年寄りの漬物歴史散歩

 東京つけもの史 政治経済に翻弄される
漬物という食品につながるエピソ-ド

鈴木藤三郎 2

2007年01月31日 | 福神漬
鈴木藤三郎は明治22年(1989)静岡県森町から東京の小名木川に砂糖の工場を移して鈴木精糖所と名付けた。その会社が明治29年に資本金30万円の日本精糖株式会社となり、明治39年には資本金400万円の我が国第一の精糖会社となった。日本精糖が発展すると競合会社が現れ激しい販売合戦をはじめ互いに苦しんでいた。
 日本精糖会社では社長の鈴木藤三郎が台湾精糖の経営や醤油の改良に没頭しているスキに経営を任せていた人に株を買い占められ、明治39年7月の臨時株主総会で自ら辞任してしまった。その前年にすでに台湾製糖が安定した経営になったのを見届けて社長を辞任していた。日本精糖社長辞任後、鈴木藤三郎は製塩法や醤油醸造の改良に向かった。
 日本精糖株式会社は現在の大日本明治精糖株式会社の前身である。

1901(明治34)年1月、政府は、衆議院に北清事変費・建艦費補充などのための増税諸法案(砂糖消費税法・麦酒税法・酒税法)を提出しました。
人工甘味質取締規則(明治34年内務省令第31号)サッカリンの販売用飲食物への使用禁止。鈴木藤三郎は砂糖消費拡大のため政府にサッカリンに使用禁止を運動したと言われる。
砂糖消費税の税収確保のためにサッカリンを禁止したといわれる。
北清事変とは、1900年、清国で起きた義和団による北京の各国公使館区域の包囲事件に対し、日本や欧米列強の8カ国の軍が共同出兵し、鎮圧した事件を言います。

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日清戦争と醤油改良

2007年01月30日 | 福神漬
日清戦争の後、日露の関係が悪化しつつある時、陸軍量抹廠(軍隊の食糧を用意するところ)では醤油が液体の状態では大量に中国大陸を兵隊が運搬するのに不便で何とかエキス状態としたいと考えていた。「醤油エキス」というのもあったがとても完全なものでなく、明治36年陸軍量抹廠は当時すでに発明家と知られていた鈴木藤三郎に工夫の依頼をしてきた。
 鈴木藤三郎は即座にこれを引き受け醤油の製造改良方法を研究した。醤油は摂氏40度以上で加熱すると固形体になるがその滋養分であるたんぱく質は変質してしまうため,これを水で薄めても元には戻らないのである。そこで真空中に低温度で水分を蒸発させる方法で完成させた。
醤油エキス製造機(明治37年3月特許7202号)
すでに日露戦争が始まっていたので,製造機械を作り明治37年7月より一日300貫製造し戦地に送った。
 氷砂糖の鈴木藤三郎と醤油の関係がここに始まった。後に福神漬も当然影響を受けることになった。

鈴木藤三郎伝より
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糖業改良意見書[明治34年] 新渡戸稲造

2007年01月29日 | 宅老のグチ
台湾糖業意見書というのが明治35年に出されますが、つまり台湾は砂糖をつくることによって農業をいかしてゆくべきだとうのが新渡戸の意見書であって、それにしたがって台湾総督府は台湾の砂糖きび栽培をどんどんすすめてゆきました。

1 品種の改良 在来種より生産性の高い品種に変更する。
2 ショ糖の栽培方法の改良
3 灌漑を行なう
4 水利の不便な田畑を砂糖栽培に転換する。
5 精製糖での技術改良を計る。
6 日本に入る輸入外国糖に関税を引き上げにより、戻し税。
7 交通路の整備及び輸送費の補助政策。
8 砂糖販売網の拡充。
9 ショ糖の公定価格の安定。
10 糖業教育の充実。
11 産業組合の整備。(今の農業協同組合のような組織)
12 出版物による糖業の啓蒙。
13 甘蔗保険の充実。
14 副産物の奨励(アルコールの製造)
新渡戸稲造によって台湾農業振興政策が列挙されている。台湾糖業は明治政府の保護育成が必要だと説いた。
 昭和3,4年ごろの記録によると、台湾の生産額は世界の砂糖生産におい第2位になりました。第1位はハワイでしたが、2位というところまで台湾の糖業がのびたのです。その結果、昭和はじめには日本は砂糖では自給自足となりました。

新渡戸稲造全集第4巻より
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明治の台湾製糖業

2007年01月28日 | 福神漬
日清戦争の後、台湾が日本領土となった。また日清戦争までは砂糖の貿易は中国人経由ほうが多かったが日清戦役後は日本人の貿易商の時代となった。戦後の好景気は明治の産業革命となった。
 明治政府の考え方も変わってきた。砂糖は輸入額の第二位で年3000万円の巨額になっているばかりでなく全部国内で消費されるので国家経済上問題となっていた。ところが日清戦争後砂糖の生産地と知られていた台湾が日本領土となり、この地の原料糖の生産を発達させれば輸入糖を精製していた日本の精糖業は自給自足の望みが出、更に中国に輸出する可能性が出てきた。
 明治政府の井上馨と三井物産は台湾に精糖会社を作ることになり、鈴木藤三郎が社長となった。
 井上馨の当時の考え方。
およそ人間の生活が向上するに従って消費は増えるものであるが中でも飲食物の中で砂糖のごときは一ヵ年の消費額が3000万円にものぼりその内2000万円も外国から輸入されたものである。輸入が輸出を超えており決済にあてる日本銀行の兌換紙幣が危険となる。従って正金=金貨を海外に流失を防ぐには内地の精糖業を振興し、輸入を減少させることである。
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28日は築地市場の停電

2007年01月27日 | 築地市場にて
1月28日日曜日は築地市場は場内付属商の辺り=食堂のあるところを除いて停電です。毎年のこととだがだんだん緊張感が出てきて、停電時の電気の無い状態からデータの受信作業を行ないます。なぜ停電するのかといえばあまりにも築地市場の設備が老朽化していて点検と電気設備の更新だからです。魚類卸会社の付近は昭和10年の頃の建物です。不二家の衛生状態が問われていますが築地も早く改善しなければなりません。耐震偽装の問題もありますが築地の建物はもっと危険です。
 さて電気の無い状態でどうしてデータ受信をするというのかというと、APC会社の無停電電源装置のバッテリーを何台か用意します。パソコン・プリンター・モデム・電話回線維持の電源の所にそれぞれ一台のバッテリーを接続し、起動します。約10分だけ動きます。何回の経験でディスプレイが電気消費量が多いので液晶ディスプレイに変えました。ついで電気消費量が多いのはプリンターなので予備の電源を用意します。
 コールドスタートします。停電状態から電源ボタンを長押しして電気を出るようにします。コールドスタートできる無停電電源装置のバッテリーはAPC社しかない気がします。他社の装置は停電状態から起動が出来ませんでした。
 とにかくこの日は築地市場は真っ暗で外では電気工事会社が漏電のチェックをしています。
 なお、後でAPC社のサポートの方から電話があって、コールドスタートはバッテリーの寿命に影響するのでお勧めできませんとのこと。
この後の停電は2月4日です。
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氷砂糖

2007年01月26日 | 福神漬
1883年(明治16年)には静岡県森町の鈴木藤三郎が現在の氷砂糖のもととなった氷砂糖製造法を確立した。この製法で作られた氷砂糖は氷のようにきれいな結晶であり、従来品と比較して良質な甘さと安い価格が評判になったとのことである。その後精製糖(白砂糖)の生産へと進み、1890年(明治23年)以降には東京・小名木川に日本製糖株式会社の設立、更には台湾製糖株式会社を設立し、近代日本の砂糖産業に多大な貢献をした。
 『砂糖の消費量は一国の文化のバロメーター』といわれ、明治元年には砂糖の輸入額は87万円だったものが10年後には278万円となり20年目には571万円、明治31年には2837万円の輸入額となっていて我が国第二の輸入額となっていた。富国強兵を目指す明治政府は外貨を浪費する砂糖消費を抑える必要があったが幕末の不平等条約によって関税の自主権が無く、砂糖の輸入を抑えることが出来ず、かえって国内の砂糖生産地を衰退さてしまった。
 砂糖の国産化は国是となっていた。明治25年には鈴木精糖所の氷砂糖は中国産の輸入を抑えたくらい品質が向上した。そして日清戦争に向かった。台湾が日本領土となり台湾精糖の強化が国の方針となった。
 砂糖の価格は江戸時代よりはるかに安価になったから漬物にも使用され福神漬となったのである。
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明治の発明王 鈴木藤三郎

2007年01月25日 | 福神漬
福神漬は多数の野菜を醤油と砂糖で味付けたものが基本です。従って、醤油と砂糖の歴史、特に酒悦の創製した時代の明治を知らなければなりません。特に静岡県出身の鈴木藤三郎をとりあげねばなりません。
鈴木藤三郎は「「江戸っ子だってねえ、寿司喰いねえ。」寿司をみれば無意識にこのセリフが口に出るほど有名な森の石松(今はガッツ石松の方が有名)の静岡県森町の出です。
今では地元の人以外忘れてしまった明治の発明王、特に日本の食品工業の近代化における業績はかなりのものがあります。だだ晩年の醤油醸造業の失敗が過去の人にしてしまいました。
明治初期の砂糖の状況
砂糖の輸入額は明治初年から15年頃までは綿花類、綿織物、毛織物についで第4位であったがその後輸入額が増加し、明治の終わり頃は綿花類に次ぐ第二位の輸入品となっていた。そして綿花類は綿糸布に加工して再輸出するから問題ないが、砂糖は全部が国内消費されるもので,正貨流出の最大の原因となっていた。
        鈴木藤三郎伝より
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了翁禅師の福神漬伝説

2007年01月24日 | 福神漬
秋田県湯沢で伝わる了翁禅師の福神漬伝説
上野・勧学講院から生まれた福神漬
 了翁禅師は、1630年(寛永7年)3月18日に秋田県湯沢市八幡に生まれた。
 了翁様は砕指断根の苦行中に神佛の霊夢に授かった「錦袋円」という薬を作りたくさんの民を救った。薬の売り上げは膨大であった。その利益金で日本で初めての一般公開図書館を建て授業料、食事、宿泊料一斉は了翁負担で世界に類例のない教育文化施設を作った。
  毎日の質素な食事に大根、なす、きゅうりなど野菜の切れ端の残り物をよく干して漬物にした。存外美味であった。この漬物のことが寛永寺の輪王寺の宮様の耳に達して、「福神漬」と名前をつけていただいた。これが福神漬の始まりである。
秋田県湯沢ではだいたい了翁の福神漬はこのような文章です。どこかに基になる本がありそうです。台東区中央図書館に了翁の伝記の本が3冊ありますが漬物の記述は見つかりませんでした。何か根拠があるのでしょう。 
『輪王寺の宮様』の記事以後は明治19年福神漬をつくった酒悦の名前の由来と似ています。どこかで混同されたと思います。了翁禅師と宮様の関係はあるのですが福神漬を命名したという文献はまだ見つけられてませんでした。
酒悦の主人は福神漬創製時に了翁禅師の漬物を知っていたのではないのでしょうか。「錦袋円」を販売していた勧学屋は大正の大震災まで上野・池之端に店がありました。酒悦と同じ町内です。了翁禅師の漬物は福神漬の考案の端緒となったと思われます。江戸・上野の地の漬物が明治になって工夫し創製し,大正に入って全国的な漬物になったのが福神漬です。
           

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了翁禅師 7

2007年01月23日 | 福神漬
天和(てんな)の大火は、1682年(天和2年12月28日)に発生した江戸の大火。八百屋お七火事とも称される。勧学講院がまだ工事中にかかわらず類焼し「錦袋円」の薬を販売していた勧学屋も移転の予定していた経蔵に入れる経巻1万4千巻も火災に遭ってしまった。
この大火は父母や親戚を失った孤児や行き先を失った浮浪者が街にあふれ,了翁はこれを無視することできず,私財を投じてこれを救済した。
了翁禅師は被災者を救済するに当たって食事を与えたりしていた。勧学講院でも学ぶ貧しい人にも食事を与えている。このとき野菜クズで作った漬物をだしていた。(秋田県湯沢の伝説=福神漬元祖)
勧学講院の焼失と再建
 元禄16年(1703)11月、江戸大火があり勧学講院は類焼した。天和2年勧学講院が建立されてから21年を経たのであるが諸宗の学徒が競い学び、天台学徒の修行の道場の中心となり東叡山寛永寺においてもその重要性を感じていた。ここにおいてニ品親王公弁門主に請願し、将軍綱吉に願出て、再建は幕府建立とする将軍の命令があった。一方再建のため宇治より江戸に来た了翁は法親王に御礼の言上をなし、親王は了翁を丁寧にねぎらい、その後、幕府による勧学講院となった。このことが了翁を忘れさせた原因の一つでもある。
了翁禅師は今ではあまり知られていない人だがその原因としてやはり江戸時代の士農工商の中でいかに仏道成就の為とはいえ僧侶が薬の商売をしていることの批判があったのだろう。
参考 日本文庫史研究 下巻 小野則秋著ほか
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了翁禅師 6

2007年01月22日 | 福神漬
了翁禅師の造った不忍経蔵は寛文12年(1672)に増築したが、間もなく地震によって倒壊してしまった、経堂島は人工島であったため地盤が弱かったためで、了翁はくじけることなく経蔵は再建された。とにかく地震・火災で度々経蔵は被災し、再建された。また、不忍池の中にあるため経巻が湿気で傷むこともあった。
 了翁49歳の時、『錦袋円』の繁盛をねたんだ同業者により寺社奉行所に「僧侶にあるまじき所業」と告訴された。寺社奉行所も一応尋問したが直ぐに無罪となって、かえって日頃の所業を賞賛したという。

勧学講院の創立
 延宝8年(1680)四代将軍家綱公が死去した。霊廟を上野の東叡山に造営することになり、代地を別に賜わった。その時了翁は代地の余地に経蔵をつくりたいと願い出た。請願以来2ヵ年半を要した後、天和2年(1682)東叡山の領地54間四方を賜わり勧学講院の創立した。北寮は3百に58間瓦葺で、其他南、西、東、に三寮あり、不忍池中の一切経蔵並びに文庫は、勧学講院に移された。ことに注意すべきは、東叡山の地にあった東叡山所化寮も勧学講院に合同されたことである。ここまで了翁の計画が進行したことにつき一部の根強い反対があって了翁はあやうく毒飯を食する様な危険な事件が4回もあった。
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
 
東京都文京区千駄木にある駒込学園の前身は勧学講院で、天和2年(1682年)に了翁禅師によって上野・寛永寺境内の不忍池のほとりに創立されました。社会に大きく開かれた「寺子屋」だったようです。
駒込学園の学校案内より

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了翁禅師 5

2007年01月21日 | 福神漬
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
了翁禅師の経営している『錦袋円』の薬舗は現在の台東区池之端通仲町の地にあった。屋号は「勧学屋」といい、上野・不必池に接していた。
 僧侶に似合わぬ販売方法で『錦袋円』を販売していった。薬の効能書きは、水戸光圀の揮毫になる「万病錦袋円」の文字に左甚五郎の額縁で「一人一度きり二度は売らぬ」と病人の心理を捕らえる宣伝と美少年を利用して江戸市中を売り歩かせるという販売政策で成功した。このことは当時でもかなり有名であった。
 了翁の商売には大助という美少年を抱えて「勧学屋」という屋号で商いをした。かの美少年は間もなく亡くなったが後にもまた大助といって前と同じような美少年が商いしたので薬を必要とする人ばかりでなく美少年を見るために「勧学屋」は混雑した。了翁の商売は直ぐにニセ薬が現れたり、僧侶の商売としての営利行為に対して世間の批判が絶えなかった。

 池之端 男ばかりの 総籬(そうまがき)

総籬とは江戸吉原で、最も格式の高い遊女屋。入り口を入ったところの格子(籬)が全面、天井まで達している。
 
開業6年後、黄金3000両の収益があったという。
この3000両を基にして,さらに寛永寺の支援により、最初に不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建立し、大蔵経を納められた。この池は、経堂を建てた島と言うことで、経堂島と呼ばれた。(今はない)不忍経蔵(しのばずきょうぞう)を造った。
 この経蔵には大蔵経を中心に仏教ほか多くの書籍が収集され、しかも自由閲覧としたほか、仏典や儒教等の学術講座を開講したことから、我が国最初の図書館と言われている。了翁禅師42歳、寛文11(1671)年のことで、この年が我が国最初の図書館開設年とされている。
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了翁禅師 4

2007年01月20日 | 福神漬
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
承応2年(1653年)隠元禅師が中国から日本に来た。了翁は彼に師事したので了翁禅師と呼ばれるのであろう。先日、「了翁が不忍池弁天島の南方に小島を作り小さな経蔵を建てた場所がどこか」と弁天島の住職に聞いたところ、この寺は天台宗で禅師は禅宗なので知りませんといわれた。
寛文4年宇治山田の黄檗山万福寺を出て(了翁35歳)諸国を回り江戸に向かった。そこで積年の厳しい修行による体のいたみが出、昔湯沢で世話になった人の処方した薬を飲んだところ痛みが治まった。そこで了翁はこの薬を広く江戸市民に施し同病の人を救うのも功徳となりと、またその利益をもとにすれば大蔵経を納めた経蔵を一国に一蔵置きたい了翁の希望がかなう時期も早められるだろうと思った。
了翁は浅草の観音に参篭し薬の名前を占ったところ何度占っても『錦袋』と現れたので『錦袋円』と名づけた。『錦袋円』を販売するに当り僧侶の身分で商売するにはいささかためらい親戚の者の力を借り,東叡山下不忍池畔に薬舗を開き、了翁が自ら店主となり、『錦袋円』を売り始めた。薬の販売は莫大な収入をもたらしたので、禅師はかねてからの大願の実現に専心した。(寛文5年了翁36歳)

『錦袋円』はなぜ売れたか?
寛文11年錦袋円の店 上野繁盛史より
50人の美少年ばかり選んで江戸市中を売り歩いたばかりでなく、上野池之端仲町の店先には勧学屋大助と称して了翁の後は代々美少年を養子として迎えられ、その養子は美少年に限られていたという。

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了翁禅師 3

2007年01月19日 | 福神漬
日本文庫史研究 下巻 小野則秋著より
了翁禅師は幼いとき母を亡くし、次々と預けられた人が亡くなり不吉児といわれ、親戚が相談して12歳の時、寺に(雑用をする)小僧として預けられた。しかし、彼自身仏門に入る意思がなく度々逃げ帰った。不吉な子といわれたがある人は寺の仕事を丁寧にするので見所のある少年だと思って住持に小僧として扱うのでなく弟子として扱うように頼んだ。最初は出家を拒んだが了翁は次第に(不吉児)といわれた頑な心が仏弟子になることでようやく落ち着き,経巻を精読し僧侶の道に向かった。幼いときの処遇が後の彼の行動となって現れて来るのである。彼が経巻収集・経蔵復興の発願したのは14歳の時、奥州平泉の中尊寺の荒廃を見てからのことである。了翁自身の不幸な生い立ちと諸行無常の仏教的人生観が彼の心を経巻収集・経蔵復興の発願に向かわせた。
 (日本の公共図書館の始まりと言われる=不忍経蔵=上野不忍池にあった)
色々な寺で修行の後、あるとき荒行の途中、故郷の貧しい父を思い出し、なにも世話が出来ないのでせめて貧しさゆえ売ってしまった田畑を買い戻そうとして江戸に出て托鉢しながら、雑労働をして黄金3両を貯め故郷の父に書状と共に送った。了翁が23歳の頃である。僧侶でありながら労働して金を稼ぐ。後に彼の始めた薬『錦袋円』の販売事業はここからはじまる。
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了翁禅師 2

2007年01月18日 | 福神漬
了翁禅師は秋田県湯沢の出身です。湯沢は地元ということで福神漬で町おこしを行なっています。とにかく日本全国で湯沢市・横手市『焼きそば』には紅しょうがの代わりに福神漬をのせる。太目の麺のやきそばに目玉焼きをのせる。(目玉は半熟)湯沢市・横手市は”福神漬付き焼きそば ”です。

 色々な野菜を刻んで漬ければ福神漬になるというらしいのですが日本農林規格(JAS)の定義には該当しない気がします。湯沢市民は福神漬の元祖として了翁禅師としています。でも、了翁禅師は上野の山に勧学講院(寄宿舎つき学校)をつくり、寄宿生のために野菜屑を美味く漬けていたのでしょう。その話を上野・池之端の酒悦主人が知り、明治の味に工夫したのではないのだろうか。そうなれば了翁禅師は福神漬元祖とも言える。
 河村瑞賢や了翁禅師の漬物は今の日本農林規格(JAS)の定義だと農産物塩漬の分類となるはずだ。
湯沢の人々は了翁禅師を慕っているが全国的に有名でないのは僧侶が医薬品を販売し収益を上げたことと、その販売方法が僧侶らしくなかったから嫌悪されたのでしょう。彼は4度ほど毒物で殺されそうになりましたが、残り物を食べていたせいで、弟子が亡くなっています。

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了翁禅師 1

2007年01月17日 | 福神漬
上野の地は明治の中頃、福神漬の成立に必要だったのでしょう。更に調査していくと了翁禅師という人が福神漬を作ったというのがあります。
 平成12年3月20日の日本経済新聞の朝刊記事で、江戸時代初期に自ら考案した万能薬を販売して巨万の富を得、その私財をすべて慈善事業につぎ込み学校や文庫を作った僧侶がいた。その僧侶こそ秋田県湯沢出身の了翁禅師である。
 上野に僧侶の寄宿舎兼学問所『勧学講院』を開き、宿舎では大量の野菜屑が出たが,了翁は食べ物を粗末にするのを嫌い、すべて漬物にし、これが福神漬の元祖といわれる。
 台東区中央図書館には了翁禅師の本が郷土史料の所に3冊あります。ちなみに都立中央図書館は1冊しかありません。しかし、どの本にも福神漬の記述はありませんでした。昔は当り前のことは史料として残っていません。漬物はほとんど無く、かえって長屋王の史料のほうが多い気がします。江戸時代の武士や町民の家計簿なんかを読むと酒・塩・味噌・米の購入の記録はあっても漬物を買ったのはありません。明治の末の『食道楽』にも漬物は自家製が当然のようになっていて記述が少ない、いや無いといってよいくらいです。
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