年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

森鴎外と福神漬の想定外の関係

2024年01月31日 | 宅老のグチ
都営三田線の白山駅で降りて、白山神社へ行った。この白山神社の後ろに江戸時代の戯作者が住んでいた。名前は梅亭金駕という。彼は上野池之端の酒悦主人の依頼により、缶詰に入れた漬物の命名(福神漬)を行った。時期的には明治18年頃という。
 今の白山神社付近は東洋大学のキャンパスで、学生らしき人が多い。白山神社から、この駅を最寄りの駅一つとしている駒込学園中学・高等学校へ向かった。この駒込学園は上野寛永寺の学習僧からできた学校で、神田付近にある本屋街は湯島聖堂の儒学者と共に書籍街となったという。駒込学園の歴代の校長先生は受験生の親への講演で了翁禅師の話と共に学習僧への食事で出した野菜くずのつけ物が福神漬の元祖という講演話が伝わる。
 駒込学園の草63都バス停駒込学園前は森鴎外記念館の最寄りのバス停でもあった。森鴎外は小説家・陸軍医官として知っていたが福神漬の関連は無いと思っていて、ついでの気楽な訪問となった。
 森鴎外が北白川宮能久親王事蹟という史伝を書いたことを思い出し図書室のレファレンスの人に尋ねて、研究誌鴎外検索で北白川宮関連を出してもらった。
 鴎外全集には入っているがなぜか森鴎外が編纂者となっている。明治41年6月東京偕行 社内棠陰会 編 となっている。
 北白川宮は幕末の主人公の一人でもあって、上野戦争で寛永寺から脱出した。親幕府の心情がある、下谷の人達の絶大な支持があった。荒廃した上野の地が復興するにつれ、観光客需要の商品開発が酒悦主人によって福神漬が誕生した。商品開発は明治10年頃から始まったという。
 北白川宮と森鴎外の関係は二人とも陸軍でドイツ留学し、ドイツ女性と交際したことがあった。
 昭和に台湾教育委員会が(能久親王御事蹟)1937年に出版し、台南での死去時の様子やその後の扱い等がこの本で理解できるようになった。
 台湾では北白川宮を暗殺した話があったが事実はマラリヤに感染し、病死したようだ。ただ台南の掃討作戦で現地の粗末な宿営でマラリアを運ぶ蚊の侵入を許したようだ。暗殺説では蚊帳のすき間を開けたという。北白川宮は死を悟った時、現地の人の犯人探しをするなという指示をしたという。多分作られた伝説だろう。福神漬には多くの作られた伝説がある。この謎解きがもう十五年経ってしまった。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

家事労働の評価より介護労働の評価が難しい

2024年01月30日 | 宅老のグチ
親の3回忌を終えて、夜中に思うのだが、自分自身の評価でも実親への介護寄与度は1%も無いと思っていて、遺産協議の時も放棄の方針だった。ここで主張しても寄与度が少ないし、今後にあった時も放棄なら、それほど揉めることは無いとおもう。さらに今後の生活で親の生きている証をどのように残すかと考えると、谷中墓地等を散策していて、関藤藤陰(石川和介)の墓地は消えていて、150年も経てば、消える現実を知った。さらに儒者の墓があるところ記録を見ると女性の子供しかいないところが消えている。ただ文献にその名が残る。
 アナログの墓とか寺院とかは今残っているが300年も経てば、無縁墓地となり、寺院も消える。法事の回数も減るし、お経の内容も不明。CDのお経もあって、さらに墓地清掃のサ-ビスもある。管理の無い、自然が豊富な墓地は雑草の行き場であっという間に草で覆われる。法事で冗談でビックモ-タ-で使っていた除草剤を使ったらと言ったが誰も笑わなかった。
 長い介護で短い介護でも、当事者は亡くなっていて、評価を聞けそうにない。そこであの世とか来世という言葉で非現実の世界を作り出し、そこで生きている世の評価を移転して、人生を動かそうとしている。それは人の顔を鏡に映して見ていると同じである。鏡に映っている像は自分で無いと知っているのに表情が鏡によって見えている。
 まだ介護施設でお客様満足度1位という宣伝を聞いたことが無い。何かネット情報で地方の特養が空室が出来そうで、自由度の高い老健を増やしているという。近所の保育園の様子も少子ということでずいぶん変わった。
 介護は終わって見て評価が始まるのでなく途中でも他の人の評価が加わる。多くはすれ違いとなる。いや全部が評価のすれ違いとなる。そこに評価が安定するには自分の予想では長い時間が必要と思うが、多分日常生活で忘れるということでわだかまりが消えると思う。ただ例外的な事例があって、その後の不幸で消えない人も出て来る。これがまた怨念というやつで消し去ることが難しい。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

漬物屋から見た輸出用韓国製キムチラーメン、漢字表記の感想

2024年01月29日 | キムチ
韓国農林畜産食品部は2013年中国にある韓国大使館などとの議論を通じて中国語表記法として「辛奇」を採択し、2021年文化体育観光部「公共用語の外国語翻訳および表記指」ではキムチの中国語表記と認定してきた泡菜を削除して「辛奇」を新たに明示した。
 韓国と中国は何回もキムチの表記で揉める。とばっちりが日本に来るからキムチの歴史論争の知識が必要となる。

今回の騒動の始まりはアメリカで販売されていたキムチラ-メンの漢字表記である。
農心という韓国ラ-メン業界のトップ企業が米国内販売強化で副表記に「中国語を使っている米国在住の中国人が理解しやすいようにと辣白菜という用語を併記した」もので「法令には反していない」としいる。 農心のキムチ表記問題は1月25日、米国に暮らしている韓国人の情報提供から始まった。「辣白菜は中国東北地方のハクサイの漬物であり、韓国のキムチとは全く違う食べ物」と指摘した。キムチ起源歪曲(わいきょく)など中国の「キムチ工程」が続く中で、「(韓国製品の)誤った中国語表記を使用すれば、中国本土の人にまた口実だけを提供することになる」という。 ただし「辣白菜」表記を問題化するのは行き過ぎではないかとする指摘もある。3年前に「辛奇」という公式中国語表記の使用が決まったものの、中国語を使う消費者(韓国国内にいる旅行者か?)にはいまも十分浸透していないという説明だ。 これまで韓国キムチは2001年国際食品規格(CODEX)で認定を受けた後、それまでこれといった漢字表記法がなかった。当時、中国消費者はキムチを「韓国辣白菜」「韓国泡菜」と呼んできたが、泡菜は中国四川省地域の野菜の漬物なので東北工程論争に発展した。 これに対して韓国農林畜産食品部は2013年在中国韓国大使館などとの議論を通じて中国語表記法として「辛奇」を採択し、2021年文化体育観光部「公共用語の外国語翻訳および表記指」ではキムチの中国語表記と認定してきた泡菜を削除して「辛奇」を新たに明示した。 ◇農心「中国消費者が理解しやすいように…法には背いていない」 キムチの中国語表記論争が起きるとメーカー側は中国消費者が理解しやすいように表記したという立場を出した。 農心関係者は「キムチラーメンの容器面に大きな英語で『Spicy Kimchi Flavor』(辛いキムチ味)と表記してあり、英語があまり分からない中華圏国家の消費者のために小さな文字で『辣白菜』を併記した」とし「辛奇という用語は中国現地ではあまり使われておらず理解しにくいため、東北工程論争のあった『泡菜』ではなく『辣白菜』を採用した」と説明した。 続いて「中国語を使う人々が理解しやすいように辣白菜という用語を併記した」としながら「法令には背いていないので現時点ではこれを『辛奇』に変更する計画はない」と明らかにした。
 この論争を見ていると韓国のキムチの言葉の扱いが大変という感じがする。正確な日本語の発音でキムチを韓国人に伝えることは出来ないし、日本語に英語をカタカナで表すことに似ているという。何か幼児言葉の様に感じるのだろうか。日本言葉で言うとまだ未発酵とということかもしれない。未発酵のキムチ程美味しくない漬物で辛味だけが口に残る。
 日本語の漬物の漢字表記も明治以後の変遷がある。変動があったのは漢字を覚える数が多すぎて、他の学習に妨げになるという議論が多く、漢字数制限で漬物にも影響があった。戦後に当用漢字表が出来て、その時に漬物の(漬)という字が学校教育の場で外された。これが今でもJAS法の農産物つけ物類という法律にひらがなが残っている。さらに送り仮名の問題で漬物は漬け物となりス-パ-での売り場表記が漬物となっている。この混乱は表記にこだわらない漬物業界を表している。
 常用漢字という制度が出来て、漬物が今の表記になった歴史がある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

嘘のニュ-スが多すぎて

2024年01月28日 | 宅老のグチ
転居後にTVが無くなってほぼ2年になる。コロナ期間でTVの話題が今日の感染者数の話題で今から思うとあんな報道に価値があったのだろうか。岩手県の初感染者騒動の記憶がある。当人だって他人から感染したのに重罪犯のような扱いだった。特に初期には物流関係者と医療従事者へ目が厳しかった。
 結局今の統計ではコロナで亡くなった、またはその疑いのある死は顕著な激増とならず、微増という感じと思う。今でも病院等がマスク着用要請があるが、電車内では異国人観光客のマスク姿は見えない。日本人は半分くらいマスク姿と見える。
 どこかに日本のコロナ後遺症があって、すぐには気が付かない。先日日暮里に行った時、バス停付近に店舗を構えていた、マキ・イトウ毛皮店が見当たらなかった。日暮里繊維街にある、端切れの皮を売っている店で、偶然知り合って、2~3回言葉を交わした。風貌から引退時期も間もないと思っていたが。店が消えていた。皮の端切れ店はまだ日暮里繊維街にはあるがやはり減るということは寂しい。手芸ということは趣味の一つであって、ありあわせの素材で不要の品を生かせる。しかし断捨離の時代では残されたものがゴミ屋敷の仲間入りとみられることを想定する時代になった。テレビを買う金はあるがあと二度ほど転居を予定しているので、サイズ不安でまだ買えない。
 それにしてもテレビ局の経営が悪そうで、この前に築地場外市場へ行く時、新橋駅から電通のあるビルを通り抜けていったのだが、寂寞感があった。この電通のビルにアドミュ-ジアムという広告の図書館がある。
 中国ヨイショの人達の困惑が今度の春節に日本を訪問する人たちの行動で判る気がする。金を持っていても将来不安でコンビニで働く日本人高齢者を中国の小金持ちはどう見るのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福の神巡り 谷中編

2024年01月27日 | 福神漬
元日の大震動で不安の新年の始まり。未完成の原稿を見ていたら、二回に分けた谷中七福神巡りをしていた記事が残っていた。1月10日が一応七福神巡りの期間と知った。その期間後に七福神巡りの残りを巡ったが悲惨だった。閉じられている扉の外で参拝。
谷中の七福神詣でから、少し福の神を追加したコ-スの設定を考える。。
JR田端駅から谷中七福神巡りが始めるのが通常のコースで田端の東覚寺から始まる。そこで御朱印帳を購入し、各寺で参拝の印の判を記す。青雲寺・修住院までの前半3寺でコ-ス設定を変える。
修住院の参拝後に、通常は谷中商店街に向かうのだが、修住院の墓地の所に富士見坂というのがあって、十数年前には登り切った坂の途中から雪に覆われた富士山が見えた。その光景の変遷が台東区の掲示で知ることが出来る。その景色を壊したのが不忍通りに立つマンションという。
 富士見坂を上ると,突き当りの塀が福神漬の顕彰碑がある、浄光寺である。江戸時代は雪見寺と言っていた。隣接の諏訪神社は筑波山まで見える展望の地であった。
 福神漬顕彰碑を見たのち、残りの寺を回る。朝倉彫塑館の屋根の上の彫刻を見つつ、長安寺へ行く。なぜかこの寺の印象が薄い。次に谷中墓地内の外れにある天王寺へ行く。ここは毘沙門天。その後に大黒天の護国寺で普通は不忍池の弁天堂へ行くのだが、寛永寺根本中堂の境内にある秋田の出身の了翁禅師の碑を見る。この人の来歴は上野の地の文化の人でもある。
 日本の図書館の始まりというべき、不忍池に了翁の作った図書館のような一般人でも仏教書を読めるところがあった。ただ地盤が弱く何度も地震と火災で倒壊し、別の地に移った。了翁禅師も福神漬伝説にある創製者となる。
 新年は福から始まるが異例の元日で何が動いているのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

春節ボーナス

2024年01月26日 | 宅老のグチ
<春節ボーナス> 中国のボーナスは年末ではなく、旧暦の正月 である春節(1月末から2月中旬・時期は毎年多少ずれます)の前に 一括で配ります。築地いた時に、春節前の駆け込み日本輸入のつけ物原料があって、日本に到着し、通関検査後、現物の品質確認後にドル建てで送金していた。この送金が春節の暦の変動で忙しい時が異なる。なぜ中国がこの時期に混乱するのは、輸送と春節ボーナスの絡みがある。

中国のつけ物工場は個人企業に近く従業員のそれぞ れの業績に基づき、社長の判断で金額を決めま す。従業員はこのボーナスを待っている。このボーナスですが、転職等の転機ともなって います。転職を考えている人がボーナスの支給 を待って転職するケースや、ボーナスに不満が あればやめるケースもあります。また、春節休 みにボーナスをもらって帰省した従業員の中 には、春節期間中に給与情報交換でもう工場に戻らなくなるも人も多く、特 に人手不足が続いている漬物製造業など は春節明けにどのくらいの従業員が戻ってく るかは会社にとっても大きな心配事です。 中国で不況が叫ばれていますが、漬物業は不景気でも中国では人手不足です。中国でもタイでも。工場見学したタイのつけ物工場で団地内のワコ-ルの工場の女性従業員は若く、漬物(ガリ用の生姜)工場は平均年齢が高いと感じた。
 このあたりの最近情報は今消えているが、ずっと人手不足だった中国のつけ物工場は多分人手確保で今は苦労していないはず。ということはボ-ナスを減らしても継続雇用が出来ると予想する。そう日本でも中国でも漬物は最底辺の仕事であることを今は自覚している。
捨てる神あれば拾う神あり。
 この話は普通に良い話と思うが長年漬物業をやっていると、不景気時代に社員をリストラするために新規参入する業者が絶えない。さらに地方の農産加工の人も来て、行政の応援もある。多くの間違えは漬物を作ることは容易い。さらに農家の出荷時のダイコン価格は10円の時もある。それが東京のべったら市で大根が1本1500円になる。いいものを作っても売れない。売り先が無いのだ。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

久しぶりにキムチの話題

2024年01月25日 | キムチ
2024年1月22日、韓国・ソウル新聞は「韓国のキムチ輸出量が過去最高を記録した」と伝えた。
記事によると、韓国の23年のキムチ輸出量は4万4041トンだった。18年には2万8197トンにすぎなかったが、19年は2万9628トン、20年は3万9748トン、21年は4万2566トンに増加。22年は4万1118トンでやや減少したが、23年は前年比7.1%増加した。輸出額は1億5561万ドル(約230億円)で、22年の1億4081万ドルより10.5%増えたという。
 日本の青果等の中央卸売市場は品質に関係なく、産地と量と価格が新聞に載るのが基本で、規格外品を扱う意欲が欠ける。
 韓国の新聞のキムチ報道は特色があって、反日の人は輸出先のキムチの半分が日本だということが明示しない。逆にキムチの輸入先がどこかということで中国ということを明示する。さらに気が付くのは日本も韓国も自国産食品の記事に優先度があって、韓国についてはキムチ、日本については酒のような気がする。
 2022年の日本の財務省貿易統計に基づく2022年の農林水産物・食品輸出額(確報値)は、前年比14.3%増の1兆4,148億円(少額貨物輸出額767億円を含む)となった。これは円安効果もあって、量を知らないといけない。さらに清酒等も海外製造があって減ることもある。
輸出額上位3品目は、1位がアルコール飲料(1,392億円、前年比21.4%増)、2位はホタテ貝(生鮮・冷凍・冷蔵など)(911億円、42.4%増)、3位は牛肉(くず肉を含む)(520億円、4.0%減)となった。
今から40年ほど前は日本食貿易はタクワン貿易と言って、タクワン漬が故郷を偲ぶ食品の代表だった。今は多分貿易統計の数値は少ない。
 別の記事でマックとモスの値上げの話で炎上するのはマックでモスはほとんどない。両方とも値上げすると売り上げが落ちるのだがマックの方が嫌われている。フードライタ―は炎上する方を探っているようだ。従って有名にならないと炎上しない。
日本のキムチに関するライタ―は日本産のキムチに関して邪道と思っていて、関心が無いようだ。しかし日本の漬物業界新聞の分析では、漬物の6割が浅漬類で、その半分がキムチのようだ。さらに輸入キムチは日本国産キムチよりはるかに少ない。一時は6000億円ほどあった漬物が今では半分となった。従ってキムチは750億円はある計算となる。韓国産キムチの230億は3割となる。
 2000年代の中国と韓国のキムチ騒動で多くの日本の同業者は被害を受けた。今は日本の業者が新商品名を付けるときは、韓国風の名前を外す傾向がある。本来ならキムチラッキョウが今は辛味ラッキョウとなっている。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

日本人だけの日本の終わりの元年 

2024年01月24日 | 宅老のグチ
最近の東証株の上昇の速さは、バブル期の速さの記憶をよみがえらせる。家に入る新聞の折り込み広告で売る気のないのに地域の不動産の相場が知ることが出来る。これは築地市場で購読していた日本経済新聞のタワマン不動産とバブル期のゴルフ会員権もあった。その極は10万円金貨とNTT株だろう。これで利益を上げた人もあるが多くは損失の記憶が残る。
 最近のミスコンで、史上最高齢の女性が1位となった。その来歴から未来の日本が見える。日本の良さは日本では空気の様で自覚が無かった。これが動画でコロナ下で世界のひまつぶしで日本の風景がコスト無しで出回った。富裕層では日本に来る人も増えてきた。長い経済の低迷で今の所、英語のできない日本の高齢者が歓迎しているようだ。この辺は築地で見た光景を思い出す。築地市場付近には住居が無く、東南アジア系の旅行客が一番外れの浜離宮付近で迷っていた。普段はテレビ局の下請けが入っていて、彼らが迷子を助けていたが、見ていると異国人は市場警備の派遣労働者につたない英語で行き先を聞いていた。だいたい築地で迷子になる人の行き先は、大江戸線築地市場駅と場外市場なので、警備員が指で行き先を指示していた。その間の様子を見ていると笑顔で体の表現で話していた。学校英語より実戦英語だなと感じる。特にアジアの人の英語は日本人の発音を筆頭にして、なまりのようだと思われている。でも片言でも通じれば良しの精神で良い。
 さてミスコン話しに戻るが空き家は問題は家無き貧民を日本に来させる動機となる。何か先兵は欧州貧民から来る気がする。まだアジア系は差別の問題で告発騒動があって、定住には難儀するだろう。白色系(国籍を問わず)から始まり、拡大して行く。なぜなら少子と経済が活性化している時には、比較的に日本は寛容となる。
 欧米人のグルテンフリ―食は築地場外には多数ある。ただ築地人が日本人だけを対象としていたので、グルテンフリ―の内容を知らない。従って宣伝もない。日本女性の長寿の研究が停滞していて、まだ解明されていない。そこのカギはグルテンフリ―のコメ食と思われる。小麦のような食にはグルテンが含まれ、消化しにくく、腸内環境を悪化させる。コメはそれほど酷くなく、そこに漬物由来の乳酸菌が運ばれ、腸を健康にする。多くの乳酸菌は胃の酸で死滅し、小腸まで行かない。漬物の野菜が胃で消化されず、腸で乳酸菌が解放される。京都のつけ物のスグキ゚(酢茎)から発見されたラブレ菌もある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

すしざんまいの木村清さんの話し

2024年01月23日 | 宅老のグチ
築地のすしざんまいの木村清社長の自伝の本を読んで、大方の情報を確認した。彼は職を転々とし、苦労して築地に来た。最初は自衛隊の航空関係の学校に入った。そこは学費の掛からない学校だったが、飛行兵の適正で不合格となり、普通の自衛隊員になることを止めた。その後の転職で一時は築地場外のところで漬物も扱っていて、その時の担当者が最初の場外市場のすしざんまいを開店した後に繁盛しているのを見て驚いていた。
 今から書くのに図書館で2冊借り出した。
マグロ大王木村清  -ダメだと思った時が夜明け前- 2016年木村清著
カンブリア宮殿 村上龍×経済人 人が活きる会社 2012年村上 龍著  テレビ東京報道局編
 
 築地で彼が次に目をつけたのが、24時間営業の弁当屋だった。場所は今はすしざんまい築地駅前店となっていて、弁当屋の名残は消えている。そこから今の築地本店を開業してから、驀進したと普通は思うが築地はそう甘くない。第一号店開業して24時間営業をうたっていても、夕方6時頃には周囲の店が閉まっていて、場外市場の真ん中の瀬戸物屋の跡地という記憶があるが、目立たない。
 そこから木村社長の攻勢が始まる。築地と近い銀座に頻繁に飲みに行き、明朗会計のすしざんまいにホステスが飲み客を連れてくるようになった。当時の築地のすし屋は接待需要でお品書きが時価表示で、個人で交際費を使えない人は築地の寿司は怖くて敷居が高かった。そんな築地場外高級すし屋はバブル崩壊ですべて消え、今は接待というより観光風のすし屋となった気がする。今は昔のブランドが残っているが中身が変わっている。全てはすしざんまいの行列から来ている。
 木村社長を見かけたのは自分は2回しかない。1回は会社で、2回目は前社長の葬儀の船橋の斎場。店の方は十回以上行ったことがある。律儀な人だなと思ったが著書を読むと、語ることとやることが同じという想いが残る。
 すしざんまいの築地は明朗会計で予算と並ばなくても入れる店を知っているのでいつも使う。奥の院とか新店は穴場。本店では一回しか食べたことは無い。混みすぎ。カウンタ-席でガリの品定めをする嫌な客になってしまった。今の所自分がすしざんまいで食べたガリは合格点を超える。食の世界で漬物が一番先に品質が落ちる。いわゆる手抜きという。
 海外の人のブログで東銀座のホテルに泊まり(ホテルの住所は築地)朝食を築地場外市場で本物の寿司を食べ、そこから都内各地の観光に出るという。確かに都営浅草線は成田空港と羽田空港に乗り換えなくて良い。つまり巨大で個数の多い旅行カバンで乗換えは不便である。



 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

記憶の劣化で過去のブログをこれから直す

2024年01月22日 | 福神漬
時々GOOブログから掲載基準の改定メ―ルが届く。過去にさかのぼると今では不適切と思う部分もある。そこで訂正を始めたのだが、これは遺品整理に近く、なぜこんなことを書いたのが思い出せない。それでも続けていると概要が判ってくる。また調べたことが適切かの疑念が沸く。人生という泥沼のヘドロから浮かび出る泡が出ては消え、また次の物が出る。そして出た泡を分析すると、何か根拠のありそうな事例もある。
 特に本人が書いた自伝でも記憶の間違いがあって、鵜呑みに出来ないことがあった。福神漬の絡みで岩崎弥太郎伝とか三菱地所等の社史で三菱が大坂から東京へ進出した三菱社の住所が南茅場町16とあった。ところが明治10年の南茅場町の沽券地図(中央区京橋図書館郷土資料室)には三菱の住所らしきところには、江戸時代の清酒白雪関係の人物が記載されている。この沽券地図は今の感覚だと固定資産税の根拠となる台帳で三菱の名義となっていない。
 南町奉行時与力の家が残っていた。今の地下鉄茅場町駅は道路拡張によって、位置関係は不明である。築地にいた時に知り合った茅場町の人に聞くと江戸時代から今でも茅場町に住んでいる人は数人という。
 このような後から間違いが見つかるので訂正は必至となる。最近訂正したのは遠山影普を遠山景元にした。遠山景普は長崎奉行・大目付だった。遠山景元は遠山景普の実子として生まれたが、父の景普が遠山家の養子だったため、実子扱いを外され、市中に徘徊するようになり、入れ墨伝説が生まれた。後であとで跡取りが亡くなり、景元が遠山家に戻り、町奉行職になった。このことが庶民の伝説の刺青伝説となる。明治期は生首の刺青、今は桜吹雪の伝説。
 今更思うが福神漬の資料調査でここまで脱線調査が来ると、好奇心と暇な時間が仕向ける。漬物の歴史は文献が少なく、こう調べないと根気が続かない。
 なぜ遠山景元を調べる必要があったのかというとまず築地市場の移転問題の基本は日本橋魚河岸の仕組みから来ている。天保の改革で株仲間が無くなり、嘉永年間に幕閣上層部によって再興が計られた。この時の情報隠しがあって、関係者は老中阿部正弘、遠山景元(南町奉行)筒井政憲(留守居役・元南町奉行職等の少数だった。嘉永3年10月末の高野長英の捕縛時の殺害を調べると、納得のいかないことが気になっていた。
 幕府の法制度では生きて捕縛する。一応文献では抵抗したと言いうが撲殺の様な記録があって、不明。さらに高野を江戸市中で匿った人物が4名捕まり、一人は獄中で亡くなり、三名が伊豆へ遠島となった。この3名のうち、一名が新島流人史で明治維新後の明治元年末に恩赦で釈放されちゃ記録がある。ところが残り二名の記録が東京都公文書館、都の文化財となっている八丈実記にも記載されていない。伊豆七島の流人管理は厳しく、島抜けもあって、記録漏れはあったか、江戸で嘉永3年末に遠山景元によって判決後に亡くなったのだろうか。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

震災復興って色々な考え方があることを知る本

2024年01月21日 | 宅老のグチ
関東大震災  -その100年の呪縛- 畑中 章宏
 能登の地震で知った本でなく、関東大震災の100年の出版ブ-ムを狙った本でどうも能登地震後に借りだしてもすぐに読むことが出来た。内容は他の震災本と違って、民俗学的な震災後の分析が気になる。今後も日本列島に住む限り、震災等の自然災害に付き合わないといけない。そこでの分析で畑中氏は対策が進んできて、震災と台風等の風水害と区別するようになってきたという。
 この本は第三部の災害を(社会現象と)として捉える ここにこの本の価値がある。大正時代の好況から不況へ向かうときに起きた自然災害で昭和史の前章となる。しかし大正なのだ。震災時の社会主義者の弾圧は、昭和に入って合法化された。世界と付き合わないといけないのに日本の論理で朝鮮中国に向かって行くしかなかった。今から思うと無謀と言えるが当時の文献を読んでいると精神論が強く、議論がまともでない。
 天譴論(てんけんろん)渋沢栄一の言い始め
関東大地震発生から8日後、渋沢栄一は新聞のインタビューで、「天譴論」(てんけんろん)というのを述べた。この地震は天からの「おしかり」であるという。
「大東京の再造についてはこれは極めて慎重にすべき。天の怒り。明治維新以来帝国の文化は進んだが、その元は東京横浜であつた。それが震災で全潰したのである。しかしこの文化は天の道理にかなった文化であつたらうか。近年の政治経済は政治は私利私欲を目的とする傾向はなかつたか。余は天の怒りと思う」
著者は畑中氏はこの天譴論が間違っていると記述している。
1天罰が腐敗堕落している人たいして下っていない。天災は無縁な人に罰を与えた。被服廠に逃れた人はなけなしの財産を持って逃げた。亡くなった人の大部分は下町の貧しい人。
2事件は天でなく人間によって引き起こされる。この項目は第一章と第二章を読まないといけない。
災害と日本人 : 巨大地震の社会心理 ;  広井脩 著 
この本で日本人の災害感が3つのタイプがあって、天譴論、運命論、精神論という。広井脩 によると運命論が自己の悲劇性を緩和する効果があるという。自分よりもっとひどい人がいるではないか。
 災害の多い日本人はどうも他の国より打撃からの復興が早いという。この様に書かれて、本の中に自分が生きていた戦後の地震の記憶が神戸・東日本震災しかとっさに浮かばない。北海道の地震、奥尻島、秋田沖の津波、福井地震、新潟の液状化の記憶、仙台の地震もあった。ネットの地震状況を見ると毎日揺れている。震度3程度では寝ていても起きない。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

文春・新潮が公器化しつつあると感じる

2024年01月20日 | 宅老のグチ
今日本の政治が文春・新潮の告発報道で色々な日本の不祥事が動く。惰性で動いていたのがやはり30年の停滞で世界が変わってしまったと感じる。
 本来なら日本共産党の出番なのに、男性長期委員長が変わらないので情報収集力が弱くなった。今から50年ほど前は日経と赤旗を読み、BBC等の海外情報を集めて株式相場を予想すると言われた。日本が余りにも停滞し、赤旗分析は威力が無くなった。これを感じたのが築地市場の移転問題で、医師である小池氏が築地の衛生問題を気にしていなく、地下の汚染追及に頑張っていた印象がある。移転して見て、今でも東京都のデ―タで豊洲では汚染物資が出ている。今の所健康被害が文春・新潮の報道に出てこない。この辺が文春・新潮報道の弱点で報道検証が週刊誌が売れないと思っているのだろうか。
 世の基準が変化し、日本の観光地の広島原爆資料館の人気がすごいようだ。一度訪問した時、これほどの事が起きていたのかと文献で無く知った。そして広島の復興状況から原爆に耐えた広島市民を応援したくなった。
 福神漬の文献調査で広島の陸軍糧秣廠では福神漬を製造していた時があったようだ。日清戦争後で日露戦争後は無いようだ。この辺りは缶詰のサンヨー堂の社史で判る。
 金のかかる日本政治が明治期から汚染体質があって、金銭による寝返りは常識であった。江戸時代からの贈答文化から来ているのだろうか。第一回国会議員の選挙は高額納税者しか参加できない選挙で今から見ると奇麗な選挙と言える。しかしその人たちが解散した後に行われた第二回衆議院選挙から今のような金と暴力による選挙となってしまった。これは庶民に考えさせない教育の歴史から来ている。アメリカの学校教育で討論経験を積んでいる。しかし日本は基本は教師が教える。生徒が自ら学ぶ姿勢を助長する教育ではない。
 そこに日本の左翼が発展しない理由で、学歴の高い人が庶民を見下した言説で一時はごまかせても、下々の情報が得られず、言説の正当性・正確性が時間の経過とともに破綻する。豊洲の地下汚染で左翼の危険視する諸説は大々的に報道されたが、今でも汚染が地下から出ているのに健康被害の報道はまだ見えない。そして場外市場は廃れるどころかこれから大繁栄の時期に来ている。2月に決まる跡地整備の計画で野球場のような施設になれば、大繁栄は確実だろう。このことを予想した左翼系ジャ-ナリストはいなかった気がする。築地の場外市場に築地本願寺の末寺が少しあって、墓地もある。そこで宗教法人には相続税が無いので、大規模開発はない。つまりほぼ永久にあのゴチャゴチャ感が残る。中国は学者の好みで古い住居、商店を整理し、高層下駄ばき建物を作った。でも外国人観光客には魅力がない。
 日本人が西洋の国へ行って、ビル等の建築物で驚いたのは明治期で、今の旅行案内書に新しい建物より、古い建物方が目立っている。
 元日の高校サッカ-で中国人ファンが第百二回の事で驚いていた。金で一時的にはチームを作れるが歴史は積み重ねで、一強だけでは歴史は作れない。多くの強国がこのことを忘れて、一強を目指しているが興亡の歴史が残っている。それにしてもサッカ-の人気のない時代を知っていて今の状況を驚く。アジアカップで日本はインドネシアと決勝ト-メント出場をかけて戦うがインドネシアの記憶に残る試合となる予感がする。それは日本の引き分け、敗退の予感でもある。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

築地の賀詞交換会の記憶

2024年01月19日 | 宅老のグチ
正月明けの築地・豊洲市場のマグロの初セリ価格はいつも気にしていた。毎年1月5日は曜日の関係なく初セリがある。日曜日となる日もあった。ネットでマグロの値段と買主の情報は7時過ぎには出回る。
 午前10時頃に築地・豊洲市場協会主催の賀詞交歓会がある。築地では厚生会館という宿泊施設の広間に300人ほど市場関係者、東京都職員の幹部が集まる。そこで初めて末席で参加して見て、この賀詞交歓会は単なる挨拶の会でなく、東京都の市場行政の意思表明の公開の場であることを知った。このことを社内の人に話し、年始明けの挨拶客の応対を抜けていた。築地・豊洲市場長の挨拶は、築地市場の再整備・断念・移転と年々変化していた。末端は準備をしたり止めたりして、対応に苦労した。会社の意向は移転賛成でぶれていないので、移転に好意的なぶれない業者にはこっそり質問して内情を聞いたこともある。
 築地市場の環境問題で電動タ―レ-の問題が最初に注目した。今の豊洲は知らないがタ―レ-のサイズが青果部と水産部が異なっていた。水産の方が小さい。
 最初に問題となったのが鉛電池の電動タ-レの充電場所だった気がする。そこで東京都が整備していった。運が良いかどうか判らないが水産と青果がバブル崩壊で市場内の充電場所を設置する余地が出来た。初期は馬力が足りないと言われていた気がする。東京都の補助金行政と充電場所の用意で移転が一年延びる前には、場内のタ―レ-は電動化が終わっていた気がする。
 この築地と豊洲の経験からEV自動車一辺倒は危険と思っていた。それは下取り価格の設定がエンジン自動車より、経験が少ない。中国が先行することで焦っているが今の買い替えが2年サイクルもあると言って驚く。車というよりスマホが主体である気がする。そうすると更新のデ―タの保存が中国となるので、戦時に車が動かなることもありそうだ。

 ガソリンフォ―クリフトを買い替えた時、下取り価格が最初の購入価格より高かった。理由を聞くと10数年たった日本の整備の良いフォ―クリフトはガソリンの規制で新型より古い方が粗悪なガソリンが流通している途上国には人気があるという。さらにその印の日本語の使用者名も人気のようだ。フォ―クリフトは左右のハンドル位置問題はない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江古田会談での脱線会話

2024年01月18日 | 宅老のグチ
廃業した元の同業者との長時間の雑談で色々な話題に変化した。今の状況を聞くと忙しいという、何故忙しいかを聞くと介護という。モスで会った理由も彼の配偶者が介護で施設に入所していて、発熱等があった時に、施設から連絡があってすぐに駆け付けるので、遠くに行けない。用のある時は当日の健康状態を把握して、子供に連絡を行くようにしているという。
 百を超えて亡くなった母はデイサ-ビスの入浴中に体調が急変し、救急車で病院に行くことが度々あった。このことは築地から離れてから知った。ごくまれで実情を見ていないし、報告も結果のみで深刻さが判らなかった。さらに運ばれた病院での母の態度が入院制度を毛嫌いしていて、点滴後にいつも家に帰りたいとごねて、結果として入院ということは無かったと記憶する。
 介護事業者は規則と手配しなかったことによる訴訟を避けるために救急手配するようだ。さらに彼は相続対策はしないと言っていた。驚くと、理由を聞いて納得した。多くの人は都心に小規模の土地を持っていても資産として安心感が無い。そこで銀行等の提案で不動産の評価値を下げる賃貸マンション計画が出る。だが実際は高齢入居者等の死亡、家賃不払い、残置物等々の問題で利益率は良くない。
 JR新橋駅付近には多くの小規模オフィスビルがあって、設備が古く、さらにトイレ等のきれいさで新築ビルに負け人手確保時に困るという。確かに築地いた時は求人してすぐそばまで来ていてもトイレ清潔さで戻った人もいた。当然古いビルは安さで維持するしかなく、中央区港区の大きなビルは買収の歴史でもある。
 従って彼は相続の時に、駐車場としていて未使用地を処分して税金を賄うように指示しているという。不動産の価値は買い手があって成立する。相場が下がっている時に売るには難しいし、そこが適切価格と判らない。今の中国の不動産の下がりは日本の例から下がって、政府の対策が行われ、上がり、また塩漬負債を上がった不動産で処理する。これを日本は30年繰り返し、やっと株が元に戻りつつある。どこが底だったかは今は解るが当事者は大変だった気がする。
 金額は少ないが中国市場で日本株ETFが買えるということで売買ストップ高という。今度の2月の春節でトランク詰められた福沢諭吉が大量に戻ってくる。来年になれば渋沢栄一で福沢の帰国が日本では目立ってしまう。中国政府が経済数字をいじくっているのは日本とかアメリカは理解しつつあるが、中国人民は政府を信頼している。これは日本の先の戦争の大本営発表を信じ切っていて、勝利報道で作戦計画をまちがった時もあった。
 日本が負けてすぐに食が困難になったのでなく、本土決戦用の食が出てきていたが敗戦直後から日本領土だった台湾・朝鮮と満州から食料が来なくなった。さらにその地域から日本人が引き揚げてきた。配給だけで生を保っていた裁判官が餓死したのは昭和22年だった。山口 良忠(1913年(大正2年)11月16日 - 1947年(昭和22年)10月11日) 
 本当に食の危機は昭和22年の時だろう。でもこの年の出生者数は戦後の最大だった。いわゆる団塊の世代の始まり。その後数年は出生者数は多かったが次第に減っていった。多産多死の戦前から、多産少子になり、サンガ-夫人の活躍も記憶に微かに残る。
 産児制限運動の勝利だろうが少子になった今の評価は変わるのだろうか。出生児数はいじくると移民の少ない国は訂正に難儀する。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江古田で廃業した漬物業者と会う。

2024年01月17日 | 宅老のグチ
大江戸線新江古田で昨年の終わり頃、中野区立歴史民俗資料館で開催されていた(2024年2月11日まで)七人の福神たちを見に行った。ネットで見ると正月の飾りに七福神の絵を飾る風習とか今の商売でカレンダ-を配るように七福神の絵を贈答していた。
 大江戸線新江古田駅の一駅前に電車内の予告放送で(つぎはしんえごだ)と聞こえた。おもわず西武線の江古田は確かエコタだった記憶があった。調べると江古田の読み方は『「えこだ」と「えごた」の二種類がある 西武池袋線江古田駅は練馬区にありますが、実は江古田という地名がつくのは中野区。 読み方も異なります。 練馬区では「えこだ」と読むのが一般的ですが、中野区では正式名称として「えごた」と読みます。』 と出てきた。この分け方は中野区と練馬区民は常識なのだろうか。少なくとも公共交通機関は分けている。
 七人の福神たちの展示を見た時、確か1年ちょっと前に新江古田駅の付近のモスバーガ―で福神漬の製造を廃業して、新江古田駅の近所に住んでいる人と話したことを思い出し、再び会うことになった。午後1時の待ち合わせで戦前の福神漬の作り方を聞いたが、やはり情報が無かった。知っている人はいないかと聞いても、戦後と戦前は国が違うくらい漬物の作り方が違っていて、情報もない。古い漬物屋が知っているのではないかと聞くと例えば京都のつけ物業者が古く感じるが、実際は戦後に繫栄していた。それでは戦前はというと戦争で人手不足で、ほぼ自家製で業者として成り立っていない。戦後に生き残った漬物業者が京都市内の共同小売市場(イメ―ジ的には錦市場)で売りつつ、修学旅行生の宿泊施設に京都の漬物を供給し、さらに京都のお土産として今に残る。感じとして京都の土産お菓子は高いし、茶席用のお菓子だったと思うが誰か戦後事情を知っているのだろうか。京都の漬物の本物を食べるにはそれなりの金銭を用意する必要があるが菓子よりは安い。京都に商品こだわりがあって、他の地域には節操がない。これが自分が築地で安いものを売っていたことの反省でもある。量販対応するには中国産原料の量と品質(契約品は低農薬)を使わないと欠品となる。
 中国と対立すると日本の低所得高齢者が小麦系とイモ食に向かうしかない。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする