年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

皇居の通り抜け 国立文書館で源氏物語のななめ読み 夢を解釈

2024年03月31日 | 宅老のグチ
ソメイヨシノの桜が咲いていない、皇居の通り抜け。開放期日が3月31日で終わる。人は多いが花が咲いている所だけが人だかり。今年の桜まつりは東京は悲惨。本格的な桜を楽しむのは4月の第一週。出店の人と飲食の準備はどうなのか。来週の天気も雨が多い予報。夜晴れてもという気持ちもある。今日は26度の予報。桜がちらほらで人出が多そうで、自宅近所の花見へゆくしかない。
 皇居乾門を出て、国立文書館へ行くが、いつもは乾門近くの歩道橋を渡っていけるのだが桜の季節と重なって、歩道橋が閉鎖され、竹橋の交差点まで行って、戻る。近代美術館を横目に、隣の国立文書館へ入る。無料でも人の入る様子がない。反対側の皇居寄りの歩道は人が多い。
 国立文書館では春の特別展ということで源氏物語の展示。そこで夢という言葉が日本の歴史でどのような意味があったかという変遷を知る。
 小野の小町の例を挙げて、夢というのは寝ている時見て起きなければ継続していると考えていたようだ。従って良い夢を見ている時に起きると現実に引き戻され、起きなければ良かったと嘆いて和歌がある。そのほかの夢に関する解釈の変遷を知った。
 自分的には高野長英の弾圧の元となった、(夢物語)だろう。江戸時代後期に、武士でない人が幕政批判したと思われて、武士の人より処罰が重かった。外交に口と出すと収拾がつかないと思ていたようだ。
 公文書館の出る時に,イベントチラシを眺めていて、近所にしょうけい館という、戦傷者資料館があって、住所を見ると九段下駅付近で時間があるので寄ることにした。千代田区九段北1-11-5グリ-ンオーク九段2階。
 行ってみてびっくり。普通は戦争の被害者の記念館は慰霊と記憶の復活と、再度の戦火を招かない施設だが、ここは今でも続く施設。体を手術等で失った人への希望を与える。パラオリンピックでは健常者より早く走れる時代が来そうだ。また脊髄損傷の治療の夢がありそうと感じる。
 でも戦後は傷痍の恩給が切られ、それでなくとも大変な時期があったという。場合によっては戦死した人より、生き地獄かもしれない。
 しょうけい館を出て、九段下の昭和館テラスで桜を眺めるが、人も少なく、花芽のふくらみしか見えない。図書室で能久親王の本を2冊読む。検索では30件出て来る。戦後に配布された本
名将能久親王殿下 昭和31年2月20日
この本の解釈も納得がゆかない部分もあるがまだ敗戦して10年では無理と思われる。
 
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高齢者の余命計算

2024年03月30日 | 宅老のグチ
自分が70歳になると世間の扱いが異なることを実感する。タダ70歳になるには69歳と11か月が前にある。まず運転免許の高齢者教習から始まる。これは認知症検査という題目だが、客観的に見ると警察官の天下り先確保。少子になった運転教習所の小遣い稼ぎ。
 この高齢者講習は何回も受験できるので平気で落とすことが出来る。いわば家族と警察のグルという仕組みで、運転免許返納を自発的にさせる根拠となる。多くの教習場は広い敷地がいるので東京都の公認運転教習場が普通は駅前に無い。さらに教習場は建前として免許がない人が通うので、教官等の駐車場しかない。従って、高齢者講習を行う教習場の選択が難しい。自分の70歳の時の講習は築地市場に車を止め、電車で江東運転免許所の近くの所で高齢者講習を受けた。どうも見ていると教習場は最低の数だけの人数の高齢者講習をしていた。その理由ははっきりしている。一回だけでの講習より初めての車の免許を取る人の方が教習回数が多いので売り上げが上がる。従って駅から近い人気の教習場は6か月前に免許の更新案内が来るときには、すでに予約不能の所もある。キャンセル待ちということ。調べた限りでは高齢者講習の合宿教習所が見当たらなかった。伊豆大島なら観光のついでに講習もありだなと思ったこともある。
 この様な理不尽な扱いが70歳から始まる。また高齢者は不動産賃貸でも嫌われる。いわゆる孤独死で事故物件問題が出て来る。これは普通の人は無関係と思うが日本の憲法で親族の扶養義務でいつ回ってくるかもしれない。
 高齢者の法制度が毎年替わると思ったほうが良い。それが良くなるのでなく、時代と年齢の具合で悪くなる。高齢者の自己負担が2割の制度が出来たが、年金給付が増えれば2割から3割負担に移る人もあるだろう。年金は生きていれば給付されるので、一度階級が上がると中々下がらない。そこに年齢が上がると病気の確率が上がる。
 家も老いる。新聞では2040年になるとマンションの高年齢問題が大きくなるという。買った時の人達がローンが終わった時に、住まいが高齢化する。この対策は早めの転居しかない。ババ抜きのババは何処にもある。一戸建ての家も、20年経てば不動産的価値はないし、介護の問題で一階に住めないとデイサ-ビスの出入りと車いすが使えない。3階建ての極小家は高校生までの家。早めに転居しないと負けの不動産か腐動産となる予備家。

 自分の寿命計算で平均寿命はあてにならない。すでに生命保険に新規に入れるのが葬儀の保険しかなく良く計算するとタンス預金の方が有利である。金融機関のお得な投資・保険は金融機関がお得で儲かる。

 良く政治家が消費税の減税を唱え、選挙民の関心を得ようとしているが、消費税が無くなればどこから介護の費用を出すのだろうか。今度の子ども税は節税できないし、さらに給付された年金から引かれるし、最初は少ないが年々物価が上がれば、500円で収まることは無い。物価調整で年金支給を増やし、そっと子ども税で支給額を差し引く。現役の労働者は社会保険料で引かれるので、表向きは支払った気がしない。
 日本の税の仕組みは節税の情報を得ていない人が貧困となる。従って政治家がごまかすのが自分がつくった、関与した税の仕組みの欠点を知っている。
 消費税は節税しにくいがそれでも脱税・節税方法が摘発で判る。
普通の人が消費を抑えるのは、半額まで待つか、自家菜園等で金銭の授受を伴わい生活となる。山の中の空き家の管理人なら消費税の埒外となりそうだ。問題は病気だけである。海なら密漁の監視人。

 子ども税でまたどこかの組織が税を無駄使いする。その辺を追求しないマスコミと政治家の怠慢とそれを監視しない有権者。こんな日本に誰がした。自分も構成員の一人で情けなく、愚痴をこぼす。


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日清戦争と図書館で検索すると出た本・日清戦争が連戦連勝で戦争が娯楽となった上野の様子

2024年03月29日 | 宅老のグチ
この本の著者の経歴から,上野の東京芸大で過ごし、東大の教授となった時の本である。著者は時々JR上野駅で降りて、上野動物園の年間パスを利用し、動物園を通り抜け、歩いて東大迄通ったようだ。最近池之端から不忍池・茅町を歩いていたので、昇り下りが苦にしなければ耐力保持コ-スと思っていた。

戦争という見世物  -日清戦争祝捷大会潜入記-木下 直之著 2013
明治二十七年十二月九日上野祝捷大会  捷という漢字は今はあまり使われないが勝という意味。つまり日清戦争の祝勝会を上野の不忍池の片隅で大々的に行われていた。問題は開催日時で明治27年12月は歴史の結果を知っている身ではまだ日清戦争が終わっていないし、台湾掃討作戦が終了したのは翌年11月なのでまだ終戦まで1年もあったし、その間に三国干渉というのもあって、浮かれている場合ではないと今では思う。
 冷静に見ていた勝海舟は日本が清国に大勝すると、列国の中国侵略が進み、さらにアジアの未開国が急に力をつけることの警戒をするという見方をすでに示していた。
 清国との講和条約の後に、明治日本の最大の外交問題(不平等条約改正)が進む。この浮かれ具合を詳細に記述している本で当時の東京市民のはしゃぎぶりが書かれている。図書館で日清戦争の絵画を見ていると、講和条約締結後と思っていたが、あまり日本が連戦連勝で難攻不落という前評判の都市や陣地も一日とか行っただけで、逃げてしまう清軍を見下し感があって、もう勝利が間違いないと祝勝会を上野公園で開催した。このあと冬将軍という寒波で進軍が止まったようだ。明治28年3月に下関で講和条約が結ばれるが、その途中で日本は些細な口実で台湾澎湖島に進軍した。後々の日本の戦争史から、上野の祝勝会から台湾進攻が戦争への道が出来た。軍が行動を起こし、勝てば理屈が付いてくる。満州事変・ハワイ真珠湾奇襲攻撃等が思い起こす。これは新聞が戦争を起こすと販売部数が増えるので、勝ち戦では批判できない傾向があった。明治以降で新聞拡販には戦争報道が一番の娯楽で、他社の記事より一日も早く、さらに従軍挿絵画家も戦地で活躍した。画像の進化はこの頃から挿絵から写真に代わり、伝達も早くなった。
 2024年3月28日にまだ桜が開花しないので混雑は少ないと考え、大江戸線上野御徒町駅で降りて、不忍池口から動物園のカバとキリン舎の奥にある、記念碑を探りに行った。当時の写真が残っていて、清国の戦艦二隻のイカリが戦利品として不忍池を背景としている。
 著者が上野動物園の職員に依頼し、清国の戦艦の遺跡がカバ舎の後ろに埋まっていることを確認した。鎮遠乃錨の碑が埋もれていて、ひっくり返すには多大な費用が掛かりそうというので今でもカバ舎の後ろに眠っている。その側面の文章は『臨時増刊風俗画報 新撰東京名所図会第二編 上野公園之部下』載っている。今では動物園関係者もだれも知らないと著者はいう。

 九段下の昭和館図書室で輪王寺宮を検索し、出された二冊の能久親王御事蹟の本から、日本海軍が近代の砲戦で最初に沈めたのが清国海軍船でその最大の船のイカリをワザワザ海から引き揚げ、上野公園に展示した記述があった。今でも清国戦艦イカリが日本のどこかに木下 直之さんは残っているという。
 靖国神社の遊就館の展示物が時系列の予備知識なく見ていたので、当時の日本人がいかに連戦連勝に浮かれ、清国民を蔑視していたことが見える。それまでは日本人は中国を尊敬していたように見える。明治の文化人は漢文素養が必要だった。これは今でも続いていて大学入試でも国語の試験で漢文が一問は出て来る。
 輪王寺宮(北白川能久親王)は福神漬の文献の根拠でずいぶん脱線した調査だが何か戦争に関係ある漬物と思う。


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年度末の1日前

2024年03月28日 | 宅老のグチ
街歩きしていると、桜の開花が遅れいているので浮かれ感がない。それでも都営三田線で浅草に出ると、桜も祭りもないのに大混雑でそこを避けて、東京にある東本願寺に向かい、そこからカッパ橋道具街(日本人の少ない料理道具街)へ行き、台東区の図書館へ行く。読みたい本はないので電車に乗って、世間の風を感じる。無料で変化のある一日。動ける幸せ。思うに動けることが高齢者には必要だが動くことは時間の消費と共に金銭の消費を誘惑し、誘導する。すでに家の狭さで物欲が消えている。従って街歩きしても買いたいと思うものが食しか見当たらない。新刊の本も図書館横断検索で都内の図書の公開蔵書館を探し、そこへ行くための東京シルバ-パスで時間と乗り継ぎということを考える。国会図書館は効率が悪く、地域の図書館利用とする。今まで行った図書館では板橋の平和公園の所がいちばん遠い。大根の品種の本で美濃早生大根が美濃(愛知県)ということでなく、板橋・志村の百姓みの吉さんが発見し、普及させたことを書いてある本を探しに行った。この本は板橋の中央図書館の司書でも判らず、丁度開架の板橋郷土資料館の本で美濃早生大根の記述を見つけたこともあった。
  この図書館へ行くには、東武東上線上板橋駅で行けば簡単なのだが、あえてJR王子駅までシルバ-パス利用で行き、そこから国際興業バスですぐそばまで教育会館バス停まで行った。後で経路図から板橋宿の付近まで、都営三田線で行って、大和町陸橋の所にあるバス停で乗り換えれば簡単と知り、帰りはこのコ-スで帰る。
 板橋には平和という地名が多いと感じていて、板橋中央図書館のある平和公園の由来を読むと、どうも先の戦争で空襲を受けていたようだ。特に赤羽から志村にかけて、関東大震災以後工場が進出し工場地帯だったようだ。都市住民の移動によって、地域名が無難な反対しにくい地名が選ばれたようだ。同様な事例は東急田園都市線の駅名も土地のブランド向上でカタカナになったと思われる。もう百姓・地元民の意思に関係なく地名が付けられるとなった。平和の多い町は戦争被害の多い街でもある。広島長崎には平和を付けた地名が多いと感じる。
 台東区の中央図書館では作家という人たちの栄枯盛衰というのを感じる。ほんの短い期間活躍し、5000円紙幣の樋口一葉が評伝を含め棚を多く占める。後は一時の有名だった作家の残影。多くは郷土資料室から書庫へ。紙文化のシミが死蔵となる。間も無く紙の保管庫からデジタル保管も想定できる。境界をまたぐ本はどんな気まぐれで見つかるのだろうか。

 新聞で給与が上がった数字が出ている。これは政府の思惑。累進課税で少し上がっても、控除金(社会保険等)が増え、手取りの上りは少ない。年金も6月から少し増える。タダ新聞・マスコミは政府の試算で騙される。想像だがここのマスコミで政府試算を再計算しているのだろうか。政府の狙いは夫婦共働きで遺族年金を無くす方向に向かっている。日本人が全て健康で働くと、年金が不安が消える。多くの高齢者貯金のため込みは将来不安から来ている。
 逆光の夕方で東に向かって陰踏み遊びをしている老人の様に見える。進めば進むほど影が伸びる。追いつかない。人生の天頂の昼には自分影が足元にある。踏めば踏めるから金銭不安は消える。老人は夕日の時なのだ。
 少子の進む日本はいずれ稼いだ資産が何回の相続を経て、すべてが日本政府によって、没収される夢を見た。さもなければ奇麗な日本へ移住した異国民に財を占拠される。ヘイトを叫ぶ人達がヘイトした人に介護され、虐待されることもあるのだ。因果は巡る。だから仏教は施しの精神。いつかは施しが利息を持ってやってくると信じるしかない。来ない人は施しが少ないだけ。でも頂いた施しで生きるといずれ施しが出来ない社会が来た時、生きられない。コロナがそういう時があると教えてくれた。3年の混乱が誰も想定せず、そして戦争が始まりあっという間にバブル後東証平均株価が過去最高値を更新した。誰も予想していなかった。さらに平和を念仏の様に唱える人もウクライナ・中国の好戦的な世界の様子で軍備増強がドンドン進む。ロシアが戦争で景気が良いという。戦前の日本が大学は出たけれどという不況の時期に中国東北部で戦争が始まり景気が良くなったことを知っている。不景気は戦争を誘発する。それだから中国の台湾進攻はあると思う。タダ核兵器は使えないだろう。これは広島の人達の功績と思う。

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日清戦争末期に戦病死した皇族・大正の小学校の修身教科書

2024年03月27日 | 宅老のグチ
明治28年10月の終わりに、台湾で戊辰戦争で逆賊扱いさてた反官軍の頭と一時なった輪王寺宮が維新後に投降し、謹慎後に北白川宮能久親王となり、日清戦争の終わりに台湾の掃蕩戦に従事し、戦病死した。この人を九段下の昭和館図書館で検索すると、戦前の教科書・修身という所に名前が出て来る。
尋常小學修身書 巻一~巻六 文部省
4巻の所に能久親王(よしひさしんのう)がある。多分4年生の教科書と思われる。

 明治28年5月台湾の賊軍御征伐をなさるため、かの地にお渡りとなりました。お着きになってもお休みになるような家がないので、砂の上に幕を張り、粗末な椅子を置いて、御座所としました。
 また御自身は、サツマイモを蒸し焼きを差し上げました。それからだんだん軍をお進めになりましたが、兵士とともに大そう御難儀となされ御病気におなりになっても、少しもおいといなされず、お指図なさいました。
 賊はたいてい平らぎましたが、南の方にまだいくらかの賊がいましてその方にお進みました。そのうち又御病気に御罹りになさいました。軍医は(おとどまりになって御病気をしばしお鎮めるように)と申し上げましたが、親王は『我が身のために国の事をおろそかにすることは出来ぬ。息のある限り続ける。』と仰せられ、お進みなされました。親王は窮屈なかごに乘ってお進みなさいました。親王はかように国のためお尽くしになりましたが、御病気が重くなって、間もなく御隠れになりました。

 おいといという言葉は休むということか。
 御隠れ 亡くなったこと
北白川宮能久親王は戊辰戦争時の彰義隊に担がれた輪王寺宮で仙台で投降し、京都で蟄居の後、北白川家を継いだ。今から思うと明治政府にとって厄介な行動をする人物で、その評伝の書き方が戦前では難しかったと思う。今の歴史家が時期によって北白川宮の史実をゆがめていたり、森鴎外の様にドイツ留学中にドイツ人女性と婚約騒動も意図的に消されたり、一時新居を造っている時、寛永寺に一時滞在したことをさりげなく記述している。その行動は一時逆臣となった人生でさらに明治陸軍の上司に有栖川宮熾仁親王がいて、明治28年1月に有栖川宮が死去するまで、北白川宮(大阪第四師団長)を監視していたと感じる。日清戦争中で有栖川宮に代わって、上官となったのが小松宮彰仁親王で明治維新の鳥羽伏見の戦いの日(明治元年〈1868〉1月4日)仁和寺いた宮が還俗し、明治天皇から征討大将軍・軍事総裁に任命され、錦の御旗と節刀を授けられ、新政府軍として東寺に陣を敷き、大阪に進軍しました。錦の御旗の前に、旧幕府軍は大阪へ敗走したのです。伏見宮邦家親王の第9皇子が北白川宮で、兄となる第8皇子が  小松宮でした。従って上野の動物園前の銅像が小松宮より北白川宮の方が銅像の位置として歴史的にはふさわしいいのだが小松宮の台東区教育委員会の説明板も設置位置の経緯不明となっている。
 有栖川宮熾仁親王が17歳のときに皇女和宮と婚約しましたが、のちに和宮は「公武合体」の目的で14代将軍家茂と結婚させられてしまいます。熾仁親王が反幕府・尊王攘夷派となったのは、この婚約破棄がきっかけとも言われています。禁門の変ののち失脚。王政復古後は新政府の総裁となり、戊辰戦争では東征大総督に就任して、江戸城を無血開城させました。
 この時の幕府(和宮)上野寛永寺の輪王寺宮との交渉状況は公武合体の遺恨の様に感じます。
 また台湾での北白川宮の死去時の情報隠しで、多くの死の謎が生まれました。当時の朝日新聞を読むと10月28日にはまだ重病中で、日本へ治療のため船で向かったという記事があります。実際は台湾で死去時の情報隠しで、横須賀に到着した時に死去ということのようです。
 修身の教科書から、国の戦争では皇族も兵士も同じ扱いをするという意図を感じる。実際は日清戦争(広義の)では朝鮮半島・中国での戦闘と戦病死者数より台湾征討戦での戦病死者数の方がはるかに多い。
 大正の修身の教科書で木口小平がカタカナで戦死の状況が記述されている。死んでもラッパを離しません を小学生低学年の児童が暗記させられたと思う。
高学年の修身には教育勅語があって、暗記させられたのでしょうか。
  
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上野のさくら 寛永寺の浦井正明さんの話しに尽きる

2024年03月26日 | 宅老のグチ
2024年のさくらの開花予想が1月の時点で3月中旬頃と予想されていた。2月には3月24日と幾分寒波の影響で予想より開花が遅れた。今週の菜種梅雨でさらに開花が遅れている。東京以外ではすでに開花が始まっている所もある。どうも関東は遅れそうだ。今日も雨の予想。
上野寛永寺将軍家の葬儀 浦井 正明著
この本を台東区中央図書館郷土資料の所で読んでいて、本の題名と違う、戊辰・上野戦争の寛永寺・輪王寺関係者の本心が出ていて、福神漬の成り立ちと過去の歴史に何か欠けているものが出ていると感じた。葬儀は儀式で人の人生の終わりの行事だが将軍に事前に葬儀の意向を示す例もあるようだ。時にはその意志を後で変更することもあったようだ。日光の家康の墓の隣の輪王寺に家光の墓がつくられたのも、2代の秀忠と3代の家光との対立であった。ここに春日局の活躍がある。

 上野のさくら・花見は寛永寺の開山の天海僧正の好みによって少しづつ植えられ増やしていったという。江戸時代は寛永寺の中の花見見物だったので、夜桜見物は上野の山が明治になって公園化されてからになる(昼間だけ)。江戸時代は桜の木の下で飲食をすることは許されていたようだ。さらに儒者林羅山が屋敷地を寛永寺の一部に設け、桜を植樹したという。ここには一般人は入れなかった。この辺りから遠くから上野の山を眺めると儒者の敷地の桜が桜の森と見えるようになった。また寛永16年の上野東照社一帯の火事の原因は花見客の不始末という文献もある。まだ桜は少ないと思われるがすでに行楽地となっていたようだ。
元禄の頃から江戸での花見が将軍から下々の庶民まで広がり、文献も多数出て来る。今の清水観音堂は江戸市民にも許され、眺望スポットとなっていた。こうして上野の山は春は桜、夏は蓮、秋は紅葉、冬は雪景色や寒椿と四季の観光地となった。すると寛永寺門前には行楽客のフトコロを目当てとした門前市が成り立ってゆく。そこで寛永寺・輪王寺の門主から店名を頂いた、香煎茶屋が3軒できた。酒袋・酒好・酒悦で上野戦争で荒廃して、残ったのが福神漬の酒悦だけでした。当時の香煎は仏事の茶会の待合や祝儀の席でお茶代わりにする、紫蘇や山椒の実、陳皮の粉末、もち米で作る小さいあられなどのこと。単独または混ぜて、湯を注いで出す。 
 些細な疑問が上野での戦の後始末の謎が消える。西軍に敗北した彰義隊士がなぜ寛永寺の僧たちによって、葬られず供養したのは三河屋幸三郎(流人の島・八丈島生まれ)三ノ輪円通寺仏磨和尚だった。これは寛永寺山内の関係者が所払いとなっていたという。翌年の明治2年2月26日まで山内には誰も入れなかった。帰山を許されたのち二人の住職によって、最初の彰義隊の墓がつくられた。今多くの人が知っている上野の山の彰義隊の隊士の墓は明治14年の3代目の墓という。この墓の経緯は多くの彰義隊の書籍に出て居る。この間に明治7年の二代目の彰義隊の墓があるのだが募金不足で完成後に借金の担保として、解体され没収され、絵に残っているものが少ない。
 さらに寛永寺と輪王寺の関係は、日光の輪王寺の文章が解かりやすい。
「輪王寺」の名称は,江戸時代に日光山全体を統括すると同時に,比叡山の天台座主,上野寛永寺を兼務したに由来する。台湾で明治28年死去された最後の輪王寺宮(北白川能久親王)国葬の後、輪王寺で葬儀を行ったという。規模は不明。
  日光山は豊臣秀吉によって所領を没収され,一時的に衰亡していました。それを復興したのが天海大僧正です。天海大僧正は徳川家康公を祀る東照大権現社(後に東照宮)を日光に勧請。寛永2年(1625)には江戸に東叡山寛永寺を開創し,幕府の関東の天台宗寺院を充実させるとともに,日光山や東叡山を皇族が統括する門跡寺院とするべく奔走しました。その構想は天海大僧正没後の承応3年(1654)に日光山と東叡山の住職として後水尾天皇の第3皇子の守澄法親王を迎える事で実現します。守澄法親王は明暦元年(1655)には天台座主をも兼ね,翌明暦2年には輪王寺宮の称号を勅許されます。そして幕末の公現法親王に至るまで,皇族から後継ぎが呼ばれ13代12人の輪王寺宮が続くことになります。最後の輪王寺宮が明治維新後の北白川能久親王となり、福神漬の複雑な比喩・言い換え等の謎が生まれます。福神漬自体は明治の18年頃の創製と推測されますがその逸話は作り話と見て良いと感じる。それでもある程度信ぴょう性のない作り話は時間が経てば消えるので今まで140年程話が続くのは信じるに足りる作り話と思われます。

浦井 正明氏の説では上野公園は江戸の否定と欧化政策にあって、幕府の権威・歴史を全否定し明治という文明開化を象徴する場所とした。この辺りは薩長史観と戦後の左翼史観のまま今に至る。だが地元の下谷・浅草は徳川の恩恵を受けた人たちは文明開化に馴染めず、心の中では反明治政府という心情が現れる。そこに薩長政権から外された士族・旧武士層の言論機関(大新聞)への弾圧。落語・歌舞伎等の娯楽の中心とした庶民の小新聞も比喩に参加していて、当時の様子が判らないと理解しにくい。このことを今の日本に当てはめると、女子高生の流行り言葉の変遷が激しく、さらに言葉や音楽の機器の進歩と栄枯盛衰が激しく、時間が経つと意味不明となる。

27日の東京の天気予報で雪のマ-クが出ている。週末の30日に九段下で花見ができるのだろうか。
 

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台湾で明治18年10月に戦場で病死した北白川宮能久親王(輪王寺宮・上野戦争時)

2024年03月25日 | 宅老のグチ
日清戦争の末期と言える、明治28年10月28日に北白川宮能久親王が台湾南部の戦地で亡くなった。もう少し詳しく言うと台湾南部で現地の不満分子が日本の統治を好まず、抵抗していてその抵抗分子の掃討戦を北白川宮の指揮する部隊が担当していた。朝鮮半島の戦争と違い、ゲリラ戦とマラリアを始めとする風土病と暑さで中々掃討が進まなかったようだ。この半分負け戦に近い台湾掃討戦の記録が、図書館で読んでいると、時期・場所によって北白川宮の記述が異なるし、当時の朝日新聞を読んでいても、死亡日時の隠蔽がはっきりしていて、何故隠蔽する必要性が今では理解できない。
 北白川宮の容態が悪くなったのは台南の地で10月頃にマラリアの症状が出ていた。宮は部下がしきりに指揮をとらず、治療を薦めたが、希望して台湾掃討戦に参加していることを理由として、部下の士気を無くすことを恐れ。ずっと第一線の戦地に参加していた。絵画を見ていると粗末な農家で指揮している様子が見える。このことから、北白川宮能久親王は天皇に嫌われ、古代の日本の国内安定の戦いに駆り出された神話のヤマトタケルに例えられていた説がある。戦前のヤマトタケルの銅像の顔は北白川宮の顔立ちに似せているという。これは似ていないという批判を避けるためという。明治の人があったことのない人の顔について批判できないと思うが西郷隆盛の上野の銅像の除幕式で未亡人が似ていないという批判があったことが今に伝わる。
 さらに都立中央図書館で昭和10年刊行の下谷区史で北白川宮の上野戦争時の静岡での有栖川宮との恭順交渉の記述も意図的に史実と改変されていて、輪王寺宮の意思より、当時の寛永寺の覚王院 義観の暴走という歴史の様に書かれている。戦後の台東区史には違うかきかたがあると思うので今度台東区の図書館で読んでみたいと思う。

北白川宮能久親王(輪王寺宮・上野戦争時)の事は福神漬の命名に関わる人物で扱いの変遷が日本近代史の学者の歴史観の変遷でもある。事を福神漬の発達史から見ると、不思議な学者の隠蔽・無視・些細なこととして記述漏れとなる。その象徴は石井研堂の明治事物起源の(缶詰の始まり)となる。多くの学者が石井の著書から引用しているがこと缶詰の文章に関して検証がなされていないいと感じる。石井の缶詰の始まりの史料として文章の誤りが多すぎる。一例をあげると工部省は明治3年には存在していなかった。蛇足の記述も多い。そこから読み解くと石井は缶詰の始まりの文章で石井の明治維新史観の表明のように感じる。上野は明治の文明開化の先頭で食の文明開化として、缶に漬物を入れたことを表しているとみたい。
  
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15年前の記憶の取戻しで池之端から本郷を歩く

2024年03月24日 | 宅老のグチ
池之端仲町の守田宝丹から不忍池の弁天堂へ行く。池の中心に島があるのだが、参道というべき所に、寛永寺の敷地という立札があった。
 15年前、不忍池弁天堂を訪問し、了翁禅師の石碑の所在地をそこでで働いていた僧都の人に聞いたところ、ここは天台宗で禅師はいないと言われた。福神漬の命名伝説で駒込学園(中学・高校)は、天和2年(1682年)に了翁禅師によって上野・寛永寺境内の不忍池のほとりに創立されました。当時は、「勧学講院」と呼ばれ、お寺の子弟のほかにも大勢の町人の子供たちが通っていました。(駒込学園の教育理念より)
  了翁禅師は秋田湯沢の出身で、京都府宇治市にある黄檗宗大本山の禅宗寺院「萬福寺」で修業したため了翁禅師と言われている。勧学講院の学僧の食事の野菜くずを漬物にしたので福神漬の始まりと、歴代の駒込学園の校長は生徒に話しているようだ。
 弁天堂を通過し、対岸というべき所にある横山大観記念館へ行く。ここも15年前に訪問し、記念館の敷地の所有状況を聞いた。どうも記念館で訪問者が土地所有の件で質問するということは無かったようだ。
清親考 小林 哥津著 -- 素面の会 -- 1975
 福神漬の証言者の鶯亭金升が仁科家の令嬢と結婚した時の仲人が小林清親だった。彼が結婚後の住まいとしたのは池之端御前と言われた福地桜痴(源一郎)の所有の家で、今の横山大観記念館の位置付近となっている。福地の経営する東京日日新聞が経営不振となって隣地に住んでいた日本郵船重役浅田正文(鶯亭金升日記では朝田正文)によって、火除け地として買収された。浅田正文が明治末に死去した後、大正の地券(土地所有)の記録では横山秀麿となった。この件で大観記念館の人に聞くと、びっくりしたようで、福神漬の歴史を調べていると話すとまた驚いていた。学芸員の話だと南面の庭のところが福地桜痴の地所で茶室があったという。大観記念館は台東区だが隣の道は文京区で森鴎外の小説(雁)の主人公の家にあたる。設定が明治13年頃で、岩崎家はまだ茅町には無かった。当時の様子はうら寂しい所だったという。
 旧岩崎邸庭園を見学後、無縁坂から三菱資料館へ行く。ここには三菱の歴史がある。明治の初めに三菱が南茅場町に東京の本拠地を設けたが、社史では住所が南茅場町16番地となっていて、中央区京橋図書館郷土資料室の明治10年の土地台帳では清酒白雪の関係者が持ち主となっていて、三菱の記録と合致していなかった。三菱では東京の発足が明治6年頃となっていた。このあたりの三菱資料館の展示では住所が消えていた。日本郵船歴史資料館から来た回答でこの件で再調査となっている。どうも記録で三菱の住所が南茅場町16・17・18番地と書いてある書類があるという。頻繁に本社所在地を変える必要性がないので、誤記の可能性と所有者名隠しもあったかもしれない。
 三菱資料館を出て、大江戸線本郷3丁目へ向かう。途中に女性の像があって、見ると春日局だった。通りの名前が春日通りで麟祥院という曹洞宗の寺院でどことなく品川の東海寺に雰囲気が似ている。
 寺を出て間も無く、本富士警察署にあった。この付近から富士山が見えたのかと思って、家に帰って調べると本郷の富士山が戦後まであった。東大赤門付近に富士信仰の山があって、東大経済学部の新設工事で富士山が消えた。1964年のようだ。この時期は東京オリンピック工事の時代でドンドン昔の風景が消えた。
 どっかの東大のゼミの先生が「由緒ある椿山はすでに影も形もなく」なっている。ここで言う「椿山」は、本郷の富士山の明治時代以降の通称であり、すなわち同じ山を指す。以下、江戸時代との関連では「本郷の富士山」ないしは「富士山」、明治時代から1964年の時期との関連では主に「椿山」の呼称を用いる。
 このようなことから、警察署の名前に富士山信仰があったことの痕跡となる。春日の地名が徳川三代将軍乳母の春日局の由来とは歩いて知った。
 地下鉄大江戸線本郷3丁目駅の入り口が変に引っ込んでいる。いずれ春日通りが拡張となる気がする。15年で多くの木造家屋が消えた。都心の木造家屋はは伝統的な仕事をしている人たちの家と推測できる。






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桜の開花の下見で円安実感・池之端仲町が

2024年03月23日 | 宅老のグチ
2024年3月22日上野公園の桜の開花状況を見るため、大江戸線上野御徒町駅A3出口から歩いてゆく事にした。A3出口を出てすぐに気が付いたのがABABという昔は盛業していたファッションビルに78年の御愛顧ありがとうございましたと言う垂れ幕があった。前回そのビルの下で晴天だったので、ビルの冷気で体を冷やし、道の反対側の鈴本演芸場の開場を待っていた。人の流れを見ていて少なくなったころを行ったので炎天下の歩道で待つことなく入場できた。従って7か月程度たっていて、A3出口付近に空き地は無かった。それがビルが消え、空き地になり、工事予告の看板で、ホテルが建つようだ。コロナ明けの東京は浅草を中心に図書館巡りをしていて、平日の通勤時間を過ぎて行動していて、外国人観光客の人数が増えたことを実感していた。今は都心のホテルが建つ土地はあっという間にホテルとなる。それの適地は成田と羽田を結ぶ都営三田線、営団銀座線は敵地と思う。高級なホテルはやはり緑の多い所と感じる。ホテルは高単価路線で他業種から引き抜きで人手不足を補っているが、それも清掃関係まで来ていると感じる。この様な感覚は日本バブル期にあった記憶がある。
 A3出口から鈴本演芸場・酒悦で佃煮の桜でんぶ等を買う。福神漬缶詰は人形町で買っていたので、今回は見送り。酒悦を出て、池之端仲町通りに入る。一気に人出が少なくなり、雰囲気が激変する。昼の12時くらいで、仲町通りの老舗ソバ店蓮玉庵 には行列がない。そこから守田宝丹という薬の老舗へ向かうが、半年前と雰囲気が違う。何だろうと思っていたら、若いくたびれた女性が服装の女性が看板を膝の所に置き、突っ立てる人が数名立っていた。見ると観光案内所という店付近ということ。風俗系の女性客引きの様に見える。でも真昼でこの様なことになっていたとは驚き。この付近は江戸時代からの風俗街で、戦後でも既得権があって、表向きと裏の世界のすみわけが成り立っていて、今に残る。明治期は池之端仲町の隣に、数寄屋町・同朋町という江戸城に勤めていた人の副業の町で風俗街だった。さらに不忍池には茶店があって、そこで提供される食事時間は長く、顧客が店に入り、注文が出てから、食事が出るまで時間が長いので隠れた風俗街だった。今風の言葉だとラブホテル街だった。さらに特色があって、女性が男性を誘う不倫する茶店が有名で川柳にも良く出ている。上野の桜と蓮茶飯は有名だった。
 守田宝丹で明治期の薬をお土産・話の種として購入しようとしたが休みで次回回しとなる。次回は三菱の岩崎弥太郎の逸話で、接待のための芸者写真から、茅町付近の芸者を調べてみたい。明治の10年代に上野公園を訪問した観光客に持ち帰ることが出来る容器・缶詰に醤油漬の漬物を入れ、さらに七福神巡りを連想される、商品名、その上に密かに明治政府批判を7種の野菜材料に託した漬物だった。だが当時の物価では漬物として高価すぎて販売促進に地元の芸者の口コミ宣伝に頼った。明治の広告の先端を行っていたのは守田宝丹の薬広告だった。
 休みの守田宝丹薬舗をでて、道を右折し、上野公園に向かう。左折だと元数寄屋町付近だろうが準備不足で次回の散歩。
 不忍池にいる人は平日の桜の未開花では不運な外国人観光客ばかりで聞こえる言葉は様々、子供連れは台湾かもしれない。電車内が大きなカバンで占拠されているので、人が少ないのに混雑感がある。骨董市があって、品選びしているのも外国人が多いと感じる。
 円安。池之端仲町の道路に立っている女性は感じとしては円安日本の風俗客引きだろう。今度鶯谷駅付近を散策して、この変化を見てみたい。日本の風俗のあいまいさの原初は遠山景元・金さんから始まる。風俗の取り締まりから天保の改革時に遊郭・歌舞伎の廃止でなく、郊外へ移転施策を薦めたのが北町奉行の時の金さんだった。緊縮財政の水野忠邦に抵抗したのが金さんだった。そこに水野の意向を背にした南町奉行の鳥居耀蔵と対立し、南の与力たちの天保の改革時の暴走が始まる.

 福神漬の発展史を調べると、交際人脈から近代に向かう過程が出て来る。それぞれの文献から事実確認すると、理解しやすいと今では思うようになった。

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身長コンプレックス

2024年03月22日 | 宅老のグチ
福神漬の歴史を調べていて、日本の近代史にはアメリカ人イギリス人オランダ人との交流が多く、特にオランダ人は今でも平均身長が世界一高い。長崎貿易の絵画でも唐人(中国人)の身長と日本人は変わらないがオランダ人は高めに書かれているような感じがする。ペリ―が日本に来て、横浜で日米の開国交渉で、接待の場があって、身長のコンプレックスのある幕府側が、力士を接待の場で、力持ち自慢を見せた記録がある。このコップレックスの開放に向かって明治日本は食の改革に進んだ。最少は肉食と牛乳の様に感じるが、こと漬物の文献しか調べていないので、日本食の劣等感の文献しかない気がしていた。日本の栄養学の始祖と言われる、大田区の佐伯栄養学校の栄養学は生理学や病理学、衛生学などの片隅で個々に論じられていたに過ぎませんでした。 それを栄養学として確立し、日本はもとより世界中を啓蒙したのが、佐伯栄養学校の創設者である佐伯矩博士です。 佐伯矩博士は、“栄養学の父”として、海外でもその名を知られています。この佐伯先生の本でもこと漬物に関して、記述はあるが改革しようと意気込みが感じない。やはり身長を高くするには欧米の食生活と見ているように感じる。
 敗戦後に日本人に身長コンプレックスを実感させたのが、マッカ-サ―元帥と昭和天皇が並んだ写真がある。この写真の撮影した日に天皇の戦犯扱いから戦後日本の統合の方向が決まったと記録にあるが、自分の印象ではマッカ―サーが183CMで昭和天皇が165CMの身長差の印象がある。 
 戦後でも表向きの栄養問題で長く給食でコメが外されていた。最も戦後の農政でコメ不足の問題で田畑の拡大政策が中心だった。それがコメ余りになって、減反政策で農家のやる気を失わせた。今は過去のピンチの事を気にすぎ、時代の対応が省庁の壁を現実が突き抜ける。何か時代遅れとなった政策が否定することが出来ず、継続している。この例はハンセン氏病の差別の基本となっている法を廃止できない司法・行政の怠慢となる。このことを行っても票にならない政治家の行動でもある。行政も法が消えると先輩官僚の仕事が消えるしま下り先の出先機関も消える。自分の出世の元となった先輩官僚の仕事を無くすことが出来ない。築地にいた時なんでこんな統計を出しているか判らないことが多々あった。市場の激安使用料のため、数字を出していた。 
 2024年韓国での大リ-グの開幕戦の婦人たちの集合写真を見ていると、180CMの大谷選手夫人の高さが一番高いと思う。この写真で日本も身長コンプレックスの終わりの始まりと感じた。日本の(かわいい)という文化は幼児性を好む文化で背が低いことも優遇されていた気がする。自立を促す西洋の子育てと違いを感じていた。このかわいいという文化は身長の高い女性を窮屈にしていた気がする。
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金融の緩和の終わりの日に考えたこと

2024年03月21日 | 宅老のグチ
ある見出しで
バブル経済崩壊後、日銀は25年にわたり異例の金融緩和策を繰り出してきたが、デフレからの完全脱却は果たせず「失敗」の歴史が続いた。 
 世界の経済史でデフレがこれだけ長期間続日本だけという。多くの国は比較的短期間で終わった。日本のバブル崩壊の痛手は日本の経済の痛手もあるが、庶民まで深手を負ったバブル崩壊と思う。株式の下落から始まり、不動産の下落。土地・ゴルフ会員権。不動産の値上がり期待で庶民まで不動産は下落しないと焦り安い山林まで値上がり期待で手を出した。そこから不動産の購入のための融資資金を出している金融機関が倒れ、庶民は不動産投資の夢が消えて消費を抑え、清貧の生活をするようになり、無駄な消費を抑え、激安商戦で低物価となり、投資から節約と現状維持の方が有利となった。家電量販店の宣伝で自社より高い商品は値引きますという行動がさらにデフレを長くした。そこで企業は長時間労働で対応し、ホテルの空室価格は地域の最低価格の競争となった。不景気になって転職活動が抑えられ、サービス残業の世界となった。
 提供される商品・サ-ビスが原価計算を無視して競合他社の対抗しかなく、いつの間に日本はインフレのある国から激安の国となってしまった。全部引きこもりと日本しか知らない井の中の日本経済となり、世界のコンテナターミナル競争から外されてジャパンパッシングという、世界の繁栄から無視された国となってしまった。この原因は世界を感じていない官僚と日本の政治家(それを無条件に当選させている日本国民)の責任でもある。すでに戦後80年にもなるのに憲法を全く変えていない日本は法の運用が明治憲法の様に拡大解釈の運用になっている。これは有権者に不人気の政策を打ち出せない与野党の責任でもある。もう一度戦争に負けて日本の不都合な政治を直さないといけない気がする。
 官僚の作った少子化対策も現実の部分が意図的に改変されていることを日本のマスコミのタコツボ取材でおかしな論調となりつつある。例えば昨年の出生者は75万人であるが過去の予測の5%ほど少ない。今後も減る見込みと言いつつ、移民・移住者が10万人ほど増えていることをこっそり書いていて、外国人労働者の増えていることを、抑えた報道となっている。今の状況下で今年の出生者数が70万人を割っても、外国人一時滞在労働者の増加で、過去の予測に会う人口となる。人口は人の口と書いて、食に人気のある日本の食は増えることになる気がする。
 少子になれば保育園も間も無く余る。保活という言葉が消えて、小学校・中学校・高等学校の統廃合も話されている。大学では少子の将来の生徒を確保するため、系列の私立学校の推薦入学を増やしている。
 これでは私立学校が無償になっても本当に勉学が進むのだろうか。

地球温暖化ということで脱炭素で電気自動車が推薦されたが、今では脱落していたトヨタが先見の明があると賞賛されていて、テスラより時価総額が高くなった。何もしないで棚ぼたトヨタの道を再び日本が狙うのかと思うと寂しい。
 自説の目的のため、世論と政治をSNS等で誘導する。しかし時間の経過と自然災害と疾病という、人知の及ばない現象で、自説の論拠が不都合となって、誤りが明白となった。日本は自然災害が多く、検証する機会も多く、普通の神経なら貯金が優先させる。そこに経済の低迷の原因となる要素がある。
 消費は美徳と誘導する時期もあるがある程度政治が補償しないと宵越しの金を費やすことは出来ない。100歳になっても金銭不安になるのは信頼感の欠如だろう。
 野球選手の大谷さんの経済活動は節約志向・節約礼賛で不景気が継続すると懸念する。アメリカの富裕層はこれを避けるために寄付行為を頻繁にする。日本の欠陥はこの寄付行為の優遇措置が弱い。売名行為と言って妬む文化がある。あの世に持っていけない財産は税金という使い道不明の所へ向けるより、自分の意思で使い道を決める政治・文化がある。
 日銀がまだデフレを恐れるのはここに尽きる。神社仏閣への寄進はあの世の優遇を狙っている。
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サクラの開花の週で

2024年03月20日 | 宅老のグチ
いま上野寛永寺の関係の浦井正明さんの本を読んでいる。この人は一時台東区の教育委員長をしていた時もある。従って上野公園の事を調べるにはこの人の本を読んだ方が納得いくことが多い。タダ寛永寺関係者なので、下谷の幅広い人たちの気持ちと少しずれがあると感じる。そのずれは感触であって、まだ文字に出せる所まで行っていない。上野公園の本でこれから開花するソメイヨシノというサクラは江戸時代末期に今の豊島・駒込染井村の植木屋で江戸彼岸桜と大島桜を交配してつくったもので、奈良吉野とは関係ない。エドヒガンという桜は九州まで自生地があって、韓国済州島にも自生地があって、一時韓国人がソメイヨシノの起源論の根拠としていた時もあった。今は遺伝子解析で大島桜との交配と知られて、韓国起源論が下火となった。大島桜はあまり知られていない桜だが、この時期の桜餅の塩漬桜葉は大島桜の葉である。これは伊豆半島で自生したのが今は畑で栽培されている。この大島桜葉も今では中国産もあるし、安い桜餅はビニ-ルの緑色の葉もある。ただ塩味と桜餅と同時に葉も食べられる隅田川の長命寺前で門番が桜餅を売り始めたという。言い伝えから最初は桜の散った後の大きな葉の利用から始まったようだ。桜の開花時期は短く葉だけの季節は長い。
 外で飲食する食文化はお弁当文化を生んでいる。このことは江戸時代中期の吉宗の時代から始まり、花見の公園で飲食・音曲が許されるのは日本の特徴である。もっとさかのぼると、神話で天の岩戸神話があります。日本神話は単なる物語ではなく、私たちの祖先がどのような世界観、人生観を抱いていたか知ることが出来ます。岩戸を開けさせた時には酒も入り宴会していたという。酒は神社に必ず献酒されていて、日本酒から今ではワイン・ウイスキー等も明治神宮には献酒されている。日本の物品税の始まりが室町時代の酒壺税で、この税制から脱税するための木で出来た樽が発達した。木の樽だと夏の時期には壊して、冬場に樽にして醸造することが出来る。酒を甕で造る時は温度変化を避けるため土の中に半分埋める。従って徴税の人が来ても逃げられない。 戦後の無頼派と言われた作家の坂口安吾は荘園制度で農民の土地寄進があったのが税逃れという。
 今でも税逃れの権力者は日本では批判されやすい。寄付文化が育っていないし、優遇税制が整備されていない。アメリカでは学校に寄付する制度が整備されていて、寄進者の子孫が入学に優遇されている。ただ日本は入れば卒業できる学校が多く、入学時の優遇が不公平と言われる。この辺は日本と諸外国とに価値観の差だろう。日本は大学院に行っても、比較的優遇されないがアメリカ中国は大学院に行かないとキャリアが一段階進まないと思える。この辺りは大学受験で消耗した日本との差だろう。

アマゾンで売っている塩漬桜葉は何か中国産が多いと感じる。昔築地にいた時にお客さんから、塩漬桜葉の仕入れは出来ないかと相談され、築地場外市場の取引先や小田原の漬物業者に聞いたことがある。大島桜の塩漬桜葉は国産品は全てと言って良いくらい納品先が決まっていて、都内で少量買うなら、かっぱ橋の菓子材料の所だろうと言われた。
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同期の桜に会いに行く

2024年03月19日 | 宅老のグチ
 兵食のイベントのある靖国神社遊就館へ行く。神社の境内に東京の桜の開花の標準木がある。ついでに遊就館のイベントで兵食というのを開催していた。兵食は福神漬も発展史に出て来るので、気になって見に行くが、展示物では漬物は保存食・軍隊食と研究者は見ていないと感じた。それだから今まで調べていて資料・文献が少なかったことを感じる。
 やはり脚気という病気に関しての展示があった。敗戦間際まで軍隊では脚気があって、白米を好む兵士の要求に負けてたと感じる。脚気はビタミンB1の不足から来ていて、玄米食・パン食に変えれば脚気は発生しなかったと思われる。患者はほぼ全部陸軍だろう。

遊就館を出て、東京の桜開花の標準木で写真を撮る。叔父の特攻前夜の最後の送別会で、見いていると軍歌を歌っている様子が見える。西条八十作詞の(同期の桜)と思いたい。

貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散ろうとも
花の都の 靖国神社
春の梢に 咲いて会おう

 まだ咲く前の標準木の柵に叔父たち陸軍飛行204隊の写真を吊るし、今年の知覧慰霊祭に行けないことをお詫びしつ祈る。
 帰りの道ではかま姿の女子学生が数人いて、九段の武道館での卒業式の後のようだった。間も無く桜が開花する。千鳥ヶ淵の桜並木から散った花筏となり皇居の堀を埋め尽くす。思うに先の戦争で亡くなった人の魂の花びらではないのだろうか。もし数えることが出来るならアジアの数千万位の命の花とふと思った。桜のピンクは亡くなった人の血液の色と思う。
 気象庁の気候変動の調査で桜の開花の標準木が倒木などで交代しつつあるという。もし靖国の標準木が変わったら、思いは繋げるのだろうか。かなり気になる老木である。
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同期の桜の所へ

2024年03月18日 | 宅老のグチ
今年の桜が間も無く開花する。JR駒込駅付近に先日散歩していた時ソメイヨシノの記念公園がある。桜には多くの種類と地方品種があって、それぞれの咲く時期は一定していない。江戸時代の参勤交代で、江戸の植木文化が地方に伝搬して、ソメイヨシノの美しさと花の散り方が武士好みと桜となったようだ。多くの江戸歌舞伎には桜が出て来る。またソメイヨシノの品種は一斉に同期して咲く。冬の枯れた風景は一気に春となり、桜が散って花に隠れた葉が現れ、ピンクから緑に変わる。
 東京の桜の開花の標準木は九段の靖国神社境内にある。木に桜の標準木と書いてある木札を下げていて、周りはロープで囲っている。古木という様子が見える。ソメイヨシノの寿命が短いので、いずれ他の木に変わる。
 歴史の記憶にある鎌倉鶴岡八幡宮の参道わきの銀杏の木も自分の生きている時に倒れた。桜散歩で多くの老桜木を見ている。倒木を避けるためこれから伐採が進み、切り株が増える気がする。跡の用途の有効活用が見えない。朽ちるしかないのだろうか。
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汐留・晴海・更地の旧築地市場を歩く

2024年03月17日 | 宅老のグチ
気温が上がった16日、新橋駅で降りて、汐留の電通のビルにある、広告のアド・ミュ-ジアムへ行く。人の出入りの少ない土日は汐留の寂しさを引き立てる。案内図には店舗名がない所が多く、継続しているのはセブンイレブンしか思い出さない。アドミュ-ジアムは明治初期の広告の先端を行っていた、薬の広告主・守田治兵衛(胃腸薬)と岸田吟香(目薬)の展示がどう変わっているか確認し、さらに空きテナントの多い噂の電通ビルの様子も見てみたいと思った。栄枯盛衰は世の常で、あれほど業績が良かったところも技術の変化と、不景気という消費の不振で、一番企業の節約のやり玉が宣伝広告費となった気がする。ただ消費者の半分が女性で、日本では家計を切り盛りするのが普通は女性で、アドミュ-ジアムの見学者は、宣伝の関係ある若いやり手の女性が多くいると感じた。同じ宣伝ではパクリと言われる時代で新しい絵や言葉を創り出すのは大変。ここで思考のリフレッシュをするのだろう。宣伝にも流行があって、ここには宣伝大賞の歴史もある。多くは食品・医薬品・化粧品と言われる分野が時代に跡を残す。 
 福神漬の宣伝は酒悦と同じ町内にある老舗宝旦の日本のPR誌の先駆けといわれる『芳譚雑誌』 がどう扱いが変化したか気になっている。見たとこと基本の変化はない。タダ薬が宣伝によって売れるということで、効能が強調され福沢諭吉によって告発され、自主規制が始まったようだ。当時の新聞広告は本と薬と化粧品が多かった。
 電通のビルを出て、日テレ前のBRTバス停を見ていたら、バスが止まっていて(はるみみらい)行きで、乗って見ることになった。とりあえずはるみみらいバス停で外を見るとまだ先がありそうなので、降りずに次のバス停で降りた。晴海ふ頭の突端前で降りて歩く。いわゆるオリンピック選手村跡地のマンションが高騰しているが、とにかくバス便が少なく、もう少し入居者が増えないと思いつつ、まだ工事中の建物の横を歩いて公園に行く。練習船海王丸が停泊していた。戻りにショッピングセンターの所にマンション販売の業者があって、転売需要を狙っている様子が見える。やはり街の不動産屋が消えつつあると感じる。ここにも栄枯盛衰の歴史が始まっていると感じる。旧築地市場まで歩いて戻ることにしたが、運河と川を超える時、かなり階段を上らないといえないので、自転車が全部と言ってよいくらいに電動だった。隅田川を超す時に築地大橋の端で旧築地市場の建物が一つ残っていた。それは東京魚類容器という築地市場内の発砲スチロ-ルを販売している会社だった。この付近は今仮設道路の撤去中で、工事案内では今年の夏には浜離宮の前まで、昔の築地川が戻りそうだ。旧築地市場青果門の交差点前に、環状2号線の築地トンネルの換気施設がある。ゴミ焼き場のような煙突の施設の手前で、中央区築地5丁目3番地2号という標識があった。換気塔の施設は5丁目2番地1号。今まで旧築地地市場は全ての住所が築地5-2-1だった。これから跡地の入札は多分5丁目2-3からとなりそうだ。5-2-2はホテルになりそうな立地で5-2-3は多人数の集まる施設となるだろう。空になった築地市場の跡地の先に低迷日本の象徴という朝日新聞が薄汚れた茶色いビルが建っている。あのビルの地下に築地青果部の人達の車が駐車していたので、45年と言う月日で歩道が地盤沈下し、朝日新聞と歩道の段差が目立つ。数寄屋橋から移転時には、歩道は買い出し人の駐車場だったが今では歩道の広さの由来を知る、語る人もない。街路樹の太さは年月を表している。50年経てば朝日新聞は耐震を理由として移転は必至だろう。大きなロ-ル紙が午後の入庫風景を思い出す。デジタルの時代に都心の中心で紙の印刷に必要ない。ここにも栄枯盛衰を感じる。国土交通省の施設も消えた。朝日新聞が消えればガンセンタ-病院の拡張ということもある。超先端医療は国の魅力を増すという口実で。
 噂の豊洲市場経由の地下鉄の築地の駅はどこに出来るのだろうか。まあ自分は生きていて確認できないと思う。ということは30年は晴海フラッグの住民がバスか電動自転車しかない気がする。
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