた。と同時に、郊外に向かって発達した電車によって通勤に便利となり移住してきた市民によって畑は消え、栽培が難しく、収益の低い大蔵大根は一時的に消えた。大蔵大根は出荷先として渋谷,大井、三鷹、品川方面に出されたという。比較的価格の安い重量野菜の生大根を運ぶのに適している水運の便が板橋・三浦より悪く遠方に出荷できなかったから比較的知られていない。
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べったら市 大根の品種改良③練馬大根

2006年09月19日 | 趣味としての漬物
大正期の東京・練馬大根の品種改良は明治16年に現在の練馬区春日町に生まれた鹿島安太郎の功績を忘れることは出来ない。彼は大根栽培の品種改良や農耕技術を改良し、各地に普及講演をしたり、実地指導するなど活躍し、後にこの功績称えて昭和41年練馬・愛染院参道に顕彰碑が建立された。
大江戸線 練馬春日町駅下車徒歩3分
愛染院に面している富士大山道(富士街道)は、江戸時代中期頃から農民・町民の間にひろまった大山詣(神奈川県の大山阿不利神社)や富士山詣でに行くときの道で、北町1-25の旧川越街道と環状8号の分岐点に道しるべの富士大山道の庚申塔があります。当時大山詣は信仰の対象でしたが旅行という面もありました。練馬大根は大山講の持ち帰った土産としての波多野大根の種子と練馬の地大根との交雑でできたといわれます。
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べったら市 大根の品種改良②三浦大根

2006年09月18日 | べったら市
三浦大根
1630年 新編相模風土記稿によると
「物産に鼠大根を載す。里人は高円坊大根と称す」と記載している。
三浦は江戸湾口にあって幕府天領となっていて船舶取締の海関が設けられ、船奉行が置かれた。江戸の発展と共に消費地である江戸へ魚類の供給に押し送り船(海の貨物急行便)が仕立てられた。(初物のカツオを運んだ。)
三浦から江戸へ魚が運ばれたのは正保(1644-47)頃からで寛文の頃には三浦の各所から江戸へ魚が送られた。
三浦大根は高円坊大根と練馬大根を交雑して明治35年に神奈川県三浦郡農会の鈴木寿一氏によって作られたダイコンである。鈴木寿一氏は日本橋のべったら市の大根の価格に刺激されて研究したと思われる。三浦と日本橋魚河岸は毎日情報交換していたのである。三浦半島の農業は明治に入ると横須賀の陸海軍基地の安定した需要が発生し、野菜の品種改良や増産が行われた。しかし、牛馬しかなかった輸送ではゆっくりとしか発展しなかった。
目で見る三浦市史より
1695年(元禄8年)三崎一割船が始まる。これに肴荷を積み江戸へ運ぶ。
1875年(明治8年)押し送り船で鮮魚と野菜を京浜地区に輸送。
1881年(明治14年)汽船で東京へ魚を輸送。
1907年(明治40年)押し送り船に代わって発動機船で魚商の自家用船として活動する。
大根の輸送
1841年(天保12年)相模風土記の記録
明治40年(1907年)船による東京出荷。
明治の中頃から東京―三崎間の汽船の様子は朝8時に東京を出航し午後1時に三崎に到着する。夜10時に三崎を出航し午前3時に東京に着く。積荷は魚が多く、日本橋の魚河岸の市の時間に合わせたのだろうか。
大正8年(1919年)自動車による東京出荷。

大正14年(1925年)三浦大根と命名。ブランドの確立。
京橋大根河岸青果市場の昭和10年2月、最後の時のダイコンは三浦ダイコンであった。
昭和45年(1970年)国の大根の指定産地となる。
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べったら市 大根の品種改良①

2006年09月17日 | べったら市
明治34年頃のべったら市の記事に出てくる袋村のみの種の大根。
袋村は岩淵宿の西にあり、現在の地名で言うと北区桐ヶ丘1・2丁目、赤羽北1.~3丁目、赤羽台3.・4丁目、赤羽3丁目、岩淵4丁目のあたりとなる。
武蔵には北豊島郡池袋及び荏原郡下袋(大田区羽田)がある。袋と言う地名は低湿地と察せられる。この袋の地は徳川時代は幕府直轄地だったが、その後は小石川伝通院にも分かち与えられてた。正保中は291石中水田は166石、陸田は124石だった。後に袋村は水田より畑が2倍多かった。
参考、武蔵野歴史地誌より
北区の農業が明治30年代は京橋大根河岸青果市場等に出荷するのに水運が利用でき、車馬も利用でき、生大根の出荷が盛んであった。しかし、東京に近く、明治18年に赤羽駅が出来、電車の便が良くなると畑は市街化し、明治の終わり頃から大正中頃には工場や移住してきた人々の住居となってしまった。今では、飛鳥山の郷土資料館にも早生大根の産地資料がなく、歴史の中に埋もれて、ただ明治30年代の産地記事が残るのみとなってしまった。戦後の練馬も同様の状態になっていった。
 袋村の大根は九日大根と言って夏大根の一種で、旧暦の九月九日ごろに収穫となる。暦の改変によって、練馬大根から早生品種の改良が進んだ夏大根がべったら市の大根となっていった。
大根河岸の大根は時代によって、季節によって産地が異なるが、少なくとも明治30年代の初秋の大根は北豊島郡の袋村、王子、赤羽だっただろう。
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べったら市 大正3年

2006年09月16日 | べったら市
大正3年10月20日都新聞
べったら市
江戸時代からの年中行事のべったら市がある。今年も押し詰まって来た。昨日の小伝馬町通りは只ならぬ賑わいで人の足も踏み込めぬ中を例によって「安くて美味いのーー」と喚きたててイナセナ声々、大きいのが10銭位、並で5~6銭という浅漬が飛ぶように売れる。それでも商人言わせれば余程景気が悪いとこぼしていた。大伝馬町の恵比寿神もごったがえす参詣人の秋の衣に似ぬ蒸し暑さを言いながら押し返していた。

大正3年のべったら市は暑かったらしい。
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