2024年のさくらの開花予想が1月の時点で3月中旬頃と予想されていた。2月には3月24日と幾分寒波の影響で予想より開花が遅れた。今週の菜種梅雨でさらに開花が遅れている。東京以外ではすでに開花が始まっている所もある。どうも関東は遅れそうだ。今日も雨の予想。
上野寛永寺将軍家の葬儀 浦井 正明著
この本を台東区中央図書館郷土資料の所で読んでいて、本の題名と違う、戊辰・上野戦争の寛永寺・輪王寺関係者の本心が出ていて、福神漬の成り立ちと過去の歴史に何か欠けているものが出ていると感じた。葬儀は儀式で人の人生の終わりの行事だが将軍に事前に葬儀の意向を示す例もあるようだ。時にはその意志を後で変更することもあったようだ。日光の家康の墓の隣の輪王寺に家光の墓がつくられたのも、2代の秀忠と3代の家光との対立であった。ここに春日局の活躍がある。
上野のさくら・花見は寛永寺の開山の天海僧正の好みによって少しづつ植えられ増やしていったという。江戸時代は寛永寺の中の花見見物だったので、夜桜見物は上野の山が明治になって公園化されてからになる(昼間だけ)。江戸時代は桜の木の下で飲食をすることは許されていたようだ。さらに儒者林羅山が屋敷地を寛永寺の一部に設け、桜を植樹したという。ここには一般人は入れなかった。この辺りから遠くから上野の山を眺めると儒者の敷地の桜が桜の森と見えるようになった。また寛永16年の上野東照社一帯の火事の原因は花見客の不始末という文献もある。まだ桜は少ないと思われるがすでに行楽地となっていたようだ。
元禄の頃から江戸での花見が将軍から下々の庶民まで広がり、文献も多数出て来る。今の清水観音堂は江戸市民にも許され、眺望スポットとなっていた。こうして上野の山は春は桜、夏は蓮、秋は紅葉、冬は雪景色や寒椿と四季の観光地となった。すると寛永寺門前には行楽客のフトコロを目当てとした門前市が成り立ってゆく。そこで寛永寺・輪王寺の門主から店名を頂いた、香煎茶屋が3軒できた。酒袋・酒好・酒悦で上野戦争で荒廃して、残ったのが福神漬の酒悦だけでした。当時の香煎は仏事の茶会の待合や祝儀の席でお茶代わりにする、紫蘇や山椒の実、陳皮の粉末、もち米で作る小さいあられなどのこと。単独または混ぜて、湯を注いで出す。
些細な疑問が上野での戦の後始末の謎が消える。西軍に敗北した彰義隊士がなぜ寛永寺の僧たちによって、葬られず供養したのは三河屋幸三郎(流人の島・八丈島生まれ)三ノ輪円通寺仏磨和尚だった。これは寛永寺山内の関係者が所払いとなっていたという。翌年の明治2年2月26日まで山内には誰も入れなかった。帰山を許されたのち二人の住職によって、最初の彰義隊の墓がつくられた。今多くの人が知っている上野の山の彰義隊の隊士の墓は明治14年の3代目の墓という。この墓の経緯は多くの彰義隊の書籍に出て居る。この間に明治7年の二代目の彰義隊の墓があるのだが募金不足で完成後に借金の担保として、解体され没収され、絵に残っているものが少ない。
さらに寛永寺と輪王寺の関係は、日光の輪王寺の文章が解かりやすい。
「輪王寺」の名称は,江戸時代に日光山全体を統括すると同時に,比叡山の天台座主,上野寛永寺を兼務したに由来する。台湾で明治28年死去された最後の輪王寺宮(北白川能久親王)国葬の後、輪王寺で葬儀を行ったという。規模は不明。
日光山は豊臣秀吉によって所領を没収され,一時的に衰亡していました。それを復興したのが天海大僧正です。天海大僧正は徳川家康公を祀る東照大権現社(後に東照宮)を日光に勧請。寛永2年(1625)には江戸に東叡山寛永寺を開創し,幕府の関東の天台宗寺院を充実させるとともに,日光山や東叡山を皇族が統括する門跡寺院とするべく奔走しました。その構想は天海大僧正没後の承応3年(1654)に日光山と東叡山の住職として後水尾天皇の第3皇子の守澄法親王を迎える事で実現します。守澄法親王は明暦元年(1655)には天台座主をも兼ね,翌明暦2年には輪王寺宮の称号を勅許されます。そして幕末の公現法親王に至るまで,皇族から後継ぎが呼ばれ13代12人の輪王寺宮が続くことになります。最後の輪王寺宮が明治維新後の北白川能久親王となり、福神漬の複雑な比喩・言い換え等の謎が生まれます。福神漬自体は明治の18年頃の創製と推測されますがその逸話は作り話と見て良いと感じる。それでもある程度信ぴょう性のない作り話は時間が経てば消えるので今まで140年程話が続くのは信じるに足りる作り話と思われます。
浦井 正明氏の説では上野公園は江戸の否定と欧化政策にあって、幕府の権威・歴史を全否定し明治という文明開化を象徴する場所とした。この辺りは薩長史観と戦後の左翼史観のまま今に至る。だが地元の下谷・浅草は徳川の恩恵を受けた人たちは文明開化に馴染めず、心の中では反明治政府という心情が現れる。そこに薩長政権から外された士族・旧武士層の言論機関(大新聞)への弾圧。落語・歌舞伎等の娯楽の中心とした庶民の小新聞も比喩に参加していて、当時の様子が判らないと理解しにくい。このことを今の日本に当てはめると、女子高生の流行り言葉の変遷が激しく、さらに言葉や音楽の機器の進歩と栄枯盛衰が激しく、時間が経つと意味不明となる。
27日の東京の天気予報で雪のマ-クが出ている。週末の30日に九段下で花見ができるのだろうか。