都営三田線の白山駅で降りて、白山神社へ行った。この白山神社の後ろに江戸時代の戯作者が住んでいた。名前は梅亭金駕という。彼は上野池之端の酒悦主人の依頼により、缶詰に入れた漬物の命名(福神漬)を行った。時期的には明治18年頃という。
今の白山神社付近は東洋大学のキャンパスで、学生らしき人が多い。白山神社から、この駅を最寄りの駅一つとしている駒込学園中学・高等学校へ向かった。この駒込学園は上野寛永寺の学習僧からできた学校で、神田付近にある本屋街は湯島聖堂の儒学者と共に書籍街となったという。駒込学園の歴代の校長先生は受験生の親への講演で了翁禅師の話と共に学習僧への食事で出した野菜くずのつけ物が福神漬の元祖という講演話が伝わる。
駒込学園の草63都バス停駒込学園前は森鴎外記念館の最寄りのバス停でもあった。森鴎外は小説家・陸軍医官として知っていたが福神漬の関連は無いと思っていて、ついでの気楽な訪問となった。
森鴎外が北白川宮能久親王事蹟という史伝を書いたことを思い出し図書室のレファレンスの人に尋ねて、研究誌鴎外検索で北白川宮関連を出してもらった。
鴎外全集には入っているがなぜか森鴎外が編纂者となっている。明治41年6月東京偕行 社内棠陰会 編 となっている。
北白川宮は幕末の主人公の一人でもあって、上野戦争で寛永寺から脱出した。親幕府の心情がある、下谷の人達の絶大な支持があった。荒廃した上野の地が復興するにつれ、観光客需要の商品開発が酒悦主人によって福神漬が誕生した。商品開発は明治10年頃から始まったという。
北白川宮と森鴎外の関係は二人とも陸軍でドイツ留学し、ドイツ女性と交際したことがあった。
昭和に台湾教育委員会が(能久親王御事蹟)1937年に出版し、台南での死去時の様子やその後の扱い等がこの本で理解できるようになった。
台湾では北白川宮を暗殺した話があったが事実はマラリヤに感染し、病死したようだ。ただ台南の掃討作戦で現地の粗末な宿営でマラリアを運ぶ蚊の侵入を許したようだ。暗殺説では蚊帳のすき間を開けたという。北白川宮は死を悟った時、現地の人の犯人探しをするなという指示をしたという。多分作られた伝説だろう。福神漬には多くの作られた伝説がある。この謎解きがもう十五年経ってしまった。