年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

市場特別会計のへそくり

2010年06月30日 | 築地市場にて
6月は築地市場の諸団体の総会がある。あれほど騒いだ問題も事の重大性から何事もなく、しこりを残して終わる。これから与信管理の問題が築地では問題となる。すべては鑑札等の築地ブランド(不動産と見るより、墓地の権利と見たほうがよい=他家族の人達には何も役に立たない)の価値の低下で、もたもたしていると魚資源の枯渇によって荷物量が減ればますます築地の規模がいらなくなる。
 それにしても色々な制度融資や緊急経済対策によって倒産の事例が少ない。返済猶予が解除されたときにどの様な経済になっているのだろうか。
 商品等の魅力がなく、ただ安いだけの商品を販売していたら、築地という不動産価格の高いところからいずれ都民・都議会・納税者から追い出されるのは必至である。
 都の財政が厳しくなった時、つまり不景気になった時、市場の使用料の値上げが出てくるだろう。その時は不景気なのに家賃が上がるということになる。市場の特別会計のへそくりが大分減ってしまった。景気の悪い時の市場使用料の値上げは弱者イジメで逃げられない人達である。この事を日本(=市場)とみなすと金持ちはどんどん海外に逃げて、生活困窮者は日本から脱出が出来ず、高い不便なインフラを少ない収入で払ってゆくと同じことである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小笠原長行(ながみち)

2010年06月29日 | 福神漬
小笠原長行
開国の騎手 小笠原長行 岩井弘融著
幕末神奈川生麦で起きた英国人殺傷事件を独断で賠償金を払ったように開国止むなしと考え、開国の騒乱を最小にすることを考えていた人だった。
九州唐津藩の小笠原長行は函館戦争の後、江戸に逃亡し、明治5年まで東京の下町の中で隠れていた。本所とか湯島妻恋のあたりに潜伏し、函館戦争で戦った榎本たちが赦免された頃、逃亡していたアメリカから帰国したようにニセの届けを出し、一ヶ月程度の謹慎で赦免された。その後は表立った行動することもなく明治24年1月22日に亡くなった。

下母澤寛
「花と奔流」という小説に小笠原長行の生涯が題材となっている。
下母澤寛は北海道生まれでは親族が函館戦争に関係していて、どちらかといえば幕府方を描いた小説が多い気がする。彼は戊辰戦争から生き残っていた人を取材して小説を書いていた。しかし、どの小説家でも明治に入っての旧幕臣の描き方は誰を書いても簡単に処理されている。戊辰戦争で死ぬより、明治に入って生き残る方が大変な時代だった。
 
 長行は、東京駒込動坂の小邸で隠棲、明治九年(一八七六)十一月従五位に叙せられ、明治十三年(一八八〇)六月特旨を以て従四位に叙せられました。
 明治二十四年一月二十九日葬儀が行われたが、その模様を久敬社誌は次のように報じています。『一月二十九日、従四位小笠原長行公の遺骸を谷中天王寺に葬送したり。中略 実に盛大美を尽し麗を極めたる葬儀と謂うべし。当日は榎本武揚、林田保(村田保?)らの諸氏も会葬せられたり。」と。
この葬儀の会葬者に榎本武揚と共に林田保が参列しているが財団法人久敬社塾(東京で佐賀県唐津地方の学生のために寮などを運営している)に村田保の誤植ではないかと問い合わせたが解らないという回答でした。
村田保は唐津藩士の子として生まれました。西日暮里浄光寺の福神漬顕彰碑の揮毫をしたわが国の水産業会の功労者です。
また唐津藩士の子として生まれた明治の建築家・曽禰達蔵は小笠原長行に気に入られ、10歳の頃から長行の小姓となり、上野戦争敗北後、東北地方まで長行と同道したが命を惜しまれ、唐津に返された。曽禰達蔵は建築家となって、師のコンドルと共に三菱関係の建物の設計を多くしている。大正12年7月に鶯亭金升が大手町三菱のビル内で福神漬の話をし出したのは偶然のことだったのだろうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

喜兵衛はどうして函館へ

2010年06月28日 | 福神漬
石井研堂の著書明治事物起源で日本における缶詰の始まりに出てくる、千葉行徳の漬物商喜兵衛がなぜ函館で戦死したのだろうか。上野戦争後、幕府の御用商人は得意先を失ったことになる。特に上野寛永寺は逆賊の拠点となった場所だからそこに納品していたなら、得意先を完全に失ったこととなる。今と違って当時の漬物需要は少なく。大きな千住宿とか川崎宿にも漬物商は無かった。つまり職業を変えねばならなかったのである。先の大戦で軍隊に納品していた漬物業者は全国的な食料不足によって需要は消えなかった。しかし明治維新のときは漬物の得意先であった武家・寺社・商人層が混乱したため、需要が蒸発し、江戸での生活から蝦夷地開発の夢に乗ったと思われる。どこかで蝦夷地に向かう船に乗り函館に向った。しかし喜兵衛は武士でなかったため、千代ヶ岡陣屋のところで戦死しても多くの(函館戦争の)文献に残らず忘れ去られた。幕末維新全殉難者名鑑には武士だけでなく、幕末の混乱で難に遭った死者も掲載されている。苗字もなく死んだ多数の人々で賊軍にあったため祀られた事もない人々の一部が名鑑に記載されている。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

二人の喜兵衛

2010年06月27日 | 福神漬
石井研堂の缶詰の始まりから五稜郭の戦いで死去したと思われる喜兵衛の記録を調べる。『幕末維新全殉難者名鑑 一~四』明田鉄男編  発行者:新人物往来者  昭和61年発行を都立中央図書館3階開架の所から探し出す。
 第四巻245ページ 幕府軍のところで彰義隊所属の喜兵衛は明治2年4月19日木古内で戦死している。さらに調べてゆくと261ページに喜兵衛が千代ヶ岡陣屋のところで5月16日に戦死している。この日はこの陣屋を墓所と決めて戦死した箱館奉行並中島三郎助が戦死した同じ日同じ場所で亡くなっている。
喜兵衛という人物が二人も箱館戦争で亡くなっている。石井研堂の喜兵衛は千代ヶ岡陣屋の戦闘で死去したほうだろう。五稜郭タワーから下を見ると五稜郭と千代ヶ岡陣屋はいくらも離れていない。書物では解らない現地の距離がタワーから見下ろすと気がつく。
 千葉行徳の喜兵衛の子山田箕之助が気になる。山田箕之助は西日暮里諏訪台の浄光寺にある福神漬顕彰碑に名前がある。どのような人物だったのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館と浦賀を結ぶもの

2010年06月25日 | 福神漬
嘉永6年7月29日
浦賀奉行戸田伊豆守氏栄は中島三郎助の父清司(67歳で当時は隠居していた)をこれまでの功績により、特別に与力として再び召抱えられた。南浦書信によると与力はまとめ役でペリー再来航のため浦賀奉行には清司しか適任者がいなかった。このことを徳川家に対する報恩として、中島三郎助が蝦夷地に向かう時の出陣状に書いてあるという。
 日本が鎖国を解いて開港した当初の3港は長崎・横浜・函館である。
安政元年ペリーは幕府と和親条約を締結後、函館を訪問しています。函館山の中腹にあるペリーの記念碑は複雑な思いを残します。日本で最初にペリーの黒船に乗り込んだ中島三郎助は結局ペリーには会えず、久里浜での応接でも接触できず、浦賀と函館にその記念碑を残している。
 福沢諭吉は咸臨丸でアメリカから帰国後、金銭の問題(書物を買いすぎたという事)で謹慎していたとき、突然面識の無い中島三郎助が訪問した。中島の努力によって、謹慎が解かれたという。明治になって、福沢が清水にある咸臨丸の記念碑をみて、その碑の裏に書かれてある榎本武揚の文章を見て、『やせ我慢の説』を書いたという。福沢の頭には中島三郎助親子の函館での壮絶な戦死のことがあったという。
『浦賀与力・中島三郎助伝』木村紀八郎著

福神漬の歴史の後ろには日本の苦闘の歴史が潜んでいる。漬物納品商人喜兵衛は五稜郭の戦場で中島と遭っていたのだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

数学の文明開化 佐藤健一著

2010年06月24日 | 宅老のグチ
福神漬の歴史とか由来とか調べていくうちに不思議なことにぶつかる。明治初期の多摩地方で農民の青年層が地租改正の影響で田畑を測量する数学者をみて、数学の塾が盛んであったという。
 明治以前、日本の代数は「そろばん」を使っていたため、筆算による代数の進歩が遅れたようである。江戸時代の将軍吉宗が暦と実際が異なるのに気付き、1720年(享保7年)から洋学が一部解禁されると日本人が関心を持ったのが医学・測量(土地面積を測る)と天文学・暦学にかかわる三角法や対数であった。
 幕末大阪で活躍していた和算家福田理軒は「大艦や大砲を製造して外国の侵略を防ぐ方法を身につけるには数学や科学を勉強しなくてはならなかった。」和算は趣味のようなもので西洋数学のような実用性がなかった。
 ペリー来航時、浦賀に集まった蘭学を学んだ人達はこの様な目的があったためである。黒船来航で逃げる人と好奇心で浦賀に来る人達を見事にさばき、米国艦隊に日本を攻撃する口実を与えないように準備に成功しました。
 明治まで生きた内田弥太郎は天文学者として太陰暦から太陽暦の改変に指導者として活躍しました。漬物に関しては『べったら市』開催日に影響を与えました。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館ドック

2010年06月24日 | 宅老のグチ
函館市で一番の大企業と思われるのが函館ドックである。明治29年創業のこの会社には三遊亭円朝の落語『七福神詣で』で出てくる貴紳士が役員となっていた(渋沢栄一・大倉喜八郎・浅田正文)。明治の終わりころ、経営危機となり、横浜ドックの社長であった川田龍吉を経営者に迎え、立て直しを図った。第一次大戦の好景気によって良くなったという。川田龍吉は第三代日本銀行総裁川田小一郎男爵の長男である。この川田龍吉が函館ドックを退職後、農場を始め、ジャガイモの男爵イモを日本に普及させた。今でも日本国内では男爵イモの割合はメークイン等の他の品種より多いという。
 造船は福神漬の歴史に妙に絡んでくる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

先の戦争とは

2010年06月23日 | 宅老のグチ
沖縄の戦争終結の日
6月23日は沖縄で日本軍が連合国軍に対して組織的戦闘が終わった日です。
上野戦争の日
慶應4年5月15日は新暦では明治元年(1868年)7月4日(土)で江戸(東京地方)は丁度梅雨時で火事が起きても木造家屋は湿っていて大火とならないと大村益次郎は考えていました。実際彰義隊が放火しても火災に遭った面積は少ない。東京下町の人達は第二次世界大戦前、先の戦争とは上野戦争のことだったという。ちなみに京都の人達は応仁の乱が先の戦争というそうです。火災に遭うのは木造家屋の宿命です。
箱館戦争終結の日
箱館戦争を今調べていますが明治2年5月15日の千代ヶ岡陣屋での戦闘は新暦に直すと、1869年6月24日(木)となります。今から冷静に考えると中島隊を含め、旧幕府軍の勝ち目が無かったと思われる。
明治の改暦の責任者は内田弥太郎(五観)です。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

五稜郭タワーの五島軒

2010年06月22日 | 福神漬

函館中心地にある五稜郭タワーはかなりの人気タワーである。お城のない五稜郭は平地から見ると単なる堀に囲まれている土手しか見えない。市電の一日券を手に持っていたら、割引してくれた。函館では市電の一日券は手に持って入場券売り場に向かうこと。市内行く先々の入館料の割引であっという間に600円の元は取れた。さて五稜郭の形はタワーに上るか上空から見るしかない。榎本と土方が人気だ。2階に下りると五島軒があった。北海道物産展では有名なところである。函館のご当地の食べ物として塩ラーメンと五島軒のカレーライスがある。もちろんカレーライスを選択。800円也。すぐ福神漬のチェックをする。良い福神漬の条件は「なた豆」が入っていることとうま味である。合格。
 石井研堂の缶詰の始まりから箱館戦争で戦死し、幕府の関係先(想像だが上野寛永寺)に漬物を納入していたという千葉県行徳の『喜兵衛』が気になる。武江産物志によると、江戸時代江東方面ではナタ豆を栽培していた。また行徳は塩の産地で今でも京葉線に『塩浜』という駅名が残っている。つまり喜兵衛がナタ豆の塩漬を製造して不思議ではない。そして浦賀衆の最後の戦いとなった千代ヶ岡陣屋で喜兵衛が戦死していたなら不思議な縁を感じる。石井研堂はどこまで知っていたのだろうか。明治になって戊辰戦争を語る事は出来ず、喜兵衛の思い出として酒悦主人か山田箕之助が福神漬にナタ豆を入れたと思われる。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

函館の竜馬

2010年06月21日 | 宅老のグチ
函館の竜馬
函館に場違いな「北海道坂本竜馬記念館」があった。昨年オープンしたようである。竜馬の姉の子で土佐自由民権運動家坂本南海男は晩年北海道開拓で活躍していたがどうもこの記念館は坂本南海男でなく、坂本直のことを見せたかったようである。
 土佐の自由民権家と旧幕臣の夢が北海道開拓とは当時としてはどの様な意味があったのだろうか。函館で戦死した中島三郎助も蝦夷地に一時滞在していた。
 函館駅と青函トンネルの間に木古内という特急列車が止まる駅がある。そこの町のサラキ岬沖に咸臨丸が沈没した所らしい。咸臨丸と浦賀・中島三郎助・函館ドック・浦賀ドック・鳳凰丸・川田竜吉・男爵イモ等色々福神漬の史料調査に出てくる事項である。
石井研堂の缶詰の始まりに出てくる箱館戦争で死んだ喜兵衛はどうやら実在の人物らしい。しかし武士では無かったようである。五稜郭か千代ヶ岱陣屋の戦いで死んだようである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

浦賀の愛宕山公園

2010年06月20日 | 宅老のグチ
京浜急行の浦賀駅から歩いて、浦賀文化センター内にある郷土資料室に向かう。二階に上がる途中に愛宕山公園内にある中島三郎助顕彰碑の拓本がある。榎本武揚の書である。この碑は明治23年に計画され、翌明治24年(1891)に開園した横須賀市内で一番古い愛宕山公園に建てられた。急な坂を上ってゆくと 中島三郎助の招魂碑と咸臨丸出航の碑と与謝野鉄幹・晶子夫妻の歌碑があります。
中島三郎助は、嘉永6年(1853)ペリー率いる黒船来航の時から日本史に出てきます。
我が国で初めての洋式軍艦・鳳凰丸を浦賀で建造したり、幕末に活躍しました。愛宕山の碑は拓本の墨のよる影響か汚れていて写真に撮る気が起きません。
咸臨丸出航の碑は、昭和35年(1960)に日米修好通商条約の締結 100年を記念して建てられましたのだが繁茂している草のため、後ろに回れず、碑の裏にあるという艦長・勝海舟をはじめ、福沢諭吉、ジョン万次郎などの乗組員の名が連ねられているのが確認できなかった。
 もと来た道を帰らず、住宅街を通って海岸にゆく。歴史のある道は終戦時中国から引き揚げた日本人が故国に第一歩を記した陸軍埠頭もあった。ここは軍事拠点である町である。国防の要所は好き嫌いにかかわらず、他の地区と交換できない歴史がある。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

北斗星に乗って函館へ

2010年06月19日 | 宅老のグチ
夕方7時3分上野発の寝台夜行列車に乗って函館に行く。早割りの航空券を利用すれば1万円ほど安く、早く行けるのだが敢えて11時間30分かけて函館まで行く。列車車掌に起こされて朝6時半過ぎに函館に着き、駅前の朝市にて海鮮の食事をする。市電一日券600円で市内をめぐる。ざっと回った感想はミニ神戸という感じだった。途中千代台と言う市電の駅があった。ここの呼び方は『ちよがだい』という。幕臣中島三郎助親子が戦死したところでこの戦いが箱館での最後の戦いとなった。
 中島三郎助はペリー来航時、最初に異国船に乗船し、交渉した人物の一人である。ここから近代日本史が始まり、中島の戦死によって、戊辰戦争は軍事的なものは終結した。明治事物起源を著した石井研堂の缶詰編では喜兵衛というもの五稜郭の戦いで戦死している。福神漬と何か縁がありそうである。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

福神漬の落穂ひろい2

2010年06月18日 | 福神漬
内田弥太郎は急に今の人達に知られたのは1981年宝塚ミュージカルロマンス 「かもめ翔ぶ海」・アニメ『天保異聞 妖奇士(てんぽういぶん あやかしあやし)』2006年あたりかもしれない。
嘉永元年明屋敷番伊賀者より内田弥太郎は浦賀奉行手付となり嘉永二年七月下曽根金三郎に付属し、砲術取建并御警備御用となる。弘化4年に戸田伊豆守氏栄が浦賀奉行となっているので、戸田が浦賀に赴任していた時の話となる。さらに嘉永3年に高野長英が撲殺された時もペリーが浦賀に来た時も内田弥太郎は浦賀にいたと思われる。高野長英の逃亡が終わった時、なぜか長英を匿った内田弥太郎は軽い咎めだけですんだのは幕府開明派の力があったと思われる。このことが内田の門人である幕臣花香恭法に戸田伊豆守氏栄の遺児鉄丸を二人目の養子(花香恭次郎)とし教育したと思われる。
 南浦書信 嘉永6年12月2日の井戸石見守あての書状で戸田氏栄は内田弥太郎の功績を認めて手当ての増額を申請している。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

中央区のガラス屋さん

2010年06月17日 | 築地市場にて
 何年か前かに割れていたガラスを修理するため見積もりを取ってから、ほぼ一ヶ月たって修理が終わった。あまりの遅さに事情を聞くと、いま東京都中央区に昔ながらのガラス屋さんが1軒しかないという。地価の高騰している東京都心で昔ながらの仕事はどんどん消えている。車で走れば中央区などに拠点を構えなくても十分営業してゆくことが出来る。ただ設備の必要な銭湯だけが少しずつ消えていっている。
修理作業を見ていたら、割れたガラスが入っている窓枠は木製でアルミサッシでない。築地市場にはレトロな木枠の窓がまだ多数現役である。
16日は市場休みなので築地市場内の各所では雨漏り対策ののほか色々な工事が行われているだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

琴光喜の問題と築地市場協会

2010年06月16日 | 築地市場にて
琴光喜の問題と築地市場協会
社団法人築地市場協会はホームページの内容からわかるように築地市場に参加している人達の団体である。しかし主たる金銭の動きは『ゴミの処理』問題である。平成22年の築地市場協会の総会資料から平成22年の公益法人制度の改革の影響で一般社団法人へ移行するようです。これによる主な影響は
収益事業に対する課税が強くなるということと社会的信用性が弱くなるとされる。
 琴光喜の野球賭博事件問題は財団法人日本相撲協会の公益法人としての適格性の問題が現れると朝日新聞6月15日社会面に報道されていた。公益法人はより社会に対する責任が重く、その構成員の処置を誤れば、行政指導がなされるだろう。また築地市場協会のように一般社団法人となれば税制の優遇を受けらない事となる。どちらの社団法人を選択しようとしているのだろうか。どうも今までの緩い体質だと一般社団法人しかなれない気がする。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする